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第7話

Penulis: 春さがそう
紗季のまつげが、かすかに震えた。

さっきの美琴の話し方は、まるで隼人と夫婦が子どものことを自然に話し合っているかのようだった。

風雅荘は、紗季と隼人が七年間も暮らしてきた家。だが美琴の言葉の端々は、まるで自分の家に帰るかのように響いた。

それに、陽向は紗季が自分を一番気にかけていることを知りながら、病気を口実にして紗季を呼び戻そうとしている……

紗季の心は、氷の底に沈んでいくようだった。

隼人の表情がこわばり、声には無意識の不安が滲んでいた。

「紗季……美琴が会社で働いてるのは、その……」

「誤解しないでね、紗季さん。私がここで働いてるのは、一時的に秘書の藤田香織(ふじた かおり)さんの代わりなの。香織さんが家庭の事情で休んでるから、私が数日だけ隼人の手伝いをしてるのよ」

美琴はすぐさま口を挟み、歩み寄って親しげに紗季の手を取った。

「本当に誤解しないで」

「私が誤解したって言った?」

紗季は冷ややかに言い返し、手を強く振り払った。

美琴の表情が一瞬揺れたが、すぐに柔らかな笑みに変わった。

「さっき陽向くんから電話があってね。あなたが宿題を見てくれないって。もし宿題が終わらなければ、明日また先生に叱られるって言ってたわ。紗季さん、子どもと意地を張るのはやめたほうがいいんじゃない?勉強は大事だから……」

