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初雪の夜、君を待つ灯は永遠に消えた

初雪の夜、君を待つ灯は永遠に消えた

Oleh:  まめだれTamat
Bahasa: Japanese
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私は、深夜の恋愛相談番組で10年間、パーソナリティを務めてきた。 今夜は番組の第521回。東都に初雪が降った日であり、法学教授の久世律人(くぜ りつと)と結婚して7年目の記念日でもあった。 5分間のCM中、私はコンソールの上に置いた妊娠検査の結果を見つめ、思わず口元をほころばせた。 用紙には、はっきりと記されていた。 ――妊娠8週。 律人への、結婚7周年の贈り物にするつもりだった。 いつも冷静で感情を表に出さない彼が、この知らせを聞いたらどんな顔をするだろう。 驚き、喜ぶ姿を思い浮かべながら、私は律人に電話をかけた。 1度目は、しばらく呼び出したあとに切られた。 2度目は、すぐに拒否された。 3度目には、電源が切られていた。 律人は、規律を何より重んじる法学者だった。 以前、どこにいても私からの電話なら、たとえ会議中でも中断して必ず出ると、真剣な顔で約束してくれたことがある。 けれど今夜、ようやく授かった、ずっと待ち望んでいた子どものことを、胸を弾ませながら自分の口で伝えようとしたそのとき、律人とは連絡がつかなくなった。

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Bab 1

第1話

私は、深夜の恋愛相談番組で10年間、パーソナリティを務めてきた。

今夜は番組の第521回。東都に初雪が降った日であり、法学教授の久世律人(くぜ りつと)と結婚して7年目の記念日でもあった。

5分間のCM中、私はコンソールの上に置いた妊娠検査の結果を見つめ、思わず口元をほころばせた。

用紙には、はっきりと記されていた。

――妊娠8週。

律人への、結婚7周年の贈り物にするつもりだった。

いつも冷静で感情を表に出さない彼が、この知らせを聞いたらどんな顔をするだろう。

驚き、喜ぶ姿を思い浮かべながら、私は律人に電話をかけた。

1度目は、しばらく呼び出したあとに切られた。

2度目は、すぐに拒否された。

3度目には、電源が切られていた。

律人は、規律を何より重んじる法学者だった。

以前、どこにいても私からの電話なら、たとえ会議中でも中断して必ず出ると、真剣な顔で約束してくれたことがある。

けれど今夜、ようやく授かった、ずっと待ち望んでいた子どものことを、胸を弾ませながら自分の口で伝えようとしたそのとき、律人とは連絡がつかなくなった。

「水瀬さん、電話がつながりました!」

ディレクターの小宮奈々(こみや なな)が、焦った様子で合図を送ってくる。

私は深く息を吸い、妊娠検査の結果を大切にバッグへしまうと、マイクのフェーダーを上げた。

電波の向こうから、若い女性の声が聞こえてきた。

その声には、隠しきれない甘さと得意げな響きがにじんでいた。

「水瀬さん、こんばんは。既婚者の大学教授を好きになったんです。今日は、その人の結婚7周年の記念日なんですけど、私がフルーツを切っていて指を切ったってメッセージを送ったら、奥さんを置いて、吹雪の中すぐに家まで来てくれたんです」

