تسجيل الدخول黒瀬玲司(くろせ れいじ)は、湊市で最も若い心臓血管外科部長だ。 誰もが言う――玲司は誰よりも腕のいい医者で、そして誰よりも冷たい男だと。 けれど私は知っている。彼だって、決して優しさがないわけではないことを。 ただ、その優しさが私に向けられたことは、一度もない。 婚約した翌日、父が突然脳梗塞で倒れ、救急救命室に運び込まれた。 仕事に追われて手が離せないところに、病院から電話がかかってきた。看護師に、家族のサインが必要だと言われた。 すぐに玲司へ電話をかけた。電話はしばらく鳴り続けてから、ようやくつながった。 向こうから、か細い女性の泣き声が聞こえてきた。彼の元恋人・柊木汐音(ひいらぎ しおん)だった。 玲司は声を潜めて言う。 「汐音が発作を起こしてる。俺がついてるから、病院には先に話をつけておけ」 スマホを握りしめた。指先が白くなるほど、力が入っている。 「先生に、家族のサインが必要だって言われた。今、仕事で本当に手が離せないの……私には玲司しかいない」 彼はほんの数秒黙り込んだあと、相変わらず落ち着いた声で言う。 「そんなに大げさに言うなよ。病院には病院のやり方があるし、まさか本当に見捨てたりはしない」 電話の向こうで、汐音がすすり泣いた。 「玲司くん、わたしのために日和(ひより)さんのことを後回しにしないで。もう行ってあげて、わたし一人でも大丈夫だから」 玲司はすぐに言う。「無理するな。俺は行かない」 電話が切れた途端、病院からまた催促の電話がかかってきた。 薬指の婚約指輪に目を落とした。あれは玲司が選んだものだ。 港は霧が深いからな。指輪が少しでも光っていれば、俺はすぐにお前を見つけられる――彼はそう言っていた。 でもあの日、彼の助けを待つのはもうやめた。 自分で手を回して、どうにか間に合って病院に着いた。 その後、父は峠を越え、私は病室の前で一晩座り続けた。 夜が明けた頃、玲司からようやくメッセージが届いた。 【汐音は眠った。お父さんはどうだ?】 窓の外に停泊する渡し船を見つめた。霧が晴れた。 もう行かなければ。
عرض المزيد「毎晩、思い出すんだ。お父さんが倒れた後、日和が俺に電話をかけてきたこと。なのに俺は、大げさに言うなって返した」玲司は少し言葉を切った。「日和、よりを戻してくれと頼みに来たんじゃない」ようやく彼の方を見た。目のふちが赤くなっているのに、必死で平静を保とうとしている。「謝りに来たんだ。すまなかった」ずっと欲しかった言葉だった。けれど、今さら聞いても、何も変わらなかった。私は言った。「受け取っておく」玲司は、その言葉に刺されたような顔をした。カバンから小さな箱を取り出し、フェンスの縁に置いた。「指輪は作り直した。内側の刻印も消してある。いらなければ、捨ててくれていい」受け取らなかった。「玲司、もう物を贈るのはやめて」彼の指が、固まった。私は静かに言った。「今の玲司は、ただ昔を取り戻そうとしているだけ。でも、わたしはもう、そこにはいないの」風が庭を吹き抜けた。霧ノ湊には珍しく、陽が差していた。父が一周歩き終えて、高瀬先生に支えられながら腰を下ろした。玲司は私の視線を辿って、ふいに低い声で聞いた。「あの男と、一緒になるのか」高瀬先生のことだ。「それは、わたしが決めること」彼は頷いた。「そうだな。俺には、聞く資格もない」しばらく黙ってから、玲司は言った。「婚約のときに用意した新居は売った。金はお前の口座に振り込む。お父さんのリハビリ費用に使ってくれ」「いらない」「同情じゃない」彼は私を見た。「これは、俺が返さなきゃいけないものなんだ」私は首を振った。