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第497話

Aвтор: 青山米子
言吾のその言葉は、彼の嘲笑に逆上しかけていた文江の激情を、一瞬にして凍てつかせた。

獅子堂家の女主人の座に長年君臨してきただけあって、文江は決して愚かな女ではない。

だからこそ、わかってしまう。言吾の言葉が、紛れもない本心からのものであると。

息子は本気なのだ。母である自分が彼の命を望むなら、彼が不要になったと感じたらいつでも、こんな回りくどい画策などせずとも、ただ命じればいい、と。

そのあまりに常軌を逸した申し出に、文江の思考は完全に停止した。

わからない。

夫である宗厳すら知らないはずの自分の企みを、なぜ、目の前の息子が知っているのか。

それ以上に理解できないのは、殺意を向けられていると知りながら、なぜ平然と、その命を差し出そうとできるのか。

ありえない。実の母親に殺されかけているというのに、どうしてこれほど落ち着き払っていられるというのか。

しばしの呆然自失の後。

文江が言吾に向ける眼差しは、もはや人ではない、何か得体の知れない恐ろしい怪物を見るそれに変わっていた。「悪魔ッ!あなた、やっぱりあの悪魔だったのね!」

「あぁ、あの時あなたを捨てて正解だったわ!ええ、正解だった!」そうでなければ、こんなにも冷酷でいられるはずがない。こんなにも恐ろしい人間でいられるはずがないのだ。

殺されるとわかっていて、笑ってそれを受け入れるなんて!

自分の命さえ、笑って捨てられるような人間に、人の心などあるはずもない!

そうよ、あのお方が言っていた通りだわ。生まれながらの悪魔。獅子堂家を、私たちすべてを破滅させる、本物の悪魔なのだと!

かつて、あの高僧は断言した。もし文江が身ごもったのが男の双子であったなら、獅子堂家には必ずや大いなる災いがもたらされるだろう――と。

初めは、そんなもの信じてはいなかった。新しい時代の女として、お腹の子が男であろうと女であろうと、等しく愛しい我が子に変わりはない。誰もが羨む、かけがえのない双子の宝物なのだから、と。

迷信なんかに、この子たちの未来を壊されてたまるものか。

この手で、必ず守り抜いてみせる、と固く誓ったはずだった。

しかし、腹の子が二人とも男だと判明してからのこと。文江自身の身にも、そして獅子堂家全体にも、次から次へと不可解な不運が襲いかかり始めたのだ。

それが、彼女にあの高僧の言葉を信じさせるに
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