登入私、有栖川朔乃(ありすがわ さくの)は、社内の会食で目を疑った。 インターンの白石風香(しらいし ふうか)が、一口かじったアワビを、そのまま私の婚約者、稲富竜也(いなとみ たつや)の取り皿に入れたのだ。 竜也は少しもためらわず、それを箸でつまんで口に運んだ。 その夜、私は両家で進めていた縁談の書類を細かく破り、ごみ箱へ捨てた。 竜也は眼鏡を外し、眉間にしわを寄せた。 「アワビ一切れで、そこまでするのか?」 「彼女が食べかけたものを、あなたは平気で食べたのよ」 竜也は顔を上げ、薄く笑った。 「朔乃、お前がそこまで面倒な女だとは思わなかった。 わかった。そこまで言うなら、結婚はなしでいい。ただし、あとで泣きついてくるなよ」 彼は、私がまた以前のように自分へすがると信じていた。 けれど私は笑った。 「わかった。その言葉、忘れないでね」
查看更多追い打ちをかけるように、竜也の体にも異変が見つかった。定期健診で異常を指摘され、精密検査を受けた結果、胃がんの末期だと診断された。医師は、長く続いたストレスや乱れた食生活、無理の積み重ねも無関係ではないと言った。病に削られていく体。立て直せないまま傾いていく会社。そして、消えない後悔。そのどれもが、かつて誰よりも誇り高かった竜也を、少しずつ壊していった。病室のベッドに横たわり、竜也は白い天井を見つめていた。浮かんでくるのは、私と過ごした時間ばかりだった。あの模型を直していたときの、私の横顔。彼のわがままを、いつも黙って受け止めていた私の姿。そして最後にたどり着くのは、あの個室だった。風香をかばうために、私の頬を打ったあの瞬間。涙が、音もなくこぼれた。後悔しても、もう何も戻らなかった。やがて稲富グループも限界を迎えた。雨の荒れた夜、会社は破産手続きに入ることを発表した。かつて誰もが見上げた竜也は、愛も、健康も、事業も、尊厳も失い、静まり返った明け方、後悔だけを抱えたまま息を引き取った。そのそばに、誰の姿もなかった。汐ヶ原の春は、明るく穏やかだった。私と真司の結婚式は、ささやかだったけれど、温かいものになった。家同士の都合から始まった縁ではあったが、式にあったのは、親しい人たちからの祝福だけだった。真司と進めていた事業も、少しずつ形になっていった。私たちは夫婦であり、仕事の上でも、自然と息の合う相手になっていた。真司は、私の考えをきちんと聞いてくれる人だった。私もいつの間にか、彼の言葉を信じられるようになっていた。ある日、秘書がいつもの報告の終わりに、昔の知人たちの近況をいくつか口にした。その中に、竜也の訃報も混じっていた。その名前を聞いても、心はもう動かなかった。遠い日の出来事をふと思い出したような、静かな感覚だけが残った。あの名前も、あの顔も、かつて私を焼くほど苦しめた感情も、いつの間にか遠い記憶になっていた。「どうした?」真司が温かいミルクを差し出してくれた。「何でもない」私はそれを受け取り、そのまま真司の肩を抱き寄せた。「もう関係のない、昔の話です」真司は小さく笑った。それ以上は何も聞かず、そっと私の肩に頭を預ける。
絶望のあまり、竜也の行動は少しずつ常軌を外れていった。彼は汐ヶ原へ飛び、私に会おうとした。けれど、私の滞在先のホテルまで押しかけたところで、ロビーのスタッフに止められた。「申し訳ございません。ご本人様の確認が取れない限り、お部屋へお取り次ぎすることはできません」「俺が誰かわかってるのか。稲富グループの稲富竜也だ。朔乃に取り次げ。俺が来ていると伝えればわかる」竜也はそのままエレベーターのほうへ踏み出そうとした。スタッフはすぐに前へ出て、インカムで支配人に確認を取った。「支配人、稲富グループの稲富様が、有栖川様へのお取り次ぎを希望されています。……はい、承知しました」返答を聞くと、スタッフは竜也に向き直った。「有栖川様より、事前のお約束のない方はお通ししないよう伺っております。恐れ入りますが、これ以上はご遠慮ください」結局、竜也が送ってきた贈り物も手紙も、箱も封筒も開けられないまま、そのまま送り返された。雨の夜、竜也は今度は汐ヶ原にある私の住まいの前に現れた。「朔乃――!一度でいい、顔を見せてくれ!俺が間違ってた。頼む、謝らせてくれ!」雨に打たれながら、彼はその場を離れなかった。そうすれば、私が少しは心を動かすと思ったのだろう。私は防犯カメラに映る、ずぶ濡れの姿を一度見ただけで、管理スタッフに連絡した。「エントランス前にいる男性が、少し取り乱しているようです。危険がないよう見てください。近隣やほかの入居者の迷惑にならないよう、対応をお願いします」「承知しました、有栖川様」しばらくして、見かねた当直の管理スタッフが外へ出た。黒い傘を差し、竜也の前で足を止める。「失礼します。かなり濡れていらっしゃいます。このままだとお体に障ります。有栖川様はお会いになりません。お車を手配しますので、ホテルへお戻りください」竜也は顔を上げた。雨水が頬を伝い、青ざめた顔にいっそう生気がなく見える。「そんなに俺に会いたくないのか。一目見ることも、できないのか」管理スタッフは困ったように目を伏せ、何も言わずに首を振った。会いに行っても拒まれ、送ったものも返される。そのたびに竜也は、自分がもう私の人生から締め出されたのだと思い知らされた。残っていた誇りも、すがるような期待も、少しずつ削られてい
