明日には夫婦になるのだ。そう思うと、断る理由はなかった。一葉はテーブルの上の鍵を掴むと、車を走らせてバーへと向かった。バーに到着し、個室の扉に手をかけ、開けようとした、まさにその瞬間だった。中から、思いがけない言葉が聞こえてきたのは。「なあ、源。お前、明日には十年越しの想い人と結婚するんだろ?普段はあんなに真面目ぶってて、女遊びなんて一切しないお前がさあ、なんで愛する女を娶る前夜に、わざわざ女を呼ぶんだよ。しかも、ご丁寧に『未経験の子』だなんて指名してさ」一葉が押し開けた扉の隙間から、源の表情がはっきりと見えた。彼はグラスを掴むと、呷るように一気に飲み干す。「本当に……心の底から彼女を愛してるんだ。お前には分かんねえだろうな、彼女が結婚してくれるって言った時、俺がどれだけ……どれだけ、舞い上がったか!この二日間、マジで……夢の中にいるみたいなんだよ!」その言葉に、友人はますます首を傾げた。「そんなに愛してるって言うなら、なんで結婚式の前に他の女を抱こうとするんだよ」「……愛せば愛すほど、気になっちまうんだ。彼女が、一度結婚したこと……子供を、流した過去があること。あいつは何年も……他の男と寝てたんだ。気にするべきじゃないって、頭では分かってるんだ。長年愛し続けた女を、ようやく手に入れられるんだ。これ以上ない幸せのはずなのに……でも、気にしないようにすればするほど、どうしようもなく……意識しちまうんだよ。このままじゃ、この気持ちが、いつか彼女への愛情に影を落とすんじゃないかって……怖いんだ。だから、結婚する前に、一度……他の女を、それも、まだ誰のものにもなっていない女を抱きたかった。なんて言うか……心の帳尻合わせ、みたいなもんだ。今夜限りで、こんなドス黒い気持ちは全部捨てて、明日からは、心から彼女だけを愛すって、決めてるんだ!」そう言うと、源はウェイターが差し出したタブレット端末を受け取った。画面を指でなぞり、すぐに一人を選び出す。友人が、なぜその子なんだと尋ねる。見たところ、他の子の方がスタイルは良さそうだ。すると、源の声が聞こえた。「顔の輪郭が、あいつに……俺の好きな人に、少し似てるんだ。今夜この子を抱けば、まるで、若い頃の彼女と結ばれたみたいで……心の隙間が埋まる気がする」友人は笑いながら、
その様子に、彼女は少しだけ肩の力を抜くことができた。これまでも関係は良好だったが、それはあくまでビジネス上の付き合いがあればこそ。利害関係のある相手には、誰だって愛想良く振る舞うものだ。しかし、これから家族になるとなれば、話は別だろう。何しろ、源は一人息子で、家柄も申し分なく、当然ながら初婚なのだ。対する自分は、一度結婚に失敗している。それでも変わらぬ源の両親の温かい態度に、一葉は、やはり彼との結婚は正しい選択なのだと、その思いを一層強くした。家柄も、経済状況も釣り合っている。生活習慣も似ていて、互いのことをよく知っている、まさに気心の知れた仲だ。これ以上何を望むというのだろう。一葉はもう余計なことを考えるのをやめた。ただ月曜になり、役所の扉が開くのを待って、二人で籍を入れよう。そう、心に決めた。一葉は、源と籍を入れることにした、と親友の千陽に打ち明けた。どこの馬の骨とも知れない相手と結婚されるよりは、と千陽も源のことは歓迎しているようだった。彼女は、一葉が言吾と完全に縁を切ることをずっと望んでいた。だが、いざ結婚して子供を産むと聞かされると、今度は一葉がとんでもない男に捕まってしまうのではないかと、心配でたまらなかったのだ。最近は保険金目当ての事件も多い。特に一葉は資産家だから、万が一人面獣心のような男にでも捕まったら……最悪の場合、出産にかこつけて母子ともに殺されてしまう、なんて悲劇も起こりかねない。その点、源であれば、そんな心配は一切ない。ましてや、彼が十年も一葉を想い続けてきたと聞かされると、千陽はさらに彼のことを見直したようだった。「十年もあんたを好きだったんだから、これから先、絶対に大事にしてくれるって!自分を愛してくれる人と結婚するのが一番よ、間違いない!」一葉は微笑んで頷いた。すると千陽は何かを思いついたように、ポンと自分の太腿を叩いた。「そうだ!うちの博士もすぐ呼んで、月曜日、二組で一緒に婚姻届を出しに行こ!」「同じ日に籍入れて、同じ日に結婚式して、子供も同じくらいの時期に産んで……一生一緒だよ!」そう言いながら、千陽は一葉の腕にぎゅっと抱きつき、幸せいっぱいの顔を輝かせた。その提案は一葉にとっても素敵なものに思えたが、それでも懸念はあった。「あんたとこの博士、付き