「あなたが返すべきのは、お金じゃない」彼の目の奥の光が、今度こそ消えた。そのとき、父がこちらに手を振った。「日和……こっちに来なさい」玲司の横を通り過ぎて、庭へ向かった。背後で、彼がふいに私を呼んだ。「日和」足が止まった。「この先、霧が深い日があっても、怖がらなくていい」振り返らなかった。「もう、怖くない」半年後、父は自分で杖をつきながら、庭まで日向ぼっこに出られるようになった。霧ノ湊の冬は、寒くない。リハビリ施設のそばに小さなうどん屋があって、店主は私たちと顔なじみだ。いつも、野菜をひとつかみ多めに入れてくれる。父は食べるのが遅い。れんげが器の縁に当たって、小
「放っておけばいいよ」「日和、落ち着きすぎでしょ」「じゃあ、どうすれば?」私はピルケースのふたを閉じた。「あの子が待ってるのは、わたしの返事じゃない。玲司が、なだめに駆けつけてくれること」美緒は鼻で笑った。「なら、残念でしたって話ね。あんたの元婚約者、昨日病院の会議で告発されたらしいよ」手が止まった。「告発って、何の?」「匿名のタレコミがあってね。汐音のために長年、ルール違反までして個室や専門医を回してたって。証拠の記録付き。病院が本格的に調査するらしいよ」私は何も言わなかった。あの記録は、湊市を離れる前に、私がまとめたものだった。復讐のためじゃない。ただ、あの人たちのために取り繕ってやる気が、ふいに消えただけだった。すぐに玲司から電話がかかってきた。この番号だけは、まだ拒否していなかった。出るなり、彼は言った。「お前がやったんだろ」「そう」彼の息が、重く沈んだ。「これが昇進の審査に響くって、分かってるのか」「分かってる」「日和、前はこんなじゃなかっただろ」また、その言葉だ。コップをテーブルに置いた。「玲司、わたしも前は思ってた。あなたは仕事に私情だけは持ち込まない人だって」電話の向こうは、長いこと黙り込んだ。「あれで、一般の患者に影響が出たことはない」「言い切れる?」パソコンを開き、シフト表のスクショを一枚、彼に送った。「3月12日。汐音さんの心理評価に付き添うために、父を診るはずだったリハビリの専門医を、玲司は急に呼び戻した。あの日、父は4時間も待たされた」玲司は何も言わなかった。私は続けた。「5月27日。汐音さんが救急外来のベッドを使ってたから、看護師に指示して、一般の患者を廊下に移させた。その人、後から苦情を入れたのに、握りつぶされた」「玲司、冷静なんじゃない。みんなが譲ってくれるのに、慣れてるだけ」電話の向こうから、かすかな息づかいが聞こえた。「全部、知ってたのか」「言わなかっただけ」彼を愛していたから、結婚すればそのうち何が一番大事なのか分かってくれると信じていた自分が、今思えば笑えるくらい甘かった。その日の夜、病院は内部調査の通知を出した。玲司は管理職務の一部を外され、調査に協力することになった。すぐに、汐音か
「招待状を選んだのは、おばさんと汐音さんでしょう。説明なら、彼女に頼んでください」雅子は、一瞬言葉に詰まった。「嫌味はやめなさい。玲司はここ数日、あなたのために手術の予定まで変えて、げっそりやつれてるのよ。いい加減、帰ってきなさい」私の声は、自分でも驚くほど抑揚がなかった。「やつれてるなら、汐音さんに慰めてもらえばいいでしょう」「日和!」雅子は怒りを押し殺していた。「お父さんがあんな状態で、これから何かとお金もかかるでしょう。玲司と本当に縁を切るつもりなら、誰が頼りになると思ってるの」私は手を止めた。彼女の目には、私が玲司と結婚するのは、医療費を払ってくれる相手を探すためだと映っていたらしい。「ご心配には及びません」「強がるんじゃないの。