それからの竜也は、後悔に追い立てられるように、私の行方を探し続けた。使える伝手はすべて使い、私がどこにいるのかを調べさせた。私が汐ヶ原にいて、黒江家の跡取りである真司と会っていると知ると、竜也はますます焦りを募らせた。何度電話をかけても、私にはつながらない。別のLINEアカウントを使って連絡してきたこともあったが、それも私のところまでは届かなかった。挙げ句の果てには、こちらの秘書にまで連絡を取ろうとしたが、当然、取り次がれることはなかった。それでも諦めきれず、何度目かわからない電話をかけてきたときだった。思いがけず、通話がつながった。「朔乃!俺だ!」竜也の声は、焦りで震えていた。「頼む、少しだけでいい。話を聞いてくれ。俺が間違ってた。風香はもう会社から追い出したし、二度と関わらない。だから……戻ってきてくれないか。もう一度、俺にやり直す機会をくれ」「もういい」私は彼の言葉を遮った。「もう終わったの。これ以上、私の生活に入ってこないで」「終わってない!」竜也はすがるように声を荒らげた。「俺たち、何年一緒にいたと思ってるんだよ。そんな簡単に忘れられるわけないだろ。まだ俺のことが好きなんだろ?怒ってるだけなら、いくらでも謝る。俺に何をしてほしいのか言ってくれ」不思議と、声は乱れなかった。「勘違いしないで。私はもう怒ってない。ただ、あなたがいなくても平気になっただけ。昔のことは、もう昔のこととして置いてきたの。あなたも、前を向いて」電話の向こうで、竜也が息をのむ気配がした。「そんなはずない……そんなに簡単に忘れられるわけがない。俺たちは、あんなに……」「竜也」私は静かに彼の名前を呼んだ。「もう、都合よく考えないで。あなたは何度も風香を選んだ。そのたびに、私の話は聞かなかった。私を叩いたあの日で、全部終わったの。稲富グループの社長なら、最後くらい見苦しいことはしないで」私は通話を切り、その新しい番号もブロックした。切れたスマホを握ったまま、竜也はしばらくその場から動けなかった。やがて、その場に崩れ落ちる。声を抑えることもできず、子どものように泣いた。そのときになって、ようやく思い知った。かつて自分を何より大切にしてくれた朔乃は、もう戻ってこない。
ほどなくして、電話はつながった。「もしもし、竜也くん?」電話に出た朔乃の母の声は、いつもと変わらず穏やかだった。竜也は深く息を吸い、どうにか声を落ち着かせた。「おばさん、朔乃が……出資を引き揚げて会社を辞めたこと、ご存じですか」「知っています」短い返事に、竜也の胸が重くなる。「じゃあ……朔乃は今、どこにいるんですか。連絡がつかないんです。電話もLINEも、全部つながらなくて……」最後の言葉は、思ったよりも頼りなく響いた。受話口の向こうで、しばらく沈黙が続いた。やがて聞こえてきた朔乃の母の声は、やはり落ち着いていた。けれど、以前のような親しさはもうなかった。「竜也くん、朔乃はもう汐ヶ原へ向かいました。あの子がどうしてそうしたのか、あなたが一番よくわかっているはずです」「俺は……」竜也は言葉に詰まった。「有栖川家と稲富家の縁談は、これで終わりにします」朔乃の母の声に、迷いはなかった。「朔乃は汐ヶ原でやり直します。あなたも、これからのことをよく考えてください」「おばさん、待ってください!」竜也は思わず声を上げた。「おばさん、待ってください。俺、朔乃にちゃんと話したいんです。謝らせてください。一度だけでいいんです」「必要ありません」朔乃の母は、少しも声を荒らげなかった。それなのに、竜也にははっきり拒まれたのだとわかった。「竜也くん、傷つけておいて、あとから謝ればいいというものではありません。うちの娘は、そこまで自分を安く扱われるような子ではありませんから」そこで、朔乃の母は少しだけ間を置いた。「長い付き合いですから、最後に一つだけ。人を見る目を持ちなさい。どうか、これ以上間違えないように」通話が切れても、竜也はスマホを握ったまま動けなかった。顔から血の気が引いていく。朔乃の母が最後に残した「これ以上間違えないように」という言葉が、何度も頭の中で繰り返された。いつも穏やかだった朔乃の母の声が、今ははっきりと自分を拒んでいた。その事実に、竜也はようやく取り返しのつかないところまで来たのだと思い知った。「どうでした?竜也さん。朔乃さんのお母様も、きっと怒っていらしたんでしょう?」風香がまたそばへ寄ってきた。気遣うような顔で、言葉を重ねる。「や