Masuk
――リリリリン!不意に携帯の無機質な着信音が、静かなレストランに響いた。向かいに座る裕司が顔を上げると、杏奈が無表情に画面をなぞり、音を遮断するのが見えた。「誰だ?出なくていいのか」「気にしないでください」杏奈は、小春からの着信だとは告げなかった。心身ともに摩耗しきった今の彼女に、あの小賢しい娘を相手にする余裕など微塵も残っていなかった。裕司は深く追及せず、話を戻した。「今日の件はひとまず解決だ。あれほどの傑作を見せつけられれば、デザイン部の連中もぐうの音も出ないだろう」二つの完璧な作品は、彼女を取り巻く悪意ある噂を粉砕するのに十分な破壊力を持っていた。「だが、影で糸を引く黒幕を炙り出せていない以上、油断は禁物だ」「ええ、わかっていますわ」杏奈は頷き、不意に思い出したように尋ねた。「そういえば先輩、横井那月というデザイナーを知ってますか?」「横井那月?」裕司はわずかに眉を寄せた。「直接的な接点はないが、部内での評判は申し分ない。誰とでも良好な関係を築くタイプだそうだ。彼女をいじめていた者がいたらしいが、周囲から孤立し、早々に会社を去ったと聞いているよ」その言葉に、杏奈の口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。那月のような執念深い女が、甘んじていじめを受けるはずがない。それは、彼女が邪魔な人間を巧妙に排除した結果に過ぎないのだ。「何か、彼女と確執があるのか?」杏奈の表情の変化を見逃さず、裕司が問うた。杏奈は隠すことなく、円香から聞いた話を簡潔に伝えた。「先輩が言っていた、社内の空気を操作している『新しい勢力』――その正体は、おそらく彼女ですよ」裕司は絶句した。誰もが称賛する「善き社員」である那月の裏の顔。わずかな沈黙の後、彼は重く口を開いた。「わかった。しかし、今はまだ彼女に手の内を明かすべきじゃないだろう。手の届く場所に置いておいたほうが、いざという時の対処もしやすい」「ええ、私もそう思っていたんですわ」杏奈が微笑む。「賢明だな」裕司もつられて笑った。「案ずるな、俺がうまく立ち回ってみせる」「頼りにしてますよ、先輩」穏やかに言葉を交わす二人の姿が、離れた場所から見守る一人の男の目に、酷く刺々しく映っていた。「蒼介、個室の用意ができたよ。小春ちゃんと紗里さんは先に向かった。さあ
「鼻で笑わせるな。俺がルミエールを離れれば、他に行き場がないとでも思っているのか?」「え?」杏奈は呆然とした。そんな意図で言ったわけではない。弁明しようとした彼女に、真紘の激越な怒りが叩きつけられた。「認めよう、あんたのデザインは完璧だ。だが、あんたにしか作れない物などない。才能に溺れ、傲慢に振る舞い、他人を見下す。その果てに何があるのか、せいぜい見せてもらうとしよう」困惑する杏奈を置き去りにしたまま、真紘は背を向け、苛立ちを隠さずフロアを後にした。「……彼、少し極端すぎないですかね?」杏奈が裕司に問いかけると、彼もまた苦いものを噛み潰したような顔をした。「君に完膚なきまでに叩きのめされて、肥大した自尊心が収まりつかないんだろう。ほとぼりが冷めるまで、頭を冷やすよう命じておくよ」「そうですね……わかりましたわ」先輩に任せておけば大丈夫だろう。杏奈はそう納得し、周囲と短い会話を交わした後、裕司に支えられるようにしてフロアを後にした。渦中の二人が去った後も、フロアの熱気は一向に引く気配がなかった。杏奈を巡る議論は、堰を切ったように溢れ出し、止まるところを知らなかった。かつての否定的な空気は霧散し、そこにあるのは感嘆と賞賛の嵐だった。「バカは、俺たちの方だったな」「全くだ。口利きで入った腰掛けの素人だなんて、よくも言えたもんだ。正真正銘、次元の違うプロだったな」「これからは謙虚さを学ばないとな。彼女が度量の大きい人間で救われたよ。そうでなきゃ、今頃は全員お払い箱だ」「なあ那月、さっきの作品……正直、度肝を抜かれたでしょ?」「あっ、ええ、本当に……言葉を失うほど、見事だったわ」那月は、はっと我に返った。隣を歩く同僚が、好奇心に目を輝かせて尋ねる。「何を考えてたの?どうやってあの『新星』に取り入ろうか、早速そろばんを弾いてたんじゃないの?」那月が部内で人気を博し、誰とでも良好な関係を築いていることを知る者なら、当然の問いだった。「そうよ」那月は心を整え、同僚の言葉に乗った。「あれほどの方ですもの、どうにかして近付きたいと思うのは当然でしょう?お人好しそうだし、こちらから歩み寄れば、無下にされることはないと思うわ」その瞬間、那月の脳内で一つの明確な「勝算」が形を成した。これまでは美南の歪んだ言葉
