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インターンの食べ残しで婚約破棄

インターンの食べ残しで婚約破棄

作者:  NJマスター已完成
語言: Japanese
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故事簡介

切ない恋

逆転

ひいき/自己中

しっかり者

妻を取り戻す修羅場

私、有栖川朔乃(ありすがわ さくの)は、社内の会食で目を疑った。 インターンの白石風香(しらいし ふうか)が、一口かじったアワビを、そのまま私の婚約者、稲富竜也(いなとみ たつや)の取り皿に入れたのだ。 竜也は少しもためらわず、それを箸でつまんで口に運んだ。 その夜、私は両家で進めていた縁談の書類を細かく破り、ごみ箱へ捨てた。 竜也は眼鏡を外し、眉間にしわを寄せた。 「アワビ一切れで、そこまでするのか?」 「彼女が食べかけたものを、あなたは平気で食べたのよ」 竜也は顔を上げ、薄く笑った。 「朔乃、お前がそこまで面倒な女だとは思わなかった。 わかった。そこまで言うなら、結婚はなしでいい。ただし、あとで泣きついてくるなよ」 彼は、私がまた以前のように自分へすがると信じていた。 けれど私は笑った。 「わかった。その言葉、忘れないでね」

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第 1 章

第1話

私、有栖川朔乃(ありすがわ さくの)は、社内の会食で目を疑った。

インターンの白石風香(しらいし ふうか)が、一口かじったアワビを、そのまま私の婚約者、稲富竜也(いなとみ たつや)の取り皿に入れたのだ。

竜也は少しもためらわず、それを箸でつまんで口に運んだ。

その夜、私は両家で進めていた縁談の書類を細かく破り、ごみ箱へ捨てた。

竜也は眼鏡を外し、眉間にしわを寄せた。

「アワビ一切れで、そこまでするのか?」

「彼女が食べかけたものを、あなたは平気で食べたのよ」

竜也は顔を上げ、薄く笑った。

「朔乃、お前がそこまで面倒な女だとは思わなかった。

わかった。そこまで言うなら、結婚はなしでいい。ただし、あとで泣きついてくるなよ」

彼は、私がまた以前のように自分へすがると信じていた。

けれど私は笑った。

「わかった。その言葉、忘れないでね」

私は、その日のうちに両親へ、政略結婚の相手を替えてほしいと切り出した。

二人は驚いた顔をしたものの、それ以上は追及せず、その場で了承してくれた。

案の定、竜也はすぐに私との連絡を絶った。

ブロックされ、友だちからも消され、連絡先は一つずつ塞がれていく。あまりに手慣れていて、いつものやり方なのだと嫌でもわかった。

彼は、私がまたこれまでのように自分から折れると思っていたのだろう。

けれど今回は違った。画面に表示された友だち申請の通知を前に、私はしばらく指を止めていたが、最後まで承認を押さなかった。

一週間後、社内チャットに通知が流れた。

【本日、社長の誕生日会を開催します。全員参加でお願いします】

場の空気を悪くしたくなくて、私は結局行くことにした。

個室の扉を開けると、上座に座る竜也の隣で、風香が彼の耳元に寄り添うようにして話していた。

二人は声を潜めて話し込み、周りが声をかける隙もないほど、そこだけが別の空間のようになっていた。

笑い合うたびに距離はさらに縮まり、次の瞬間には唇が触れそうだった。

私は視線を外し、隅の席を選んで、一人で酒を飲んだ。

同僚たちは次々とプレゼントを渡しに行ったが、私は何もしなかった。

しばらくして、誰かが私の前で足を止めた。

顔を上げると、整った顔に不機嫌さを隠そうともしない竜也が立っていた。

「朔乃、俺へのプレゼントは?」

以前の私なら、こういう日のために何か月も前から準備していた。

かつて彼のために、あるファンタジー映画に出てくる、歯車仕掛けの小さな城の模型を手作りしたこともある。

歯車が回り、煙突から白い霧が吐き出されたとき、彼は私の手を握って言った。

「俺たちもきっと、最後にはお互いの帰る場所になれるよな」

あのときの私は、本気で信じていた。

けれど、あの日の言葉は、三年も経たないうちに色あせてしまった。

「忘れた」

私は淡々と答えた。

竜也の表情が一気に険しくなった。

「いつまで意地張ってるつもりだ。たかがあれくらいで」

彼の唇の端に残る、妙に艶めいた濡れ跡が目に入った瞬間、胃の奥がむかついた。

「意地じゃない。婚約を白紙に戻す話なら、本気よ」

彼の表情がわずかにこわばった。けれど、風香がそっと手を握ると、すぐにいつもの余裕を取り戻した。

「朔乃さん、誤解しないでください」

風香は柔らかな声で続けた。

「私はただ、食べ物を無駄にするのが見ていられなかっただけなんです。朔乃さんがそこまで気にされるなら、次から会食では、皆さんが食べ終わってから席に着くようにします」

その一言で、竜也の顔つきが変わった。

「風香、もういい。お前が謝ることじゃない。朔乃、これ以上この場の空気を悪くするなら、出ていけ」

風香は私のそばまで来ると、親しげに肩へ手を添えた。

「朔乃さん、女ならもう少し受け流すことも覚えたほうがいいですよ。竜也さん、この数日ろくに眠れていないんです。合わないところがあるのは仕方ないですけど、お二人は婚約者なんですから……」

私はその手を振り払い、鼻で笑った。

「白石さん。私、あなたのそういうところだけは本当に感心する。

人の婚約者に手を出しておいて、平気で被害者みたいな顔ができるところ」

その瞬間、風香の口元から笑みが消えた。

けれど、先に声を荒らげたのは竜也だった。

「朔乃、いい加減にしろ。風香を悪者にするな!」

「じゃあ聞くけど、あなたが私にくれたものと同じものを、どうして白石さんも持っているの?

