共有

第3話

作者: 青ノ序
面接会場に着いた綾は、思わず気が引けてしまった。

念花グループは多くの傘下企業を抱えている。綾が面接を受けるのは、グループの主力事業であるバイオ・インテリジェント・メカニクス関連の部署だ。

卒業後もずっとこの業界に注目し、勉強を続け、国際的な学術雑誌に論文を発表したこともある。しかし、やはり実務経験はなかった。

湊の世話で5年も家にこもっていたせいで、社会から完全に孤立していたのだ。

親友の後藤明里(ごとう あかり)の紹介がなければ、面接の機会すら得られなかっただろう。

面接では、担当者が履歴書に目を通した後、いくつか専門的な質問をした。

綾は我ながらうまく答えられたと思った。でも、面接官は相変わらず気にも留めないという表情を崩さない。

「中野さん、あなたの専門知識が豊富なことは間違いありません。しかし、5年間のブランクがあり、実務経験がまったくないのでは、当社のニーズを満たすのは難しいでしょう。なにしろエリートを求めていますので」

「チャンスをいただけませんか。1ヶ月の試用期間で結構です。その間の給料は要りません」

綾は簡単にあきらめたくなかった。長い目でキャリアを考えれば、念花グループは最高の選択肢なのだ。

「中野さん、うちの会社で無給でも働きたいという人は大勢いるんですよ。あなたの総合的な条件が、彼らより優れているとは言えませんね」

面接官は履歴書を置いた。彼から見れば、目の前の女性はせいぜい見た目がいいだけのガリ勉だ。その実力は念花の求めるレベルには程遠い。

「面接は以上です。本日はお越しいただき、ありがとうございました」

面接官の冷たい背中を見ながら、綾は肩をすくめ、部屋を退出するしかなかった。

少し落ち込んだけれど、気落ちしてはいなかった。

念花は業界トップの会社だ。入れなくても当たり前だ。

明里が言っていた。就職活動はまず一番いい会社から始めて、ダメだったら次を考えればいい、と。

【明里、念花とはご縁がなかったみたい、泣】

エレベーターの中で明里にラインを送った綾は、うつむいて外に出た。その時、隣の来賓専用エレベーターに、目を引く金茶色の髪が一瞬映ったのが見えた。

思わずそちらを見たが、すでにドアは閉まっていた。

気のせいだと思った綾は、上の空で外へ向かった。履歴書のコピーを落としたことにも気づかなかった。

後から気づいて探しに戻った時には、もうなくなっていた。

家に帰ると、まるで違う場所に来てしまったのかと疑った。

床には様々なおもちゃが山積みになり、内装も様変わりしていた。壁には凪の絵が何枚も飾られ、シンプルな雰囲気から派手すぎる芸術風に変わっていた。

家というより、こだわりの強いオーナーが経営する、おしゃれな託児所のようだった。

会社に行っているはずの湊が、海斗と積み木で遊んでいる。凪は壁に色彩豊かな油絵を掛けていた。

綾は一瞬呆然とした。もしかしたら、これこそが本当の家の姿なのかもしれない。モデルルームのように整然としているのではなく、住む人の痕跡が至る所に残っている。

綾はおもちゃの山をよけ、書斎へ急いだ。新しい履歴書を印刷し直し、次の会社の面接に備えるためだ。

「どうした?就活、失敗か?」

湊が綾を見上げ、まるで結果を予期していたかのように、からかうような笑みを浮かべた。

「一度失敗しただけよ」

綾の口調は意地を張っているようで、少しも悲しんでいるようには聞こえなかった。

「俺の秘書に楽なポストを用意させた。明日から俺と一緒に会社に来い」

「いらないよ。仕事は自分で見つけるから」

湊は持っていた積み木を投げ捨て、顔を曇らせた。「綾、お前は俺に頼ればいいんだ」

「湊」

凪は甘えるように言うと、湊の隣に座り、ごく自然に彼に腕を絡ませた。

「綾は子供じゃないんだから。彼女にも選ぶ権利はあるわ」

凪は綾の方を見て、優しく微笑んだ。「綾、私にできることがあったら何でも言ってね。会社を経営してる友達も多いから」

綾はその油絵に目をやった。まだ赤ん坊の海斗を抱く凪の姿が描かれている。

母と子は、まるでこの家の主であるかのように堂々と壁に飾られ、鮮やかで目を引いた。

「それなら、他人の家に住んでないで、自分の仕事を探したらどう?」

棘のある言葉に、凪の顔はみるみるうちに険しくなった。

「綾、二度とそのようなことを言うな」

湊の口調は荒々しいとまではいかないが、それでも叱責の色は明らかだった。

綾はハンドバッグの持ち手を強く握りしめた。瞳には自嘲の色が浮かび、胸の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。