なぜか、律人の顔が脳裏に浮かんだ。

胸が大きく跳ねる。

「そんな小さな怪我で相手の気持ちを試し、他人の家庭を壊そうとするのはよくありません。たとえ勝ったつもりでも、最後に追い詰められるのは自分ですよ」

「でも、私の圧勝なんです。あの人、堅物で有名なのに、私にだけは……特別なんです」

私の夫も、そういう人だった。

周囲からは冷淡で禁欲的に見られているのに、私にだけは惜しみなく気遣いと愛情を向けてくれる。

女性が弾むように笑った。

「水瀬さん、知ってます?ついさっき、奥さんから3回も電話がかかってきたんです。どうしたと思います?私の目の前で、迷いもせず全部切ったんですよ」

頭の中で何かが弾け、一瞬ですべてが真っ白になった。

3回の電話。

すべて切られた。

私が何かを言うより先に、通話は向こうから切れた。

震える手で顔を上げ、もう一度律人に電話をかけたが、やはり電源は切られたままだった。

そのとき、スマートフォンの画面が突然明るくなった。

知らない番号から、10秒ほどの動画が送られてきたのだ。

映っていたのは、会員制レストランだった。

律人が、静かに目を伏せながら、箸で魚の骨を丁寧に取り除いていた。

そして、骨をきれいに取り除いた魚の身を、隣に座る若い女性の皿へ載せた。

女性が羽織っているのは、今朝、律人が着て出かけた黒いコートだった。

動画の下には、ひと言添えられていた。

【水瀬さん、これで分かったでしょう?あの人はもう、とっくにあなたのことなんて愛していないんです】

律人と出会って7年になる。

食事にさえ効率を求める法学者で、以前、眉をひそめながらこう言ったことがあった。

「魚の骨を取る時間が無駄だ。そこまでして食べるくらいなら、最初から食べないほうがいい」

その彼が今、骨をひとつ残らず取り除いた魚を、別の女性に食べさせている。

副調整室には暖房がよく効いていた。

それなのに、私は凍えるような寒さを感じていた。

バッグの中にある妊娠検査の結果を強く握りしめる。

紙はくしゃくしゃになり、その端が掌に食い込みそうだった。

電話をかけ直すこともしなかった。取り乱して問い詰めることもしなかった。

私はビルのガラス扉を押し開け、東都の空を舞う初雪の中へ足を踏み出した。

冷たい雪が頬に触れた瞬間、意識は抗いようもなく7年前へ引き戻された。

7年前の初雪の日。

私たちは出会い、恋に落ちた。

当時の私は、まだ仕事を始めたばかりの新人パーソナリティだった。

一方の律人は、すでに東都法科大学で最年少の准教授となっており、法律解説の特別ゲストとしてラジオ局に招かれていた。

その日も、雪が激しく降っていた。

私は大切な原稿を読み間違え、上司からひどく叱責されたあと、スタジオの外にある階段へ隠れ、ひとりで涙を拭っていた。

そんな私に、ティッシュを差し出してくれたのが律人だった。

それから彼は、頻繁に私の前へ現れるようになった。

私が高熱を出したときには、狭い賃貸の部屋で一晩中付き添い、手には分厚い「六法全書」を持っていた。

悪意のある書き込みで炎上したときには、専門知識を駆使し、筋道を立てて内容証明を送り、私を守ってくれた。

プロポーズの日に、薔薇もキャンドルもなかった。

彼が差し出したのは、自ら作成した婚前契約書と、自分が所有するすべての資産を示す書類だった。

律人は私の目をまっすぐに見つめ、一語ずつ噛みしめるように告げた。

「詩織。法律は、道徳を守るための最低限の基準にすぎない。だが、君への愛と誠実さは、俺の人生で何より重い原則にする。生涯、君を支える義務を、俺に負わせてくれないか」

私は、その言葉を信じた。

規律と自制を何より重んじるこの人だけは、誰にも壊せない愛を私に与えてくれるのだと思っていた。

けれど彼の言う最高の原則など、いつでも破り捨てられる紙切れにすぎなかった。

午後11時半。

玄関の鍵が、小さな音を立てた。

律人が帰ってきた。

コートを脱いで玄関に掛けたとき、私はすぐに気づいた。

いつもの針葉樹を思わせる香りに混じって、若い女性が好みそうな、果実系の香水の匂いが残っていた。

私がもう眠っていると思ったのだろう。

律人はリビングの明かりもつけず、そのまま書斎へ入っていった。

扉さえ、きちんと閉めなかった。

ほどなくして、書斎から声を抑えた話し声が聞こえてきた。

幼なじみの桐谷航平(きりたに こうへい)と電話をしているらしい。

「正気かよ、律人。今日、あの子を会員制レストランに連れていったんだろ。知り合いに見られて、詩織さんの耳に入ったらどうするんだ」

受話口から、航平の声が漏れてくる。

「普段はあれだけ身持ちの堅いお前が、どうして急に女子学生ひとりにそこまで入れ込んでるんだ。面倒を見るにしたって、限度があるだろ」

身体が強張った。

私は手の甲を噛み締め、暗闇の中で息を殺した。

書斎からしばらく返事はなかった。

やがて、ライターをつける音がした。

律人の声は、冷たく感情を欠いていた。

「ただの学生じゃない。相馬美羽(そうま みう)だ」

航平が黙り込み、息を呑んだ。

「美羽?待てよ。まさか、10年前からお前がずっと援助してきた、田舎出身の孤児って、あの子なのか?」

「そうだ」

律人の声が低くなる。

「満足に食べることもできなかった、痩せ細った子どもだった。それが死に物狂いで勉強して、俺のいる難関大学まで来た。航平、お前には分からない。あの子が俺を見る目が、どんなものなのか。熱を帯びているのに、どこか怯えている」

