LOGIN夜勤中、緊急オペの連絡が入った。 私、相原莉都(あいはら りと)のもとに運ばれてきたのは、若い女性だった。 夫との行為が激しすぎたせいで胎児に負担がかかり、大量出血を起こしていた。 手術中、彼女は怖いからと、どうしても私と話したがった。 「先生、結婚してるんですか?」 私は小さく頷いただけで、何も言わなかった。 「先生は知らないと思いますけど、うちの人、肌が触れていないと落ち着かないんです。私だけが落ち着かせてあげられるから、毎日どうしてもって求めてくるんですよ。 正直、体はかなりきついです。でも嬉しいんです。だって、それだけあの人が私しか見てないってことじゃないですか。 先生の旦那さんも、先生のことを強く求めてくれますか?」 その言葉に、欲とはいちばん縁遠そうな顔が、ふと頭に浮かんだ。 私はやはり何も答えなかった。 手術が終わり、私は彼女を乗せたストレッチャーを押して、手術室の外へ向かった。 「鳴海結愛(なるみ ゆあ)さんのご家族はいらっしゃいますか?」 「俺です」 その声を聞いた瞬間、私はその場で凍りついた。 声の主は、「修行中だから、3年間はそういうことをしない」と言い続けていた、私の夫――鳴海英孝(なるみ ひでたか)だった。
View More渉の少し不安そうな目を見て、私はようやく気づいた。帰りの飛行機でどこか落ち着かなかったのは、私がもうチームに戻らないのではないかと心配していたからなのだろう。私は思わず笑った。「もちろんです。あのチームが、今の私の居場所みたいなものですから」それを聞いて、渉はようやくほっとしたように笑った。私は空港からタクシーに乗り、予約していたホテルへ向かった。窓の外に流れる街並みは、記憶の中とほとんど変わっていなかった。変わってしまったのは、きっと私のほうだ。しばらくして、タクシーはホテルの前に停まった。キャリーケースを引いてホテルに入り、チェックインしようとしたそのとき、背後から聞き覚えのある声がした。「相原先生」私を呼び止めたのが結愛だとは、思ってもみなかった。1年余り会わないうちに、結愛は相変わらずきれいなままだった。けれど、目元には以前にはなかった疲れが見えた。腕には、1歳を少し過ぎたくらいの子どもを抱いている。再会すれば、また責められるのだと思っていた。けれど結愛は、妙に落ち着いた様子で近づいてきた。「相原先生、お久しぶりです。海外で医療支援をされていたんですよね」結愛が何を考えているのかわからず、私はただうなずいた。「大変そうですけど、きっと意味のあるお仕事ですよね」その言葉を最後に、私たちの間に妙な沈黙が流れた。このままチェックインしてしまおうかと思ったとき、結愛がふたたび口を開いた。「あなたも巻き込まれただけだったんだってことは、わかっています。でも、1年前のことを謝るつもりはありません。あなたが私の夫のそばにいたことは、事実ですから」私は何も返さなかった。結愛も返事を求めているわけではないようで、そのまま話を続けた。「でも、今になって思うんです。女同士で傷つけ合うほど、あの人に価値なんてあったのかなって。……私、英孝と離婚したんです。知らなかったでしょう?」私は思わず結愛を見た。「離婚したの?」結愛はうなずいた。「英孝はあちらから戻ってきてから、どうしても私と別れると言って聞きませんでした。財産の半分を渡してでも、です。離婚したら、すぐにでもあなたを捜しに行くつもりだったみたいです。でもそのころ、鳴海グループが危なくなって。会社を
「あの町を出るって決めた時点で、向こうのことは全部置いてきたの。人も、家も、何もかも」母が亡くなり、父が再婚してから、あの家での私は、家の都合でどうにでもされる存在でしかなかった。私があれほど早く英孝との交際を受け入れたのも、父にそう迫られていたからだ。英孝とうまくいかなければ、私は家のために、妻に三度先立たれた50歳の成金に嫁がされるところだった。あのころの私は、英孝こそが救いだと思っていた。馬鹿みたいに、本気で。けれど結局、父も英孝も大差なかった。いや、英孝のほうがたちが悪い。父は最初から、自分勝手な人間だった。英孝は優しい夫の顔をして、私を騙していただけだった。銃を携えた大柄な警備員が本当に入ってくると、英孝は険しい顔のままテントを出ていった。あれだけはっきり言ったのだから、怒ってそのまま飛行機で帰るだろうと思っていた。ところが翌日、私はまたキャンプの入口で英孝を見かけた。今度は入口で警備員に止められていた。私の姿を見るなり、英孝は大声で叫んだ。「莉都、たぶん何かにあたった。腹が痛くてたまらないんだ。それなのに警備員が中に入れてくれない。ここは具合の悪い人間まで追い返すのか?」正直、関わりたくなかった。けれど英孝はひどく顔色が悪く、額には汗がびっしりにじんでいた。仕方なく、私は警備員に英孝を通してもらった。「腹痛なら、内科のテントはあちらです。ご自分でどうぞ」そう言って背を向けると、英孝は当然のように私のあとをついてきた。「莉都、診てくれないのか?」私はうんざりしながら振り返った。「私は産婦人科医です。鳴海さん、診てほしいのは婦人科ですか?それとも産科ですか?」私の声は小さくなかった。近くにいたボランティアが、こらえきれずに吹き出した。英孝の顔が一瞬こわばった。しばらく黙ったあと、英孝はふいに言った。「莉都、向こうでどうしても片づけなきゃいけない用がある。このあと発つ」私はただうなずいた。「そう。じゃあ、もう来なくていいから」少し間を置いて、私は続けた。「鳴海さんみたいなお坊ちゃんには、ここは向いてないわ。次からは無理しないで」けれど英孝は、私の言葉など聞いていないようだった。「莉都、向こうの用が片づいたら、また来る。今度こそ
