LOGIN「なんだ?」電話に出た誠の、冷え切った声が響いた。「美羽さんは?」湊が恐る恐る聞いた。「お前には関係ない」湊は一瞬黙り込み、ゆっくりと言った。「兄さん、俺の母さんが……兄さんたちを傷つけたこと、本当に申し訳ないと思ってる。ごめん」「謝罪などいらない。お前の言葉も、お前自身にも吐き気がする」「うちの揉め事に、赤の他人が口出しするな」そう言うと、誠は容赦なく電話を切った。スピーカーから漏れる会話の内容を、綾は聞き逃さなかった。「ごめんね、綾。自分の出自を黙っていて。本当のところは……」「分かってるわ」綾が遮る。「あなたのお母さんはアンナさんだってことでしょ?」綾は髪をかき上げ、椅子から立ち上がった。「私は行くわ」綾の頭には美羽のことしかなかった。今すぐ杉本家に行かなければならない。湊が後ろからついてくる。「手伝うよ」「それなら手分けしよう。何かあったら連絡して」これ以上人数をかけても無駄だ。それに、湊と二人きりでいるのも息苦しい。綾は杉本家に向かい、そこで偶然颯太と鉢合わせた。綾の目的を察すると、颯太は足早に近づいてきた。「美羽さん、中にいないの?」綾は苛立ちながら眉をひそめた。「あなたのおじいさんは美羽さんをどこに隠したの?」颯太は首を振る。「祖父が隠そうとしてるなら、本人が口を割らない限り、俺たちじゃ見つけられない。」「まさか、ただ焦って待つことしかできないの?」綾は為す術がなかった。次に何をすべきかも見えなくなっていた。宗介に会わせてもらえるはずもない。それに誠も、美羽の居場所なんて言わないだろう。仮に知っていたとしても、情報を漏らすわけがない。「祖父も、美羽さんに変な真似はしないはずだよ。だから、まずは落ち着いて」颯太がなだめる。「閉じ込めておいて、子供を産ませたら奪い去る。それが何よりの加害だわ」あと7ヶ月も経たないと、赤ん坊は生まれない。誠に子供が渡ったとしても奪還する術はある。でも、美羽の体がその日まで持つのかが心配だった。颯太は俯いたまま、何人かに連絡を入れてみた。返ってきたのは「放っておけ」という拒絶か、「恩を忘れて身内を売るのか」という罵倒だけだった。唯一頼れそうな樹は遠く海外にいて、戻ってくる気配すらない。樹は実母の杉
「綾さん、樹はもう海外に出張に行かせたよ。颯太も今頃は父親と一緒にいる。こんなところで足止めをしたところで、何も変わらないよ」綾はその言葉で、絶望の淵に突き落とされた。空港まであとたった1キロだった。たったそれだけの距離で、美羽は遠くへ行けるはずだったのに。宗介は痺れを切らしたのか、冷たく言い放った。「これ以上邪魔をするなら、君の研究者としての経歴を抹消してやる」「どうぞお好きに。美羽さんを見捨ててまで手に入れる地位なんて、何の価値もありません」綾は一歩前に出て、美羽を守るようにどっしりと立ちふさがった。「綾ちゃん……」美羽は嗚咽を漏らした。人生で初めて、誰かが自分を守ろうと必死になってくれているのだ。その瞬間、かつて自分を守ろうと執着していた見栄や世間体が、何の意味もないものだと悟った。宗介は複雑な表情を浮かべた。颯太が綾に入れ込む理由も、少し分かった気がした。「連れて行け」昔の縁や才能への惜しさもあり、宗介は綾を傷つけたくはなかった。数人の屈強な男たちが集まり、マルスと揉み合いになり、別の男たちが綾を取り押さえた。宗介は淡々と命じた。「綾さんを、安全に家へ送り届けろ」綾は強引に車の後部座席に押し込まれ、ドアがロックされた。運転席へ這い上がろうとしたが、入れ替わりに二人の男が乗り込み、両サイドから綾を封じ込めた。「美羽さん!」綾は腕を押さえつけられ、一歩も動けない。車は発進し、美羽からどんどん離れていく。「放して!」綾は男たちに向かって叫び、震える指で颯太に電話をかけた。呼び出し音だけが虚しく響く。颯太は監視役の隙を見てスマホを手に取ると、すぐに出た。「なんでまだ来ないの?」電話越しに、綾の泣き声混じりの問い詰めが聞こえた。「すまない……」颯太は悔しさで唇を噛んだ。母親の杉本真由美(すぎもと まゆみ)に騙されて家に誘い込まれ、そのまま部屋に閉じ込められていたのだ。「美羽さんが、あなたのおじいさんに連れて行かれたの。お願い、なんとかして美羽さんを見つけて!」綾の必死な懇願を聞きながら、最悪の事態を予感した。「分かった。必ず見つけ出す」颯太は繰り返しそう約束し、電話を切ると力任せにドアを蹴った。真由美は電話を一本入れたあと、そっと部屋の鍵を開けた
