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第2話

Author: スギ
「どうして行かないんだ?」と、彼が尋ねた。

早紀はすっと立ち上がった。「……もう寝るわ」

寝室へ向かおうと踵を返したところで、裕也がついてきた。

彼は彼女の前に回り込み、強引に行く手を塞いだ。

「着替えろ。今すぐ行くぞ」

早紀は彼を見つめながら、ふと前世の数え切れない瞬間を思い出した。彼が一度決めたことに、自分はいつもただ従うしかなかった。

彼は国を代表する科学者なのだから、時間は何より貴重で、判断を間違えるはずもない。誰もが、そう思っていた。

だから自分に異論があってはいけないし、不満があってはいけない。自分個人の考えなど、最初からあってはならないのだ。

なおも拒もうとした早紀だったが、裕也はすでに上着を手に取り、彼女を半ば強引に外へ連れ出していた。

1時間後、二人は映画館の席に並んでいた。

上映されていたのは、若い男女のすれ違いと恋を描いた当時流行りの恋愛映画だった。早紀がスクリーンを見つめる隣で、裕也は薄暗い館内でも研究資料から目を離そうとしない。

肩を並べて座っているのに、二人の間にはまるで別々の時間が流れているようだった。

映画が終わったのは12時を少し回った頃だった。帰り道、裕也は車を走らせながらも、頭の中では実験データのことばかり考えていた。

橋の中ほどまで来た、そのときだった。対向車線を走っていた1台のトラックが、突然こちらへ突っ込んできた。

眩しいヘッドライト。恐ろしいほどの速度。まっすぐこちらへ向かってくる。

「危ない!」早紀は思わず叫んだ。

裕也は急ブレーキを踏んだが、すでに間に合わなかった。車は完全に制御を失い、ガードレールを突き破って橋の下へ転落する。冷たい川の水が、四方八方から一気に車内へと流れ込んできた。

早紀は泳げない。凄まじい恐怖と息苦しさが、容赦なく喉元を締め上げる。

必死にもがき、ドアを開けようとするが、圧倒的な水圧でびくともしない。

混乱の中、運転席の裕也の姿が目に入った。彼は彼女を助けようとしたのではなかった。身を乗り出し、後部座席へと必死に手を伸ばしたのだ。

そこにあったのは、彼が肌身離さず持ち歩いていた、重要な研究データと原稿の入った革鞄だった。

川の水が瞬く間に頭の上まで満ち、早紀の意識が薄れていく。最後に目に焼き付いたのは、鞄を固く抱きしめたまま、力の限り車の窓を叩き割ろうとする裕也の姿だった。

やがて彼は窓を割ることに成功した。水が勢いよく流れ込んでくる。

そして彼は、大切なデータを抱えたまま窓から抜け出していった。最初から最後まで、ただの一度たりとも彼女を振り返ることなく。

凍えるように冷たい水が頭の上をすっぽりと覆っていくその瞬間、早紀は思った。

やっぱり。

彼の中では、あのデータのほうがいつだって自分より大切なのだ。

再び目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。

消毒液の強い匂いが鼻を突き、全身がばらばらになったように痛む。目を開けると、白い天井と、包帯を替えている看護師の姿が見えた。

「気がつきましたね。浅村先生は急ぎの実験があるとのことで、付き添えないので、必要なことは看護師に頼んでほしいと伝言を預かっています。治療費はもう払われていますし、食事はこちらで用意しますので、何かあれば呼んでくださいね」

