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足の不自由な路上歌手の私が、彼のせいで死んだ

足の不自由な路上歌手の私が、彼のせいで死んだ

By:  ライチCompleted
Language: Japanese
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路上で歌い続けて七年。やっと彼氏と結婚できるだけのお金を貯めた。 真夜中、そろそろ片付けて家に帰ろうとしたとき、一人の女性が私の前に現れた。 「気分が優れなくて……二三曲、歌ってくれない?」 彼女は私の足が不自由なことに気づくと、迷わず十万円を振り込んでくれた。 「こんな遅くにごめんね。でも、どうしても誰かと話したくて。悪いから、私のわがままを聞いてくれない?」 スマホの振込入金通知を見て、私はうなずいた。 これで彼氏は家賃のことで悩まなくて済む。大雨の日だって、無理に出前に行かなくていい。 彼女は愚痴を吐き出し始めた。 「結婚して五年になるんだけど、今日、妊娠してることが分かったの。 それを伝えたくて彼のところに行ったら、ポケットにダイヤの指輪が入ってた。 どう聞いても教えてくれなくて、腹が立って飛び出してきちゃった。ねえ、浮気してると思う?」 迷いながらも何か慰めの言葉をかけようとした。そのとき、彼女のスマホが鳴り響いた。 向こうの男の声は困ったように、それでいて甘かった。 「バカだな、お前。あれはお前のために特注した指輪だ。サプライズのつもりだったのに、まさか先に見つけちゃうなんてな。 今どこにいる? 迎えに行く」 あまりにも聞き慣れたその声に、私は全身の血の気が引いた。 彼女のスマホに表示された名前は、私の恋人・川村正幸(かわむら まさゆき)とまったく同じだった。