その時、幸子が裏口から入ってきて、リビングの気まずい雰囲気を破った。

「奥様、あのお花はどこに置きましょうか?」

綾が幸子の指差す方を見ると、庭の芝生の上に大小さまざまな植木鉢が並べられていた。

「ずっとサンルームに置いてあったはずだけど、どうして外に出したの?」

幸子はちらりと凪に目をやり、不機嫌そうに黙り込んだ。

「凪がアトリエを欲しがっていてね。あのガラス張りの部屋が一番いいんだ」

湊が言い終わるか終わらないかのうちに、凪が大げさな声をあげた。

「まあ!あそこのガラスの部屋は日当たりがいいって言っただけなのに。まさかあなたの花のサンルームだったなんて。返した方がいい?

湊が悪いのよ。はっきり言ってくれなかったから、そのまま私のアトリエにしちゃったじゃない」

湊は平然と言った。「あの花は屋外でも育てられる。花壇をいくつか作ればいいだけだ」

「もういいわ」綾は幸子に向き直った。「誰かにあげて。もう要らないから」

とっくに居候生活は終わったと思っていたのに。今この瞬間、まだ終わっていなかったのだと悟った。

この中野家で、自分はまるでこの花たちのようだ。サンルーム一つ守れず、おとなしく与えられた場所にいるしかない。

「そんな!あのお花は全部、奥様が丹精込めてお世話されていたのに」

「これから仕事をするから、世話をする時間もなくなるわ」

幸子でさえ、綾がどれだけ花を大切にしているか知っているのに、湊はまったく気にかけていなかった。

凪が現れなければ、綾は過去5年間の自分の人生が、どれほど無価値だったかに気づきもしなかっただろう。

綾は花を見ないように自分に言い聞かせ、大股でエレベーターに乗り込んだ。

けれど、エレベーターは視界が広く、ガラスに映る自分の姿越しに、芝生に置かれた花々が見えた。それはちょうど、心臓のあたりで咲き誇っていた。

湊はエレベーターから視線を外し、幸子に命じた。「とりあえず取っておいて、きれいな花壇を作らせろ。それから、専門の庭師も雇って世話をさせろ」

湊は綾の瞳に宿る悔しさと未練を見て取っていた。思わず、ふっと笑みがこぼれる。

あのおとなしかった子が、今では自分にすねるようになったんだな、と。

たかが、いくつかの植木鉢。そんなことで腹を立てるなんて。

――

綾はパソコンの前に座っても集中できなかった。頭の中には、あの遠い日の面影が何度も浮かんでくる。

履歴書を修正するはずが、いつの間にかA4用紙に絵を描き始めていた。

金茶色の癖っ毛に、澄んだ青い瞳。少年らしい姿が紙の上に現れた。

シュッ。

突然、ドアから水の筋が飛んできてキーボードにかかり、紙を濡らした。

綾は慌ててパソコンの電源を落とし、A4用紙を数冊の本の下に押し込んだ。

海斗が水鉄砲を構えて飛び込んできた。「バンバン!撃ち殺してやる!」

水しぶきが飛び散り、書類や蔵書、そして綾の服まで濡らしていく。

綾は海斗を制した。「ここで遊んじゃだめ」

「うるさい!」

海斗は水鉄砲を持ち上げ、綾の目に狙いを定めて水をかけた。

綾は身をかわし、海斗の襟首をつかむと、水鉄砲をひったくってゴミ箱に投げ入れた。

海斗は口を開けて泣きわめいた。「うわーん!悪いやつ!殺してやる!」

綾はうるさくて頭が割れそうになり、真顔で厳しく警告した。「家の中で水鉄砲で遊ばないで。わかった?」

「ここは僕の家だ!遊ぶんだ、遊ぶんだもん!うわーん!」

海斗は足をばたつかせ、力いっぱい綾を蹴りつけた。

綾が彼をドアの外へ引きずり出そうとすると、海斗は彼女の腕にしがみつき、手の甲に思いきり噛みついた。

「痛っ!」

綾は痛みに息を呑み、思わず手を離してしまった。

海斗はちゃんと立っておらず、不意に手を離されたせいで、どしんと床に尻もちをついた。

「うわーん!」

海斗は床に寝転がり、転げ回りながら泣きじゃくった。

泣き声が下の階に届き、凪が慌てて上がってきて海斗を抱き上げた。

「海斗、どうしたの?」

海斗はさらに大声で泣いた。「中野おばさんが僕を突き飛ばしたんだ!頭が痛いよ……」