「もういい、紗季を責めるな」

隼人が突然口を挟んだ。

彼は紗季に視線を向け、瞳には心配を滲ませながらも、有無を言わせぬ口調で言った。

「退職の話は明日しよう。もう遅い、俺が送っていく」

紗季の耳はすでにキーンと耳鳴りがしていた。

続いて吐き気が込み上げてくるのがわかった。

感情が揺れるたびに、身体も敏感に反応してしまうのだ。

紗季は必死に気持ちを落ち着かせた。

「辞表は明日取りに来るから。ちゃんとサインしておいて」

「紗季……」

隼人が手を伸ばした。指先が紗季のシルクのカーディガンにかすり、冷たさだけが残った。

紗季は早足で歩き出した。もう二人の言葉など聞きたくないからだ。

外に出ると、隣に新しいオフィスができているのが目に入った。

会社に滅多に来ない紗季でも、香織のオフィスが廊下の一番奥、人目につかない場所にあることは覚えている。隼人が隣に人がいるのを嫌ったからだ。

だが今、その隣の扉には大きくこう書かれていた。

「社長秘書補佐:三浦 美琴」

――これが「数日だけ手伝いに来ただけ」ということらしい。

紗季は皮肉を込めてエレベーターに入り、階数ボタンを押した。

ちょうどそのとき、玲からビデオ通話が入った。

画面に映ったのは、頭から血を流しながら大声で泣き叫ぶ陽向の姿だった。

「奥様!紗季奥様、早く戻ってください!今度は本当に坊ちゃまが怪我したんです!」

――1分後、紗季はエレベーターを飛び出していた。

走り出すと、頬をなでる風が数年前の記憶を呼び覚ました。

あの年、陽向が三歳のとき裏庭で遊んでいて頭をぶつけ、血を流した。

紗季は泣きながら陽向を抱きかかえ、家から病院まで走った。

医者が縫合している間、陽向は泣きもせず、痛みに震えながら小さな手を伸ばして紗季の涙を拭った。

――「ママ、泣かないで。僕、ママが大好きだよ」

今また、同じ場所を怪我している。

紗季の目尻から、一粒の涙がこぼれ落ちた。

今の陽向を拒むことはできても、記憶の中の三歳の陽向だけは拒めなかった。

……

風雅荘は、灯りが煌々と輝いていた。

紗季が駆けつけると、まず鼻を突いたのは血の匂いだった。

陽向はしゃくり上げながら、家庭医に薬を塗られていた。

紗季の姿を見ると、さらに声を張り上げて泣き叫んだ。

「ママ!僕、もう死んじゃう!死にそうになったら、やっとママが帰ってきたんだ!」

紗季は駆け寄った。

「死なない、大丈夫よ!傷を見せて」

陽向は素直に頭を差し出した。

傷は皮膚が深く擦りむけただけで、見た目ほど深刻ではなかった。

紗季はほっとし、傷口に息を吹きかけようとした瞬間、陽向に突き飛ばされた。

「美琴さん!」

紗季は呆然とした。

陽向は痛みも忘れて美琴に飛び込み、甘え泣きした。

「美琴さん、僕、頭が痛くて!すごく痛いよ、息吹いてくれる?吹いたら痛くなくなるんだ……」

美琴は胸を痛めながら陽向を抱き、優しく頭に息を吹きかけた。

「陽向くん、いい子ね。ほら、私が吹いてあげる。少し楽になった?」

「うん!美琴さんが吹いたら、もう痛くなくなった!」

陽向は笑顔を見せた。

紗季の唇は血の気を失い、胃がきりきりと痛んだ。

美琴は愛おしそうに子どもの頭を撫で、紗季に視線を向けて意味ありげに微笑んだ。

「紗季さん、来る途中で陽向くんのために鎮痛薬を買ってきたの。明日まだ痛がるようなら飲ませてあげて。子ども用だから安心して」

その口調は、まるで使用人に指示するかのようだった。

紗季の目はさらに冷たく光った。

「私はここに住んでない。他の人に言いなさい」

「えっ……」

玲は気まずそうに手を揉み、どうにもできずにいた。そこへ隼人が車を停めて入ってきた。

陽向は隼人に素直に傷を見せながら、ちらりと紗季を見てわがままを言った。

「ママ、早く果物洗って!パパと美琴さんはぶどうが好きでしょ。僕はりんごが食べたい!」

言い終えるや否や、隼人が陽向の後頭部を軽く叩いた。

「誰に向かってそんな口を利いてるんだ。陽向、最近ママへの態度がひどすぎる。謝れ」

美琴が慌てて陽向をかばい、不満を露わにした。

「子どもなんだから……しかも怪我したばかりよ。隼人、そんなに厳しくしないで」

紗季はもう聞きたくなかった。ソファの上のバッグを手に取り、俯いた瞬間に吐き気が込み上げた。

頭蓋の圧が高まり、耐えきれず玄関を飛び出した。

「紗季、大丈夫か?」

隼人が追いかけ、振り向いて美琴に言った。

「帰ってくれ。俺の家庭のことに口を出すな。もう来ないでほしい」

美琴は顔を上げ、顔色を変えた。

隼人は視線を逸らし、声を潜めて紗季に語りかけた。

「また具合が悪そうだな。病院へ連れて行く」

そう言って、隼人は有無を言わせず紗季の腕を取った。

吐き気が波のように押し寄せ、紗季は耐えられず隼人を振りほどくと、口を押さえて二階の洗面所へ駆け込んだ。

便器にすがりつき、激しく吐いた。

嘔吐の音が階下まで響き、隼人は顔を険しくして急ぎ足で向かおうとした。

その背に、弱々しい美琴の声が響いた。

「隼人……」

足を止め、隼人は眉をひそめる。

「どうした?」

陽向も頭の傷を忘れて慌てて駆け寄った。

「美琴さん、大丈夫?」

美琴は今にも崩れ落ちそうになり、ソファに倒れ込み、呼吸を荒くした。

胸を押さえ、苦しげに言葉を絞り出す。「わ、私……胸が……すごく痛い……」

玲が声を上げた。

「美琴さん、心臓病じゃなかったんですか?発作じゃないでしょうか?隼人様、どうしましょう!」

――その頃、二階で吐き終えた紗季が口をすすぎ、洗面所のドアを開けたところだった。陽向が駆け寄り、隼人の服を掴んで必死に叫んだ。

「ママはただの持病で吐いてるだけだから放っておいていい!美琴さんを病院に連れて行かないと死んじゃうよ!」
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