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Chapter 1

第1話

路上で歌い続けて七年。やっと彼氏と結婚できるだけのお金を貯めた。

真夜中、そろそろ片付けて家に帰ろうとしたとき、一人の女性が私の前に現れた。

「気分が優れなくて……二三曲、歌ってくれない?」

彼女は私の足が不自由なことに気づくと、迷わず十万円を振り込んでくれた。

「こんな遅くにごめんね。でも、どうしても誰かと話したくて。悪いから、私のわがままを聞いてくれない?」

スマホの振込入金通知を見て、私はうなずいた。

これで彼氏は家賃のことで悩まなくて済む。大雨の日だって、無理に出前に行かなくていい。

彼女は愚痴を吐き出し始めた。

「結婚して五年になるんだけど、今日、妊娠してることが分かったの。

それを伝えたくて彼のところに行ったら、ポケットにダイヤの指輪が入ってた。

どう聞いても教えてくれなくて、腹が立って飛び出してきちゃった。ねえ、浮気してると思う?」

迷いながらも何か慰めの言葉をかけようとした。そのとき、彼女のスマホが鳴り響いた。

向こうの男の声は困ったように、それでいて甘かった。

「バカだな、お前。あれはお前のために特注した指輪だ。サプライズのつもりだったのに、まさか先に見つけちゃうなんてな。

今どこにいる? 迎えに行く」

あまりにも聞き慣れたその声に、私は全身の血の気が引いた。

彼女のスマホに表示された名前は、私の恋人・川村正幸(かわむら まさゆき)とまったく同じだった。

スマホのスピーカーモードがオンになっている。私はぼんやりと、耳元で響く正幸の声を聞いていた。

女性が気まずそうに言う。

「知らなかったんだもん。だってあなたがちゃんと言わないから悪いんでしょ!」

正幸が軽く笑う。

「わかったわかった、全部俺が悪かった。

で、今どこにいるか教えてくれる?迎えに行くから」

藤田弥生(ふじた やよい)が場所を伝えると、正幸はすぐに心配そうな声をあげる。

「夜は危ないよ。すぐ行く」

私の心が凍りついた。

弥生がただ拗ねて出かけただけなのに、正幸は彼女の安全を心配している。

なのに、これまでの数年間、私は毎日一人で粗末な機材を担ぎ、不自由な足を引きずって、あちこちで路上ライブをしていた。

熱を出しても休むことすらできなかった。

警察に追い払われ、チンピラに絡まれながら、喉がかれて血が出るまで歌い続けて、ようやく投げ銭をもらえた。

そんな私を、正幸はいつも心痛そうに抱きしめてくれた。そして、自分が無能だからこんな苦労をさせているんだ、と慰めてくれたのだ。

そうか、ただ彼の愛が足りなかっただけなんだ。

電話を切ると、弥生は少し気まずそうな顔で私を見る。

「ごめんね、私、カッとなっちゃって……まさかこんなことだったなんて。

ねえ、あなた、彼氏いないんでしょ?だって、いたらこんな夜中に外出させたりしないもん」

私が答える前に、彼女はひとりごとのようにため息をつく。

「実はね、結構あなたが羨ましいの。体は不自由だけど、少なくとも恋愛の苦しみは味わわなくて済むから。

結婚が早すぎるのも良くないよね。うちの夫なんて、べったりなんだから。毎月病院に検診に行くときも必ずついてきて、全然自由がないのよ!」

両足が不自由になったから、私は耐えがたい痛みに悩まされ、半年ごとに病院で検査を受けなければならなかった。

正幸もたまには付き添ってくれたが、たいていの日、彼は出前配達をしていた。わずかな報酬のために、街のあちこちを走り回っていたのだ。

私が口を開く前に、すぐそばでクラクションが鳴った。

弥生が満面の喜びを見せる。

「早かったね!」

正幸がマイバッハから降りると、甘やかすように弥生の頭を撫でる。

「また拗ねて家出するんじゃないかって心配でね」

弥生が甘えたように鼻を鳴らす。

彼女が助手席に座ろうとしたところで、何かを思い出した。

私の前に歩み寄り、さらに二十万円を振り込んでくれた。

まるで私を慰めるように言う。

「気にしないで。うちの夫は川村グループの社長だから、こんなお金は彼にとって何でもないの。

