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第8話

Author: 如子
瑠奈は三時間も待っていたのに、彼は戻ってこなかった。

午後になると、空からしとしとと細い雨が降り出し、ついに彼女の忍耐も尽きた。自分で車椅子を押し、山を降りようとした。

墓地にはバリアフリーの通路が設けられていたが、傾斜がきつく、彼女は力加減を誤ってしまう。車椅子は手すりにぶつかり、そのまま転倒した。

彼女の身体は斜面を転げ落ち、手や顔には大小さまざまな擦り傷ができた。額には小さな切り傷が走り、血が滲んでは雨に洗い流されていく。

誰にも気づかれないまま、彼女はその場に倒れていた。ただ、無数の雨粒が目の前に落ちていくのを、ただじっと見つめることしかできなかった。

冷たい雨が体に染み込み、寒さに震えが止まらない。彼女は歯を食いしばり、全身を襲う痛みに耐えた。

だが、時間はひどく長く感じられた。

どれほど経ったのかも分からない。死んでしまうかと思ったそのとき、ようやく修が傘を差しながら駆けつけてきた。

彼は慌てて彼女を抱き上げ、苦しげに何度も謝った。

けれど瑠奈は、そんな彼をただ無表情に見つめ返すだけだった。その目には、もはや何の感情も浮かんでいない。

「もし……私に足があったら、今日ここから自分で帰れた」

かつて陽だまりのようだった瑠奈は、18歳のあの日に完全に死んだのだ。

修の心に衝撃が走った。罪悪感と後悔が押し寄せ、彼はもはや彼女の目を直視することさえできなかった。

彼は自分の頬を思いきり平手打ちしながら、声を震わせた。

「ごめん、瑠奈……もうこんなミスを犯さないって誓うよ」

それから数日間、修は彼女につきっきりで過ごした。

日向ぼっこに行くときも、ただぼんやりしているときも、彼は一歩も離れずそばにいた。お茶を出し、水を持ってきて、どんな些細な言葉にも真剣に答えた。

ふたりの関係は、あの事故が起きる前、7年前のように見えた。

けれど瑠奈にはわかっていた。人生には「やり直し」なんて存在しない。

彼の行動は、ただの一時の幻想でしかない。長くは続かないと知っていた。

だから彼女は何も言わずに、ただ静かにその日を数えていた、終わりの日が来るのを待ちながら。

クリスマスイブの日、ふたりの乗った飛行機がスイスに到着した。

ホテルにチェックインしてすぐ、修のもとに一本の電話がかかってきた。

三十分ほど話し込んだあと、彼はそのまま荷物を持ち、立ち去ろうとした。

「会社で急ぎの案件が入ったんだ」とだけ言い残して。

彼のその慌ただしい様子を見て、瑠奈は静かに尋ねた。

「行かないとダメなの?」

彼は一切の迷いも見せず、きっぱりと答えた。

「急ぎなんだ。瑠奈、ひとりで雪を見てて。明日には迎えに来るから」

瑠奈はそれ以上、何も言わなかった。

そして、彼には伝えなかった。

明日、もう彼が迎えに来ることはできないのだと。

彼女はホテルの大きな窓の前にひと晩中座っていた。予報されていた初雪は、降らなかった。

夜が明けるころ、彼女は陽菜から一通のメッセージを受け取った。

そこには、病院で撮られた一枚の写真が添えられていた。

写真の中で、修は彼女の隣に座り、みかんの皮を丁寧に剥いていた。穏やかな笑みを浮かべて。

瑠奈は、その写真を長いあいだ見つめていた。

朝日が昇るころ、彼女は車椅子を押してホテルを出た。

そして、自殺ほう助機関へ向かった。

建物の前に着いたとき、彼女は最後に一度だけ空を見上げた。

それでも、あの待ち焦がれた初雪は降っていなかった。

修だけじゃなかった。天気予報でさえ、彼女を裏切ったのだ。

人生最後の日、彼女はやはり見ることができなかった。

あの初雪を。

瑠奈は口元に小さな笑みを浮かべ、そしてゆっくりと振り返った。

車椅子のタイヤが静かに回りながら、彼女は自らの「死」へと向かって進んでいった。

やがて、スタッフが彼女を安楽死の部屋まで運んだ。

ベッドに横たわる前、終末の確認のためにいくつかの質問がなされた。

「江崎さん、最後に会いたい人はいますか?」

「いません」

「遺言として伝えたいことは?」

「ありません」

「心残りは?」

「……何もありません」

彼女は静かにすべての質問に答えた。

修のことは、一言たりとも遺していなかった。

薬剤が準備されるのを見て、瑠奈は声を出した。

「私が死んだら、すぐに火葬してください。骨はお墓に入れなくてもいい。初雪が降った日に、どこかで撒いてくれれば、それでいいです……お願いします」

スタッフはうなずいた。

室内は静まり返った。

腕にかすかな痛みが走り、それもすぐに収まった。

瑠奈の意識は、徐々にぼやけていく。

心の中には、次々と映像が流れていく。走る少年の姿、幼い頃の笑い声、夏の日差し、教室の騒がしさ......

それらはやがてすべて、霞んだ雲のようにぼんやりと彼女を包み込んでいった。

そして瑠奈は、そのやわらかく湿った幻想の中で静かに目を閉じた。

二度と、開くことはなかった。

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