「きゃあ!」急ブレーキで車が停まった。美羽は悲鳴を上げた。綾はショックで体が震える中、美羽の様子を確認した。「美羽さん、どこかぶつけましたか?」「大丈夫」美羽は首を振り、怯えた様子で車の外を見た。車の前には威厳のある白髪の老人が立っていた。宗介だろう。「待ってください、外を見てきます」マルスは車を降り、ドアをロックした。「何のつもりですか?」「それはこちらの台詞だ。娘をどこへ連れて行く気だ?」宗介は杖をつき、余裕の笑みでマルスを睨みつけた。マルスは一歩も引かない。「娘さんだとしても、本人の意思を無視していい理由にはなりません」宗介は鼻で笑うと、マルスを無視して車の窓をノックした。「美羽、余計な騒ぎを起こしたくなければ大人しく戻れ」余計な騒ぎ?美羽は綾を見た。宗介の言葉の意味をすぐに悟った。しかし、綾は憤った。「そんな脅しに屈しないでください、美羽さん!」颯太や樹はまだ穏やかだったが、この宗介だけは全く話が通じない。綾は宗介のやり方を知らなかったが、美羽は違った。杉本家の体面を守るためなら、宗介はどんな非情な手段も辞さないのだ。「綾ちゃん……もう逃げられないわ」このまま車の中にいても二人を巻き込むだけだと悟っていた。「そんな……」綾は美羽の手を掴み、力なく首を振った。「いいの、私のお父さんだもの」美羽は綾の手を優しく撫でると、ドアを開けた。綾も急いで車を降り、美羽の前に立ちはだかった。「美羽さんは渡しません。どこにも行かせないし、行くなら私も一緒です!」綾は目を据え、宗介の圧力にも屈せずに言い返した。さっき、密かに颯太に連絡は済ませてある。どうにかして、颯太が来るまでの時間を稼がなければならない。樹なら勝算もあっただろうが、なぜか彼は圏外だった。宗介は目を細め、綾を値踏みするように見た。「君は彩花の娘さんかね?」綾は眉をひそめた。「母を知っているのですか?」「君のおじいさんとは古い友人だ。本来なら君を孫娘として可愛がりたかったがな……まあ、今は関係ない話だ」綾を前にした時の宗介の口調は、幾分か柔らかかった。綾の話は樹と颯太からもよく聞いていて、彩花によく似ていると思った。才能があり、性格はひどく強情なところが。
何度も電話をかけてみたけれど、ずっと圏外だった。綾は仕方なくマルスに連絡することにした。I国に着けば、エステ家の保護がある。誰も美羽には手出しできないはずだ。今となっては、健吾を頼る以外に方法はない。マルスの電話はすぐにつながった。「綾さん、何かありましたか?」綾は焦った様子で言った。「健吾に連絡したいです。電話がつながらなくて」「健吾様はI国へ戻られました。おそらく多忙かと存じます」「それじゃあ、あなたは今、東都にいますか?」綾が問い詰めた。「はい。何か急用でしょうか?」マルスは綾の声のトーンから異常を察した。健吾が自分を東都に残したのは、会社の問題を処理するためだけでなく、綾の周囲に不穏な空気が漂っているからだ。何かあれば守るようにと言われていた。美羽の同意を得て、綾は手短に現在の窮状を説明した。マルスは二つ返事で承諾した。「そのまま待っていてください。すぐ車で迎えに行きます」電話を切ると、マルスはすぐにプライベートジェットの準備に取りかかった。綾は美羽の身分証やパスポートをカバンに詰め込み、厚手の服を一着だけ持った。ほかの物は向こうに着いてから買い揃えればいい。「綾ちゃん、杉本家は私の命なんて何とも思ってないわ」美羽は顔色を真っ青にし、瞳には恐怖が浮かんでいた。これほど恐ろしかったことはない。まるで自分を捕らえるための網がすぐそこにまで迫っているかのようだった。