早紀はこくりと頷いただけで、何も言わなかった。

もう、とうに慣れていた。

前世でもいつもこうだった。事故に遭ったときも彼は実験を優先し、彼女が流産すれば彼は会議に行き、彼女の両親の命日には彼は表彰式に出席した。

彼の世界は広く、宇宙の真理を追い求めるほど壮大だ。対して彼女の世界は狭く、彼ひとりで満たされていた。

「そういえば」看護師が何かを思い出したように言った。「さっき、宿舎の方があなた宛てのお手紙を届けてくれましたよ。枕元に置いておきました」

早紀が振り向くと、大学から届いた封筒がひとつ置かれていた。

手に取り、そっと封を開ける。

中に入っていたのは、東雲大学文学部・国文学専攻の合格通知書だった。

指先がかすかに震えた。

前の人生で、早紀がずっと心残りにしていたのは、大学へ行けなかったことだった。

17歳のとき、本当は大学に合格していた。けれど家には余裕がなく、これから進学を控えた弟もいたため、家族から就職して家計を助けてほしいと頼まれ、進学を諦めた。

その後、裕也と結婚してからは、大学へ行きたいなどとはますます言い出せなくなった。

裕也はいつも言っていた。

「早紀、お前が家のことをちゃんとしてくれるのが、俺には一番ありがたい」

だから早紀は、自分の夢を胸の奥にしまい込み、裕也を支えることだけを考えて生きてきた。そうして一度手放した夢を、前世では二度と取り戻せなかった。

でも、今度は違う。もう一度生き直した今、彼女は大学に合格した。これでようやく本当の意味で、自分のためだけに生きられる。

あとは離婚届が受理されるのを待つだけだ。それさえ済めば、ここを離れられる。

涙がぽつりと合格通知書の上に落ち、インクをにじませた。

早紀は涙を拭い、通知書を丁寧に折りたたむと、服のポケットにしまった。

それからしばらく、彼女はひとりで病院のベッドにいた。

看護師たちが世間話をしている声が、ときどき聞こえてきた。隣の病室の人には毎日のように夫がお見舞いに来ているとか、別の病室では、妻に少しでも滋養のあるものを食べさせようと、夫がわざわざ好物を買ってきたとか。

早紀はただ黙って耳を傾けていた。左足のギプスはずしりと重かったが、不思議と心は軽かった。

退院の日、早紀は杖をついて町の商店へ向かい、東雲市へ移るために必要なものを買い揃えた。ホーローのマグカップに魔法瓶、布団一式、それから新しい万年筆。

買い物を終える頃には、ちょうど昼どきになっていた。早紀は近くの大衆食堂に入り、空いている席に腰を下ろす。

そのとき、不意に裕也の姿が目に入った。彼は、ひとりの女性と一緒に店に入ってきた。

女性の名は藤咲明日香(ふじさく あすか)。研究所の研究員で、裕也の後輩にあたる人物だ。

当時流行りのテトロン地のブラウスを着て、髪はパーマをかけている。笑うと目尻がやわらかく下がる、人に好かれるタイプの愛嬌ある顔立ちだった。

早紀の胸に、鋭い針で刺されたような痛みが走った。

明日香。前世でも、この名前は生涯忘れなかった。

裕也を慕う女性は多くいたが、彼は誰に対しても素っ気なく、頭にあるのはいつも実験データだけだった。

だが明日香が賢いのは、決して恋愛の話など持ち出さないところだった。彼女が話すのはいつも、研究のことだけ。

「先輩、このデータ、ちょっとおかしい気がするんですけど」

「先輩、この実験計画、相談に乗ってもらえますか」

「先輩、この論文、目を通していただけませんか」

研究を口実に、彼女は堂々と裕也に近づいていった。一緒に食事をし、一緒に残業をし、一緒に出張へ行くことさえできた。

前世、明日香が裕也と言葉を交わした時間も、顔を合わせた回数も、体が触れ合うことさえも、妻である早紀よりずっと多かったのだ。

以前の早紀なら、こんな光景を目にした瞬間、胸がひどく痛んで食事も喉を通らなかっただろう。

けれど今は、ただ静かに視線をそらし、手元のメニューに目を戻すだけだった。

ところが目ざとい明日香が、彼女の存在に気づいてしまう。

「早紀さん?」

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