暗闇の中、爪が掌へ深く食い込んだ。

皮膚が破れ、血がにじんでも、痛みは感じなかった。

「お前……危ない橋を渡ってるぞ」

航平の声に焦りが混じる。

「かわいそうだと思うなら、学費を援助するだけで十分だろ。そんな身勝手な庇護欲のために、詩織さんと離婚して、あの子と結婚するつもりなのか?」

「離婚?俺が詩織と離婚するはずがない」

律人は、迷うことなく答えた。

「詩織は、俺が考え抜いた末に選んだ妻だ。感情に流されず、自立していて、家のことも完璧にこなす。俺の隣に立つ妻として、これ以上の女性はいない。結婚生活を変えるつもりはない」

「だったら、美羽はどうするんだ」

律人が、指先で机を軽く叩く音がした。

「詩織と美羽は違う。

詩織は強いし、自分の足で立っていける。一本の木のような人だ。俺がいなくても、ラジオ局で自分の仕事を続けて、ひとりで生きていける女だ。

でも、美羽は違う。あの子はあまりにも脆い。俺以外に頼れる人間もいない。俺が手を放したら、この社会で簡単に潰されてしまう」

律人の声が徐々に静かになっていく。

「詩織なら、どんなことがあっても自分で乗り越えていける。でも、美羽は守ってやらなければ、すぐに壊れてしまう。俺はあの子に、必要な支えを与えているだけだ。これから先も、久世の妻は詩織だけだ」

