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夫の愛人と子を救った夜勤の緊急オペ

夫の愛人と子を救った夜勤の緊急オペ

By:  椿Completed
Language: Japanese
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夜勤中、緊急オペの連絡が入った。 私、相原莉都(あいはら りと)のもとに運ばれてきたのは、若い女性だった。 夫との行為が激しすぎたせいで胎児に負担がかかり、大量出血を起こしていた。 手術中、彼女は怖いからと、どうしても私と話したがった。 「先生、結婚してるんですか?」 私は小さく頷いただけで、何も言わなかった。 「先生は知らないと思いますけど、うちの人、肌が触れていないと落ち着かないんです。私だけが落ち着かせてあげられるから、毎日どうしてもって求めてくるんですよ。 正直、体はかなりきついです。でも嬉しいんです。だって、それだけあの人が私しか見てないってことじゃないですか。 先生の旦那さんも、先生のことを強く求めてくれますか?」 その言葉に、欲とはいちばん縁遠そうな顔が、ふと頭に浮かんだ。 私はやはり何も答えなかった。 手術が終わり、私は彼女を乗せたストレッチャーを押して、手術室の外へ向かった。 「鳴海結愛(なるみ ゆあ)さんのご家族はいらっしゃいますか?」 「俺です」 その声を聞いた瞬間、私はその場で凍りついた。 声の主は、「修行中だから、3年間はそういうことをしない」と言い続けていた、私の夫――鳴海英孝(なるみ ひでたか)だった。

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第1話
夜勤中、緊急オペの連絡が入った。私、相原莉都(あいはら りと)のもとに運ばれてきたのは、若い女性だった。夫との行為が激しすぎたせいで胎児に負担がかかり、大量出血を起こしていた。手術中、彼女は怖いからと、どうしても私と話したがった。「先生、結婚してるんですか?」私は小さく頷いただけで、何も言わなかった。「先生は知らないと思いますけど、うちの人、肌が触れていないと落ち着かないんです。私だけが落ち着かせてあげられるから、毎日どうしてもって求めてくるんですよ。正直、体はかなりきついです。でも嬉しいんです。だって、それだけあの人が私しか見てないってことじゃないですか。先生の旦那さんも、先生のことを強く求めてくれますか?」その言葉に、欲とはいちばん縁遠そうな顔が、ふと頭に浮かんだ。私はやはり何も答えなかった。手術が終わり、私は彼女を乗せたストレッチャーを押して、手術室の外へ向かった。「鳴海結愛(なるみ ゆあ)さんのご家族はいらっしゃいますか?」「俺です」その声を聞いた瞬間、私はその場で凍りついた。声の主は、「修行中だから、3年間はそういうことをしない」と言い続けていた、私の夫――鳴海英孝(なるみ ひでたか)だった。……「結愛、つらかったな」英孝はそう言って、結愛の額にそっと口づけた。あんなに必死で、あんなに大切そうに誰かを見つめる英孝を、私は一度も見たことがなかった。結愛が落ち着いたのを確かめてから、英孝はやっとこちらを向いた。手術帽とマスクで顔がほとんど隠れていたせいか、英孝は私に気づいていないようだった。胸元の名札にも目をやらないまま、英孝は焦った声で聞いてきた。「先生、赤ちゃんは無事なんですか?」喉がひどく乾いて、しばらく言葉が出なかった。そばにいた看護師が、私の代わりに答えた。「赤ちゃんはいま保育器で様子を見ています。このまま落ち着いていれば、数日後には退院できる見込みです」その言葉を聞いて、英孝はようやくほっと息をついた。彼はもう一度結愛に口づけると、申し訳なさそうに言った。「結愛、ごめんな。今回は全部、俺が悪かった」結愛は笑って首を横に振った。「そんなに責任を感じないでよ。あなたが私のこと好きすぎて、つい止まらなくなっちゃっただけなんだから。
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第2話