「どういうことだ?」

湊は眉をひそめ、綾の青ざめた顔に目を向けた。その視線が彼女の手に移り、かすかな血の色を捉える。

だが、はっきりと見る前に、凪が湊の視界を遮った。

「湊、海斗を病院に連れて行かないと」

「行こう」

湊は泣き叫ぶ海斗を抱き上げ、3人は階下へ降りていった。

泣き声はすぐに遠ざかった。綾は手の上の血と歯形を見つめ、痛みで涙がこみ上げてきた。

その様子を見た幸子は、顔を真っ白にして言った。「まあ、大変です!病院に行かないと!」

綾は「ぷっ」と吹き出した。もし離婚したら、幸子はついてきてくれるだろうか。

「大丈夫。河野さんに手当てしてもらうから」

幸子は不満げに呟いた。「旦那様もひどいですね。病院に行くのに、奥様を連れて行こうともしないなんて」

まったく気にしていないと言えば嘘になる。綾は心に寂しさを感じていた。

それは好きという気持ちとは違う。また一つ、自分の「家」を失うことへの寂しさだった。

綾の持ち物は少ない。湊はその一つだった。

湊は一緒に育った兄で、5年連れ添った夫。そして、「あの人」を除けば、綾の人生で最も大切な存在だった。

その淡い寂しさは、すぐに喜びにかき消された。傷の手当てをしてもらっている最中、綾のスマホに新しいメールが届いたのだ。

【中野さん。この度は採用おめでとうございます。明日午前10時に、弊社人事部までお越しください】

送信元は念花グループ人事部だった。
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

最新チャプター

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第100話

    ……綾はだんだん酔ってきて、語り始めた。「私、小さいころから湊と一緒だったの。もう十何年もよ。好きという気持ちはなくても、家族みたいな情はあった。湊は、私に後ろ盾がないと思って甘く見てるのよ。もし親が生きてて、20代の私がこんな風にしてるのを見たら、どれだけ悲しむでしょか。私が臆病なのは認めるわ。失うのが怖かった。でも……」綾は鼻をすすり、お酒をぐいっとあおった。「だって私には何もないもの。生きていくためには、何かにすがりつかないといけないでしょ?」綾は顔を上げた。涙で潤んだ瞳は、酔いのせいかどこかぼんやりしている。「湊のおばあさんとの約束があったから、湊の面倒を見るのが、私の責任になった。颯太さん、親がいない子ってね、1日生きるごとに、誰かへの借りが1日分増えていくようなものなのよ」本来は両親だけに感謝していればよかった。でも両親がいなくなり、他の優しい人たちが親の代わりになってくれた。その人たちへの恩は、親への恩よりもずっと重いの。親には甘えられるけど、他の人にはそうはいかないじゃない?颯太はティッシュを二枚取って綾に渡し、「これからは、俺が味方だから」と言った。「うん。今日、湊を私の身内リストから外す。まあ、リストには湊一人しかいなかったんだけど」綾は酒瓶を持ち上げて、乾杯のポーズをした。「これからは、颯太さんが、私が選んだ初めての家族よ」湊はへらへらと子供のように笑い、お酒を飲み干した。颯太はグラスを少し持ち上げ、一口だけ口をつけた。自分の知っている綾は、物静かで穏やかな子だった。学生時代、一番前の席に座っているようなタイプだ。それが酔っぱらうと泣いたり罵ったりして、鼻水まで垂らしている。ボロボロだが、生き生きして見えるその顔が、たまらなく愛おしかった。「ありがとう、颯太さん。こうやって全部話したら、体が軽くなったみたいで、なんだか飛べそうね」綾はテーブルに手をついて立ち上がると、ふらふらと外へ歩き出した。「もう帰るから。送らなくていいよ」……颯太は綾の後ろについていき、彼女が無事に寮へ戻るのを見届けてから、ようやく安心した。翌日、綾は電話の音で目を覚ました。「今どこだ?井上を迎えに行かせる」湊の声で綾は一気に目が覚め、パーティーのことを思い出した。「