さっき話し相手になってくれてありがとう。早くお家に帰ってね」

頭の中でどんという音がした。私は顔を上げ、目の前にいる正幸を信じられない思いで見つめる。

七年前、正幸の会社が倒産した。かつて社長だった彼は、安アパートに住み、カップ麺を食べるしかなかった。

昼は工事現場で働き、夜は出前配達をしていた。

彼の負担を減らすために、私は不自由な足を引きずって路上で歌った。一番きつい時には声帯を痛めて、言葉すら出なくなった。

なのに彼は、とっくに再起に成功していたのだ。

弥生が動いたことで、ようやく正幸の視線が私に落ちる。

彼の目の端に一瞬驚きが走ったが、すぐに視線をそらし、優しく弥生のシートベルトを締めてやる。

「帰ろう」

彼は警告するように私をひと睨みすると、車を走らせて去っていった。

私は本能的に追いかけようとしたが、錆びた義足がもつれて、地面に激しく倒れこんだ。

この時、正幸からメッセージが届く。

【あとで説明する。弥生は何も知らないんだ。彼女を巻き込まないでくれ】

義足が歩道の隙間に挟まり、どうしても抜けなかった。

私は焦って涙がこぼれそうになった。その時、私の視界に一人が入り込む。

それは正幸だった。

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路上で歌い続けて七年。やっと彼氏と結婚できるだけのお金を貯めた。真夜中、そろそろ片付けて家に帰ろうとしたとき、一人の女性が私の前に現れた。「気分が優れなくて……二三曲、歌ってくれない?」彼女は私の足が不自由なことに気づくと、迷わず十万円を振り込んでくれた。「こんな遅くにごめんね。でも、どうしても誰かと話したくて。悪いから、私のわがままを聞いてくれない?」スマホの振込入金通知を見て、私はうなずいた。これで彼氏は家賃のことで悩まなくて済む。大雨の日だって、無理に出前に行かなくていい。彼女は愚痴を吐き出し始めた。「結婚して五年になるんだけど、今日、妊娠してることが分かったの。それを伝えたくて彼のところに行ったら、ポケットにダイヤの指輪が入ってた。どう聞いても教えてくれなくて、腹が立って飛び出してきちゃった。ねえ、浮気してると思う?」迷いながらも何か慰めの言葉をかけようとした。そのとき、彼女のスマホが鳴り響いた。向こうの男の声は困ったように、それでいて甘かった。「バカだな、お前。あれはお前のために特注した指輪だ。サプライズのつもりだったのに、まさか先に見つけちゃうなんてな。今どこにいる? 迎えに行く」あまりにも聞き慣れたその声に、私は全身の血の気が引いた。彼女のスマホに表示された名前は、私の恋人・川村正幸(かわむら まさゆき)とまったく同じだった。スマホのスピーカーモードがオンになっている。私はぼんやりと、耳元で響く正幸の声を聞いていた。女性が気まずそうに言う。「知らなかったんだもん。だってあなたがちゃんと言わないから悪いんでしょ!」正幸が軽く笑う。「わかったわかった、全部俺が悪かった。で、今どこにいるか教えてくれる?迎えに行くから」藤田弥生(ふじた やよい)が場所を伝えると、正幸はすぐに心配そうな声をあげる。「夜は危ないよ。すぐ行く」私の心が凍りついた。弥生がただ拗ねて出かけただけなのに、正幸は彼女の安全を心配している。なのに、これまでの数年間、私は毎日一人で粗末な機材を担ぎ、不自由な足を引きずって、あちこちで路上ライブをしていた。熱を出しても休むことすらできなかった。警察に追い払われ、チンピラに絡まれながら、喉がかれて血が出るまで歌い続けて、ようやく投げ銭
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第2話
