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第2話
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出会わぬままいられたなら 第9話
和幸は沙織の腕の中で、苦しげに唇の端をかすかに上げる。「お義姉さん……」沙織は涙を拭い、きつく言い放つ。「お義姉さんって呼ぶなって言っただろう」「沙織……あなたはずっと俺を兄の代わりみたいに扱ってきた。俺の生活にまで口を出してきた。兄が亡くなって、あなたと子どもを守るのは俺の責任だ。だけど、それを由依を傷つける代償にするわけにはいかなかった……俺が悪かった。気づくのが遅すぎた……」私は少し離れた場所に立ち、彼と視線が合った瞬間、胸の奥に複雑な思いが渦巻く。兄が私を抱き寄せ、柔らかい声で慰める。「大丈夫だ。救急車も警察も、すぐに来る」三分後、和幸は救急車で病院へ運ばれていく。さっき床に倒れていた二人の男は、医者が来る前に息を引き取ってしまった。沙織は故意の殺人容疑で警察に連行された。目撃者であるため、私と兄も一緒に警察署へ向かう。私たち二人の証言にカフェの防犯映像も加わり、沙織の故意による殺人の容疑が固まった。だが彼女は腹に子を宿しているため、病院に収容され、警察が二十四時間体制で監視することになる。出産後に改めて罪をまとめて裁かれるのだ。警察署を出ると、胸がつかえてたまらない。私が望んだのは波風立てない別れで、こんな結末じゃない。私の気持ちを察したのか、兄は手を挙げてタクシーを拾ってくれた。「行ってこい。ただし、戻ったらまとめは書くんだぞ」「ありがとう、兄さん！すぐ行ってすぐ戻るから」私は素早く車に乗り込み、自分にけじめをつけたいだけだ。病院で、医者は言う。あの二人が間に入って衝撃を受けてくれなければ、和幸は命を落としたか重い障害が残っていた、骨折どころの話ではなかった、と。全身に包帯を巻かれた彼を前に、私はしばし言葉を失った。和幸は長く私を見つめ、やがて静かに口を開く。「……君は、俺を愛したことがある？」「愛したわ。でも、それはもう過去のことよ」「すまない……全部、俺が悪かった。俺は……」私は手を上げて口止めの合図をし、彼の言葉を遮った。「沙織には刑が言い渡されたわ。あなたの兄の子どもだって、あなたを必要としてる。しっかり治して。私たちは、ここまでにしよう。これ以上、みっともなくしないで」夜、家に戻ると、私は急いでまとめを書き上げ、そのままベッド
出会わぬままいられたなら 第8話
「まずはざっとまとめを作って見せて。前に覚えたことがどれだけ残っているか、確かめたいんだ」私は気まずそうに愛想笑いを浮かべ、急いで彼の向いにおとなしく腰を下ろした。ところが資料を開く前に、私の手首がぐっと誰かにつかまれた。「由依、これが、君が俺を許さない理由なのか？俺に隠れて、ほかの男とつるんでるってのか？」振り向くと、そこには和幸。額にはうっすら青あざが残っている。きっと昨日、寺の石段を登ったときについたものだ。彼は怒りを宿した目で私を見据えている。私は彼の手を振り払い、ためらわずに頬をひっぱたく。「口を慎みなさい。忘れないで、私たちはもうとっくに離婚してるの」頬を押さえた和幸は、呆然としたのち、ふと気づく。信じられないといった顔で私を見つめる。「由依、君がいまこんなふうになってしまうなんて、本当に思わなかった。でも、いいんだ」彼は何度か荒い息をつき、ようやく落ち着きを取り戻した。「聞いてくれ。俺は本当に君を愛している。君がほかの男に近づくのを見ると、気が狂いそうになるんだ。俺が悪かった。君がどれほど大切か、もっと早く気づくべきだった。許してくれないか？投資なんてどうでもいい。君さえ戻ってきてくれれば、それでいいんだ。いいかな？」この騒ぎで、すでに多くの視線がこちらに注がれていた。事情も知らない野次馬たちが、面白がって好き勝手に声を張り上げる。「お嬢さん、許してやりなよ。男なんて誰だって一度や二度は過ちを犯すもんだ」「そうそう。それに彼だって、あんたを大事にしてるって言ってるじゃないか？ここで許さなかったら、追い詰めることになるぜ」腹の出た男が二人、芝居見物のような顔でにやにやとこちらを眺めている。そばにいた女性が彼らを一瞥し、近寄って私の手をそっと握る。「女の気持ちは女が一番わかるのよ。きっとあなた、ろくでもない男に散々傷つけられてるんよね！だから言うけど、戻っちゃだめ。男の約束ほど安っぽいものはないわ。男に頼るくらいなら、私たち自分で立ったほうがずっといいの」私は微笑み、腕に添えられた彼女の手をそっとたたく。それから顔を上げ、和幸をまっすぐ見据えてきっぱりとした声で返す。「あなたのところへは戻らない。もうあきらめなさい！九回も結婚して九回も離婚したのよ。