私たちが揉めるたびに、どうしてその話が白石さんの口から会社中に広まるの?それに、あなたのお尻の上あたりにある傷のことを、どうして白石さんが知って――」

「もういい!」

パン、と乾いた音が個室の空気を裂いた。

左耳の奥が、じんじんと痺れる。

同僚たちの視線が一斉に私へ集まった。

心配するでもなく、止めるでもない。

ただ、哀れんでいるような、面白がっているような目ばかりだった。

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第1話
私、有栖川朔乃(ありすがわ さくの)は、社内の会食で目を疑った。インターンの白石風香(しらいし ふうか)が、一口かじったアワビを、そのまま私の婚約者、稲富竜也(いなとみ たつや)の取り皿に入れたのだ。竜也は少しもためらわず、それを箸でつまんで口に運んだ。その夜、私は両家で進めていた縁談の書類を細かく破り、ごみ箱へ捨てた。竜也は眼鏡を外し、眉間にしわを寄せた。「アワビ一切れで、そこまでするのか?」「彼女が食べかけたものを、あなたは平気で食べたのよ」竜也は顔を上げ、薄く笑った。「朔乃、お前がそこまで面倒な女だとは思わなかった。わかった。そこまで言うなら、結婚はなしでいい。ただし、あとで泣きついてくるなよ」彼は、私がまた以前のように自分へすがると信じていた。けれど私は笑った。「わかった。その言葉、忘れないでね」私は、その日のうちに両親へ、政略結婚の相手を替えてほしいと切り出した。二人は驚いた顔をしたものの、それ以上は追及せず、その場で了承してくれた。案の定、竜也はすぐに私との連絡を絶った。ブロックされ、友だちからも消され、連絡先は一つずつ塞がれていく。あまりに手慣れていて、いつものやり方なのだと嫌でもわかった。彼は、私がまたこれまでのように自分から折れると思っていたのだろう。けれど今回は違った。画面に表示された友だち申請の通知を前に、私はしばらく指を止めていたが、最後まで承認を押さなかった。一週間後、社内チャットに通知が流れた。【本日、社長の誕生日会を開催します。全員参加でお願いします】場の空気を悪くしたくなくて、私は結局行くことにした。個室の扉を開けると、上座に座る竜也の隣で、風香が彼の耳元に寄り添うようにして話していた。二人は声を潜めて話し込み、周りが声をかける隙もないほど、そこだけが別の空間のようになっていた。笑い合うたびに距離はさらに縮まり、次の瞬間には唇が触れそうだった。私は視線を外し、隅の席を選んで、一人で酒を飲んだ。同僚たちは次々とプレゼントを渡しに行ったが、私は何もしなかった。しばらくして、誰かが私の前で足を止めた。顔を上げると、整った顔に不機嫌さを隠そうともしない竜也が立っていた。「朔乃、俺へのプレゼントは?」以前の私なら、こういう日の
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第2話
耳の奥で鳴っていた音が少しずつ遠のき、代わりに竜也の声だけがやけにはっきり響いた。「今日から、俺と風香のツーショットには好きにいいねしてくれていい。千を超えたら、この縁談を白紙に戻して、風香と籍を入れる」そう言い捨てると、彼は風香の手を引き、一度も振り返らずに出ていった。私の前を通り過ぎるとき、風香は隠す気もなく、勝ち誇った目を向けてきた。二人が出ていくと、個室からはすぐに人が引いていった。面白がるような声が聞こえた。「余裕ぶってたくせに、結局こうなるんだ。今さら後悔しても遅いよ」親しい同僚が、そっと声を落とした。「朔乃、意地張ってる場合じゃないよ。