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第5話

Penulis: まめだれ
どうやって病院を出たのか、自分でも覚えていない。

氷点下10度を下回る寒さの中、身につけていたのは薄手のカシミヤセーターだけだった。

タクシーを呼ぼうとした。

けれど、寒風の中で震える指を動かし、配車アプリを開くと、画面には無機質な文字が表示された。

――決済に失敗しました。

私は一瞬、動きを止めた。

それから、鈍い手つきでネットバンキングの画面へ切り替える。

登録していた4枚のカードは、すべて利用できない状態になっていた。

この街で、そんなことまでできる人間は、ひとりしかいない。

7年間愛してきた夫。

律人だった。

私はスマホをしまった。

泣かなかった。

歯を食いしばり、吹き荒れる雪の中を、一歩ずつ歩いて家へ戻った。

玄関のドアを開けた瞬間、慣れ親しんだ香りが押し寄せてきた。

かつては、あれほど恋しく思っていた匂い。

けれど今は、胃の奥が激しく波打ち、今にも吐きそうになった。

中へ入って、ようやく気づいた。

律人が、リビングのソファの中央に座っていた。

その向かいには、同じようにスーツを着た見知らぬ弁護士が2人。

ローテーブルの中央には、録音中のレコーダーまで置かれていた。

ドアの音に気づき、律人が顔を上げる。

眉は深く寄せられていた。

けれど、その目には心配の色など、かけらもなかった。

「詩織。そんな格好で戻ってきて、惨めな姿を見せれば手続きを止められると思っているなら、無駄だ」

律人は長い指で、ローテーブルに並べられた書類を軽く叩いた。

「美羽の代理人として、君の個人口座に対する仮差押えを裁判所へ申し立てた。すでに命令も出ている」

私は玄関の靴箱へ手をついた。

爪を木目へ強く立て、その鋭い痛みで、どうにか倒れずに立っていた。

「どうして?」

「君にはネット上での中傷に関与した疑いがあるだけでなく、重要な証拠を持ち出した疑いもあるからだ」

律人は立ち上がり、私を見下ろした。

「局長から聞いた。昨夜の電話相談の音声データを、今朝、君がコピーして持ち出したそうだな。詩織、あの音源には、君が悪意をもって誘導したあと、美羽が笑った声まで入っている。切り取られた状態で流出すれば、ネットの連中はあの子を死ぬまで追い詰める」

律人は私に手を差し出した。

その声に、夫婦としての情はひとかけらも残っていなかった。

「渡せ。名誉毀損訴訟が終わるまでは、君の全資産を凍結する。裏で人を雇い、美羽を再び攻撃するのを防ぐためだ」

なんて哀れなのだろう。

これが私の夫だった。

かつて、愛こそが人生で最も高い原則だと教えてくれた男。

その男が今、別の女を守るために、私の仕事を自ら壊し、逃げ道まで塞いでいる。

「律人、私は今、手術を終えたばかりなの……」

私は息を切らしながら言った。

「お金もないし、誰にも連絡できない。カードまで止めて、私を外で死なせるつもりだったの?」

「また嘘か」

律人は冷たく笑った。

「病院の記録は俺が確認した。残っていたのは、ただの外来受診だけだ。点滴まで自分で抜いて、こんな芝居をするとはな……詩織、訴えを取り下げさせるためなら、そこまで自分を貶めるのか」

以前にも、同じことを言われた。

見え透いた仮病で、自分を引き止めようとするな、と。

律人の目に、失望の色が浮かんだ。

「昔の君は、もっと自分をしっかり持っていたし、こんなみっともない真似をする人じゃなかった。嫉妬のあまり、ここまで見境がなくなった君を見ると、本当にうんざりする」

私は靴箱から手を離した。

震える手でコートのポケットを探り、ラジオ局のスタジオへ入るためのカードキーを取り出した。

この家に残していた、最後のものだった。

「あなたが探している証拠なら、局にあるわ。私のデスクの、上から2番目の引き出し。暗証番号は、あなたの誕生日」

小さな声でそう告げ、指を開いた。

そのとき、律人のスマホが鳴った。

彼は画面を一瞥し、電話に出るなり、宥めるような声になった。

「美羽、怖がらなくていい。すぐ病院へ戻る」

電話を切ると、ソファの背に掛けていたコートを素早く手に取り、私にはもう一度も目を向けなかった。

玄関まで来たところで、律人は足を止めた。

「今夜は病院に泊まって、美羽に付き添う。詩織、これ以上、俺の我慢を試すような真似はするな。美羽がまた少しでも傷つけば、次はこの程度では済まない」

律人は、証拠を何より信じる人だった。

それなのに、私のことだけは信じなかった。

彼の愛情も信頼も、すべてあの美羽という女性へ、惜しみなく注がれていたからだ。

私は突然、笑った。

そこには、温度など少しもなかった。

取り乱しもしなかった。

怒って責めることもしなかった。

もう、何も説明したくなかった。

出ていく律人の背中を見送ったあと、私は最低限の荷物だけをまとめた。

署名を終えた書類を、彼の書斎の机へ置く。

そして、すでに買ってあった航空券を手に取り、迷うことなく、もう一度玄関のドアを開けた。

振り返らなかった。

降りしきる雪の中へ足を踏み出した。

律人のいない明日へ向かって。

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