出会わぬままいられたなら 第7話
「和幸、今のあなたを見るだけで吐き気がする」言い終わるや否や、彼はその場で私の前に跪き、充血した目でかすれた声を絞り出す。「ごめん、由依。だけど沙織のお腹の子は、亡くなった兄に残されたたった一人の血縁なんだ。だからどうしても彼女に気を配りすぎて、君の気持ちを後回しにしてしまった。俺が間違っていた。もう自分の過ちには気づいてる。でも今は本当に打つ手がない。会社の資金繰りが回っていない。投資がなければ、このまま完全に止まってしまう。何もかも失う自分なんて、受け入れられない。まして、君のいない未来なんて……由依、俺は本当に君を愛してる」「私を愛しているって？」信じられない気持ちでそう繰り返したあと、私はふっと笑った。「いいわ。愛してるって言うなら、借りを返して。朝の六時までに寺の石段を登り切れたら、考えてやってもいい。百段だ、一段たりとも抜かしちゃだめ」「分かった、分かった、行く。君の怒りが収まるなら」彼はどこかうろたえたように立ち上がり、私を深く見つめると、車に乗り込み、すぐに走り去っていく。部屋に戻ると、私は彼に触れられたところを何度も洗い流した。胸の底から、どうしようもない嫌悪がこみ上げる。たとえ最上段まで這い上がったとしても、私は絶対に彼を許したりしない。翌朝、ひとつのハッシュタグがSNSのトレンド一位に躍り出る。【#寺の石段で男性が倒れる】その頃の私はまだ何も知らず、ぐっすり眠っている。そして午後になって、沙織から電話がかかってくる。「あんたって女、本当に性根が悪い！和幸があなたを好きになったなんて、まったく目が曇ってたとしか思えないわ！二人がとっくに離婚していて本当に良かったわ」電話がつながった瞬間、頭から浴びせられたのは怒鳴り声だ。私はスマホを少し離し、食事を続けながら淡々と言う。「彼がどうなろうと、私には関係ないわ。あなたの言うとおり、もう離婚してるもん。むしろあなたの望みどおりじゃない？」「デタラメ言わないで！ 私と和幸は清く正しい関係よ」口元をナプキンで拭き、これ以上の相手はやめる。もっと大事な用がある。「もうやめて。あなたたちのくだらない痴話に時間を割く気はないの。じゃあね」彼女の番号を着信拒否にしてから、私は会社勤めの兄に電話をかけた。「
出会わぬままいられたなら 第6話
【由依、話を聞いてくれないか？】【勝手に君のクロークルームを使ったのは悪かった。けど、沙織は今妊娠中だ、何事も彼女を優先すべきだろう？】【君のわがままで、会社は大きな投資を失ったんだ】【でも大丈夫だ。君が篠原会長を説得してくれれば、今回のことは水に流すよ】罵りの文面を返そうとした時、先に向こうからメッセージが届いた。【今、君の家の前にいる。話そう】どうやってここを突き止めたの？数秒置いて、私は結局スマホの画面を消し、階下へ向かう。どうせなら、面と向かって叩きつけるほうがずっとすっきりする。ドアを開けると、木陰にしゃがみ込む和幸の姿が目に飛び込んできた。開く音に気づき、和幸はさっと顔を上げ、目がぱっと明るくなる。「由依！」彼は小走りで駆け寄るなり、私の手を握りしめる。「やっぱり君は俺を愛してる。放っておくはずがないって分かってる」私はその手を振り払わずにいた。どれだけ厚顔なのか、見てみたい。「話を聞いてくれ」和幸はまっすぐ私の目を見つめながら、どこかおずおずとした口調で続ける。「この件で俺は間違っていない。浮気なんてしてないし、君に後ろめたいことは一つもない。沙織のお腹の子だって、もちろん俺の子じゃない。俺たちの関係は潔白だ。一線を越えたことは何もない。兄の顔を立てて、彼女に少し気を配っていただけだ。だって彼女のお腹には、兄にとって唯一の血なんだから……由依、俺がいちばん愛してるのは君だ。前に俺が高熱で苦しんでたとき、君がわざわざお守りまでもらいに行ってくれたじゃないか？君だってきっと俺のこと、愛してるだろ？もう誤解は解けたよな。やり直そう、な？」――お守り？胸の内で、嘲るようにそっと笑った。あれは一年前。和幸は原因不明のウイルスに倒れ、高熱が七日間も下がらなかった。医者でさえしばらく手の打ちようがないと言った。藁にもすがる思いで、私はちょうど新しく建てられた寺の噂を耳にした。訪れた人はみな、口をそろえて、霊験あらたかだと言った。わずかな希望を頼りに、私はその寺へと足を運んだ。その寺には作法がある。お守りを授かるには、百段の石段を、一段ごとに額づきながら上らねばならない。途中で投げ出すことは許されない。力仕事などしたことのない私は、歯を食いしばり、ひと段、ま