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第99話

    以前の綾は、いつも湊のことが心配だった。湊が彼自身を追い詰めてしまうんじゃないかって。でも、今朝、凪が彼の部屋から出てくるのを見て、はっとした。ずっと自分を苦しめていたのは、こっちだったんだって。いつも一人ぼっちだったのはこっちだ。最後の砦を守っていたのもこっちだ。何度も我慢してきたのだって、こっちだった。それなのに、自分は人としての最低限の尊厳さえ、踏みにじられていた。湊は、綾の目が赤くなっているのに気づいて、驚いたように説明した。「凪とは何もない。海斗のそばにいただけだ。朝、俺の部屋に来たのは、はちみつ湯を持ってきただけだよ」湊は、綾がこんなことを気にするなんて、思ってもみなかった。今まで一度も、そんな素振りを見せなかったから。綾が隣で寝ていても手を出さずに我慢できたんだ。凪なんかに、気持ちが動くはずがない。「お正月が明けたら、あの二人には出て行ってもらう。だから、もう少し時間をくれないか」湊は怒るどころか、むしろ予想外のことなほど機嫌が良さそうだった。綾が自分に怒りをぶつけてくれるのが、嬉しかった。そうすることで初めて、綾の中で自分が存在していることを実感できるからだ。今までの綾は従順だったけど、自分に対してあまりにも淡白だった。まるで、ガラス越しに向き合っているみたいに。そこにあるのは形式ばった優しさだけで、愛情の温もりは伝わってこなかった。綾は、自分に触れようと伸ばされた湊の手を避けた。そして、信じられないものを見るような目で、目の前の男を見つめた。自分はこんなに訴えているのに、湊はなんと笑っているのだ。こっちは真剣に夫婦のあり方を問いただしているのに、湊はまるでドラマのワンシーンみたいに、余裕の笑みを浮かべている。綾は、あまりのことに言葉を失った。「私が出ていくか、あの二人を今すぐ追い出すか。湊、どっちか選んで」綾は固い表情のまま、湊をまっすぐに見つめた。心の中では、答えはもう決まっていた。だから、何も心配はしていなかった。案の定、湊はしばらく黙り込んだ後、疲れたように言った。「あの親子が落ち着く場所を見つけたら、迎えに行くから」綾は一歩下がり、スーツケースを引いて、迷わず背を向けた。玄関のドアを開けた瞬間、冷たい風が頬をなでた。まるで、心の中にずっと溜まっていた淀ん

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第98話

    【コーヒーでもどうだ?】健吾からのメッセージが来た。綾は、指を滑らかな髪の中に差し込み、いらだたしげにかきむしった。健吾からの誘いがろくなことにならないと分かっていた。それに、彼とはもう個人的な関わりを持つべきじゃない。帰国前夜、洋館での出来事を思い出すと、今でも怖くなる。ある偉人はこう言った。「人の欲望は、その人の運命を予言する」と。もしこの欲望に身を任せたら、自分の運命は地獄に落ちるに決まっている。【年末までのプロジェクトで私の担当はもうないから】綾は、やんわりと断った。健吾はすぐに返信した。【個人的に誘っている】【ごめんなさい。個人的に会うのは、ちょっと】綾はビアンカを思い出した。自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない。このまま高鳴る胸の衝動に身を任せていたら、凪と何が違うというのだろう?【中野のせいか?】【いいえ。私自身が、あなたに会いたくないの】この言葉を送るのに、綾は全身の力を振り絞った。会いたくないだと?健吾はスマホの画面に映る短い一文をじっと見つめ、自嘲気味に鼻で笑った。そうだ、忘れかけていた。あの日、綾がどれほど冷酷に自分の元を去っていったのかを。綾は、湊とは一番お互いを理解していて、一番お似合いの二人だと言った。自分の見た目がまあまあだから、遊びで付き合っただけだとも言った。そして、一度も愛したことはないと。健吾はタバコに火をつけた。5年前、綾と別れてから、タバコを吸うようになった。その後、一度はやめられた。しかしタバコへの依存が消えたと思ったら、今度は綾への依存が静かにぶり返してきたのだ。そして、馬鹿な決断をした。東都へ戻るという決断を。タバコはやめられても、綾への想いだけはやめられない。胸をかきむしるように苦しい。健吾は引き出しから、綾が描いた一枚の絵を取り出し、ゆっくりとタバコの火に近づけた。絵の中の少年は、少しずつ灰になっていった。健吾はUSBメモリを引き出しに放り込んだ。「マルス、屋敷でパーティーを開く」「健吾様、これは何か強制的な政治活動なのですか?」マルスは自分の耳を疑った。健吾は「もてなし好き」という言葉とは全く無縁の人間だったからだ。健吾とは一緒に育ってきたが、マルスが何かの集まりに熱心なところは一度も見たこと

