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第4話

作者: 青ノ序
湊と凪親子は外で夕食を済ませてから帰ってきた。綾は一人で食事をするのが好きではないので、幸子に付き合ってもらった。

湊は綾の手に巻かれたガーゼに気づいた。「その手、どうしたんだ?」

「午前中に海斗くんに噛まれたの」

綾は隠す必要はないと思った。子供のしつけをするのは、実の父親である湊の責任だ。

「湊、海斗は普段はこんな子じゃないの」

凪はそう言って海斗の背中を押した。「ほら、謝りなさい」

海斗は凪の足にしがみついて離さず、わめくように言った。「中野おばさんが僕の水鉄砲を捨てたんだ!それに、叩いたんだもん。怖かったから噛み付いただけだ!」

「黙りなさい!ここは中野おばさんのお家なの。言うことを聞かないと、追い出されるわよ!」

なんとも含みのある言い方だ。5年ぶりに会ったけど、凪は少しも変わっていない。

綾は心の中で呆れてため息をついた。

「まだ子供なんだ。そんなに怖がらせるな」

湊は今度は綾の方を見て、懇願するような目を向けた。

「綾、海斗は俺の子だ。わんぱくなのは俺に似たんだよ。もう少しこの子に優しくしてやってくれないか」

凪もそれに合わせた。「綾、海斗の代わりに謝るわ。ごめんなさい」

誰が見ても、彼らが親子3人のように見えるだろう、と綾は思った。

親が二人ともしつけをしないのなら、こっちが口出ししても無駄だろう。

でも、この手の噛み傷を、このまま許すわけにはいかない。

「大丈夫よ。私の夫が、ちゃんと埋め合わせをしてくれるから」

綾は手のガーゼを外し、湊の前にその手を突き出した。

「ほら、見て」

湊は眉をひそめ、顔を曇らせた。

4、5歳の子供の力なんてたいしたことないから、噛まれたくらいでどうってことないと思っていた。

しかし、綾の手は皮膚が裂けて肉が見えていた。白い肌についた二列の深い歯型は痛々しく、見ているだけで辛かった。

「どんな埋め合わせが欲しい?何でも言え」

「家が一軒欲しいわ」

綾が自ら湊に何かをねだったのは、これが初めてだった。彼女には自分名義の家がなかったのだ。

両親が遺してくれた家は、子供の頃に親戚に騙されて売られてしまった。お金も綾の手には一円も入らなかった。

「わかった。好きなのを選べ」

湊はためらうことなく、即座に承諾した。

綾は嫌な思いをしたのだ。家の一軒でもプレゼントして機嫌を取るのは当然だと思ったのだろう。

凪の目に一瞬、怒りの色がよぎったが、顔には笑みを浮かべたままだ。

「湊は綾に本当に優しいのね」

綾は軽く笑った。「だっておばあさんに育てられた仲だし、結婚してもう5年になるもの。世界で一番親しい存在だわ」

そう口にしながらも、綾自身、全く自信がなかった。

湊の両親と綾の両親は、同じ飛行機事故で亡くなった。

その時、綾は8歳で、湊は11歳だった。

子供の頃は境遇が似ていることもあって、湊は綾のことをとても気にかけてくれた。

血の繋がらない兄として、湊は頼りになる存在だった。

でも夫としては、特に凪親子が現れてから、湊は頼りない人になってしまった。

綾があんなことを言ったのは、ただ一時の気まぐれで、凪を挑発したかっただけだ。

凪は笑顔を保つのがやっとで、恨めしそうに湊を見た。

湊はそれに気づかず、話題を変えた。

「綾、明日の朝から会社に行け。もう手配はしてある」

「もう仕事は見つけたわ」

湊は軽く笑った。「俺の前で強がるな。仕事が見つからなくても恥ずかしいことじゃない。どうせ俺が面倒を見るんだ。嫌になったらいつでも辞めて、家でのんびりすればいい」

綾は心に冷たいものが走るのを感じ、冷たく言い放った。「明日からもう働き始めるの」

湊が、自分は仕事を見つけられないと決めつけているなんて、馬鹿げている。

この5年間、湊の世話に専念していなければ、今頃は立派なキャリアを築いていたはずなのに。

凪が尋ねた。「どんな会社なの?もしかしたら湊の知り合いがいるかもしれないわよ」

綾は少し躊躇した。実のところ、綾自身もこの話が本当なのか半信半疑だったのだ。

念花は誰もが憧れる世界的な大企業だ。面接官にははっきりと断られたのに、後から採用通知のメールが届いた。

送信元を調べたら、間違いなく念花の人事部だった。

あんな大企業が間違いを犯すとは考えにくいけど、それにしても奇妙な話だ。

本当に採用されたのかどうかは、明日行ってみなければわからない。

今ここで会社名を言って、もし採用通知が間違いだったら、恥ずかしくてたまらない。湊と凪の前で恥をかきたくはなかった。