早く謝ってきなって。社長が勢いで本当に……」わかっている。竜也はまた、私が先に折れるのを待っている。でも、もう同じことは繰り返したくなかった。どうしても、それだけは嫌だった。さっきまで騒がしかった個室は、あっという間に静まり返った。残されたのは、私一人だけだった。私はテーブルに残っていたきつい酒を手に取り、一息にあおった。喉から胃まで焼けるように熱くなり、目の奥までつんと痛んだ。二十年近く積み重ねてきたものも、切ると決めれば、案外あっけない。それなら、それでいい。家が決めた縁談を受け入れて、遠く離れた汐ヶ原へ嫁ぎ、新しい提携を進めればいい。それだけ離れれば、彼の手ももう届かない。気づくと、頬を伝った涙が冷たくなっていた。家に戻るなり、私はスーツケースを広げ、荷物を詰め始めた。私と竜也は幼なじみだった。まだ長いとはいえない人生の大半を、彼と隣り合って過ごしてきた。だから、置いていくものが多すぎた。ひとつ手に取るたび、思い出がまとわりついて離れない。箱の底から、色あせた赤い折り紙のメダルが出てきた。幼稚園のころ、竜也が初めて先生にもらった「よくできました」だった。彼はまだ小さな足で私のところまで駆けてきて、それを大事そうに私の手のひらへ乗せた。「これ、いちばんいいやつだから、朔乃ちゃんにあげる!」黄ばんだ写真に残っているのは、初めて夢精をして、耳まで真っ赤になっていた竜也の顔だった。あのころの彼は保健の授業をろくに聞いていなかったらしく、自分はもう長くないのだと思い込み、私のところへ別れの挨拶みたい
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第3話
風香が会社の面接を受けに来た日、面接の出来はひどいものだった。竜也もその場では、採るつもりがないことを隠そうともしなかった。経歴も能力も物足りない応募者を、私も特に気に留めなかった。それなのに、どういうわけか彼女はそのまま採用が決まり、インターンとして会社に入ってきた。私が本当におかしいと思ったのは、私と竜也だけのものだったはずのペアリングが、風香の指にはまっているのを見たときだった。最初のうちは、私が問い詰めても、竜也はまだきちんと説明してくれた。声をやわらげて、私をなだめようともした。けれど、いつからか返ってくるのは苛立ちばかりになった。私が何度も言葉を飲み込み、結局は許してしまったせいで、竜也は風香を特別扱いすることに、少しもためらわなくなっていった。会社の食事会のメニューは、いつも風香の好みに合わせて決められた。彼女は週に半日だけ顔を出し、それ以外の時間は竜也に付き添って、あちこち出かけていた。本来ならインターンの彼女に任せるはずの雑用まで、竜也は当然のように私へ振ってきた。竜也が私の前で風香の話をすることも、日に日に増えていった。最初は、ただ「風香は気が利く」とか、「素直で可愛い」とか、その程度だった。それがいつの間にか、私への不満に変わっていった。私はロマンがわからない。言い方が可愛くない。そういう言葉を、彼は平気で口にするようになった。ある日の休憩時間、竜也が頼んだミルクティーをひと口飲んで、「これ、うまいな」と言った。すると風香がそばに寄ってきて、「私も少し飲んでみたいです」と言った。竜也は何のためらいもなく、そのまま彼女へ差し出した。ストローも替えなかった。風香は彼の使ったストローに口をつけ、大きくひと口飲んだ。それだけでも胸の奥がざわついたのに、竜也はすぐにそれを受け取り、何事もなかったように続きを飲んだ。その瞬間、心臓を見えない手でぎゅっと掴まれたようで、息が苦しくなった。それから、風香はますます遠慮をなくしていった。竜也のスキンケアに付き合い、自分の手でクリームやアフターシェーブローションを塗る。竜也が足をひねったときは、すぐそばにいた私には目もくれず、ほとんど抱きかかえるようにして医務室まで連れていった。竜也が約束してくれていた私の誕