律人が仕事関係の集まりに私を連れていかないのは、もともと人付き合いを好まず、静かに過ごしたい性格だからだと思っていた。

違った。

彼は、自分らしくない特別扱いも、人目を引くような行動も、すべて別の女性を守るために使っていたのだ。

涙が音もなくあふれ、顎を伝ってコートへ落ちた。

私はまだ平らな腹部にそっと触れた。

胃の中が激しく揺れ、こみ上げた吐き気に何度もえずいた。

なんて惨めなのだろう。

私はゆっくりとソファから立ち上がり、目元の涙を拭った。

ポケットに入っている妊娠検査の結果は、今夜、結婚7周年の贈り物として律人に渡すはずだった。

その夜、私は暗闇の中で夜が明けるまで座り続けた。

問い詰めることもなかった。泣き喚くこともなかった。

律人が言ったとおり、私は強かった。

壊れるときでさえ、誰にも気づかれないほど静かだった。

朝になり、私はパソコンを開いた。

最初にしたのは、「離婚協議書」を作成することだった。

次に、海外にいる局長へメッセージを送った。

【以前お話しいただいた件ですが、決心がつきました。海外研修に行かせてください】

最後に、中絶手術の予約を入れた。

アプリを開き、妊婦健診の項目を飛ばして、産婦人科の予約画面へ進む。

画面が切り替わり、静脈麻酔による人工妊娠中絶を予約した。

画面に緑色で表示された「予約完了」の文字を見つめた瞬間。

こらえていた涙が、ようやくこぼれ落ちた。

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2026-08-08 15:36:36
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第1話
私は、深夜の恋愛相談番組で10年間、パーソナリティを務めてきた。今夜は番組の第521回。東都に初雪が降った日であり、法学教授の久世律人(くぜ りつと)と結婚して7年目の記念日でもあった。5分間のCM中、私はコンソールの上に置いた妊娠検査の結果を見つめ、思わず口元をほころばせた。用紙には、はっきりと記されていた。――妊娠8週。律人への、結婚7周年の贈り物にするつもりだった。いつも冷静で感情を表に出さない彼が、この知らせを聞いたらどんな顔をするだろう。驚き、喜ぶ姿を思い浮かべながら、私は律人に電話をかけた。1度目は、しばらく呼び出したあとに切られた。2度目は、すぐに拒否された。3度目には、電源が切られていた。律人は、規律を何より重んじる法学者だった。以前、どこにいても私からの電話なら、たとえ会議中でも中断して必ず出ると、真剣な顔で約束してくれたことがある。けれど今夜、ようやく授かった、ずっと待ち望んでいた子どものことを、胸を弾ませながら自分の口で伝えようとしたそのとき、律人とは連絡がつかなくなった。「水瀬さん、電話がつながりました!」ディレクターの小宮奈々(こみや なな)が、焦った様子で合図を送ってくる。私は深く息を吸い、妊娠検査の結果を大切にバッグへしまうと、マイクのフェーダーを上げた。電波の向こうから、若い女性の声が聞こえてきた。その声には、隠しきれない甘さと得意げな響きがにじんでいた。「水瀬さん、こんばんは。既婚者の大学教授を好きになったんです。今日は、その人の結婚7周年の記念日なんですけど、私がフルーツを切っていて指を切ったってメッセージを送ったら、奥さんを置いて、吹雪の中すぐに家まで来てくれたんです」なぜか、律人の顔が脳裏に浮かんだ。胸が大きく跳ねる。「そんな小さな怪我で相手の気持ちを試し、他人の家庭を壊そうとするのはよくありません。たとえ勝ったつもりでも、最後に追い詰められるのは自分ですよ」「でも、私の圧勝なんです。あの人、堅物で有名なのに、私にだけは……特別なんです」私の夫も、そういう人だった。周囲からは冷淡で禁欲的に見られているのに、私にだけは惜しみなく気遣いと愛情を向けてくれる。女性が弾むように笑った。「水瀬さん、知ってます?ついさっき、奥さんか
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第2話
翌日。寝室のドアを開けると、律人はアイランドキッチンに立ち、ベーコンを焼いていた。物音に気づいて振り返った律人の目元に、金縁眼鏡の奥でわずかな笑みが浮かんだ。「起きたか。ちょうどよかった」目玉焼きとベーコンを盛りつけた皿をテーブルに運びながら、律人は自然な口調で言った。まるで昨夜、書斎であんな冷酷な言葉を口にしたのが、別人だったかのように。「詩織、結婚7周年おめでとう」私はその場に立ち尽くした。この7年間、記念日にはいつも、律人が自分で料理を作ってくれていた。「先に白湯を飲め」彼は椅子を引きながら、薄い書類を私の前へ滑らせた。「朝食を食べたら、これに署名してくれ。あまり時間がない。できれば午前中に、君の個人アカウントから出してほしい」私は目を伏せた。それは結婚記念日の贈り物などではなかった。隙なく作り込まれた「謝罪声明」だった。