その言葉を聞き、誰もが決着はついたと確信した。けれど、それはまだ終わりではなかった。「隠された意匠が、もうひとつ。ブレスレットの留め具の内側には、蓄光性の瑪瑙を組み込んであります。暗闇の中では、私が手描きした星の軌跡が浮かび上がり、『目に見えぬ光』を象徴するように設計しました」言葉が途絶えた瞬間、会場は水を打ったような静寂に包まれた。人々は叫びたかった。歓声を上げたかった。これほどまでに完璧な宝石の誕生を目撃できた奇跡を祝いたかった。けれど、あまりの衝撃に喉は枯れ、言葉を発することさえ叶わない。沈黙を破ったのは、居ても立ってもいられなくなったマーケティング部のディレクターだった。「三浦さん……完敗です。あなたの実力は、私の想像を絶していました。ですが、この繊細なカット技術、デザインの細部は、量産が可能なのでしょうか?」もし一点物で終わるなら、それは芸術としては至高だが、ビジネスとしての価値は限定的だ。「真の芸術は、唯一無二であるべきよ」杏奈の突き放すような言葉に、ディレクターの顔がわずかに引き攣る。だが、彼女の次の言葉が、彼の心臓を再び高鳴らせた。「ですが、量産化の工程案もすでに用意してあります。私の設計図通りに進めれば、この輝きを再現することは可能です。はい、先輩。これがその資料です」杏奈が資料を差し出そうとした刹那、横から鮮やかな手つきでそれが奪われた。気づけば資料はすでにマーケティング部のディレクターの手の中にあった。「河原社長、まずは拝見させてください。販路を見極めるのは役目ですから」ディレクターは形ばかりの苦笑いを浮かべたが、その手つきに迷いはなかった。ページをめくるごとに、彼の瞳は獲物を見つけたかのようにぎらつきを増していく。「素晴らしい。ルミエールに莫大な富が舞い込んでくる光景が、俺にはもう見えていますよ」「そのくらいにしておけ。腕を振るう機会なら、これから腐るほどある」取り憑かれたような部下の様子に、裕司は苦笑を漏らした。「ええ、ええ。その通りですとも!」ディレクターは弾かれたように何度も頷いた。「三浦さんさえいれば、我が社がデザイン不足に陥ることは万に一つもあり得ない。近いうちに、ルミエールの名は国際舞台を席巻することになるでしょう!」その言葉に、その場にいた全員が深く同意
正直なところ、当初は危惧の念を抱いていた。吉川グループがジュエリー界の新星を抱え込み、かなりの手練れだという噂を、かねてより耳にしていたからだ。だが、杏奈の能力を目の当たりにした今、その懸念は跡形もなく霧散していた。実力がある、だと?笑わせるな。やれるものならやってみるがいい。たった半日で、これほど完璧なデザインを二つも仕上げられるものならな。杏奈は彼らの賞賛に応えようとしたが、限界まで酷使された肉体が、ついに悲鳴を上げた。視界が歪み、足元が大きく揺らぐ。脳を削るようなデザイン作業以上に、工具を振るう実制作は苛烈に体力を奪うのだ。倒れそうになった彼女の体を、間一髪のところで裕司が抱きとめた。「デザインさえ上がれば十分だと言ったはずだ。なぜ制作までした」裕司の声には、隠しきれない懸念の色が滲んでいた。杏奈は力なく、けれど満足げに笑った。「せっかく生まれたインスピレーションですもの。形にしてあげないと、この子たちが不憫ですよ」ジュエリーは彼女にとって、単なる仕事の成果ではない。心血を注いで産み落とした、愛しい我が子なのだ。裕司はその想いを知り、それ以上は何も言わず、彼女を椅子に座らせて休ませた。杏奈が蒼白な顔で呼吸を整える間、フロアには重苦しいまでの静寂が流れた。結果は、もはや明白だった。誰もがその静寂を乱すことをためらっていた。その凝縮された静寂を破ったのは、地を這うような、男の掠れた声だった。「……俺の、負けだ」真紘は深く頭を垂れていた。その顔にどのような屈辱が浮かんでいるのか、誰にも窺い知ることはできない。ただ、彼の手によって掲げられた二つの宝石だけが、人々の目に鮮やかに焼き付いた。イヤリングとブレスレット。それは、一つの魂を分け合ったセットだった。人々がその素材を推測し、未知の技法に目を見張っていると、少し息を吹き返した杏奈が静かに語り始めた。「これはセット作品です。名は『モーニング・ライト・キス』」彼女の透き通るような声が響く。「私は、光とは宝石が反射するものではなく、その内側から生まれ出るものだと考えています」その一言は、プロたちの胸を鋭く穿った。言葉を咀嚼する暇も与えず、杏奈は続けた。「メインストーンには、あえてダイヤモンドではなく、高純度の無色サファイアを選びました。ダイヤモ