綾は美羽をなだめた。「大丈夫、I国に着けば安全ですよ。健吾はあっちで強い力を持ってますから」すぐにマルスが到着した。二人は使用人の目を盗んで車に乗り込んだ。「プライベートジェットの手配は完了しましたので、これからすぐに美羽さんを空港までお送りします。現地では我々の仲間が出迎えて、健吾様のところへ合流いたします」「本当にありがとう、マルスさん」綾は心から感謝した。健吾には頼り切りたくないと思っていたのに、結局また借りができてしまった。「健吾様が婚約の件でI国に戻られていなければ、こちらでご本人も動いていたはずですが」マルスはわざと健吾の婚約の話を口にした。「婚約!?」綾と美羽の声が重なり、驚きの声を上げた。「ビアンカさんは奥さんじゃないのですか?」二人は再び顔を見合わせた。「誤解です。ビアンカ様は、
その日の夜、一つのニュースがネット上で爆発的に広まった。【中野グループ会長夫人は愛人の子であり、実の母親は杉本グループの杉本宗介さんに薬を盛っていた……】ニュースには、美羽の母親が意図的に宗介を誘惑した詳細な過程と、中野家が美羽の素性を隠蔽していた事実が記されていた。このニュースは、社交界に激震を走らせるほどの衝撃を与えた。宗介といえば、誰からも慕われる極めて人格高潔な人物だ。そして美羽もまた、普段から社交界のパーティーでは、貴婦人然とした態度を崩さない人物だった。誰もが美羽を杉本家の身内であり、誠の妻として尊敬していた。世間は一瞬にして、裏切られたという怒りで満ちた。SNSでは、罵詈雑言が飛び交った。綾がそれを知った時、仕事中だった。彼女はすぐに作業の手を止め、美羽の元へ急いだ。部屋に辿り着く手前で、誠の激しい怒号が聞こえてきた。「杉本家とグルになって俺を騙していたのか!俺が一番許せないのは、愛人の子なんだよ!湊も同じ愛人の子だ!あいつの母親が俺の両親を殺したんだぞ!」それを聞き、綾は足を止めた。和子や湊からそんな話は一度も聞いたことがなかった。誠が湊とあそこまで激しくやり合っていた時でさえ、その事実は公にされていなかったからだ。ある考えが頭をよぎる。あのアンナが湊の母親だったのか?詳しく考える間もなく、誰かをひっぱたいたような乾いた音が響いた。綾が慌てて室内へ駆け込むと、美羽が顔を押さえ、憎々しげに誠を睨みつけていた。「何を今さらきれいごとを。あなたと二宮さんがやってきたことだって、同じくらい卑劣じゃない!私が証拠を全部公開すれば、あなたなんてすぐに社会的に抹殺よ!」誠が再び手を振り上げた時、綾はすかさず美羽の前に飛び出した。「誠さん!やめてください!これ、凪の仕業です。凪は二人を争わせたいだけなんです!」誠は悔しそうに手を下ろした。当初、杉本家が美羽を自分に嫁がせた時、事情は明確だった。美羽は幼くして両親を亡くし、親戚として育てられた子供だという話だった。自分が人々に美羽を紹介する時も、そう説明してきたのだ。これでは、自分さえ社交界中の笑い物になるのだ。しかも、美羽の母親がとった手段はあまりに卑劣で、不倫の何倍もタチが悪い。美羽は冷ややかな目で誠
宏介はくりくりした目で、「ママは一人しかいないよ」と言った。凪はさらにいくつか質問してみたが、収穫はなかった。「頭にゴミがついてるよ。取ってあげる」凪は身を乗り出し、ぐいっと一房の髪を引き抜いた。あまりの痛さに宏介がわあっと泣き出し、先生が駆けつけてきた。「どうしたのですか?」「大丈夫、この子がどうしても一緒に帰りたいって言うんです」凪は適当に言い訳し、宏介にアイスを差し出した。「ほら、泣かないで。一番好きだったでしょ、このアイス」そのフレーバーは海斗の一番の好物だった。凪は寂しげな眼差しを向けて、幼稚園を後にした。1週間があっという間に過ぎたが、誠も湊も、離婚声明については一言も発さなかった。凪は誠を水月郷に呼び出し、綾が送ってきた不倫の証拠を叩きつけた。「ねえ、誠さん。私たちのことはみんな知っているわ。美羽さんももう気づいているんじゃない?」