内容は、昨夜の最終回の放送で、パーソナリティとして不適切な誘導を行い、電話出演者のプライバシーを侵害したことを認め、その結果生じたネット上の騒動と精神的苦痛について、私が全面的に責任を負うというものだった。「これは、どういうこと?」自分でも驚くほど、声は平静だった。律人は私の向かいの椅子を引いて座ると、わずかに眉を寄せた。「昨夜の電話相談の音声が一部だけ切り取られて、ネットに拡散された。同じ学科の学生が、あの子の声だと気づいたらしい。今は大学の掲示板も動画サイトも、あの子を非難する書き込みであふれている。既婚者だと知りながら関係を持った、常識がないってな」律人は一度言葉を切った。「詩織、ネットの誹謗中傷は、放っておいて済む話じゃない。美羽は精神的に脆くて、昨夜から身体にも症状が出ている。番組はもう放送休止になった。君は長くこの仕事をしてきた人間だろう。君が責任を引き受けて、あれは番組上の演出だったと説明すれば、世間の矛先も変えられる。それが、美羽を守るにはいちばん確実な方法だ」あまりにも滑稽だった。7年前。私が原稿を読み間違え、ネットで激しく叩かれたとき。律人は夜通し資料を調べ、専門知識を使って内容証明を送り、私に向けられたあらゆる悪意から守ってくれた。それが7年後。同じようにネット上の誹謗中傷が起きた今、法律と規律を何より重んじてきた
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第3話
私はストレッチャーに横たわっていた。スカートの裾は、身体の下に広がった血で濡れきっていた。救急処置室の蛍光灯がまぶしく、目を開けていられない。医師は眉をひそめながら、私の下腹部を押さえた。「ご家族は?どうしておひとりなんですか。胎嚢がもう子宮口まで下りています。出血もひどい。すぐに子宮内容除去術が必要です。ご家族に同意書へ署名してもらえますか」「家族はいません」自分の声が、今にも消えてしまいそうなほど遠く聞こえた。「先生、私が署名します」看護師は痛ましそうな表情を浮かべ、手術同意書を差し出した。私はペンを握った。失血と激痛のせいで、指先の震えが止まらなかった。律人は出ていく前に言った。こんな見え透いた仮病で、自分を引き留めようとするな、と。証拠を何より重んじる法学教授のはずなのに。私が助けを求めても、スカートの裾についた血を確認する程度の手間すら、惜しんだ。麻酔薬が静脈へ入っていった瞬間、不意に身体が軽くなった気がした。次に目を覚ましたときには、もう午後になっていた。病室は静かだった。隣のベッドに付き添っている女性が、小さな音でスマホの動画を見ているだけだった。「最近のラジオパーソナリティって、本当にひどいのね。注目を集めたいからって、何の罪もない女子大生をネットで追い詰めるなんて。この教授の言うとおりよ。こんな無責任な人、業界から追放されて当然だわ……」私はゆっくりと顔を向けた。隣の女性が持つスマホの画面では、急きょ開かれた記者会見が流れていた。画面の中央に座っているのは、冷ややかで品のある男。私の夫、律人だった。彼は昔から、人前に出ることを嫌っていた。いくつもの有名な法律解説番組から、高額な出演料でレギュラー出演を依頼されても、「学者は信用が何より大事だ。ああいう娯楽色の強い番組に、軽々しく出るべきじゃない」そう言って、すべて断ってきた。それなのに今は、無数のフラッシュを浴びながら座っている。眼鏡の奥の視線は、刃物のように鋭かった。「相馬美羽さんの代理人として、ここに厳正に申し上げます。昨夜、某深夜恋愛相談番組のパーソナリティである水瀬氏は、電話出演者の身元を把握していながら、意図的に話題を誘導し、当方の依頼人を陥れました。その結果、依頼人は深
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第4話
病室は、点滴の落ちる音だけが聞こえるほど静かだった。麻酔の効き目が、少しずつ薄れていく。私は個室のベッドで身を丸めていた。冷や汗で、すでに病衣はぐっしょりと濡れていた。そのとき、廊下から慌ただしい足音と、声を潜めた会話が聞こえてきた。「久世教授、特別室は本当に満床なんです。一般病棟は人の出入りも多く、相馬さんのパニック発作もまだ治まっていませんし……」「分かりました。では、302号室を空けてください。妻が使っていますが、話せば分かるはずです」聞き慣れた冷ややかな声に、心臓が強く縮んだ。病室のドアが開く。律人が大股で入ってきた。いつも隙ひとつない彼の腕には、顔色の悪い若い女性が横抱きにされていた。美羽だった。美羽は律人の襟元を強くつかみ、目尻にはまだ涙の跡が残っていた。私の姿を見た瞬間、さらに深く律人の胸元へ顔を埋める。その怯えに気づいた律人は、きつく眉を寄せた。やがて顔を上げ、私を見た。それでも、妻を案じる気配は微塵もなかった。向けられたのは、冷えた視線だけだった。「詩織」律人が口を開いた。「荷物をまとめて、このベッドを空けてくれ」聞き間違いかと思った。下腹部の激痛で息をすることすら苦しく、私は重いまぶたをどうにか持ち上げ、7年間愛してきた夫を見つめた。