Mag-log in綾と健吾は教室に入ると、前後の席にそれぞれ腰を下ろした。綾はあくびをして、暇つぶしに本を読もうとしたところ、そこへ弘幸がやって来た。「昼ご飯、なんで俺と一緒に食べなかったんだ?」健吾がいたからと正直に言うわけにもいかず、綾は適当に濁した。「友達と一緒だったから、邪魔しちゃ悪いと思って」弘幸はすかさず弁解した。「あの子は俺に気があって、しつこく誘ってきているだけだよ。誤解するなよ」綾は頭を掻きながら悩んだ。一体、何に対しての誤解なのだろう?思い当たらなかったから、綾ははぐらかすように軽く笑い、声を潜めて言った。「寝ている人もいるから、大きな声で話すのはやめよう」弘幸は指でOKサインを作って言った。「わかった。放課後待ってて」弘幸が席に戻るのを見届け、綾が後ろを振り返ると、健吾の席はすでに空になっていた。いつの間にいなくなったのだろう。それから、綾はしばらく静かに本を読んだ後、そっと教室を抜け出した。そして、彼女だけの秘密基地――小さな花園にあるガジュマルの木へ向かった。A組にいた頃、綾はこの木の下でひと休みするのが日課だった。ここなら静かで、誰にも邪魔されない。ガジュマルの木へ向かって歩いていた綾は、木のそばにある石のテーブルの横で、長身の少年が気だるげにもたれかかっている姿を見つけた。健吾だった。彼はたった一人で、本を手に取って読書に耽っているのだった。綾はその場に立ったまま、数秒間静かに彼を見つめた。そして、声をかけることなく、ガジュマルの木の下へ腰を下ろした。つるっとした木の幹に背中を預け、綾は静かに目を閉じた。頬を撫でるそよ風がやけに心地よかった。近くの池を吹き抜けた風は、むせ返るような熱気を追い払い、体温をすっと下げてくれた。気がつくと、あくびをこぼしながらそのまま深い眠りに落ちていた。一方、少し離れた先で、健吾がふと顔を上げ、ガジュマルの木の方向を見つめた。木漏れ日の中で、綾は目を閉じ、陶器のような白い頬がほんのりとピンクに染まり、後れ毛が風に揺られていた。硬い木の幹にもたれて、あんなにぐっすり眠れるなんて……大した適応力だ。かつて健吾は綾が中野家で虐げられているのではないかと疑ったこともあった。しかし、彼女が湊の話をする時に見せた、深い信頼と幸せに満ちた眼差しに偽りを感じられ
その聞きなれた声を耳にして、綾はすぐに気が晴れて、にっこりと笑みを浮かべた。「今行く」彼女は凛たちを追い越し、そこに立っていた健吾のほうへ向かった。少年は制服に身を包み、白いシャツに黒いズボン姿。すっきりとした端正な顔立ちで、どこか爽やかだった。綾がすぐそばまで歩み寄ると、健吾は向きを変えて歩き出した。綾は彼の後ろにぴったりついていった。「助けてくれてありがとう。食堂に行くって言ってなかったっけ?なんでここに?」「今から行くところだ」健吾は振り返りもせず、涼しげな声で答えた。初秋とはいえ、まだ暑さが残る中、綾は少年の後ろについて歩いていた。彼の服から漂うほのかな洗剤の匂いを嗅ぐと、まるで冷たいレモネードを一口飲んだ時のように、身体と心がすーっと軽くなるのを感じた。二人が並んで食堂に入ると、弘幸がこちらに向かって手を振った。綾は弘幸に笑い返した。その時、彼の向かいに座っている女子生徒に気づいた。しかし、健吾は見て見ぬ振りをして、手際よく食事を済ませると、空いている別のテーブルへ移動した。綾も彼についていき、健吾の向かいに座った。「友達のところに行かなくていいの?」そう言われ、健吾が顔を上げた。その澄み切った青い瞳の美しさに、綾は一瞬見とれてしまった。彼女は小声で言った。「あなたと一緒に座ってもいい?」弘幸は熱心に接してくれるけど、綾はなぜか健吾と一緒にいる時の方がずっと落ち着くのだ。そんな風にまっすぐ伝えられるとは思っていなかったのか、健吾は一瞬きょとんとしたが、すぐに視線を落として食事を続けた。もとから、二人とも無口なほうだから、食事中はほとんど言葉を交わさなかった。ついに、食事が終わる頃、綾は堪えきれず切り出した。「放課後、新しくできた本屋に行かない?」健吾はすぐには返事をせず、逆質問を返してきた。「俺に付き合ってほしいのか?」綾は顔を赤らめ、頷いた。「うん、あなたにも来てほしいの」弘幸があまりに親しげに接してくるので、クラスでは二人の関係を疑うような噂も出始めていたから。やましいことは何もないけれど、根も葉もない噂のせいで誰かに迷惑をかけるのは避けたいそう綾は思った。それに、個人的な気持ちもあった。学校での姿しか知らない健吾が、普段どんな生活をしているのか少し興味