「緊急手術になりましたので、このあと救急受付で入院の手続きをお願いします」そこで看護師は一度言葉を切った。それでも、やはり黙ってはいられなかったのだろう。「それと、妊娠中の性行為にはくれぐれも気をつけてください。今日、相原先生がいなかったら、お母さんも赤ちゃんも危ないところでした」英孝の顔が、また固まった。少し間を置いてから、ようやく口を開く。「……相原先生、ありがとうございました」本当なら、その場で英孝を平手打ちしてやりたかった。そしてみんなの前で、その嘘を暴いてやりたかった。けれど、そんな姿だけは見せたくなかった。私のプライドが、それを許さなかった。私は必死に感情を押し殺し、やっとのことで答えた。「……いえ」そのあと、医師として必要な注意事項だけを伝えた。背を向けようとしたそのとき、結愛が私を呼び止めた。結愛は英孝に甘えるような視線を向けてから、私に申し訳なさそうに笑った。「相原先生、すみません。うちの人、人前だと照れちゃうんです。2人きりになると、あんなに迫ってくるのに。退院して落ち着いたら、家族3人でお礼させてください。ぜひお食事でも」私の声は、少しかすれていた。「お気持ちだけで十分です。医師として当然のことをしただけですから」それ以上2人に何も言わず、私はそのまま診察室へ戻った。診察室の扉が閉まった途端、足から力が抜けた。壁に背を預け、そのまま床に座り込むと、マスクの中で押し殺していた嗚咽が漏れた。そのとき、白衣のポケットの中でスマホが震えた。英孝からのメッセージだった。【莉都、ごめん。夜勤が終わったら、ちゃんと説明させてくれ】……夜勤が明ける少し前、英孝から「駐車場で待っている」とメッセージが届いた。私は返事をせず、1人でタクシーに乗って帰った。玄関のドアを開けるなり、そこに飾ってあった2人の写真をゴミ箱に放り込んだ。それから大きなゴミ袋を引っ張り出し、英孝の物を1つずつ中へ放り込んでいった。英孝と過ごした、この半年余り。籍を入れていないことと、体の関係を持っていないことを除けば、私たちは普通の新婚夫婦と何も変わらなかった。けれど今思えば、おかしなところはいくつもあった。英孝は一度も、私の職場まで迎えに来たことがない。
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第3話
「ごめん、莉都」その声から、本気で謝っているのは伝わってきた。だからこそ、余計に吐き気がした。帰りのタクシーの中で、私はずっと考えていた。もう一度英孝の顔を見たら、その場で何度も叩いてしまうかもしれない。喉が潰れるまで、出ていけと叫んでしまうかもしれない。けれど、先に泣くだけ泣いたせいだろうか。いざ英孝を目の前にすると、不思議なくらい冷静だった。私はゴミ袋を英孝の足元に投げ出した。「あなたの物よ。持って出ていって」けれど英孝は、ゴミ袋には見向きもしなかった。そのまま私のところへ来て、手首をつかむ。「莉都、頼む。話を聞いてくれ」私は英孝を見た。自分でも驚くくらい、冷たい声だった。「聞くって、何を?あの人はあなたの妻なんでしょう。あの赤ちゃんだって、あなたの子なんでしょう。違うって言うなら、今すぐ病院に戻ろう。本人の前で確かめるから」英孝は何も言えなくなった。しばらく黙ったあと、低い声で答えた。「……俺の子だ」「じゃあ、籍も入れてるの?」英孝はうなずいた。「結愛の妊娠がわかったときに、籍を入れた」思わず笑ってしまった。自分でも嫌になるくらい、乾いた笑いだった。「私たちが付き合ってまだ半年。なのに、あの人はもう妊娠9か月。つまり、あなたが私と見合いしたときには、あの人のお腹にはもう3か月の子がいたってことよね。修行だから待ってほしいなんて、よくそんな都合のいい嘘をつけたわね。結愛がいたから、私を抱こうとしなかったんでしょう?そんなにあの人が大事なら、どうして私に近づいたの!」最後はもう、叫ぶような声になっていた。私が振りほどこうとしても、英孝は構わず、力ずくで私を抱き寄せた。「ごめん。本当にごめん、莉都。最初に見合いを受けたのは、確かに親を納得させるためだった。親が結愛の実家のことを気にして、どうしても俺たちの結婚を認めてくれなかったんだ。でも、お前に惹かれたのは嘘じゃない。好きになったのも、本当なんだ。最低なことをしてるって、自分でもわかってた。いつかお前を傷つけることになるのもわかってた。だから、結愛とのことに区切りをつけるまでは、お前に手を出しちゃいけないと思って、ずっと我慢してた」私は全身の力を振り絞って英孝を押しのけ