出会わぬままいられたなら 第5話
祖父は私の頬の涙を指で拭い、私の視線を追っていく。止まった先は、和幸の顔だ。怒りはたちまち爆発した。祖父は杖で床をドン、ドンと鳴らす。「やはり投資は引き上げるべきだ。うちの孫をここまで追い込むなど、いい度胸だ！彼女はお前を好きになるあまり家を飛び出し、進んで苦労を背負った。お前と一緒に会社を大きくしようと支え続け、お前のプライドを傷つけまいと、わざわざ私に取引の口を作れと頼み込んだんだ。由依がずっと取りなしていなければ、うちがそんな小さな会社に目をかけると思うか？」その言葉に、和幸は完全にうろたえ、乾いた笑みを作る。「篠原会長、人違いではありませんか？」沙織がぷっと吹き出し、得意げに口を開く。「私たちがあなたたちに媚びる必要なんてないわ。和幸は有望株として皆が認める若手の社長よ。あなた、もうお年なんだから、和幸はまだ二十そこそこよ。数年もすれば追い抜くんだから、どっちが誰に取り入るか、わからないわよ。それに由依、後ろ盾ができたからって私たちが引くと思わないで。さっき私を突き倒した件だって、まだけじめがついてないんだから」「言葉をわきまえないなら、黙ってろ」和幸はいきなり彼女の言葉を遮り、手を振り上げて頬を平手で打った。沙織は頬を押さえたままソファに腰を落とし、信じられないという目で見上げる。「和幸……なんでこの女のために私を叩くの？」「甘っちょろいことを言うな！この方が誰だかわかっているのか？」こめかみを押さえながら、和幸は低く続ける。「この方はうちの最大の取引先だ。彼の投資がなければ、会社の成長はあり得ない。どうして無礼ができる？今すぐ篠原会長に謝れ」沙織は目を赤くし、悔しさを噛み殺して言う。「申し訳ありません。私の失言でした」和幸の視線がこちらへ移る。彼がまた歩み寄ろうとするので、私はすっと一歩下がる。「もういい。あなたのことは許さない。何度も機会を与えた。九度の離婚で、もう私の愛情は尽きたわ。あとは自分で勝手にすればいい」私は祖父の袖をそっとつまみ、微笑む。「おじいちゃん、帰ろう」祖父は目尻をくしゃっとさせ、「よし、よし」とうなずく。玄関を出た途端、和幸が追ってきた。「由依……」祖父の表情が一瞬にして険しくなり、眉間に深いしわが刻まれる。「若いの
出会わぬままいられたなら 第4話
その言葉と同時に、キッチンのドアも勢いよく閉められた。私は、青紫に腫れた膝と、つねられた痕の残る手首をじっと見つめる。 さっき、つねってきたのは沙織のほうだ。私はただ、それを振りほどいただけだ。 力なんて入れていない。あんなふうに倒れるのはどう考えてもおかしい。私は立ち上がってドアを押そうとするが、鍵が掛けられている。一瞬、呆然とし、こらえきれずに涙がこぼれる。それは悲しみではなく、後悔の涙だ。すべてを捨てて和幸と結婚したことを悔やむ。彼を愛していたから、ゼロからの立ち上げに付き添い、苦労をともにしたことを悔やむ。それなのに彼は、何度も何度も、他人のために私を傷つけるほうを選び続けた。祖父の言ったとおりだ。彼は、生涯を託す相手じゃない。キッチンに閉じ込められたまま二時間が過ぎた。スマホは外に置いたままで助けを呼べず、ただ耐えるしかなかった。やがて外から笑いさざめく声が聞こえてくる。数分後、和幸が再び入ってくる。床に座ったままの私を見ると、彼はため息をつき、しゃがみ込んで根気よく声をかける。「由依、さっきは言いすぎた。でも、どんな理由があっても沙織を突き飛ばすなんていけないよ。沙織は、君の料理が食べたいだけなんだ。素直に作ってくれれば、こんな騒ぎにはならなかっただろう」彼は私の膝にそっと息を吹きかけ、柔らかい声を続ける。「痛かっただろう？悪かったよ。愛してるのは君だ。でも沙織も大切なんだ。お腹には兄の子がいるんだから。俺は彼女を放っておけない。君たち二人が揉めると、本当に困るんだ」私は冷ややかな目を向け、膝に置かれた彼の手を払いのける。和幸の表情がわずかに曇るが、それでも声色は優しいままだ。「君が怒ってるのはわかってる。離婚のことも、さっきのことも、全部俺が謝らなきゃならない。もう少しだけ時間をくれないか？必ず何とかする」私は黙ったまま何も言わない。彼はそっと私の頭を撫でる。「これから篠原グループの人たちが来るんだ。三億の契約が取れるかは君次第なんだよ。これは会社にとって絶好のチャンスだ。由依、頼むよ。手伝ってくれ」そう言いながら、彼はポケットから一枚の紙を取り出す。十数品の料理名が並んでいる。「これが先方の好物だ。少し休んだら、準備に取りかかってく