先に沈黙を破ったのは、源の方だった。「すまん、一葉。俺が……その、あまりに舞い上がってて、つい衝動的になった」と、彼は心底申し訳なさそうな声で言った。一葉が何かを言う前に、彼はまるで彼女の心を見透かしたかのように、言葉を続ける。「気に病むことはない。君と言吾の間にあったことは、俺が一番よく分かってる。まだ、すぐにあいつを吹っ切れないことくらい、覚悟の上だ。俺は待つよ。いつか君が、あいつを過去のこととして受け止めて、俺を受け入れてくれる日が来るまで」源は、好きでいるのは自分の勝手で、見返りなど求めないと言ってくれた。けれど、愛する相手に愛されたいと願わない人間など、きっとこの世のどこにもいないだろう。一葉は彼を見つめたが、かけるべき言葉が何も見つからない。結局、彼女は無言のまま車を降りた。言吾のことを完全に忘れ去る日が来るのか、一葉自身にも分からなかったし、彼の存在を微塵も気にかけないよう、自分に強制することもできなかった。それでも、源を受け入れなければならないのだ。一葉は自分に強くそう言い聞かせた。これから、本当の夫婦になるのだから。キスひとつ受け入れられず、本能的に避けてしまうようでは、どうやって夫婦になれるというのか。どうやって、子供を授かるというのだろうか。彼と同じだけの愛情を返せないことだけでも申し訳ないのに、もし普通の夫婦としての営みさえ拒んでしまったら……それはもう結婚ではなく、ただ彼の人生を台無しにするだけの行為になってしまう。その日の午後、源からメッセージが届いた。彼の両親が、今夜、一葉を連れて実家で食事をしないかと誘ってくれているという。もし気が進まないなら断るから、とこちらの気持ちを気遣う文面だった。一葉は少し考えた後、行く、と返信した。結婚は二人だけの問題ではない。家と家との繋がりでもある。自分の両親のことはさておき、源は一人息子だ。彼の結婚は、ご両親にとっての一大事に違いない。籍を入れる前に、たとえお誘いがなかったとしても、こちらから挨拶に伺い、結婚の意思を伝えるのが筋というものだ。一葉が行くと伝えると、電話の向こうで源の声が弾んだ。「実験、何時ごろに終わりそう?迎えに行くよ」おおよその時間を告げて、一葉は電話を切った。研究室へ戻ろうと踵を返しかけたが、ふと足を止
自分でも、衝動的だと思う――一葉はそう自覚していた。だが、人生には、時にはこうした衝動が必要なのだ。そうでなければ、人は永遠に泥沼の中でもがき続けることになる。車に乗り込むと、源が一葉の方を見ていた。何度かそんなふうに窺うような視線を向けた後、彼はついに堪えきれなくなったように口を開いた。「なあ、一葉……本当に、本当に俺と籍を入れる気でいるのか?」そう口にした途端、彼はしまった、という顔をした。どうしてあんなことを言ってしまったんだ、と自分を責めているのが手に取るようにわかる。もし彼女がこの一言で考え直し、結婚しないと言い出したらどうする。これは、自分の夢が叶う唯一のチャンスなのだ。十年だ。丸十年もの間、ずっと遠くから彼女を見つめてきたのだ。ようやく巡ってきたこの機会を、自ら手放すような真似をしてどうする。まったく、俺という男は……!そんなふうに激しく後悔する源の姿を見て、一葉は、やはりこの人は本当に良い人なのだと、改めて思わずにはいられなかった。きっと、自分が心変わりするのを恐れているのだろう。それなのに、どこまでも自分のことを優先して、後で後悔して苦しまないようにと、もう一度考えるよう促してくれている。こんなふうに自分を想ってくれる人と結婚すれば、きっと、悪くない未来が待っているはずだ、と一葉は思った。人柄も良く、頭も切れ、見た目も良い。ご両親も素晴らしい人たちだと聞いている。子供も、こんな環境でならきっと健やかに育ってくれるだろう。安定した家庭環境で、子供の面倒を見てくれる人がいれば、自分も憂いなく研究の世界に没頭できる。考えれば考えるほど、源との結婚は最良の選択だと思えてきた。もちろん、そう思おうとしている自分もいる。良い面だけを見て、悪い面から目を逸しているだけなのかもしれない。だが、それがどうしたというのだろう?この道を選んだからには、迷わず進むだけだ。ただ……どうやら源も、そして一葉自身も、少しばかり衝動的になりすぎていたらしい。覚悟を決めたらすぐに籍を入れようと、そればかりで……今日が何曜日なのか、二人してすっかり頭から抜け落ちていたのだ。車で役所に乗り付け、その扉が固く閉ざされているのを目にして、ようやく思い至った。今日は土曜日。役所は、休みだということ