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第4話
結愛だけは、妙に嬉しそうだった。「相原先生、やっと来てくださったんですね。ほら、見てください。うちの子、うちの人にそっくりでしょう?」視線を落とすと、おくるみに包まれた小さな顔には、悔しいくらい英孝の面影があった。また目の奥が熱くなった。それでも、結愛と研修医の前でだけは取り乱すまいと、必死にこらえた。結愛の状態を確認し終えると、私は1秒でも長くそこにいたくなくて、逃げるように病室を出た。けれど、私が自分の診察室に戻るとすぐ、英孝も追いかけてきた。止める間もなく、英孝は内側からドアの鍵をかけた。「何をするつもり?ここは病院よ。あなたの奥さんと赤ちゃんは、まだ病室にいる。これ以上近づかないで。変な噂を立てられたら迷惑だから」けれど英孝は、まるで聞いていないようだった。「莉都、この数日は休みを取れ」その言葉に、呆れて笑いが漏れた。「本気で私を愛人扱いするつもり?奥さんと顔を合わせないように、私に隠れてろってこと?」「そういう意味じゃないって、わかるだろ」返事をする気にもなれなかった。私は英孝の横を通り過ぎ、彼がかけた鍵を開けた。英孝はしばらく私を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。「莉都、結愛は産んだばかりだ。今、離婚の話なんてできるわけがない。でも、俺にとって妻はお前だけだ。親たちも、お前を鳴海家の嫁だと認めている。紙一枚に、そこまでこだわる必要があるのか?籍を入れないと言ってるんじゃない。少し時間が欲しいだけだ。子どもがもう少し大きくなったら、必ず結愛とは別れる」私はそれでも黙っていた。とうとう英孝も我慢の限界だったのだろう。さっきまでの柔らかさが、声から消えた。「莉都、忘れるな。相原家はいまも鳴海家の世話になってる。お前が何不自由なく医者を続けていられるのも、俺がお前の親に数億円の仕事を紹介してやったからだ。親に話したところで同じだ。きっと『少しくらい我慢しなさい』と言われるだけだろうな。俺がお前を好きだから、ここまで黙って聞いているんだ。勘違いするな。今回の件は俺が悪かった。休みたくないなら、結愛は転院させる。それでいいだろ。だが、これ以上騒ぐな」そう言い捨てて、英孝は部屋を出ていった。私はソファに崩れるように座り込んだ。怒り
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第5話
結愛はそう言いながら、ベビーコットの中の赤ん坊をあやしていた。その声は、何でもない世間話をしているみたいに落ち着いていた。「うちの人、外にもう一人女がいるんです。しかも、産婦人科の先生なんですよ」私は息をのんだ。あのメッセージは、結愛が送ってきたものだった。「相原先生なら、誰のことかわかりますよね?」そう尋ねてはきたものの、最初から決めつけているような口ぶりだった。私が黙っていると、結愛は鼻で笑った。「本当は、こんなに早く言うつもりはなかったんです。でも相原先生、なかなかやりますね。うちの人に、私を転院させるよう仕向けるなんて」否定しようと口を開いた。けれど、うまく声にならなかった。「そんなこと、してません」少しして、ようやく続けた。「英孝があなたと籍を入れていたことも、知りませんでした」「知らなかったで済むと思ってるんですか?あなたが不倫相手だったことに変わりはないでしょう」結愛の声が荒くなった。それでも、医師として見過ごすわけにはいかなかった。「出産直後です。あまり興奮しないでください」けれど、私が言い終える前に、結愛は突然、赤ん坊を抱いたままベッドから転がり落ちた。そしてよろめきながら私の前まで来ると、その場に膝をついた。赤ん坊の甲高い泣き声が耳に刺さる。その瞬間、嫌な予感がした。案の定、すぐに看護師が勢いよく病室のドアを開けた。その途端、結愛は私に向かって土下座し、何度も頭を下げ始めた。