「横井さん?大丈夫かしら」どこか楽しげな響きを含んだ声が、那月の昏い空想を切り裂いた。杏奈が案じるような顔をして、こちらを覗き込んでいた。「顔色が悪いわよ。どうしたの?」「あっ、いえ、大丈夫です。少し、空耳かと思いまして」那月は首を振り、隣の部屋のドアの前で足を止めた。「ここがデザイナーたちの共同作業エリアです。もっとも、あなたほどの実力があれば、すぐに専用のアトリエが用意されるでしょうけれど」「ありがとう」杏奈は微笑んで頷くと、ドアを押し開けて中に入った。カチャリ、と施錠を告げる乾いた音が廊下に響く。一人残された那月の顔から、先ほどまでの作り笑いが剥がれ落ちた。その貌は、もはや陰険な獣そのものだった。「吉川美南……本来ならもう少し生かしてやるつもりだったけど、自分から死に急ぐっていうなら、もう私のせいじゃないわよ」その囁きは、木の扉を隔てて杏奈の耳にも届いていた。那月が何を企んでいるのかは知らないし、関心もない。七年間、恩義のかけらもない不躾な要求を突きつけられ続けてきたのだ。義妹である美南に対し、もはや情など一欠片も残っていなかった。自ら手を下すことはせずとも、彼女が自業自得の不運に見舞われるのを見るのは、さぞ愉快だろう。杏奈はわずかに口角を微かに上げた。胸のつかえが、少しだけ取れたような気がした。彼女は思考を切り替えると、ペンを握った。長く、暗い歳月の中に積み上げられてきた着想の断片を、真っ白な画用紙へと解き放ち始めた。……夜、高く懸かった月が冴え渡り、時計の針はすでに九時を回っていた。定時をとうに過ぎ、一般社員のほとんどが帰路についた時刻だ。他のフロアの明かりは次々と消え、窓にはまばらな残業の光が灯るばかり。だが、デザイン部だけは他とは一線を画す異様な熱気に包まれていた。誰一人として帰路につこうとせず、全員の視線が、奥に位置する作業室の扉へと釘付けになっていた。彼らは、審判の時を待っていた。杏奈が勝てば、あのプライドの高い真紘のことだ、間違いなく身を引く道を選ぶだろう。大黒柱を失えば、部の待遇は悪化するかもしれない。だが、逆に真紘が勝てば、自分たちの居場所そのものが失われる。待遇の低下か、あるいは職そのものの喪失か。天秤にかけるまでもない。人々は胸の中で、見ず知ら
自分の放った一言が、周囲の心にどれほどのさざ波を立てたか、真紘は露ほども気づいていなかった。裕司が危惧した通り、経営資源のすべてが紗里ひとりに注ぎ込まれることになれば、残されたデザイナーたちの椅子はどうなるのか。転職か。しかし吉川グループを除けば、ルミエールに並ぶほどの恩恵を与えてくれる企業など、この街のどこにも存在しない。「私たちの生活を何だと思ってるんだ」――誰かが漏らした低い毒づきが、その場に暗い同意を広げた。誰かが押し殺した声で吐き捨てると、周囲から無言の同意が広がった。表立って反旗を翻しはせずとも、社員たちの心の中で、真紘への信頼は砂の城のように脆く崩れ落ちていた。……「三浦さん、デザイン部の同僚たちをあまり悪く思わないでくださいね。みんな、根はいい人たちなんです。ただ、真紘さんへの信頼が厚すぎて、彼の態度に引きずられてしまっただけですから」作業室へと続く廊下で、那月はこれ以上ないほど甘い声を作って語りかけてきた。杏奈は穏やかに微笑む。「大丈夫よ。気にしていないわ」「そうですか、よかった」「もし、チームに馴染めなかったらどうしようと心配していたんです。私の考えすぎでしたね。三浦さんは、本当にお心が広い方なのね」那月は安堵したように胸を撫で下ろした。これほどの忍耐強さがなければ、吉川家でのあの地獄のような七年間を生き抜くことなどできなかっただろう。普通の人間なら、とっくに心が壊れていても不思議ではない。「そういえば、まだ自己紹介が済んでいませんでしたね。私は横井那月。デザイン部でデザイナーをしています」その名を耳にした瞬間、杏奈の表情からわずかに生気が消えた。那月の胸を、小さな疑念が掠めた。私の名前を知っているの?まさか、これまでの工作がバレている……?いや、あり得ない。自分は常に慎重だった。悪評を流した際も、自分が火元だとは悟られないよう細心の注意を払ってきた。雑談の隙間に、わずかな毒を忍ばせただけだ。そんな大昔の些細な話を、当の同僚ですら覚えているはずがないのだ。那月は探るように言葉を重ねた。「もしかして……私のことをどこかで?」嫌というほど聞かされてきた。忘れようにも忘れられない名前だ。この二日間、親友の円香が耳元で「横井那月」という名の毒蛇について、嫌というほど愚痴をこぼして