「今……何て言ったの?」「この病院の特別室は満床だ」律人の声は冷えきっていた。「美羽は今朝からのネット上の騒動で、重度の抑うつ状態とパニック発作を起こしている。さっき救急外来では、自傷しようとする様子まであった。今は神経が極度に過敏になっていて、少しの物音にも耐えられない」律人は私を見ながら、値踏みするように目を細めた。「受付で確認した。婦人科の救急を受診しただけで、ホルモンバランスの乱れによる腹痛だそうだ。詩織、限られた病床は、本当に危険な患者に優先して使うべきだ。大人なんだから、こんなときまで嫉妬で意地を張るな」私は下唇を強く噛んだ。指先が皮膚へ食い込むほど、拳を握りしめる。そうだった。今朝、家を出たとき、私は濃い色のロングスカートをはいていた。血はすべて裾へ染み込んでいた。律人は美羽を守ることしか頭になく、私のことなどろくに見てもいなかった。そのあと、私はひとりで「子宮内容
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第5話
どうやって病院を出たのか、自分でも覚えていない。氷点下10度を下回る寒さの中、身につけていたのは薄手のカシミヤセーターだけだった。タクシーを呼ぼうとした。けれど、寒風の中で震える指を動かし、配車アプリを開くと、画面には無機質な文字が表示された。――決済に失敗しました。私は一瞬、動きを止めた。それから、鈍い手つきでネットバンキングの画面へ切り替える。登録していた4枚のカードは、すべて利用できない状態になっていた。この街で、そんなことまでできる人間は、ひとりしかいない。7年間愛してきた夫。律人だった。私はスマホをしまった。泣かなかった。歯を食いしばり、吹き荒れる雪の中を、一歩ずつ歩いて家へ戻った。玄関のドアを開けた瞬間、慣れ親しんだ香りが押し寄せてきた。かつては、あれほど恋しく思っていた匂い。けれど今は、胃の奥が激しく波打ち、今にも吐きそうになった。中へ入って、ようやく気づいた。律人が、リビングのソファの中央に座っていた。その向かいには、同じようにスーツを着た見知らぬ弁護士が2人。ローテーブルの中央には、録音中のレコーダーまで置かれていた。ドアの音に気づき、律人が顔を上げる。眉は深く寄せられていた。けれど、その目には心配の色など、かけらもなかった。「詩織。そんな格好で戻ってきて、惨めな姿を見せれば手続きを止められると思っているなら、無駄だ」律人は長い指で、ローテーブルに並べられた書類を軽く叩いた。「美羽の代理人として、君の個人口座に対する仮差押えを裁判所へ申し立てた。すでに命令も出ている」私は玄関の靴箱へ手をついた。爪を木目へ強く立て、その鋭い痛みで、どうにか倒れずに立っていた。「どうして?」「君にはネット上での中傷に関与した疑いがあるだけでなく、重要な証拠を持ち出した疑いもあるからだ」律人は立ち上がり、私を見下ろした。「局長から聞いた。昨夜の電話相談の音声データを、今朝、君がコピーして持ち出したそうだな。詩織、あの音源には、君が悪意をもって誘導したあと、美羽が笑った声まで入っている。切り取られた状態で流出すれば、ネットの連中はあの子を死ぬまで追い詰める」律人は私に手を差し出した。その声に、夫婦としての情はひとかけらも残っていなかった。
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第6話
3日後。律人は病院で美羽に付き添い終え、家へ戻った。詩織が泣き腫らした目で待っているか、あるいはこの7年間、喧嘩のたびにそうしてきたように、テーブルに水と胃薬を用意していると思っていた。だが、家の中は真っ暗だった。スリッパも、律人が出ていったときに脱ぎ散らかしたままだ。律人は眉をひそめ、そのままリビングへ向かった。「詩織?」照明をつける。「もう意地を張るな。美羽の容体は落ち着いた。話をしよう」返事はなかった。ローテーブルの前まで来たところで、律人の視線が止まった。テーブルの上には、2通の書類がきちんと並べられていた。一番上に置かれていたのは、「離婚協議書」だった。妻の署名欄には、ためらった跡も、書き直した跡もなかった。そこには、妻は自らの意思で婚姻中の共有財産をすべて放棄し、何も受け取らずに離婚する、と明記されていた。その「離婚協議書」の下には、もう1枚の書類が敷かれていた。律人は息を呑み、目を見開いた。病院の産婦人科が発行した――「子宮内容除去術同意書」だった。患者署名欄にも、はっきりと詩織の名前が記されている。日付は3日前。腹部の痛みに苦しむ詩織を置き去りにし、美羽を助けるために家を飛び出した、あの日だった。そのとき、玄関の暗証番号が解除される音がした。入ってきたのは航平だった。ローテーブルの前で動かない律人を見て、軽口を叩こうとしたものの、テーブルの上の2通の書類が目に入り、表情を変えた。手にしていたワインボトルを、危うく落としかける。航平は同意書を手に取るなり、顔色を変えた。「これ……何だよ。子宮内容除去術?詩織さん、妊娠してたのか?それで、子どもを……」航平は信じられないように目を見開いた。声まで震えていた。「律人、お前、正気か?奥さんが妊娠中に大量出血して手術を受けていたのに、お前は隣の病室で美羽に付き添っていたのか?」律人は同意書を見つめたまま、脇に垂らした手を無意識に握りしめた。やがて手を伸ばし、航平から同意書を静かに取り返すと、冷たく笑った。「航平。弁護士なら、目の前の書類をそのまま鵜呑みにするな」律人は同意書を無造作にローテーブルへ戻した。その目には、傲慢なまでの確信があった。「妊娠8週で大量出血した人間が、