「相原先生、お願いします。主人を取らないでください。この子はまだ生まれたばかりなんです。この子から父親を奪わないでください。先生は若くてきれいで、仕事だってあるじゃないですか。相手なんていくらでも見つかりますよね?それなのにどうして、わざわざ人の家庭を壊してまで、うちの人を奪おうとするんですか!」頭の中が真っ白になった。そのあと、周りで何が起きたのか、ほとんど覚えていない。ただ、いつも親しくしてくれていた同僚たちの目が、いつの間にか冷たくなっていたことだけは覚えている。私を買ってくれていた上司にも、しばらく休んだほうがいいと言われた。私の説明を聞いてもらえることはなかった。けれど、それで終わりではなかった。結愛が赤ん坊を抱いたまま私に土下座する動
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第6話
20数時間のフライトと2度の乗り継ぎを経て、私はようやく目的地に着いた。迎えに来てくれたのは、今回の医療支援チームの副リーダー、梓川渉(あずさがわ わたる)だった。私を見ると、渉はぱっと明るく笑った。「相原先生のことは聞いています。来てくださって、本当に助かります。ただ、ここは国内とは勝手が違います。環境もかなり厳しいですし、慣れるまでは大変だと思います」私も笑って答えた。「こちらこそ、受け入れていただけてありがたいです。大丈夫です。少しくらい大変なほうが、今の私にはちょうどいいので」どれほど厳しい場所でも、あの街に残って、すべての人から後ろ指をさされるよりはずっとよかった。あの男の顔が頭をよぎっただけで、少し笑えなくなった。幸い、渉はよく話す人で、移動中の空気が重くなることはなかった。ここは医療体制が整っていないのに、患者の数は多かった。覚悟はしていたつもりだった。それでも実際に来てみると、想像以上に厳しかった。ここでは、軽い病気なら近くで採れた薬草を煎じて飲む。重い病気になっても、診療所まで来られず、家で寝ているしかない人も多い。毎日の食事にも困っている人たちに、病院へ行くお金などあるはずがなかった。だから、この地域の平均寿命は40代にとどまっている。幼い子どもたちにとっては、無事に大きくなることさえ、決して当たり前ではなかった。私は隊員たちとゆっくり打ち解ける暇もないまま、慌ただしい現場に放り込まれた。けれど、その慌ただしさに救われた部分もあった。過去のことを思い出して、沈み込んでいる暇がなかったからだ。現地に着いて1か月も経たないうちに、厳しい環境に耐えきれず、若い医師が何人も去っていった。正直、最初のころは食事も合わず、硬いベッドにもなかなか慣れなかった。蚊に刺されただけでも、高熱につながる危険がある。だから私にも、ここを離れたいと思った瞬間はあった。それでも、お金がないだけで治療を諦める人たちの顔を見ていると、逃げ出すわけにはいかなかった。ここは不便で過酷だ。けれど、ここで出会う人たちは驚くほど素朴で、まっすぐだった。少しだけ息をつける時間ができたとき、渉が冗談めかして聞いてきた。「相原先生は、いつ帰るつもりなんですか?」私は頭上に広が
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第7話
思っていた痛みはなかった。誰かに抱きとめられた感覚だけが、ぼんやり残っていた。「莉都、莉都、どうした?おい、しっかりしろ!」意識が途切れる直前、英孝の声が聞こえた気がした。……次に目を覚ましたとき、私はキャンプのテントで横になっていた。手の甲には点滴の針が入っていた。顔を横に向けると、そこにいたのは、1か月半ぶりに見る英孝だった。こんな遠い場所まで、本当に私を捜しに来るとは思っていなかった。驚きはあった。けれど、それだけだった。胸が痛むことも、気持ちが揺れることもなかった。英孝はもう、私にとって遠い人になっていた。起き上がろうとした途端、椅子にもたれていた英孝がはっと目を開けた。目の下には濃い隈があり、目もひどく充血していた。ろくに眠っていなかったのだろう。英孝は慌てて私の肩を押さえ、ベッドに戻した。「動くな。やっと入った点滴なんだ」それ以上、無理に起き上がるのはやめた。英孝の言葉に従ったわけではない。