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第534話

Auteur: 青山米子
その時、部屋に烈が入ってきた。

医者にしがみつき自分の名を呼ぶ母の姿を見て、彼の瞳に、一瞬、嫌悪の色がよぎる。

その色はすぐに消えたが、紫苑は見逃さなかった。そのことに、彼女はさらに可笑しさが込み上げてくる。

この世とは、いつもそうしたものだ。手に入らぬものほど焦がれ、与えられた愛には驕り高ぶる。

紫苑が笑いを堪えている気配を察したのか、烈は冷ややかに彼女を一瞥した。

紫苑は即座に表情を引き締める。

彼女がすぐに察したのを見て、烈は視線を医者に移した。「母は一体どうした。治るのか」

この母親には、まだ利用価値がある。烈は、彼女がこのままの状態であり続けることを許すつもりはなかった。

「奥様はあまりの喜びに、精神が耐えきれなくなったのでしょう。しばらくすれば、回復されるかと」

医師の「かと」という曖昧な言葉に、烈の眼差しが、すっと険しくなった。「『かと』ではない。『必ず』だ」

烈から瞬時に放たれた氷のような殺気に、医師は思わず身震いした。今日の烈様は、以前の彼とはまるで別人であるかのようだ……

有無を言わせぬ命令を下すと、烈は紫苑を一瞥し、部屋を出ていく。

紫苑はすぐさまその後を追った。

自分たちの部屋に戻るなり、烈は紫苑の顎を乱暴に掴み上げた。「言え。なぜ、そんなに間抜けなんだ、お前は」

烈は、紫苑が自分の生存を漏らしたのだと確信していた。この女が馬鹿な真似をしでかさなければ、あと一年や二年は、自由でいられたはずだ。

あの気ままな日々を、まだ、満喫しきれていなかったというのに。

紫苑は、今の烈が自分を必要としていることを理解していた。たとえ自分のせいで正体が露見したと彼が考えていたとしても、今すぐ自分をどうこうすることはないだろう。そう高を括っていたからこそ、彼女は少しも怯まなかった。

そして、あえて言い放った。「私を買い被らないで。そして、言吾さんと桐生慎也を甘く見すぎないことね」

「そもそも、この世に完璧な計画なんて存在しないわ。

それに、あの状況で音もなく青山一葉を攫える人間なんて、そうそういない。奴らが少し頭を働かせれば、すぐに思いつくことよ。

だから、私が情報を漏らしたなんて見当違いなことで責めないで。責めるなら、あなた自身の強欲さを責めるべきだわ。

考えてもみて。あなたの組織には、金儲けの手段なんていくらでもあっ
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