その親戚から言われたひどい言葉のせいで、10歳だった綾は、ドレスやティアラを見せびらかすことをやめ、部屋の隅でじっとするようになった。大人の何気ない一言が、少女の心をひどく傷つけたのだ。そのせいで、せっかくの誕生日会も、彼女にとっては辛いだけの思い出になってしまった。その日以来、彼女は自分の感情を誰にも見せないよう、心を閉ざした。だから、たとえテストで1位の成績をとっても、A組のクラスメートや紀之へのあてつけで、すこしだけ調子に乗ってみせるくらいのことしかできなかった。一方、弘幸は気まずい空気に気づき、とりなそうと声をかけた。「綾ちゃん、席を俺の前に変えたらどうだ?」綾は制服の端をギュッと握り締める。返事をしようとすると、健吾が遮るように言った。「彼女は、そんなことで先生を煩わせるようなことはしない」綾は肩を落とし、弘幸の方を見て小さく微笑んだ。「ありがとう。でも、今の席で大丈夫だよ」弘幸は面白くなさそうに健吾を横目で見て、もう一度綾を誘った。「近くに新しい本屋ができたんだ。放課後、一緒に行かない?」参考書が欲しかった綾は、頷いた。「うん、いいね」弘幸は机に手をつき、距離を詰めながら聞いた。「じゃあ、今週末はどうだ?」でも綾は、「週末はいつも友達と会う約束をしているから」と言った。「友達ってこの前、一緒に映画に行ってたキレイな子?彼女はどこの学校なんだ?」「彼女は国際高校だよ」「俺も今度、一緒に遊んでもいい?」だが、綾は明里が弘幸を苦手に思っていることを思い出し、申し訳なさそうに言った。「ごめんね。彼女、ちょっと人見知りで」片や、二人のやり取りがうるさかったのか、健吾は不機嫌そうに口を挟んだ。「そんなのラインで話したらどうだ?」そう言われ、綾は唇を引き結び、俯いて教科書を開いた。弘幸は肩をすくめ、自分の席に戻るとスマホを取り出した。【青木っていつも偉そうにしてるから、気にすんなよ。次は二人で遊びに行こうぜ、あいつ抜きで】しかし、綾のスマホは常にマナーモードで、学校ではあまり見ていないため、そのメッセージには気づかなかった。それに彼女も、健吾のさっきの態度に腹は立てていなかった。弘幸と自分がお喋りしてて、少し騒がしかったのも事実だから。昼休み、綾は列に並ぶのが面倒で、教室で勉強をし
すると、紀之は顔を強張らせて尋ねた。「国際クラスへの編入だって?」「はい、家族が決めてくれたことですので。校長先生もご存じのはずです。では、失礼します」綾は淡々と微笑んで、クラスメートが驚きに目を見開く中、潔く教室を後にした。振り返ることはなかった。もう二度と、彼らとは関わりたくなかったから。そこで、ちょうど通りがかった国際クラスの担任が、廊下で綾を見つけると笑顔で足を止めた。「学年1位さん、ようこそ我がクラスへ」綾は少しはにかんで、「はい、先生、こちらこそ」と答えた。「さあ、こっちへおいで」教壇に立った国際クラスの担任が声を張り上げる。「みんな、紹介するよ。単元テストで学年1位をとった中野さんだ。今日からこのクラスの仲間になる。拍手で迎えてやってくれ!」拍手の湧き上がる中、綾は深々とお辞儀をした。体を起こすと、無意識に健吾の方を向いた。国際クラスの担任は健吾の前の空席を指差した。「あそこの席に座るといい。前に座っていた生徒がちょうど留学に行ったから」そう言われ、綾は思わずドキッとして、「はい、先生」と答えた。そして、彼女が健吾の前の席まで歩いていくと、彼と軽く目が合ったので会釈をして着席した。授業が始まるのに合わせて、教科書と文房具を几帳面に並べた。1限目のチャイムが鳴り、健吾がふと顔を上げると、前には姿勢よく座る少女の姿があった。ポニーテールを背に垂らし、ノートを取る姿はとても真剣だった。国際クラスは大学進学を見越した独自の授業が中心で、大学入学共通テストのためだけに必死に知識を詰め込むような雰囲気ではなかった。幅広い学びが得られる環境に、綾は安堵した。休み時間になると、弘幸が綾の机に駆け寄って椅子を引いた。「すごいよな!綾ちゃん、クラスを変えるって決めたら本当にすぐ変えるんだな」そう言われ、綾は微笑んで答えた。「ここの方が落ち着けそうだし」「大歓迎だよ!」と弘幸が手を差し出す。「国際クラスを代表して、正式に歓迎の挨拶をさせてくれ」綾は少し戸惑いながらも、素早く相手の手を握り返した。弘幸は嬉しそうに手をこすり合わせて興奮した様子で言った。「お前は1位、青木は2位だろ?これで『お坊ちゃまクラス』なんて呼ばせないぞ」綾が後ろを振り返ると、健吾が一人でタブレットを見てい