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第4話
翌日、私は会社へ荷物を取りに戻った。私専用の休憩室の扉を開けると、風香がやけに短いスカート姿で、私のデスクに脚を投げ出していた。部屋の中は、彼女の私物で埋まっている。私のものは、廊下に乱暴に放り出されていた。この休憩室は、竜也が昔、私のためだけに作ってくれた場所だった。社内の誰もがそれを知っていて、勝手に入ろうとする人なんていなかった。今の風香のやり方は、私の顔を真正面から踏みにじるようなものだった。言い争う気にもなれず、私はその場で警察に電話をかけた。警察で事情を聞かれているあいだ、風香は明らかに落ち着きをなくしていた。「私はただ、竜也さんに頼まれて資料を取りに行っただけです。こんなことで警察沙汰にするなんて……」「頼まれたなら、先に私に確認するべきだったんじゃない?あそこに置いてあるものは、私物よ。勝手に入って、勝手に触っていいものじゃない」私が言い切ると、風香は口をつぐんだ。けれど次の瞬間、その目にみるみる涙がたまっていく。嫌な予感がして振り返ると、案の定、竜也が立っていた。その顔は、すでに私を責めていた。「竜也さん!」風香は泣き声をにじませ、彼の胸に飛び込んだ。「私、本当に資料を取りに行っただけなんです……でも朔乃さん、私のことがそんなに嫌いみたいで……どうしても私を泥棒にしたいみたいなんです。竜也さんにもらったものだけで、家の中はもういっぱいなのに……私が朔乃さんのものを欲しがるわけないじゃないですか……」あの小さな部屋は、かつて私だけの逃げ場所だった。私が彼のために、あの映画に出てくる建物の模型を作ったあと、竜也が返してくれた贈り物でもあった。あそこには、二人だけの時間があまりにも多く残っていた。せめてあの場所だけは、最後まできれいな思い出のまま残ってくれると思っていた。けれど竜也は、それさえ自分の手で汚した。彼は風香の肩を抱きながら、警察官に軽く頭を下げた。「すみません、誤解なんです。お騒がせしました」竜也は私を見た。その目に浮かんでいたのは、怒りというより、あからさまな軽蔑だった。「朔乃、見損なったよ。気に入らない相手なら、立場を使ってここまでするのか。相手はただのインターンだぞ」私が言い返す前に、風香がすがるように彼の袖をつか
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第5話
竜也の表情から、すっと温度が消えた。「誰が押した」駆け込んできた社員は、慌てて首を振った。「わ、私じゃありません……さっき有栖川さんが退職の手続きにいらして、私のスマホを使って押されたんです」「退職?誰が認めた」「有栖川さんは株主でもありますし、社内規定上、ご自身で決められることになっていまして……そ、その規定は、社長がお決めになったものです」「彼女の持ち株はどうなっている」「数日前に、すでに出資を引き揚げられています」「引き揚げた?そんなはずがない」竜也の胸に、かすかな不安がよぎった。けれど風香はそれに気づかず、なおも言葉を重ねた。「朔乃さんは、竜也さんに折れてほしいだけなんです。わざと突き放して、追いかけてほしいんだと思います。竜也さん、乗せられないでください」竜也は答えなかった。