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第7話
電話の向こうで、航平はしばらく黙り込んでいた。やがて、深いため息をつく。「律人。やっと後悔してるって認める気になったのか?」「後悔なんかしていない!」律人は、痛いところを突かれたように声を荒らげた。「俺はただ、あの偽造した手術同意書を誰に作らせたのか、本人に確かめたいだけだ!」だが、詩織は、あの日の初雪と同じだった。溶けたあとには、わずかな痕跡さえ残さなかった。詩織につながる手がかりを少しでも見つけるため、律人は自ら車を運転し、東都第一総合病院へ向かった。あらゆる人脈を使い、警察関係者の知人にまで頼み込み、院長に掛け合って、3か月前の産婦人科救急外来と廊下に設置されたすべての防犯カメラ映像を提出させた。防災センターで、律人は最も大きなモニターの前に立っていた。画面右下で刻まれていく時刻を、食い入るように見つめている。映し出されていたのは、3か月前。美羽のもとへ駆けつけるため、詩織をひとり家に残した、あの朝の映像だった。「久世教授、映像が出ました」警備責任者は額の汗を拭いながら、再生ボタンを押した。映像が動き始める。救急外来のガラス扉が開いた。吹雪の中から、濃い色のロングスカートをはいた細い人影が、よろめきながら入ってくる。詩織だった。顔は血の気を失い、一歩進むたびに身体が大きく揺れていた。律人の呼吸が止まった。無意識に一歩前へ出て、顔が画面につきそうなほど近づく。映像が拡大されると、律人の視線は詩織のスカートの裾へ釘づけになった。彼女が歩くたび、血が一滴ずつ、病院の床へ落ちていた。「詩織……」律人の声は、言葉にならないほど震えていた。目の縁が、みるみる赤くなっていった。画面の中で、詩織は痛みに耐えきれず腰を折り、下腹部を強く押さえていた。這うようにして、どうにか受付までたどり着く。無機質なスピーカーから、医師の焦った声が流れた。「ご家族は?どうしておひとりなんですか。胎嚢がもう子宮口まで下りています。出血もひどい。すぐに子宮内容除去術が必要です。ご家族に同意書へ署名してもらえますか」続いて聞こえてきたのは、詩織の弱々しい声だった。「家族はいません。先生、私が署名します」画面の中で、看護師が手術同意書を差し出す。詩織は受付の脇に、
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第8話
航平は慌ただしくハードディスクを別のパソコンにつなぎ、技術的に復元された隠しフォルダを次々と開いていった。「これを見ろ!美羽と同じ学科の連中とのグループチャットだ。3か月前に消されたデータを、今さっき復元できた!」画面には、目を疑うようなやり取りが次々と表示された。【美羽:あの堅物教授、本当にちょろい。今日、わざと落ち込んだふりをしたら、すぐにコートを貸してくれた】【友人:美羽、奥さんって有名なパーソナリティなんでしょ?そんな人を敵に回して大丈夫なの?】【美羽:パーソナリティだから何?ただのおばさんじゃない。今夜が番組の最終回だから、どうやって潰すか見てて。わざと電話をかけて、何も知らないふりをして挑発するの。少しでも取り乱したら、音声を都合よく編集して拡散させる。あの女が私をネットで追い詰めたことにすればいい】その瞬間、律人の顔から血の気が引いた。航平は激しくキーボードを叩き、銀行口座の取引明細と、ひとつの音声データを画面に表示させた。「律人、これを聞け!」再生されたのは、地下にあるバーの個室で、美羽が情報操作を請け負う業者と交渉していたときの録音だった。「この音声、水瀬詩織の発言だけが悪く聞こえるように前後を切って編集して。1億円分のトレンド広告も買って。ネット上で二度と顔を上げられないようにしてほしいの」録音の中で、美羽が冷たく笑った。「それと、あの女、妊娠してるらしいよ。明日は大学の池で自殺するふりをする。久世教授は、ああいう芝居に弱いから。あの女には、自分が置き去りにされたせいで、腹の子が血の塊になって流れ落ちるところを、その目で見せてやるの」律人は目の前のオフィスチェアを蹴り倒した。重い椅子が壁へ激突する。「嘘だった……全部、嘘だった!」守らなければならないと思い込んでいた女子学生に、まんまと手玉に取られていた。美羽は、うつ病などではなかった。大学の池で起こしたパニック発作も嘘。救急外来で見せた自傷行為も、すべて芝居だった。でっち上げた病気と、わざと流した涙だけで、律人の理性を簡単に崩したのだ。詩織の仕事を自らの手で壊させた。彼女の銀行口座を凍結させた。流産による大量出血で、詩織が最も助けを必要としていたときに、冷酷に見捨てさせた。「相馬美羽!」律人の