支えきれなくなったら、どうせ頭を下げに来るくせに」電話を切った。すぐに弁護士から返信が届いた。【桜庭様。婚約解消に法的な問題はありません。婚約披露宴の費用は、割合に応じて精算できます。それと、お父様が以前黒瀬グループと交わした療養施設の投資契約は、このまま継続なさいますか】その最後の一文を見つめた。あれは玲司が婚約前に持ちかけた話だった。黒瀬グループの名義で父の療養施設に出資して、父が定年前の最後のプロジェクトをやり遂げられるように、と。父はこのことを、ずっと喜んでいた。私は返信した。【終了してください】夕方、玲司がまた現れた。今度は病棟には入らず、リハビリ施設の入り口に立っているだけだった。手には書類を持っている。「療養施設の投資契約、もうサインしておいた」階段を下りた。「もういらない」「お父さんが、ずっとやりたがってたプロジェクトだろう」「出資者なら、別に探す」玲司は私をじっと見た。「高瀬先生か?」答えなかった。彼の口調が、とうとう抑えを失った。「日和、あの男と知り合って、まだどれくらいだよ」私は彼を見た。「少なくとも、助けを求めた時、あの人はちゃんと来てくれた」玲司の顔から、一瞬で血の気が引いた。書類をつかむ指に、力がこもった。「俺への当てつけか?」「違う」カバンから婚約解消の声明文を取り出し、彼に差し出した。「ただの、お知らせ」彼は受け取らなかった。「サインはしない」「なら、こっちで
「お見舞い以外なら、お断り」玲司は聞こえなかったふりをして、じっと私の顔を見つめた。「痩せたな」昔なら、その一言だけで嬉しくなっていたのかもしれない。けれど今は、余計なお世話でしかない。「黒瀬部長が、何のご用」その呼び方に、彼の眉間がこわばった。「その呼び方はやめてくれ」「じゃあ何て呼べばいいの?元婚約者?」彼の喉仏が動いた。「結婚式は延期させただけだ、中止じゃない。少し落ち着いたら、また話そう」私は彼の横をすり抜けて、病室へ向かった。彼が手を伸ばして私を止めた。無理に掴んだりはしなかった。ただ、行く手を遮るように、一歩だけ前に踏み出した。「日和、あの日俺の対応が悪かったのは認める。だが、それだけで俺を見限るなよ」私は顔を上げて彼を見た。「救急救命室の外で、玲司を待ってた時、わたしのことを気にかけてくれる人は、誰もいなかった」玲司の顔が青ざめた。「あんなに深刻だとは、思わなかったんだ」「言ったのに」「あの時のお前は取り乱しすぎてて、俺はてっきり……」言いかけて、口をつぐんだ。玲司も、まさにそこに気づいたのだろう。私が取り乱していたと、彼は言った。その時点で、助けを求める声はもう、まともに届いていなかったのだ。玲司の横を、そのまま通り過ぎた。彼が不意に、指輪を私の目の前に差し出した。「持ってきた」指輪は彼の手のひらに乗っていて、ダイヤモンドが廊下の灯りの下で光っていた。「あの日、手がむくんでるって言ってたから、はめなかった。今、はめさせてくれないか?」私はその指輪を見つめた。港は霧が深いから、指輪が少しでも光っていれば、ひと目で私を見つけられる。でも玲司は、一度も私を見つけたことがない。「玲司、もう似合わない」彼が指を強く握りしめた。「汐音のせいか?もう関わらないようにする」言い終わるより早く、彼のスマホが鳴った。画面に、ある名前が浮かび上がった。汐音。玲司は反射的に、それを切った。次の瞬間、また彼女からかかってきた。彼は顔をしかめ、電源を切った。私は小さく笑った。「ほら、出なくても、結局は同じでしょう」玲司の声が、かすれた。「何とかする」「玲司が考えることでしょ」病室の入り口から、高瀬先生が出てきた。玲司をちらりと見てか