「湊がもう片づけてくれた。でもあの時、私に反発する勇気をくれてありがとう」健吾は綾の顔をちらりと見てから、思わずこう尋ねた。「一体、彼らとなにがあったんだ?」綾を見ていると、とても自分から争いを起こすようなタイプには見えなかったからだ。綾は指先をぎゅっと絡め、白くなるまで強く握りしめていた。少し沈黙してから、彼女はぽつりと語りだした。「いじめられたのは凛から。彼女の家に半年居候してたんだけど、その間に叔父さんが亡くなって……凛は私のせいで叔父さんを死なせたって決めつけたんだ」自分の子供の頃の話を誰かに話すなんて、綾にとって稀なことだった。まして、それほど親しくない相手にはなおさらだ。たとえ何が真実か分かっていても、肉親から憎まれ傷つけられた過去を口にするのは、やはり辛いものだ。でもなぜか、健吾の前だと、その痛みも予想外に淡々と言うことができた。多分、今日の雨はあまりにも激しく、車窓を隔てて、窮屈な車内の小さな空間に囲まれたからだろう。あるいは、ただ静かに自分の話を聞いてくれる健吾の姿が、重くのしかかっていた辛い出来事の痛みを少し和らげてくれたのかもしれない。それを言い終えると、車内には再び雨の音だけが残された。ふと綾は窓ガラスに映る彼の姿をこっそり見上げた。そこに浮かぶ彼の輪郭は、穏やかで、どこか頼もしさを感じさせた。やがて健吾は冷たく笑い捨てた。「その凛ってやつも、ずいぶんと思い過ごしたものだな。そもそもお前にそんな力があるんなら、あんな風に人からいじめられて縮こまったりしてないだろ」そう言われ、綾は意地を張るように言った。「ただ、あんな人たちといちいち争うのが面倒だっただけ。学業に差し支えるし」健吾が低く笑うと、マイバッハはタイミングよく停まった。おかげで綾の気まずさもいくらか和らいだ。「じゃあこれで。送ってくれてありがとう」綾がドアを開けて降りようとすると、健吾に呼び止められ、傘を差し出された。「これを持ってけ」「ありがとう」走ればすぐだと断ろうと思ったが、「いらない」なんて言ったらまた健吾に茶化されそうだったので、素直に受け取った。それから、帰宅後、彼女は熱いシャワーを浴びてから健吾にメッセージを送る。【傘をありがとう。月曜に返す】すぐに健吾は返信してきた。【好きにすれば
「別に、どっちでもいい」健吾は気だるげな調子でそう言うと、スマホに目を落とした。明里は綾を脇へ引っ張ると、小声で囁いた。「実際いい人じゃない?さっき言ったみたいに冷たくもないし、綾、今のうちにアタックしなきゃ!」綾は呆れてため息をつく。恋愛のことしか頭にない明里に、少し疲れてしまう。その時、後藤家の車が近づいてくる。胡桃が窓を開けると、雨が車内に吹き込んだ。「綾ちゃん、乗って。送っていくわよ」綾は頭上で両手を合わせ、軽く会釈して断った。「ありがとうございます。でも、この人の車に便乗する約束をしているんです、通り道だそうで」胡桃は綾の背後に立つ健吾に目をやり、明里と同じような含みのある笑みを浮かべた。「あら、そうなのね。それなら家に着いたら明里にメッセージしてね。それじゃ、私たちは先に失礼するわ」「はい、ありがとうございます」綾は健吾の横へ戻り、服についた雨粒をパッパッと払った。見慣れた黒のマイバッハが雨音を立てながら、二人の前で静かに止まる。乗り込むと、健吾はティッシュを一枚差し出してくれた。「ありがとう」綾は濡れた箇所を丁寧に拭きながら、気まずい沈黙の中で静かに座る。窓の外では、雨が容赦なく車体に打ちつけていた。午後4時過ぎだというのに、外は黄昏時のように薄暗い。車内の灯りも少なく、外から差し込む街灯の明かりが時折ぼんやりと過ぎ去っていくだけだった。綾は視線を泳がせ、そっと隣の健吾を盗み見る。彼はうつむき加減で端末を読み耽っており、スクリーンの青白い光がその整った横顔を浮かび上がらせていた。青く深い瞳に、長い睫毛が落とす小さな陰影。本を読んでいるだけなのに、なぜこれほど気品が漂うのだろう、と綾は思った。心臓が変に高鳴り、綾は慌てて視線を逸らした。その気配を感じ取ったのか、健吾が突然こちらを向く。すると、真っ直ぐな視線が綾の視線と重なった。「どうかしたか?」ぎくりとして、耳が熱くなるのを感じる。綾は少し体勢を整え、慎重に切り出した。「その……青木くんはI国のハーフで、ずっとI国で過ごしてたんでしょ?なんで急に東都に来ることにしたの?」言ってしまってから、少し踏み込みすぎたかと焦る。綾は慌てて言い添えた。「話したくなければ、今の質問は聞き流して」だが健吾は、穏やかに答え