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第9話
美羽は、律人が結局は自分を殺せないのだと思った。慌てて床を這うように近づき、律人の脚へすがりつこうとする。「久世先生……ごめんなさい……私、先生のことが好きすぎて、詩織さんに嫉妬してしまったんです……本当に反省しています……お願いです、許してください……」「触るな!」律人は美羽を強く蹴り飛ばした。美羽は床の上を大きく転がっていく。律人は、倒れた美羽を冷ややかに見下ろした。「殺す?そんなことをすれば、お前を楽にするだけだ」律人はコートのポケットから真っ白なハンカチを取り出し、指を一本ずつ丁寧に拭った。そこには、かつての近寄りがたい冷たさが戻っていた。「そこまで法律の境界を試すのが好きで、精神を病んだふりをするのも好きなら、俺が最も得意な方法で望みをかなえてやる」指を拭き終えたハンカチを、美羽の顔へ無造作に投げつけた。声には、何の感情もこもっていなかった。「航平」「ああ」扉の外で待機していた航平が、黒いスーツ姿のボディガード数名と、スーツを着た弁護士2人を連れて入ってきた。律人は床に倒れた美羽を、無表情のまま見下ろした。「まず、恐喝、騒乱行為、名誉毀損で直ちに刑事告訴し、民事でも訴えろ。この3か月間の送金記録も録音も、すべて検察へ出せ。この女が懐に入れた金は、利息をつけて一円残らず吐き出させろ。さらに莫大な賠償を背負わせて、一生、借金の泥沼から抜け出せないようにしろ!」美羽は目を大きく見開き、恐怖に引きつった声で叫んだ。「嫌!そんなこと、できるはずない!」「それと」律人はそのまま続けた。「業者を使って世論を操ったことも、人として許されないことをした証拠も、全部大学に提出しろ。退学処分に追い込め。必死に手に入れた学歴も、これから先の居場所も、世間体も、何もかも奪ってやる!」「あんた、正気じゃない!私を死に追いやるつもりなの!」美羽は甲高い声で泣き叫び、絶望しながら床を這った。「死に追いやる?」律人の口元に冷笑が浮かんだ。「死なせるわけがない」律人はゆっくり腰を落とし、美羽の目をまっすぐ覗き込んだ。「最後に、責任から逃れ、同情を引くために、お前はこれまで重度の統合失調症と重度のパニック障害を装い、診断記録まで偽造してきたな?俺はすでに、お前の唯一の緊急
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第10話
この2年間、国内のことをわざわざ調べることは、ほとんどなかった。かつて東都の法曹界で高みに立ち、法理と規律を骨の髄まで刻み込んでいた律人は、完全に正気を失ったらしい。正気を失ったように、表も裏も問わず使える人脈をすべて動かし、莫大な懸賞金まで用意して、世界中で私を捜しているという。けれど、そんなことはもう、私には何の関係もなかった。その話を聞いたとき、私はパリのセーヌ川沿いにあるオープンカフェに座っていた。心には、わずかな波紋さえ広がらなかった。私の世界はもう、深夜のラジオ番組で苦しみを押し殺していた、あの狭い場所ではない。律人のもとを離れたあと、私はヨーロッパへ渡り、かつて最も情熱を注いでいた心理学とメディア研究の世界へ飛び込んだ。今の私は、体調を崩してもひとりで耐えるしかなかった、捨てられた妻ではない。世界的に知られるメディア事業家であり、心理学の権威となっていた。自らヨーロッパ最大の独立系メディアグループを設立し、企画から司会まで手がける世界規模の本格インタビュー番組は、2年連続で視聴記録を更新し、誰もが知る番組となった。各国の要人や、ウォール街を代表する大物たちにも取材した。私は、数えきれないほどのメディア関係者から目標とされる存在になった。私は、過去のどんな時よりも満ち足りた日々を送っていた。あの頃とは、比べものにならないほどに。2年後。世界各国の要人が集う大規模な国際サミットが、国際コンベンションセンターで開催された。私はこのサミットの名誉議長として、最後に登壇することになっていた。控室のドアが静かに開き、婚約者の九条彰人(くじょう あきと)が入ってきた。彰人は、ヨーロッパでも屈指の名門財閥を継ぐ人物だった。誰もが驚くほどの財産と地位を持っている。それでも、私を見る目に浮かぶのは、いつも隠しようのない優しさだけだった。彰人は微笑みながら私の後ろへ回り、カシミヤのショールを肩に掛けてくれた。「ありがとう。そろそろ行きましょうか」私は彰人の腕に手を添えた。並んで控室を出て、メインホールへ足を踏み入れた瞬間、世界各国から集まった数千人の著名人が一斉に立ち上がった。雷鳴のような拍手と歓声が、波のように押し寄せる。無数のスポットライトが私を照らした。その
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