ここの医療物資がどれだけ貴重か、私のほうがよく知っていたからだ。「どうしてここにいるの?」声は少しかすれていた。英孝は私を見つめ、苛立ちを隠さない声で言った。「お前、自分が何をしてるかわかってるのか。40度の熱があるのにオペに入るなんて、無茶にもほどがあるだろ。向こうにいれば、何不自由なく働けたはずだ。それなのに、どうしてわざわざこんな場所まで来たんだ。いくら俺に腹を立てていたからって、何も言わずに消えるのは違うだろ。お前が急にいなくなって、俺がどれだけ――」言い終える前に、私は英孝の言葉を遮った。「英孝、私たちはもう関係ないの。私がどこで何をしようと、あなたに口を出される筋合いはない。奥さんと子どものところへ戻ったら?」英孝の眉間にしわが寄った。言い返そうとした英孝は、ふと何かに気づいたように、口元を緩めた。「莉都、まだ妬いてるんだな。もう意地を張るな。あとで荷物をまとめて、俺と一緒に帰ろう。安心しろ。向こうのことは全部片づけてきた。ネットの記事も消したし、病院にも俺から説明してある。戻って大丈夫だ」あまりに自分勝手な言い方に、呆れてものも言えなかった。私は英孝を1度だけ見て、すぐに顔を背けた。「あなたとは帰らない。
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第8話
「だいたい、あの子ができていなければ、俺は結愛と結婚なんてしていない」私はしばらく英孝を見つめ、それからテントの外を指さした。「もう帰って。これ以上いるなら、人を呼ぶから」英孝は信じられないものでも見るように私を見たまま、動こうとしなかった。そのまましばらくにらみ合っていると、知らせを聞いた渉が駆け込んできた。「相原先生、大丈夫ですか?無理しないでって言ったでしょう。休めるときに休まないと、本当に体がもちませんよ」渉は英孝には目もくれず、まっすぐ私のそばまで来た。渉は私の顔色を見るなり、眉をひそめた。その顔を見て、私はようやく少しだけ笑みをこぼした。「もう大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」それでも渉は安心できないようで、ベッド脇のカルテに目を通した。ひとまず問題なさそうだとわかって、ようやく息をついた。「大丈夫そうに見えても、油断しないでください。ここで高熱を出すのは本当に危ないんです。少し対応が遅れただけで、命に関わることもありますから」「わかりました。先生って、意外と心配性なんですね」私と渉が話している間、英孝は黙ったまま渉を見ていた。私が渉には笑顔を見せるのに、自分にはまともに顔も向けないことが、よほど気に入らなかったのだろう。やがて英孝は、皮肉っぽく口を開いた。「莉都、俺と帰らない理由はこいつか?少し見ない間に、もう次の相手を見つけたのか」私のことなら、何を言われても構わなかった。でも、渉までそんなふうに言われるのは我慢できなかった。「英孝、自分がそういう目でしか見ていないからって、ほかの人まで一緒にしないで。梓川先生は同じチームの仲間よ。くだらない言い方はやめて」渉はそこでようやく英孝に目を向け、怪訝そうに私を見た。「相原先生、この方はお知り合いですか?」私が答えるより先に、英孝が口を挟んだ。「俺は莉都の夫です。迎えに――」言い終える前に、私は遮った。「梓川先生、こんな人、知りません」渉はすぐに察したようにうなずいた。「わかりました」それから英孝に向き直った。「ここは患者さんを診る場所です。関係者でない方は外へお願いします」それを聞いた瞬間、英孝の顔が険しくなった。英孝は私を見て、低い声で言った。「莉
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第9話