スマホを握ったまま、画面を見つめる。朔乃にメッセージを送ろうとして、そこでようやく気づいた。自分が、とっくに朔乃をブロックしたままだったことに。風香は小さくため息をつき、気遣うような声を出した。「本当は、前から少し気になっていたんです。朔乃さんって、竜也さんとは合わないのかもしれないって。竜也さんが誰かと話すだけで、すぐ不安になってしまうみたいですし……今回もきっと、竜也さんに謝ってほしいだけなんですよね。竜也さんの気持ちまでは、考えられていないんだと思います……」竜也の指が止まった。その瞬間、いくつもの思い出が、勝手に頭をよぎった。寒い冬の日、朔乃が彼の手を包み込んで温めてくれたこと。激しい雨の中、自分は濡れながら、彼に傘を差しかけてくれたこと。彼が腹痛で動けなかった夜、朔乃が薬局を何軒も回って、胃腸薬と温かい飲み物を買ってきてくれたこと。どれも些細なことのはずなのに、今さらになって胸の奥をざわつかせる。それが後悔なのか、苛立ちなのか、竜也にはまだわからなかった。「もういい、風香」竜也がようやく口を開いた。その声は低く、どこかこわばっていた。風香は一瞬言葉を失い、すぐに傷ついたような顔をした。「竜也さん、私はただ、心配だっただけです……こんな暑い日に、竜也さんがこんなにつらい思いをしているのに、朔乃さんはメッセージひとつ返さないんですよ。私なら、絶対にそ
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第6話
ほどなくして、電話はつながった。「もしもし、竜也くん?」電話に出た朔乃の母の声は、いつもと変わらず穏やかだった。竜也は深く息を吸い、どうにか声を落ち着かせた。「おばさん、朔乃が……出資を引き揚げて会社を辞めたこと、ご存じですか」「知っています」短い返事に、竜也の胸が重くなる。「じゃあ……朔乃は今、どこにいるんですか。連絡がつかないんです。電話もLINEも、全部つながらなくて……」最後の言葉は、思ったよりも頼りなく響いた。受話口の向こうで、しばらく沈黙が続いた。やがて聞こえてきた朔乃の母の声は、やはり落ち着いていた。けれど、以前のような親しさはもうなかった。「竜也くん、朔乃はもう汐ヶ原へ向かいました。あの子がどうしてそうしたのか、あなたが一番よくわかっているはずです」「俺は……」竜也は言葉に詰まった。「有栖川家と稲富家の縁談は、これで終わりにします」朔乃の母の声に、迷いはなかった。「朔乃は汐ヶ原でやり直します。あなたも、これからのことをよく考えてください」「おばさん、待ってください!」竜也は思わず声を上げた。「おばさん、待ってください。俺、朔乃にちゃんと話したいんです。謝らせてください。一度だけでいいんです」「必要ありません」朔乃の母は、少しも声を荒らげなかった。それなのに、竜也にははっきり拒まれたのだとわかった。「竜也くん、傷つけておいて、あとから謝ればいいというものではありません。うちの娘は、そこまで自分を安く扱われるような子ではありませんから」そこで、朔乃の母は少しだけ間を置いた。「長い付き合いですから、最後に一つだけ。人を見る目を持ちなさい。どうか、これ以上間違えないように」通話が切れても、竜也はスマホを握ったまま動けなかった。顔から血の気が引いていく。朔乃の母が最後に残した「これ以上間違えないように」という言葉が、何度も頭の中で繰り返された。いつも穏やかだった朔乃の母の声が、今ははっきりと自分を拒んでいた。その事実に、竜也はようやく取り返しのつかないところまで来たのだと思い知った。「どうでした?竜也さん。朔乃さんのお母様も、きっと怒っていらしたんでしょう?」風香がまたそばへ寄ってきた。気遣うような顔で、言葉を重ねる。「や
