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第625話

Author: 青山米子
「ああ、もういい!別にお前が殺す必要はない。その短刀で、奴の身体のどこでもいいから一突きしろ。本当に意識を失っているのか、確かめられればそれでいいんだ!」

文江は一瞬、言葉を失った。烈は、言吾が意識を失ったふりをしていると疑っているということか。しかし……

彼女は床に横たわる言吾に目を戻す。ぴくりとも動かないその姿は、どう見ても演技には思えなかった。何かを言おうと、再び烈の方へ向き直る。

だが、彼女が口を開くより先に、烈が痺れを切らしたように怒鳴った。「くだらんことを言うな!やれと言ったらさっさとやれ!時間がないんだ。将来ここから出たいんだろうが、だったら早くしろ!」

その言葉が、文江の最後の躊躇いを打ち砕いた。この場所に自分を送り込んだのが言吾であること、そして、一日たりともここにいたくないという強烈な思い。彼女の瞳の色が、すっと冷たく沈んだ。

もはや彼女は何も言わず、何も考えなかった。床の短刀を拾い上げると、一直線に言吾のもとへ歩み寄る。そして、その身体の真上で、一瞬の躊躇いもなく、刃を振り下ろした。

言吾が意識を失ったふりをしていたのは、まさしく烈が危惧した通りの筋書きだった。烈が油断して近づいた隙を突き、不意を打って一刀のもとに葬り去る。

そして、この一件を、逃亡犯である烈に襲われ、やむなく返り討ちにしたという正当防衛の筋書きに仕立て上げること。

だが、烈はこちらの想像以上に疑り深かった。自らが仕掛けた罠の成功すら信じきれず、一歩もこちらに近づこうとしないばかりか、いつでも窓から逃げられる体勢を崩さない。

あまつさえ、文江に自分を殺させ、それでこちらの真偽を試そうとまでした。

今、文江がやろうとしているのは、とどめを刺すことではなく、ただ一突きすることだけ。だが、たとえそうであっても、言吾がその一撃を受けるわけにはいかなかった。

元より、万全の烈と素手で渡り合って勝てる保証はない。手傷を負えば、勝機は万に一つもなくなるだろう。

それに、時間的にも、警察の包囲網が完成するまであと僅かなはずだ。

ゆえに――文江がその刃を無慈悲に振り下ろした、まさにその瞬間、言吾は床を転がるようにしてその一撃を避け、間髪入れずに身を起こすと、烈に向かって猛然と襲いかかった。

文江は、言吾が本当に演技をしていたとは夢にも思わず、あまりに唐突な光景に凍り付
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