LOGIN路上で歌い続けて七年。やっと彼氏と結婚できるだけのお金を貯めた。 真夜中、そろそろ片付けて家に帰ろうとしたとき、一人の女性が私の前に現れた。 「気分が優れなくて……二三曲、歌ってくれない?」 彼女は私の足が不自由なことに気づくと、迷わず十万円を振り込んでくれた。 「こんな遅くにごめんね。でも、どうしても誰かと話したくて。悪いから、私のわがままを聞いてくれない?」 スマホの振込入金通知を見て、私はうなずいた。 これで彼氏は家賃のことで悩まなくて済む。大雨の日だって、無理に出前に行かなくていい。 彼女は愚痴を吐き出し始めた。 「結婚して五年になるんだけど、今日、妊娠してることが分かったの。 それを伝えたくて彼のところに行ったら、ポケットにダイヤの指輪が入ってた。 どう聞いても教えてくれなくて、腹が立って飛び出してきちゃった。ねえ、浮気してると思う?」 迷いながらも何か慰めの言葉をかけようとした。そのとき、彼女のスマホが鳴り響いた。 向こうの男の声は困ったように、それでいて甘かった。 「バカだな、お前。あれはお前のために特注した指輪だ。サプライズのつもりだったのに、まさか先に見つけちゃうなんてな。 今どこにいる? 迎えに行く」 あまりにも聞き慣れたその声に、私は全身の血の気が引いた。 彼女のスマホに表示された名前は、私の恋人・川村正幸(かわむら まさゆき)とまったく同じだった。
View More私は正幸を見つめていた。彼が一体何をしようとしているのか、まったくわからなかった。生きている間は辛いことばかりだった。それでも、こうして彼を見ていると、ほんの少しだけ胸が熱くなるのを感じた。というのも、彼が母を救ってくれたからだ。あのとき、母は弥生に突き飛ばされ、壁に頭をぶつけて意識を失った。幸い、正幸が差し向けた人たちがぎりぎりで駆けつけてくれた。もし少し遅れていたら、母は本当に助からなかったかもしれない。私が死んだと知らされた母は、身を引き裂かれるように泣き叫んだ。そのまま泣きながら正幸を追い出した。彼は目を赤くして、それ以上そこにいることもできず、ただ母にまとまったお金を差し出すだけだった。そんな母の姿を見て、私の胸は悲しみと苦しみでいっぱいになった。親不孝な娘で、ごめん。生きているうちは幸せにできなかったのに、死んだあとまで、こんなに大きな悲しみを背負わせてしまう。お母さん、私のことは忘れて。そのお金で、どうか穏やかな生活を送ってほしい。正幸は、ある墓石の前に立った。その表面には何も刻まれておらず、ただまっさらだった。彼はナイフを取り出すと、力を込めてゆっくりと文字を刻みはじめた。口元がかすかに動いている。「詩織、俺が悪かった。お前は人に触れられるのが嫌いだったから、この墓石だけは俺が自分の手で刻むよ」しかし、どれだけ力を込めても、墓石には傷ひとつつかなかった。私が彼の真正面に立ちはだかり、必死に遮っていたからだ。その様子を見て、私はほっと胸をなでおろした。私の目には、はっきりと見えていた。正幸が刻もうとしているのは「妻・川村詩織」という文字だ。そして、私はもうこれ以上、彼と少しでも関わりたくなかった。正幸は何度も何度も試みたが、すべて無駄に終わった。次の瞬間、彼の目にみるみる涙があふれた。声を震わせながら、傷ついたように言った。「詩織、お前は俺を罰しているのか……?死んでからも、俺と一切関わりたくないっていうのか……?」けれど、返事はない。彼の涙は風にさらわれていった。「……わかった。俺はお前をあんなにひどい目にあわせた。代償を払うのは、当然だよな」その言葉に、いやな予感が胸をよぎった。恐怖で見開いた私の目の前で、正幸はそのナイフを手に取り、刃先を自分へと向けた。そ
正幸が人目もはばからず泣きじゃくる姿を見ても、私の心は妙に冷静だった。かつての私は、いつだって彼の気持ちを最優先にしてきた。小さい頃からプライドが高いのを知っていたから、破産のショックでつぶれてしまわないかと心配で、毎日あれこれ手を尽くして笑わせようとした。彼は貧乏のフリして、私を騙したあの時期でさえ、私は明るく振る舞い続けた。つらいことも疲れもすべて胸の内にしまい込み、彼にプレッシャーをかけないように必死だった。でも、今はもう吹っ切れている。正幸という男は、最初からそこまでしてもらう価値などなかったのだから。ただ、あの子のことだけは少し胸が痛む。妊娠したことさえ知らずにいたのに、その未来を、私自身が知らぬ間に閉ざしてしまった。私のお腹からは、これまでに二人の子どもが失われている。今のこのざまは、きっと神が私に与えた罰なのだろう。人を見る目がないまま、長い年月を正幸に無駄に費やした報いなのだ。けれど、なぜだろう。死んだあとも魂は消えず、私は無理やり川村正幸のそばに縛りつけられてしまった。ついさっき、彼が弥生と対峙した場面も、私は一部始終を見ていた。驚いたことに、弥生は最初からすべてを知っていたのだ。それなのに、彼女は利益のために正幸との政略結婚を選んだ。しかも結婚後は互いに好き勝手に振る舞いながら、正幸を心から愛しているかのように装っていた。やはり、利益の前では、感情などいつだって取るに足らないものらしい。私の遺体が火葬炉へと運び込まれる。その瞬間、正幸が子どものように泣きじゃくるのが見えた。彼はもがき、なりふり構わず炉にすがりつき、両手を高熱で焼けどした。それでも痛みなど感じていないかのように、まるで、それが大切な宝物であるかのように、泣きながら私の遺体を抱きしめた。だが、私にはただ吐き気がこみ上げるだけだった。生きているときも、死んでからも、正幸とはもう一切関わりたくない。正幸は私の遺骨を持ち帰ると、どこへ行くにもそれを持ち歩いた。そして、彼は本当に藤田家への復讐を始めたのだ。彼自身も大きな痛手を負った。藤田家のほうは立ち直れないほど叩きのめされ、巨額の借金まで背負い込んだ。弥生は、これまで何ひとつ不自由なく育ったお嬢様だ。そんな天地がひっくり返るような激変に耐え