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第97話

    綾は、自分たちの会話に聞き耳を立てている海斗をちらりと見て、「どうかしてる」と悪態をつき、足早にリビングを後にした。凪は5年前に会った時よりも、さらにどうかしている。こんな女に毎日狙われているなんて、まるで時限爆弾を抱えているようだ。翌日、出勤した綾は設計図を手に研究所にこもり、護身用のアイテム作りに没頭した。作るの自体はそう難しくない。市販の強力なストロボと超音波を組み合わせ、GPS機能と防犯ブザーを取り付けるだけだ。危険な目に遭った時、逃げられる確率を上げてくれるはずだ。それから、数日後の深夜、湊が帰ってきた。その顔色の悪さを見て、綾は思わず息を呑んだ。あれだけの人数を連れて行ったのだから、普通はここまで疲れるはずがないのに。「湊、大丈夫?」湊は眉間を揉みながら、「なんでもない。ちょっと疲れただけだ」と答えた。海斗が湊の手を引っ張った。「中野おじさん、一緒に寝ようよ」湊は海斗の頬に触れた。「いい子だから、先に寝てなさい。今夜は2階のゲストルームに泊まるから。明日の朝、お土産をあげるよ」海斗は唇をとがらせた。「でも、一緒に寝たい」「海斗が寝付くまでそばにいてやるから。な?」湊は海斗を抱き上げ、部屋まで連れて行った。綾はベッドに横になりながら、心配でたまらなかった。湊のことはもう気にしないと自分に言い聞かせても、どうしても彼のことが気になってしまう。翌朝早く、目を覚ました綾は、2階のゲストルームからネグリジェを着た凪が出てくるのを目にした。なるほど。湊は一人で抱え込んでいたのではなく、打ち明ける相手がちゃんといたということか。わざわざゲストルームで寝たのも、海斗に気付かれないようにするためだったんだ。綾は吹っ切れたように笑った。気分は晴れやかではなかったけれど、そこまで重くもなく、ただ、なんの感情も湧かなかった。人生とは、とかくおかしな方向へ転がっていくものだ。もう、そんなことには驚かなくなった。凪は肩ひもを直し、綾とすれ違いざまに、ふんと鼻を鳴らした。昼近くになって、綾が書斎で文献を調べていると、湊が小包を持って入ってきた。「年明けの手土産だ」「ありがとう」綾はそれを受け取った。中身は、甘ったるい香りの香水だった。綾は普段ほとんど香水をつけないし、たまにつけると