誠の胸に動揺が走ったが、すぐに表情を繕い、馬鹿にしたように笑った。「火遊び程度でいちいち騒がないさ。俺が君と別れさせすれば、美羽は俺を見捨てたりしないよ」もし美羽がすでに知っているなら、彼女は何もせず、妊娠のことを隠しているだけだ。つまり、美羽はまだ迷っているのだ。やり直せる可能性はまだ十分残されている。「本当にそこまで自信があるの?じゃあ今ここで、二人の写真を美羽さんに送ろうかしら?綾がこの証拠を湊に見せたら、海斗の身元がバレるかもしれないって考えないの?」凪は必死に笑みを浮かべた。結局、自分だけが何もかもを失ってしまうのか。誠は凪の苦しみを悟り、もうこれ以上騙しておくわけにもいかず、真実を口にした。「凪、美羽は妊娠したんだ。俺は、もう離婚なんてできない。「金は用意する。余生には困らないようにするから、海斗を連れて海外へ行ってくれ」凪は雷に打たれたように立ち尽くした。誠は子供ができにくい体質だったから、避妊をしたがることはなかった。だからと言って、美羽だって30を過ぎているのに、どうして今さら妊娠できるのか?「本当にその子はあなたの子なの?」「ああ、間違いなく俺の跡取りだよ」誠は動じず、凪を静かに見つめた。結局、凪に申し訳ないことをしたという認識はあるのだ。それはつまり、海斗は正式な子供として認められないとい
ドアの外には、大柄なボディーガードが二人立っていて、腰には銃が下げられていた。彼らは健吾に気づくと、そのうちの一人がうやうやしくドアを開けた。綾は息を殺し、緊張しながらその広い部屋へ足を踏み入れた。以前、拉致された事件のときから、綾は薄々気づいていた。健吾の家は、ただの金持ちというだけではないのだと。そして今、この光景を目の当たりにして、思わず身がすくむ思いがした。床にはカーペットが敷かれ、天井からはクリスタルのシャンデリアが吊り下がっていた。壁の一面はダイヤモンドで埋め尽くされていて、部屋の中は昼間のように明るい。顎髭を生やした中年男性がソファに座っていた。二人が部屋
幸子はスープだけでなく、綾のために簡単な料理まで作ってくれた。湊はいつの間にか向かいに座り、取り皿を用意してあげた。「海斗が急にお腹を酷く痛がって、それで病院に駆けつけたんだ」綾は「うん」と頷いた。「別に何もなかった?」彼女は湊のことは見ずに、料理を口に運んだ。「特に何も見つからなくて、病院に着く頃にはもうすっかり良くなってたんだ」湊の声は穏やかで、この光景はなんとも奇妙だった。食卓で向かい合う夫婦。夫が愛人との子供を心配し、妻がそれを穏やかに聞いている、実に和やかな一場面だ。「さっきお前からの着信とメッセージに気づいたんだ。海斗を驚かせないように、スマホをマナ
綾は堂々と出迎えた。「誠さん、そして取締役の皆さん。こんなことで、わざわざお越しいただくなんて申し訳ありません」誠は単刀直入に尋ねた。「湊はどこだ?」「病室です。でも先生からは安静にするよう言われていて……本人も今は誰とも会いたくないみたいです」達也も口を添えた。「今は絶対安静が必要です。皆さん、また日を改めていただけますか」「皆さんはこちらでお待ちください。私が様子を見て来ます」「お待ちください、誠さん」綾は誠の前に立ちふさがり、意味ありげな視線を送った。「湊が今、一番会いたくないのは……誠さんなんです」誠は眉をひそめた。「どういう意味だ?」「今回の拉致事
そのハイヒールは、綾のお気に入りのブランドのもので、とても履きやすいと評判だった。こんな偶然、あるはずがない……「健吾、大変なの!」明里の震える声が、受話器の向こうから聞こえてきた。次の瞬間、健吾はシェパードにリードをつけると、車に駆け込んだ。……「くだらないいたずらだろう」湊は、凪が見せてきたネットニュースを一瞥すると、うんざりした様子で無関心にそう言った。「でも、本当に誰かが危ない目に遭ってるのかもしれないじゃない。それに綾も、こんなハイヒールを持ってた気がするわ」湊は画像に目をやり、答えた。「あいつは同じような靴を何足も持っている。履き心地がいいとかで