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第7話
それからの竜也は、後悔に追い立てられるように、私の行方を探し続けた。使える伝手はすべて使い、私がどこにいるのかを調べさせた。私が汐ヶ原にいて、黒江家の跡取りである真司と会っていると知ると、竜也はますます焦りを募らせた。何度電話をかけても、私にはつながらない。別のLINEアカウントを使って連絡してきたこともあったが、それも私のところまでは届かなかった。挙げ句の果てには、こちらの秘書にまで連絡を取ろうとしたが、当然、取り次がれることはなかった。それでも諦めきれず、何度目かわからない電話をかけてきたときだった。思いがけず、通話がつながった。「朔乃!俺だ!」竜也の声は、焦りで震えていた。「頼む、少しだけでいい。話を聞いてくれ。俺が間違ってた。風香はもう会社から追い出したし、二度と関わらない。だから……戻ってきてくれないか。もう一度、俺にやり直す機会をくれ」「もういい」私は彼の言葉を遮った。「もう終わったの。これ以上、私の生活に入ってこないで」「終わってない!」竜也はすがるように声を荒らげた。「俺たち、何年一緒にいたと思ってるんだよ。そんな簡単に忘れられるわけないだろ。まだ俺のことが好きなんだろ?怒ってるだけなら、いくらでも謝る。俺に何をしてほしいのか言ってくれ」不思議と、声は乱れなかった。「勘違いしないで。私はもう怒ってない。ただ、あなたがいなくても平気になっただけ。昔のことは、もう昔のこととして置いてきたの。あなたも、前を向いて」電話の向こうで、竜也が息をのむ気配がした。「そんなはずない……そんなに簡単に忘れられるわけがない。俺たちは、あんなに……」「竜也」私は静かに彼の名前を呼んだ。「もう、都合よく考えないで。あなたは何度も風香を選んだ。そのたびに、私の話は聞かなかった。私を叩いたあの日で、全部終わったの。稲富グループの社長なら、最後くらい見苦しいことはしないで」私は通話を切り、その新しい番号もブロックした。切れたスマホを握ったまま、竜也はしばらくその場から動けなかった。やがて、その場に崩れ落ちる。声を抑えることもできず、子どものように泣いた。そのときになって、ようやく思い知った。かつて自分を何より大切にしてくれた朔乃は、もう戻ってこない。
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第8話
絶望のあまり、竜也の行動は少しずつ常軌を外れていった。彼は汐ヶ原へ飛び、私に会おうとした。けれど、私の滞在先のホテルまで押しかけたところで、ロビーのスタッフに止められた。「申し訳ございません。ご本人様の確認が取れない限り、お部屋へお取り次ぎすることはできません」「俺が誰かわかってるのか。稲富グループの稲富竜也だ。朔乃に取り次げ。俺が来ていると伝えればわかる」竜也はそのままエレベーターのほうへ踏み出そうとした。スタッフはすぐに前へ出て、インカムで支配人に確認を取った。「支配人、稲富グループの稲富様が、有栖川様へのお取り次ぎを希望されています。……はい、承知しました」返答を聞くと、スタッフは竜也に向き直った。「有栖川様より、事前のお約束のない方はお通ししないよう伺っております。恐れ入りますが、これ以上はご遠慮ください」結局、竜也が送ってきた贈り物も手紙も、箱も封筒も開けられないまま、そのまま送り返された。雨の夜、竜也は今度は汐ヶ原にある私の住まいの前に現れた。「朔乃――!一度でいい、顔を見せてくれ!