正幸は逆鱗に触れられたかのように激怒した。弥生に飛びかかると、その首を力任せに締め上げた。「よくも詩織に手を出したな。お前の仕業だろ?詩織の父の酸素チューブを抜いたのも、詩織がお前を陥れたと俺に嘘をついたのも、全部お前なんだな。弥生、よくもそんなことを。ずっと誤魔化せると思っているのか」首を絞められ、弥生の顔が赤く染まる。それでも彼女は正幸を見つめ、口元には嘲るような笑みを浮かべていた。「それがどうしたの。あなた、バカみたいにずっと私に騙されてたじゃない。正幸、私が失ったのは、たかが遊びの男よ。お金さえあれば、そんな男はいくらでも代わりがきく。でも、あなたはどう?あなたが裏切ったのは、心から愛して、十年近くもそばにいてくれた女じゃない。彼女はあなたの一番つらい時期を一緒に乗り越えて、それなのに、自分の手で彼女を捨てた。あなたのために片足を失って、人生でいちばん大切なものを全部失った。それでもあなたは、彼女を何度も深淵に突き落としただけよ。正幸、私だっていい人じゃない。でも、あなたは私より先に地獄に落ちる。あなたの罪は、私のよりずっと重いんだから」その言葉が、正幸の胸のいちばん痛む場所をえぐった。次の瞬間、ドスンと大きな音がして、弥生の体はベッドから蹴り落とされた。もともと流産で弱っていた弥生の顔色は、さらに青ざめる。だが、正幸に向ける視線は、ますますあざ笑うかのように光っていた。「やっと本性を現したわね。あなた、最初からそういう男だったのよ!私がなにも調べてないとでも思ってたの?あなたと彼女のことは、とっくの昔から知ってた。わざと彼女に私たちの関係を気づかせたのよ。あなたがどんな反応をするのか、見てやろうと思ってね。まさか、想像以上に卑劣な手に出るとは思わなかったけどね。あの時、すぐに私に打ち明けてくれていたら、少しは見直してあげるかもしれない。最初からあなたは、まるで飼い犬みたいに私の手のひらで転がされていただけ。そして、唯一あなたのことをまともに見てくれていた人は、あなたが殺したのよ」「黙れ!」正幸はそう怒鳴ると、弥生の頬を二発、平手打ちした。その顔色は、ぞっとするほど悪くなっている。「そうだ、俺は罪深い男だ。だが、お前だけは楽にはさせない」言い捨てると、彼は弥生から手を離し
正幸が、弥生の入院先に戻った。だが、彼女が流産したと知らされた。病室に足を踏み入れると、弥生は正幸の顔を見るなり、かっとなって怒りをあらわにした。「正幸、どこに行ってたの。私が流産したってのに、そばにもいない。またあの泥棒猫のところに行ってたの?」けれど今回は、いつものようになだめたりはしなかった。正幸は鼻でせせら笑う。「泥棒猫?自分のことを言ってるのか」弥生は一瞬、言葉を失った。まさか、そんな口をきかれるとは思ってもみなかったのだ。恥と怒りで頭に血が上り、声を荒らげた。「どういう意味よ。私をバカにしてるの?正幸、私たちの子は、あの女に殺されたんだから。あいつが私を怒らせて、ひどく気持ちを揺さぶったから流産したのよ。なのにあなた、あいつを庇うわけ?」そう叫ぶと、弥生は手にしていたコップを正幸に投げつけた。正幸はそれをひらりとかわす。「俺たちの子がどうして流れたのか。お前、わかってるんだろう」そのひと言に、弥生の胸がぎゅっと締めつけられた。なぜそんなことを言うのだろう。まさか、気づいているの。いや、そんなはずはない。完璧に隠しおおせてきた。知られるわけがない。そう思いながら、弥生は頑として白を切った。「何を言ってるの。意味がわからないんだけど」正幸は、もう我慢の限界だった。アシスタントから受け取った資料を、弥生に乱暴に投げつけ、嘲るように言い放つ。「俺を馬鹿にしてるのか。妊娠してるくせに、バーで朝まで男と遊んで、何人もの男と肩を組んで出てきたんだろうが。しかも、ここ数日はずっと家に帰らず、連絡がつかなくなっていた。それでごまかしきれるとでも思ったのか」写真を見たとたん、弥生の顔色がさっと青ざめた。ちらりと目をやっただけで、すぐに視線を背ける。まともに見る勇気など、とても持てなかった。あの数日は、たしかに刺激的で、めちゃくちゃだった。酒に飲まれて、勢いでやってしまったことばかりだ。今では弥生自身、思い返すだけで恥ずかしくなる。弥生は声を震わせた。「……全部、知ってたの」正幸は冷たく言い捨てる。「これを見つけなければ、まだ俺の前で愛してるふりを続けるつもりだったのか。ついでに教えておく。俺は、ごまかしを許さない。お前が必死にかばっていたあのヒモ男なら、外国に飛ばしてやったよ