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第2話

作者: 瑞穂
「いっそのこと、もしあなたが負けたら、結衣に歌ってもらおうぜ。彼女、確か音大の……」

言い終わる前に、拓海がその男を床に蹴り転がした。

拓海の表情は、一瞬で氷のように冷え切った。

「てめえ……結衣をなんだと思ってやがる。

彼女は真っ当な音大生だ。飲み屋の女と一緒にすんじゃねえ!」

界隈の人間なら誰もが知っている。篠原結衣(しのはら ゆい)は彼にとって何物にも代えがたい存在であり、彼女の尊厳は彼自身の命よりも重いということを。

万が一にも彼女を侮辱する者がいれば、翌日には五体満足でいられなくなるのだ。

先ほどまで軽口を叩いていた男は、恐怖に顔を歪ませ、慌ててその場に膝を突き、必死に許しを請うた。

「す、すまない!

俺がどうかしてたんだ。全部、俺がバカでクズだった。あなたの海のような広い心に免じて、俺みたいなゴミのことは相手にしないでくれ!」

その光景を目の当たりにして、心臓を鋭利な刃でズタズタに切り裂かれるような痛みが走った。

知らぬ間に、流れた涙が襟元を濡らしていた。

拓海はとうの昔に忘れてしまったのだろう。

かつて私に、どんな想いで言葉を捧げ、何を誓ったのかさえも。

「これからは俺がついてる。誰にも指一本触れさせない」

「柚希。もし十年経ってもお互い独身だったら、俺たち、一緒にいようか」

この二つの約束を、私はずっと心に深く刻みつけてきた。

けれど、言った本人はとうに忘れ、聞かされた私だけが呪いのように縛られている。

今日でちょうど、約束の十年が満ちた。私もそろそろ、誰かの妻になるべき時なのだろう。

けれど、その相手は拓海じゃない。

思考を引き戻し、私は無理やり微笑を浮かべた。

「それじゃあ。私、入籍の手続きがあるから、失礼するわ」

背を向けようとした瞬間、拓海に手首を強く掴まれた。

「柚希、何を白々しい真似をしているんだ?

まさか本気で俺を役所に引きずっていって、入籍させるつもりか?少しはプライドというものを持てよ」

嫌悪感を露わにした彼の顔を見つめていると、抗いようのない無力感が込み上げてきた。

かつて私を守るために不良たちと死闘を繰り広げたあの少年は、もう死んだのだ。

今の彼にとって、私は一刻も早く視界から消え失せてほしい、疎ましい存在でしかないのだろう。

私が何かを言いかけようとしたその瞬間、背後から甘ったるい女の声が響いた。

「拓海!」

振り返ると、結衣が拓海の元へ小走りで駆け寄り、ぱちぱちと愛らしく瞬きをした。

拓海は弾かれたように私の手を放すと、まるで汚らわしいものに触れたかのように、自分の服の裾で何度も念入りに手を拭ってから、彼女の手を優しく包み込んだ。

彼は慈しむような眼差しを結衣に向け、甘く優しい声で彼女に語りかけた。

「どうしてこんな所に来たんだ?

君が来るような場所じゃないって言っただろ」

それを聞くと、結衣は腰に手を当て、不満げにぷうっと頬を膨らませてみせた。

「よくそんなことが言えるね!

今日はお友達のプロポーズっていう大事な日なんでしょ?なのに私を仲間外れにして一人でこっそり来ちゃうなんて、ひどいじゃない!」

拓海の瞳の奥に、一瞬の動揺が走った。

彼はすぐに目を走らせると、近くにいた人を適当に引き寄せ、取り繕うように笑って見せた。

「いや……君は練習で忙しいと思ってな。邪魔したくなかったんだ。

今日は、颯真が柚希にプロポーズする日なんだよ。ちょうどいい、一緒に二人の幸せな瞬間を見届けてやってくれよ!」

そう言って、彼は隣にいた松本颯真(まつもと そうま)の肩を肘で小突いた。

颯真は慌てて私の肩を抱き寄せ、ヘラヘラと調子を合わせた。

「そうそう!この後すぐにでも役所へ行って、籍を入れるつもりなんだ!」

顔を上げると、脂ぎったニキビだらけの醜い顔が視界を塞いだ。

この連中の中で、私が最も反吐が出るほど嫌悪しているのがこの男だ。

颯真はいつも衆人環視の中で平然と卑猥な冗談を口にし、私の名誉をズタズタに汚してきたのだから。

颯真は身をかがめて私の耳元に顔を寄せ、ねっとりとした声で囁いた。

「拓海がお前なんかと結婚するわけないだろ。

いっそ俺にしなよ。腰を抜かすほど気持ちよくさせてやるからさ」

耐えがたい嫌悪感が湧いてくる。私は力任せに颯真を突き飛ばすと、外へ向かった。

だが颯真は執拗に、逃がすまいと背後から私を抱きかかえようと腕を伸ばしてくる。
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