俺が間違ってた。頼む、謝らせてくれ!」雨に打たれながら、彼はその場を離れなかった。そうすれば、私が少しは心を動かすと思ったのだろう。私は防犯カメラに映る、ずぶ濡れの姿を一度見ただけで、管理スタッフに連絡した。「エントランス前にいる男性が、少し取り乱しているようです。危険がないよう見てください。近隣やほかの入居者の迷惑にならないよう、対応をお願いします」「承知しました、有栖川様」しばらくして、見かねた当直の管理スタッフが外へ出た。黒い傘を差し、竜也の前で足を止める。「失礼します。かなり濡れていらっしゃいます。このままだとお体に障ります。有栖川様はお会いになりません。お車を手配しますので、ホテルへお戻りください」竜也は顔を上げた。雨水が頬を伝い、青ざめた顔にいっそう生気がなく見える。「そんなに俺に会いたくないのか。一目見ることも、できないのか」管理スタッフは困ったように目を伏せ、何も言わずに首を振った。会いに行っても拒まれ、送ったものも返される。そのたびに竜也は、自分がもう私の人生から締め出されたのだと思い知らされた。残っていた誇りも、すがるような期待も、少しずつ削られてい
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第9話
追い打ちをかけるように、竜也の体にも異変が見つかった。定期健診で異常を指摘され、精密検査を受けた結果、胃がんの末期だと診断された。医師は、長く続いたストレスや乱れた食生活、無理の積み重ねも無関係ではないと言った。病に削られていく体。立て直せないまま傾いていく会社。そして、消えない後悔。そのどれもが、かつて誰よりも誇り高かった竜也を、少しずつ壊していった。病室のベッドに横たわり、竜也は白い天井を見つめていた。浮かんでくるのは、私と過ごした時間ばかりだった。あの模型を直していたときの、私の横顔。彼のわがままを、いつも黙って受け止めていた私の姿。そして最後にたどり着くのは、あの個室だった。風香をかばうために、私の頬を打ったあの瞬間。涙が、音もなくこぼれた。後悔しても、もう何も戻らなかった。やがて稲富グループも限界を迎えた。雨の荒れた夜、会社は破産手続きに入ることを発表した。かつて誰もが見上げた竜也は、愛も、健康も、事業も、尊厳も失い、静まり返った明け方、後悔だけを抱えたまま息を引き取った。そのそばに、誰の姿もなかった。汐ヶ原の春は、明るく穏やかだった。私と真司の結婚式は、ささやかだったけれど、温かいものになった。家同士の都合から始まった縁ではあったが、式にあったのは、親しい人たちからの祝福だけだった。真司と進めていた事業も、少しずつ形になっていった。私たちは夫婦であり、仕事の上でも、自然と息の合う相手になっていた。真司は、私の考えをきちんと聞いてくれる人だった。私もいつの間にか、彼の言葉を信じられるようになっていた。ある日、秘書がいつもの報告の終わりに、昔の知人たちの近況をいくつか口にした。その中に、竜也の訃報も混じっていた。その名前を聞いても、心はもう動かなかった。遠い日の出来事をふと思い出したような、静かな感覚だけが残った。あの名前も、あの顔も、かつて私を焼くほど苦しめた感情も、いつの間にか遠い記憶になっていた。「どうした?」真司が温かいミルクを差し出してくれた。「何でもない」私はそれを受け取り、そのまま真司の肩を抱き寄せた。「もう関係のない、昔の話です」真司は小さく笑った。それ以上は何も聞かず、そっと私の肩に頭を預ける。
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