普段は一番見慣れているその顔が、今はなぜか知らない人のように思えた。彼はぼろぼろの私を見て、眉をひそめながらも、優しく私を起こしてくれた。それから片膝をつき、丁寧に義足を私の脚に取り付ける。私の鼻の奥がツンとして、涙をこらえた。「どうして騙してたの?」一日中歌っていたせいで、喉は完全に枯れ果て、ひどく耳障りな声に聞こえる。正幸が急に力を込めた。断端に走る痛みに、私は息を呑んだ。彼が冷たい口調で言う。「お前が弥生の前に出るべきじゃなかったんだ」彼は私がわざと弥生を挑発しに行ったと思っているらしい。信じられなくて、涙がこぼれ落ちそうだった。「あなたが貧乏のふりをしてなかったら、私だってこんな不自由な脚を引きずって、路上で歌ったりしなかったわ!」取り乱して彼を押しのけた。だが正幸は私の手をつかみ、私を抱き上げると車の後部座席に押し込んだ。助手席には正幸と弥生のツーショット写真が置いてある。彼は身を乗り出してシートベルトを締めてくれる。しかしその口にした言葉は、冷たかった。「実はな、二年目にはもう事業は軌道に乗ってた。借金もとっくに返し終わっている。貧乏だっていうのは全部嘘だ。弥生は俺の政略結婚の相手だ。彼女と結婚してから、事業は右肩上がりで、今では東都の大富豪ってところだ。詩織、俺は貧乏を経験して、金がいかに大事か思い知った。藤田家のお嬢様を蹴って、お前と苦労するわけにはいかないだろ?」視界が涙でぼやける。涙とともに、思い出が次々とよみがえってきた。正幸は破産した後、莫大な借金を背負い、安アパートで毎晩やつれ果てていた。私は徹夜で目を真っ赤にしながらも、彼が自暴自棄にならないかと怖くて一睡もできなかった。ある日、借金取りたちが押しかけてきた。私は正幸を守ろうとして、逆上した男に右足を切り落とされた。私が血だまりに倒れると、正幸は初めて彼らの前にひざまずき、叫ぶように約束した。「金は必ず返す。だから頼む、まず彼女を病院に連れて行ってくれ!」退院後、私は絶望を押し殺し、不自由な体に必死に慣れようとした。普通の人を装って、正幸のそばに寄り添った。コンビニの期限切れ間近の弁当を買い、茶碗が割れれば接着剤でくっつけた。最低の義足を使い続け、脚が擦り剥けて血まみれになっても買い替え
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第3話
頭の中が真っ白になった。「お母さん、私……」言い終わる前に遮られた。「まだ私をお母さんだと思うなら、すぐに帰ってきなさい!」スマホが震え続け、ひどい言葉ばかりが届く。弥生が昨晩のドライブレコーダーの映像を公開したのだ。【かわいそうに思ってお金を渡したのに、よくも夫を誘惑してくれたわね!】さらに誰かが、私の悪質な加工写真をアップし、露出度の高い服で街に立ち、弱者への同情を利用して男を誘惑すると書きこんだ。コメント欄は非難の嵐だった。【風紀を乱す人間は死ねばいい】【足がないのは自業自得だ】悔しくて涙が出た。でも、周囲の人は私が不倫相手だと聞くと、誰一人助けてくれなかった。必死の思いで病院にたどり着いた。義足の関節部分が擦り切れ、飛び出した金属が肉に食い込んでいた。母に平手打ちされた。「お父さんが倒れたのは、あんたのせいよ!不倫するような娘なんて、うちにはいらない!」かつて、正幸の借金が両親に迷惑をかけるのを恐れて、電話さえできなかった。両親は怒りつつも私を不憫に思い、毎月、節約してはこっそりとお金を仕送りしてくれていた。私は頬を押さえ、掠れた声で言った。「私は不倫なんてしてない……」そのとき、正幸が怒りの顔で歩み寄り、勢いよく私を突き飛ばした。「俺は言ったよな、このことは弥生には関係ないって!なんで彼女にちょっかい出したんだ!」パランスを崩して倒れ込んだ。正幸は私の手首を乱暴につかんで外へ引きずっていく。「お前のせいで弥生は流産しかけたんだ。さっさと謝りに行け!」「彼女こそ不倫相手でしょ。なんで私が謝らなくちゃいけないの!」私は正幸の手に思いきり噛みついた。痛みに顔を歪めた正幸は、私を乱暴に振り払う。それでも私が睨み返すと、正幸は怒りに任せて笑った。「今すぐ、お前の父の治療を全部止めてやる」母が慌てて私の背中を押した。「詩織、お父さんを殺す気か!」私が動かないでいると、母は突然正幸の前に膝をつき、ズボンの裾を掴んで必死に縋った。「私が謝ります……どうか主人を助けてください……」いい歳をした母が正幸に頭を下げる姿を見て、胸が張り裂けるかと思った。泣きながら母を制し、血走った目で正幸を見据える。「お父さんを助けてくれるなら、彼女に謝る」