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第96話

    翌日の仕事終わりまで、綾が湊から返信をもらうことはなかった。綾は颯太と一緒に夕食を済ませ、家に帰ると、リビングで凪親子が湊とテレビ電話をしているのを見かけた。「中野おじさん、おもちゃ買って」「いいとも。ママにはどんなプレゼントがほしいか、聞いてみて」湊の声ははっきりとしていたが、その口調にはどことなく疲れが滲んでいた。凪はソファーの上で小さくなり、初恋の少女みたいに、恥ずかしそうにスマホの画面を見ていた。「あなたが早く帰ってきてくれるだけでいいの。わざわざ私たちにプレゼントなんて、買ってこなくていいから」綾は靴を履き替えると、エレベーターの方へ向かった。湊の声を聞くかぎり、体調は大丈夫そうだ。「綾、湊からテレビ電話よ。あなたも話す?」凪はスマホの向きを変えて、画面を綾に向けた。その時、画面の向こうから別の声が聞こえてきた。湊の姿が画面から見えなくなり、「まだ用事があるから、もう切るな」という声がした。「バイバイ」電話を切った凪は、得意げな笑みを浮かべた。「湊はあなたに話すことは何もないみたいね。でも、私たちは毎日テレビ電話してるから、明日また挨拶させてあげるわ」綾は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。「本当に自分にそれだけの価値があるっていうなら、湊に私と離婚させてみなさいよ。私のために川に飛び込ませるんじゃなくてね。そういえば、あの拉致事件、あなたが仕組んだんでしょ?目的は分からないけど、結果的にあなたは負けた。それは明らかよ」拉致事件の後、黒幕が誰なのか、綾にはずっと分からなかった。湊に聞いてみても、彼は調べがつかなかったと言った。たぶん、仕事で恨みを買った相手だろうと。そして、このことはもう忘れるように言われた。でも、考えれば考えるほど腑に落ちない。もし仕事上のライバルなら、どうして湊が自分のために川に飛び込むと確信できたんだろう?そもそも、自分の正体を知る部外者は少ない。それに、わざわざ調べれば、自分と湊の関係が、決して仲の良い夫婦とは言えないことも分かったはずだ。もし湊が自分を大切に思っていなかったら?そうなると、黒幕は割に合わないことのために大きなリスクを冒したことになるんじゃないだろうか?足の不自由な湊を狙うなら、もっと簡単で手っ取り早い方法がいくらでもあるはずだ

  • 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった   第95話

    今夜は海も穏やかで、しとしとと降る小雨が地面を濡らすだけだった。しばらく沈黙が続いた後、健吾が低い声で言った。「夜も更けた。早くお休み」「うん」綾は階段を上り始めた。でも、頭の中では悪魔がささやき続けていた。振り返って、健吾の元へ戻りなさい、と。健吾がほんの一言呼び止めてくれれば、自分は喜んで堕ちていくのに。幸いなことに……彼は何も言ってこなかった。綾はベッドに倒れ込むと、顔を布団にうずめた。ずっと止めていた息を、はあっと大きく吐き出す。健吾はその場に立ち尽くし、階段を上っていくそのしなやかな後ろ姿を、食い入るように見つめていた。綾がもし振り返っていたなら、燃えるように激しい自分の視線に気づいただろう。ありがたいことに……彼女は振り返らなかった。健吾はソファにどさりと身を沈め、重い体を背もたれに預けた。こわばっていた体から、ようやく力が抜けていく。深夜、風雨は激しくなり、荒波が唸りをあげていた。その音は、一晩中二人を眠らせなかった。――翌朝、綾が階下に下りていくと、健吾が電話をしていた。「ビアンカ、もうすぐ戻るから。いい子にしててくれないか?捨てるわけないだろう。いい子で、家で待っててくれ。プレゼントもちゃんと買ったから。お前が欲しがっていたもの、全部ね」その甘やかすような口調は、崖に吹きつける冷たい風のように綾の心を凍らせ、彼女を現実に引き戻した。綾は一瞬動きを止めると、黙って踵を返し、荷物をまとめに2階へ上がった。ビアンカのおかげで、今日帰れることになった。しばらくして、健吾が部屋に入ってきた。「車で待っていてくれ。スーツケースはマルスに運ばせるから」「ありがとう」綾はマルスが二往復しなくていいように、小さい方のスーツケースを自分で持って外へ出た。健吾が追いついてきて、綾の手からスーツケースをひょいと取り上げた。「これくらい、自分で持てる」「そうだろうな。介護の仕事は力仕事だろうから」もう、なんなのよ……深夜、飛行機は東都の空港に着陸した。マルスが到着口に車を寄せると、健吾が後部座席のドアを開けた。「乗りなよ」「ありがとう。でも、迎えを頼んであるから」前回のタクシーでの拉致事件以来、綾は気軽に車に乗ることができなくなっていた。剛に迎

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status