「だいたい、あの子ができていなければ、俺は結愛と結婚なんてしていない」私はしばらく英孝を見つめ、それからテントの外を指さした。「もう帰って。これ以上いるなら、人を呼ぶから」英孝は信じられないものでも見るように私を見たまま、動こうとしなかった。そのまましばらくにらみ合っていると、知らせを聞いた渉が駆け込んできた。「相原先生、大丈夫ですか?無理しないでって言ったでしょう。休めるときに休まないと、本当に体がもちませんよ」渉は英孝には目もくれず、まっすぐ私のそばまで来た。渉は私の顔色を見るなり、眉をひそめた。その顔を見て、私はようやく少しだけ笑みをこぼした。「もう大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」それでも渉は安心できないようで、ベッド脇のカルテに目を通した。ひとまず問題なさそうだとわかって、ようやく息をついた。「大丈夫そうに見えても、油断しないでください。ここで高熱を出すのは本当に危ないんです。少し対応が遅れただけで、命に関わることもありますから」「わかりました。先生って、意外と心配性なんですね」私と渉が話している間、英孝は黙ったまま渉を見ていた。私が渉には笑顔を見せるのに、自分にはまともに顔も向けないことが、よほど気に入らなかったのだろう。やがて英孝は、皮肉っぽく口を開いた。「莉都、俺と帰らない理由はこいつか?少し見ない間に、もう次の相手を見つけたのか」私のことなら、何を言われても構わなかった。でも、渉までそんなふうに言われるのは我慢できなかった。「英孝、自分がそういう目でしか見ていないからって、ほかの人まで一緒にしないで。梓川先生は同じチームの仲間よ。くだらない言い方はやめて」渉はそこでようやく英孝に目を向け、怪訝そうに私を見た。「相原先生、この方はお知り合いですか?」私が答えるより先に、英孝が口を挟んだ。「俺は莉都の夫です。迎えに――」言い終える前に、私は遮った。「梓川先生、こんな人、知りません」渉はすぐに察したようにうなずいた。「わかりました」それから英孝に向き直った。「ここは患者さんを診る場所です。関係者でない方は外へお願いします」それを聞いた瞬間、英孝の顔が険しくなった。英孝は私を見て、低い声で言った。「莉
思っていた痛みはなかった。誰かに抱きとめられた感覚だけが、ぼんやり残っていた。「莉都、莉都、どうした?おい、しっかりしろ!」意識が途切れる直前、英孝の声が聞こえた気がした。……次に目を覚ましたとき、私はキャンプのテントで横になっていた。手の甲には点滴の針が入っていた。顔を横に向けると、そこにいたのは、1か月半ぶりに見る英孝だった。こんな遠い場所まで、本当に私を捜しに来るとは思っていなかった。驚きはあった。けれど、それだけだった。胸が痛むことも、気持ちが揺れることもなかった。英孝はもう、私にとって遠い人になっていた。起き上がろうとした途端、椅子にもたれていた英孝がはっと目を開けた。目の下には濃い隈があり、目もひどく充血していた。ろくに眠っていなかったのだろう。英孝は慌てて私の肩を押さえ、ベッドに戻した。「動くな。やっと入った点滴なんだ」それ以上、無理に起き上がるのはやめた。英孝の言葉に従ったわけではない。ここの医療物資がどれだけ貴重か、私のほうがよく知っていたからだ。「どうしてここにいるの?」声は少しかすれていた。英孝は私を見つめ、苛立ちを隠さない声で言った。「お前、自分が何をしてるかわかってるのか。40度の熱があるのにオペに入るなんて、無茶にもほどがあるだろ。向こうにいれば、何不自由なく働けたはずだ。それなのに、どうしてわざわざこんな場所まで来たんだ。いくら俺に腹を立てていたからって、何も言わずに消えるのは違うだろ。お前が急にいなくなって、俺がどれだけ――」言い終える前に、私は英孝の言葉を遮った。「英孝、私たちはもう関係ないの。私がどこで何をしようと、あなたに口を出される筋合いはない。奥さんと子どものところへ戻ったら?」英孝の眉間にしわが寄った。言い返そうとした英孝は、ふと何かに気づいたように、口元を緩めた。「莉都、まだ妬いてるんだな。もう意地を張るな。あとで荷物をまとめて、俺と一緒に帰ろう。安心しろ。向こうのことは全部片づけてきた。ネットの記事も消したし、病院にも俺から説明してある。戻って大丈夫だ」あまりに自分勝手な言い方に、呆れてものも言えなかった。私は英孝を1度だけ見て、すぐに顔を背けた。「あなたとは帰らない。