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第4話
全身の血が一気に頭へと駆け上がって、私は父の病室へと慌てて戻った。父はまだ昏睡状態のままだった。テレビ画面には、まるで尊厳のかけらもない犬のように、床にひれ伏して弥生に頭を下げる私の姿が映し出されている。その動画もまた、ニュースで取り上げられていた。世間は、恥知らずだの、障害者のイメージを汚すなだのと罵っていた。私は父の布団の端をそっと整える。胸の奥を締めつけるような感覚に襲われ、涙をこらえながらテレビの電源を切った。そのとき、病室の入り口で物音がした。なんと、そこに立っていたのは弥生だった。彼女は顔中に悪意をたたえて、こう言い放った。「私の男を誘惑して、おまけに私のお腹の子を殺しかけたくせに、謝れば許してもらえると思ったの?あなたの家族はみんな最低よ。死んでしまえばいい!」弥生の顔には冷酷な笑みが浮かんでいた。私が恐怖で見開く目の前で、彼女は父の命をつなぐ酸素チューブを引き抜いたのだ。「やめて!」私は狂ったように飛びかかったが、彼女が連れてきたボディガードにがっしりと押さえつけられてしまう。父の頭は力なく横に傾き、やせ細った体からは完全に生気が失せていた。父は、死んだ。そこへ偶然駆けつけた母がその光景を目にした。逆上して弥生に飛びかかったが、彼女に強く突き飛ばされてしまう。母のこめかみが壁にぶつかり、そのまま意識を失った。「お母さん!」私は絶望の叫び声をあげ、もがきながら母のもとへと這い寄った。床には、私の不完全な足がつけたおぞましい血の跡が残る。弥生は勝ち誇ったように立ち去った。私は母の体を抱きかかえたまま、声もなく泣き崩れた。助けを呼ぼうにも、病院のスタッフは正幸の指示で全員いなくなっていた。絶望のあまり、私はSNSに一文を投稿した。【私と正幸は七年前から付き合っていた。本当の不倫相手は藤田弥生だ!】それから間もなく、正幸が病室へ飛び込んできた。「頭がおかしいのか!今すぐ投稿を消せ。さもないと、今すぐお前の父を追い出すぞ!」私は無表情のまま答えた。「父は、藤田弥生に殺された」正幸は、冷たくなった父の体におそるおそる視線を向け、疑わしげな表情を浮かべた。後を追って来た弥生は泣きそうな声で言った。「あなた、私、お腹に赤ちゃんもいるのに、そんなことでき
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第5話
正幸は慌てて振り返った。少し離れた場所では、人々が大混乱に陥っていた。パトカーのサイレンと救急車の音が入り混じっている。なぜだかわからないが、正幸の胸のうちに、これまでにない不安が込み上げてきた。無意識にそちらへ駆け寄ろうとしたが、その手首を弥生に掴まれる。「あなた、お腹が痛いの……」正幸の顔に迷いの色が浮かんだ。それでも結局、アクセルを踏み込み、まずは弥生をかかりつけの産婦人科に運ぶことにした。心の中で自分に言い聞かせる。世の中、足の不自由な人間は大勢いる。まして相手は妊婦だ。詩織であるはずがない、と。車を発進させると、さっきまで苦しんでいた弥生が、急に静かになった。甘えるような声で正幸に話しかける。「ねえ、あなた。男の子と女の子、どっちが好き?」正幸は適当に考え、心ここにあらずで答えた。「どっちでもいいよ」実は、正幸と詩織の間にも、かつて子どもができたことがある。ただ、彼女が妊娠した矢先に、正幸は破産した。あの頃は借金取りに追われて、自分たちの生活で手一杯で、子どもを育てる余裕などなかった。だから詩織は泣く泣く子どもを堕ろした。その後、詩織の右足は借金取りに切断されてしまった。それ以来、正幸はただひたすら、詩織を大切にしようと心に決めていた。弥生は正幸の心ここにあらずの態度を見抜いて、不満だった。彼女にはわかっている。正幸の気持ちが詩織に向いている。あの泥棒猫、本当に憎たらしい。足が不自由なくせに、まだ正幸にまとわりつくなんて。幸い、もう手を回して詩織を痛めつけてやった。これで二度と、自分の男を奪おうなんて思わないはずだ。弥生が何か言いかけたちょうどその時、突然、腹部に痛みが走り、苦痛の叫び声をあげた。正幸はもともと苛立っていたところへ、さらに不愉快そうに眉をひそめる。「もう病院に向かってるんだ。いい加減、芝居はやめろ。本当にそんなに痛いのか」弥生の額からは冷や汗が止めどなく流れ、痛みで顔が歪んでいる。正幸の冷たい口調など気にする余裕もなく、彼の手をぎゅっと握りしめた。「痛い……早く病院に連れてって」正幸が振り返ると、シートが真っ赤に染まっている。ただごとではないと察し、すぐにアクセルを踏み込んだ。できる限り急いだものの、病院に着いたときにはす