「あの町を出るって決めた時点で、向こうのことは全部置いてきたの。人も、家も、何もかも」母が亡くなり、父が再婚してから、あの家での私は、家の都合でどうにでもされる存在でしかなかった。私があれほど早く英孝との交際を受け入れたのも、父にそう迫られていたからだ。英孝とうまくいかなければ、私は家のために、妻に三度先立たれた50歳の成金に嫁がされるところだった。あのころの私は、英孝こそが救いだと思っていた。馬鹿みたいに、本気で。けれど結局、父も英孝も大差なかった。いや、英孝のほうがたちが悪い。父は最初から、自分勝手な人間だった。英孝は優しい夫の顔をして、私を騙していただけだった。銃を携えた大柄な警備員が本当に入ってくると、英孝は険しい顔のままテントを出ていった。あれだけはっきり言ったのだから、怒ってそのまま飛行機で帰るだろうと思っていた。ところが翌日、私はまたキャンプの入口で英孝を見かけた。今度は入口で警備員に止められていた。私の姿を見るなり、英孝は大声で叫んだ。「莉都、たぶん何かにあたった。腹が痛くてたまらないんだ。それなのに警備員が中に入れてくれない。ここは具合の悪い人間まで追い返すのか?」正直、関わりたくなかった。けれど英孝はひどく顔色が悪く、額には汗がびっしりにじんでいた。仕方なく、私は警備員に英孝を通してもらった。「腹痛なら、内科のテントはあちらです。ご自分でどうぞ」そう言って背を向けると、英孝は当然のように私のあとをついてきた。「莉都、診てくれないのか?」私はうんざりしながら振り返った。「私は産婦人科医です。鳴海さん、診てほしいのは婦人科ですか?それとも産科ですか?」私の声は小さくなかった。近くにいたボランティアが、こらえきれずに吹き出した。英孝の顔が一瞬こわばった。しばらく黙ったあと、英孝はふいに言った。「莉都、向こうでどうしても片づけなきゃいけない用がある。このあと発つ」私はただうなずいた。「そう。じゃあ、もう来なくていいから」少し間を置いて、私は続けた。「鳴海さんみたいなお坊ちゃんには、ここは向いてないわ。次からは無理しないで」けれど英孝は、私の言葉など聞いていないようだった。「莉都、向こうの用が片づいたら、また来る。今度こそ
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第10話
渉の少し不安そうな目を見て、私はようやく気づいた。帰りの飛行機でどこか落ち着かなかったのは、私がもうチームに戻らないのではないかと心配していたからなのだろう。私は思わず笑った。「もちろんです。あのチームが、今の私の居場所みたいなものですから」それを聞いて、渉はようやくほっとしたように笑った。私は空港からタクシーに乗り、予約していたホテルへ向かった。窓の外に流れる街並みは、記憶の中とほとんど変わっていなかった。変わってしまったのは、きっと私のほうだ。しばらくして、タクシーはホテルの前に停まった。キャリーケースを引いてホテルに入り、チェックインしようとしたそのとき、背後から聞き覚えのある声がした。「相原先生」私を呼び止めたのが結愛だとは、思ってもみなかった。1年余り会わないうちに、結愛は相変わらずきれいなままだった。けれど、目元には以前にはなかった疲れが見えた。腕には、1歳を少し過ぎたくらいの子どもを抱いている。再会すれば、また責められるのだと思っていた。けれど結愛は、妙に落ち着いた様子で近づいてきた。「相原先生、お久しぶりです。海外で医療支援をされていたんですよね」結愛が何を考えているのかわからず、私はただうなずいた。「大変そうですけど、きっと意味のあるお仕事ですよね」その言葉を最後に、私たちの間に妙な沈黙が流れた。このままチェックインしてしまおうかと思ったとき、結愛がふたたび口を開いた。「あなたも巻き込まれただけだったんだってことは、わかっています。でも、1年前のことを謝るつもりはありません。あなたが私の夫のそばにいたことは、事実ですから」私は何も返さなかった。結愛も返事を求めているわけではないようで、そのまま話を続けた。「でも、今になって思うんです。女同士で傷つけ合うほど、あの人に価値なんてあったのかなって。……私、英孝と離婚したんです。知らなかったでしょう?」私は思わず結愛を見た。「離婚したの?」結愛はうなずいた。「英孝はあちらから戻ってきてから、どうしても私と別れると言って聞きませんでした。財産の半分を渡してでも、です。離婚したら、すぐにでもあなたを捜しに行くつもりだったみたいです。でもそのころ、鳴海グループが危なくなって。会社を
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