綾がためらっているのを見て、湊は彼女が嘘をついているのだとますます確信した。

なにしろ、こっちはすでに秘書に命じて各社に根回しをさせていたのだ。自分が口出しできないような大企業には、綾は書類選考すら通らないはずだった。

「会社名もわからないなんて、騙されてるんじゃないのか。明日、井上に送らせる。

もしその会社がダメだったら、いつでも俺の会社に来ればいい」

「ご親切にどうも。でも、必要ないわ」

綾は立ち上がると、そのまま息の詰まるようなリビングを後にした。

口ではいつも自分の為だと言いながら、湊の言動はいつも自分を傷つける。

5年前、心から愛していた初恋の人を捨て、湊を選んだ。もしかしたら、これがその罰なのかもしれない。

寝る前、湊が部屋のドアを開けた。「海斗が、一緒に寝てほしいって駄々をこねててな」

綾は気のないふうに「うん」とだけ返事をし、内心ほっと息をついた。

湊が凪の部屋で夜を過ごした後で、自分の隣で寝るなんて考えただけでも気持ちが悪かった。

今、綾の頭の中は念花での仕事のことでいっぱいだった。

VIP用エレベーターで見かけたあの後ろ姿も、ずっと脳裏に焼き付いて離れない。

きっと「あの人」のことを恋しく思うあまり、幻覚まで見てしまったのだろう。

別れた後、あの人はI国に帰ったはずだ。東都にいるわけがない。

「じゃあな、おやすみ」

湊が綾の頭を撫でると、彼女は電気に触れたかのように布団の中に身を縮めた。

湊は一瞬固まり、その眼差しはみるみる光を失った。そして、暗い表情で部屋を出ていった。

――

翌日、綾は湊と顔を合わせないように、朝早く家を出た。

念花グループのビルの下で朝食をとり、さらに1時間以上待っていると、会社の社員たちが続々と出勤してきた。

綾は人事部を訪ね、事情を説明した。

「昨日、面接官の方にははっきりとお断りされたのですが、メールを送り間違えてはいませんか?」

対応してくれた丸顔の女性は笑顔で言った。「中野さん、こちらがそのような初歩的なミスをすることはありませんよ。

面接官は確かに不採用としましたが、会長が中野さんの履歴書をご覧になって、直々に採用を決定されたのです」

綾は内心驚いた。有能な人材が数多くいる念花の会長が、一目見ただけで採用を決めるほど、自分の履歴書に何か特別な点があるとは思えなかった。

人事部も詳しい理由は知らないようだったが、間違いではないとだけは断言した。

綾は社員証を受け取ると、職場のある96階へ向かった。

広々としたオープンオフィスだった。

一人の男性が綾に歩み寄ってきた。「こんにちは。太田裕也(おおた ゆうや)です」

裕也の目に、はっとするような色が浮かんだ。社長が一目で気に入るだけのことはある、さすがだ。

綾は堂々とした態度で握手を交わした。「太田さん、初めまして。中野綾と申します。これからよろしくお願いいたします」

オフィスには他に男性二人と女性一人がいて、皆、社長の秘書だった。彼らは次々と綾に挨拶をした。

綾は一人一人に挨拶を返した後、声をひそめて尋ねた。「太田さん、私はエンジニアとして面接を受けました。専門はスマートパワードスーツなのですが、何か手違いがあったのでしょうか?」

この5年、湊がいつか自由に動けるようになる日のために、綾はずっとこの研究を続けてきたのだ。

「会長兼社長があなたの履歴書を見て、秘書の仕事のほうが向いていると判断されました。

あそこが社長室です。あなたのデスクの呼び出し音が鳴ったら、社長がお呼びだということです」

裕也は、オープンな秘書室の突き当たりを指差した。その先には5、6段の横に長い木の階段があり、階段の上には上品で趣のある両開きの木の扉があった。

「わかりました。ありがとうございます、太田さん」

ここまで来たのだから、やるしかない。この会社に入れただけでも、とんでもない幸運なのだから。

綾は、まずは念花でしっかり足場を固め、後で機会を見つけて部署異動を申請しようと決めた。

綾はウェブで念花の会長、杉本樹(すぎもと いつき)の情報を検索した。樹はあまり表に出ない人物らしく、見つかったのは大学で講演している写真一枚だけだった。

綾はその写真にどこか見覚えがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。

きっと気のせいだろう。結婚してからはほとんど誰とも付き合いがなく、親友の明里と会うくらいだ。湊が自分を接待に連れて行くことも一切なかった。樹のような大物と会う機会など、あるはずがなかった。

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