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第6話
詩織の名前を耳にした瞬間、正幸の頭は真っ白になった。ハンマーで頭を殴りつけられたような衝撃。あらゆる感覚が一瞬で消え失せる。周囲の話が、はるか遠くから響いてくるように聞こえた。「あの子もバカだよな。十年近くも男に尽くして、ずっと陰で支え続けてきたんだろ。そこまで長く付き合って結婚しないなんて、誰が見たっておかしいってわかるはずだ」「本当に愛してるなら、十年も引き延ばすわけがない。男のほうに、やましいことでもあるに決まってる」もう一人が、怪訝そうな顔で口を開く。「でもネットじゃ、飛び降りた女のほうが不倫相手で、本命はどこかの令嬢だって噂もあるんだぜ。なんであの小林って人は不倫相手じゃないって言い切れるんだ?」「不倫相手なんかじゃない!」その言葉が終わらないうちに、はっと我に返った正幸が、鋭い声で遮った。二人は突然の大声に驚き、まるでおかしな者を見るような目で正幸を見る。「俺たちはネットの噂話をしてただけだ。なんでそんなにムキになるんだよ」一人が正幸の顔をまじまじと見つめた。その目が大きく見開かれ、驚愕の色に変わる。「お前……川村正幸か?彼女を捨てた男って、お前なのか」けれど、そのときの正幸の頭の中は、たった一つの思いでいっぱいだった。詩織に会いに行かなくては。彼は狂ったように病院を飛び出した。まだ手術室にいる弥生のことなど、きれいさっぱり忘れ去っていた。アクセルを床まで踏み込み、現場へと急ぐ。だが現場はすでに封鎖されていて、飛び降りた本人も、とっくに葬儀場へ運ばれたあとだった。地面に残る、まだ乾ききっていない血の跡が、正幸の目に深く突き刺さった。彼は慌てて意識を引き戻すと、すぐに病院の監視カメラの映像を取り寄せた。映像に映っていたのは、片足を引きずりながら、尊厳もへったくれもない犬みたいに、床へ力任せに押さえつけられる詩織の姿だった。詩織は、弥生が酸素チューブを抜き取るのを、ただ呆然と見ていることしかできなかった。正幸は、心臓を引き裂かれたような感じがした。そういうことだったのか。思えば、詩織はもともと理不尽な人間じゃない。なのに、なぜ突然、弥生をあんなふうに責め立てたのか。あのとき、心のどこかで疑問に思った。けれど弥生は、大事に育てられた令嬢で、そのうえ妊娠までしている。
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第7話
正幸が、弥生の入院先に戻った。だが、彼女が流産したと知らされた。病室に足を踏み入れると、弥生は正幸の顔を見るなり、かっとなって怒りをあらわにした。「正幸、どこに行ってたの。私が流産したってのに、そばにもいない。またあの泥棒猫のところに行ってたの?」けれど今回は、いつものようになだめたりはしなかった。正幸は鼻でせせら笑う。「泥棒猫?自分のことを言ってるのか」弥生は一瞬、言葉を失った。まさか、そんな口をきかれるとは思ってもみなかったのだ。恥と怒りで頭に血が上り、声を荒らげた。「どういう意味よ。私をバカにしてるの?正幸、私たちの子は、あの女に殺されたんだから。あいつが私を怒らせて、ひどく気持ちを揺さぶったから流産したのよ。なのにあなた、あいつを庇うわけ?」そう叫ぶと、弥生は手にしていたコップを正幸に投げつけた。正幸はそれをひらりとかわす。「俺たちの子がどうして流れたのか。お前、わかってるんだろう」そのひと言に、弥生の胸がぎゅっと締めつけられた。なぜそんなことを言うのだろう。まさか、気づいているの。いや、そんなはずはない。完璧に隠しおおせてきた。知られるわけがない。