本当に、彼を受け入れることができるのだろうか。その思いが、どうしようもないほどの不安となって彼女を襲う。スマートフォンを持つ手も、震えだしそうになるほどに。だが、不思議なことに、不安が募れば募るほど、彼女の決意は固まっていった。もう、こんな風に悩み苦しむのは嫌だ。自分の退路を、完全に断ってしまわなければならない。だから、スマートフォンも持てないほど心が乱れていても、一葉は無理やり自分を落ち着かせ、服を着替え、化粧を始めた。彼女が身支度を終えた、ちょうどその時。源がやって来た。彼女の住むマンションにはエレベーターがあるというのに、彼はそれを待つことさえもどかしかったのだろう。息を切らして、階段を駆け上がってきたのだ。一葉の顔を見るなり、彼はぜえぜえと肩で息をしていて、ひどく疲れているのは明らかだった。だが、その瞳は驚くほど爛々と輝いていた。その目も、顔も、抑えきれない興奮と喜びに満ちあふれている。興奮のあまり、両手までもが微かに震えている。そのせいで、懐から戸籍謄本を取り出そうとするのに、何度か手元が狂ってしまったようだ。ようやく取り出したそれを両手で大事そうに捧げ持ち、彼は一葉をまっすぐに見つめた。「一葉……!戸籍謄本と、身分証、持ってきたぞ!」いつもは落ち着き払っている彼が、今はこんなにも心を昂らせている。その姿を前にして、一葉は何とも言えない気持ちになった。ただ、一つだけ確かなことがある。彼は、本当に自分のことを好いてくれているのだ、と。そのあまりに純粋な好意を前に、一葉は思わず罪悪感を覚えた。彼は心から一葉を娶り、結婚したいと願っている。それなのに、自分は……ただこの迷いや苦しみを断ち切るための道具として、彼を利用しようとしているだけではないか。それどころか、彼を危険な道へと引きずり込んでしまうかもしれない!彼を巻き込んでしまうかもしれない――そう思った途端、自分の考えがいかに浅はかで、利己的だったかを一葉は痛感した。この苦境から一刻も早く抜け出したいと願うあまり、源が置かれる立場を全く考えていなかった。あまりにも、彼のことを蔑ろにしすぎていた。そこで、一葉は意を決して口を開いた。「源さん……私、あまりに自分勝手だったかもしれません。この状況を解決したい一心で、あな
もし、F国で、彼女が最後の機会を与えようと決心したあの時に、彼がこれほど固い意志で「できる」と言ってくれていたなら。今頃二人は、暖かい家の中で、幸せに抱きしめ合っていたかもしれない。だが。彼は、そうしなかった。いつもそうだ。彼女が機会を与えようとすると、彼はそれを受け入れない。それなのに、後になってから、もう一度チャンスをくれと乞うのだ。これ以上、どうしろというのだろうか。一葉が何も言わずにいると、彼は彼女の心が和らいだとでも思ったのだろう。哀れを誘うように、その腕に縋りついた。「……なあ、一葉。俺は本当に自分が間違っていたって分かってるんだ。今度こそ、本当にやり遂げるから!」「信じてくれ……!頼むから、これが最後だと思って……もう一度だけ、俺を信じてくれないか?」一葉は彼を見つめる。その、見るからに哀れな姿を。甘えるような、その仕草を。かつて、彼女が最も抗うことのできなかった表情で、彼が自分を見つめているのを。一葉の心は、今にも溶けてしまいそうになる。だが。彼女は、その感情を抑え込むことができた。そして彼を見据える。その眼差しは、真冬の凍てつく夜空よりも、なお冷たい。「言吾。私は、あなたに何度も『最後の機会』を与えてきたわ。もう……あなたにあげる機会なんて、一つも残っていないの」「これ以上、みっともなく付きまとうのはやめていただきたいわ。さもないと……あなたも私も、破滅するだけよ」「一葉……」言吾が何かを言いかけた、その時だった。彼の携帯電話が鳴った。反射的に着信を拒否しようとした彼だったが、相手の名前を見ると、その指を止めた。電話の向こうで誰が何を話したのかは分からない。通話を終えた言吾は、一葉を深く見つめると、言った。「なあ、俺の過ちは分かってる。だから信じてくれ!これが本当に最後だ。お前が望むこと、必ずやり遂げてみせるから!」「待っていてくれ!俺が……すべてを手に入れるまで!待っていてくれ!」そう言い残し、彼は足早に去っていった。その背中を見送りながら、一葉は彼を待とうなどという気には微塵もならなかった。むしろ、決意はさらに固まっていた。染谷源にしよう。一刻も早く、彼と籍を入れ、結婚するのだ。言吾が用事を済ませて戻って来た時には、自分はもう源の妻に