そう思いながら、弥生は頑として白を切った。「何を言ってるの。意味がわからないんだけど」正幸は、もう我慢の限界だった。アシスタントから受け取った資料を、弥生に乱暴に投げつけ、嘲るように言い放つ。「俺を馬鹿にしてるのか。妊娠してるくせに、バーで朝まで男と遊んで、何人もの男と肩を組んで出てきたんだろうが。しかも、ここ数日はずっと家に帰らず、連絡がつかなくなっていた。それでごまかしきれるとでも思ったのか」写真を見たとたん、弥生の顔色がさっと青ざめた。ちらりと目をやっただけで、すぐに視線を背ける。まともに見る勇気など、とても持てなかった。あの数日は、たしかに刺激的で、めちゃくちゃだった。酒に飲まれて、勢いでやってしまったことばかりだ。今では弥生自身、思い返すだけで恥ずかしくなる。弥生は声を震わせた。「……全部、知ってたの」正幸は冷たく言い捨てる。「これを見つけなければ、まだ俺の前で愛してるふりを続けるつもりだったのか。ついでに教えておく。俺は、ごまかしを許さない。お前が必死にかばっていたあのヒモ男なら、外国に飛ばしてやったよ
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第8話
正幸は逆鱗に触れられたかのように激怒した。弥生に飛びかかると、その首を力任せに締め上げた。「よくも詩織に手を出したな。お前の仕業だろ?詩織の父の酸素チューブを抜いたのも、詩織がお前を陥れたと俺に嘘をついたのも、全部お前なんだな。弥生、よくもそんなことを。ずっと誤魔化せると思っているのか」首を絞められ、弥生の顔が赤く染まる。それでも彼女は正幸を見つめ、口元には嘲るような笑みを浮かべていた。「それがどうしたの。あなた、バカみたいにずっと私に騙されてたじゃない。正幸、私が失ったのは、たかが遊びの男よ。お金さえあれば、そんな男はいくらでも代わりがきく。でも、あなたはどう?あなたが裏切ったのは、心から愛して、十年近くもそばにいてくれた女じゃない。彼女はあなたの一番つらい時期を一緒に乗り越えて、それなのに、自分の手で彼女を捨てた。あなたのために片足を失って、人生でいちばん大切なものを全部失った。それでもあなたは、彼女を何度も深淵に突き落としただけよ。正幸、私だっていい人じゃない。でも、あなたは私より先に地獄に落ちる。あなたの罪は、私のよりずっと重いんだから」その言葉が、正幸の胸のいちばん痛む場所をえぐった。次の瞬間、ドスンと大きな音がして、弥生の体はベッドから蹴り落とされた。もともと流産で弱っていた弥生の顔色は、さらに青ざめる。だが、正幸に向ける視線は、ますますあざ笑うかのように光っていた。「やっと本性を現したわね。あなた、最初からそういう男だったのよ!私がなにも調べてないとでも思ってたの?あなたと彼女のことは、とっくの昔から知ってた。わざと彼女に私たちの関係を気づかせたのよ。あなたがどんな反応をするのか、見てやろうと思ってね。まさか、想像以上に卑劣な手に出るとは思わなかったけどね。あの時、すぐに私に打ち明けてくれていたら、少しは見直してあげるかもしれない。最初からあなたは、まるで飼い犬みたいに私の手のひらで転がされていただけ。そして、唯一あなたのことをまともに見てくれていた人は、あなたが殺したのよ」「黙れ!」正幸はそう怒鳴ると、弥生の頬を二発、平手打ちした。その顔色は、ぞっとするほど悪くなっている。「そうだ、俺は罪深い男だ。だが、お前だけは楽にはさせない」言い捨てると、彼は弥生から手を離し
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第9話
正幸が人目もはばからず泣きじゃくる姿を見ても、私の心は妙に冷静だった。かつての私は、いつだって彼の気持ちを最優先にしてきた。小さい頃からプライドが高いのを知っていたから、破産のショックでつぶれてしまわないかと心配で、毎日あれこれ手を尽くして笑わせようとした。彼は貧乏のフリして、私を騙したあの時期でさえ、私は明るく振る舞い続けた。つらいことも疲れもすべて胸の内にしまい込み、彼にプレッシャーをかけないように必死だった。でも、今はもう吹っ切れている。正幸という男は、最初からそこまでしてもらう価値などなかったのだから。ただ、あの子のことだけは少し胸が痛む。妊娠したことさえ知らずにいたのに、その未来を、私自身が知らぬ間に閉ざしてしまった。私のお腹からは、これまでに二人の子どもが失われている。今のこのざまは、きっと神が私に与えた罰なのだろう。人を見る目がないまま、長い年月を正幸に無駄に費やした報いなのだ。けれど、なぜだろう。死んだあとも魂は消えず、私は無理やり川村正幸のそばに縛りつけられてしまった。ついさっき、彼が弥生と対峙した場面も、私は一部始終を見ていた。驚いたことに、弥生は最初からすべてを知っていたのだ。それなのに、彼女は利益のために正幸との政略結婚を選んだ。しかも結婚後は互いに好き勝手に振る舞いながら、正幸を心から愛しているかのように装っていた。やはり、利益の前では、感情などいつだって取るに足らないものらしい。私の遺体が火葬炉へと運び込まれる。その瞬間、正幸が子どものように泣きじゃくるのが見えた。彼はもがき、なりふり構わず炉にすがりつき、両手を高熱で焼けどした。それでも痛みなど感じていないかのように、まるで、それが大切な宝物であるかのように、泣きながら私の遺体を抱きしめた。だが、私にはただ吐き気がこみ上げるだけだった。生きているときも、死んでからも、正幸とはもう一切関わりたくない。正幸は私の遺骨を持ち帰ると、どこへ行くにもそれを持ち歩いた。そして、彼は本当に藤田家への復讐を始めたのだ。彼自身も大きな痛手を負った。藤田家のほうは立ち直れないほど叩きのめされ、巨額の借金まで背負い込んだ。弥生は、これまで何ひとつ不自由なく育ったお嬢様だ。そんな天地がひっくり返るような激変に耐え
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第10話
私は正幸を見つめていた。彼が一体何をしようとしているのか、まったくわからなかった。生きている間は辛いことばかりだった。それでも、こうして彼を見ていると、ほんの少しだけ胸が熱くなるのを感じた。というのも、彼が母を救ってくれたからだ。あのとき、母は弥生に突き飛ばされ、壁に頭をぶつけて意識を失った。幸い、正幸が差し向けた人たちがぎりぎりで駆けつけてくれた。もし少し遅れていたら、母は本当に助からなかったかもしれない。私が死んだと知らされた母は、身を引き裂かれるように泣き叫んだ。そのまま泣きながら正幸を追い出した。彼は目を赤くして、それ以上そこにいることもできず、ただ母にまとまったお金を差し出すだけだった。そんな母の姿を見て、私の胸は悲しみと苦しみでいっぱいになった。親不孝な娘で、ごめん。生きているうちは幸せにできなかったのに、死んだあとまで、こんなに大きな悲しみを背負わせてしまう。お母さん、私のことは忘れて。そのお金で、どうか穏やかな生活を送ってほしい。正幸は、ある墓石の前に立った。その表面には何も刻まれておらず、ただまっさらだった。彼はナイフを取り出すと、力を込めてゆっくりと文字を刻みはじめた。口元がかすかに動いている。「詩織、俺が悪かった。お前は人に触れられるのが嫌いだったから、この墓石だけは俺が自分の手で刻むよ」しかし、どれだけ力を込めても、墓石には傷ひとつつかなかった。私が彼の真正面に立ちはだかり、必死に遮っていたからだ。その様子を見て、私はほっと胸をなでおろした。私の目には、はっきりと見えていた。正幸が刻もうとしているのは「妻・川村詩織」という文字だ。そして、私はもうこれ以上、彼と少しでも関わりたくなかった。正幸は何度も何度も試みたが、すべて無駄に終わった。次の瞬間、彼の目にみるみる涙があふれた。声を震わせながら、傷ついたように言った。「詩織、お前は俺を罰しているのか……?死んでからも、俺と一切関わりたくないっていうのか……?」けれど、返事はない。彼の涙は風にさらわれていった。「……わかった。俺はお前をあんなにひどい目にあわせた。代償を払うのは、当然だよな」その言葉に、いやな予感が胸をよぎった。恐怖で見開いた私の目の前で、正幸はそのナイフを手に取り、刃先を自分へと向けた。そ
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