Se connecterどれほど時間が経っただろうか。扉の外から聞こえていた押し殺すような泣き声が、次第に小さくなっていった。透は重い足取りで、豪雨の中へ歩き去っていった。翌朝、自治会長が息子の薬を受け取りに、診療所へやってきた。帰り際、思い出したように口を開く。「佐野先生、昨日あんたを訪ねてきた若い人な。あの雨の中、朝までずっと診療所の前にいたぞ。始発の連絡船が出る頃になって、ようやく港へ向かったよ。船員の話じゃ、今度は民間の海難救助隊に入るんだってな。荒れた海にも出るらしいし、危ない仕事だぞ」私はカルテを整理しながら、短く相槌を打った。「そうですか。でも、それは彼が決めたことです。私には関係ありません」……島での暮らしは、その後も変わらず静かに続いていった。数日後のある午後、診療所の固定電話が突然鳴った。何気なく受話器を取ると、電話の向こうからヒステリックな女の声が聞こえてきた。芽衣だった。「あんたさあ、もう満足でしょ!?ねえ、答えてよ!」芽衣は電話口で、狂ったように叫び続けた。声は甲高く、耳をつんざくようだった。「透くん、どうかしちゃったの!私のこと、兄の元同僚たちに全部話したのよ!みんなから、兄の仲間の好意を利用した最低な女だって責められてる!」そう叫んだかと思うと、芽衣は急に泣き出した。「仕事も辞めることになったし、噂まで広まって、もうこの街にはいられない……それに透くん、民間の海難救助隊に入ったのよ。あんなの、死にに行くようなものじゃない!帆立さん、お願い!透くんに電話して、戻るように言ってよ!本当にお願いだから!」芽衣が泣きわめくのを聞いても、私の表情に変化がひとつもなかった。「芽衣、あなた、まだ分かってないの?」私は静かにそう言った。「何がよ!そもそも全部、あんたのせいでしょ!あの台風の日のことを、いつまでも引きずらなければ、こんなことにはならなかったのに!」私は鼻で笑った。「透があなたに優しくしてたのは、お兄さんの妹だからでも、ましてあなたのことが好きだったからでもない。あの人はただ、いつでも自分に従い、安っぽい男のプライドを満たしてくれる道具が欲しかっただけ。透にとってあなたは、一人じゃ何もできない、都合のいい女でしかなかったのよ。自分が損をするって分かった途端、あっさり
透は全身びしょ濡れのまま、まるで彫像のように、診療所の古びた木戸の前にひざまずいていた。いつものオレンジ色の救助服ではなく、使い古して色あせたジャケットを一枚羽織っているだけだった。体はすっかり痩せ細り、かつてはまっすぐだった背筋も、心なしか少し丸まっている。濡れた髪が額に張りつき、顔からはすっかり血の気が失われていた。私が近づいてくるのに気づくと、彼の体が大きく震えた。震える足で必死に立ち上がろうとしたが、長時間膝をついていたせいか足に力が入らず、泥水の中へ倒れ込みそうになる。「帆立!やっと帰ってきたのか!」彼は焦った様子で数歩近づき、震える手で、私が肩にかけた診療鞄を持とうとした。私はわずかに体をかわし、その手を避けた。冷たい視線を向けたまま、鍵を取り出して鍵穴に差し込みながら言い放つ。「私のものに触らないで」透は見捨てられた犬のような顔で、私の後ろについて中へ入ってきた。玄関先に立ったまま、きれいに磨かれた床へ足を踏み入れることすらためらい、泥だらけの靴のまま戸口で立ち尽くしている。透は落ち着かない様子で私を見つめ、どうしていいか分からないまま、かすれた声で口を開いた。「帆立、ごめん。本当にごめん。俺……この3か月間、ずっとお前を探してた。お前がいた科にも行った。でも、主任は居場所を教えてくれなかった。それで前の職場を訪ねて、お前が前に出してた医療支援の申請書を見つけて……それで、ここにいるって分かったんだ」私はビニール傘を戸口に置き、濡れた上着を脱ぐと、白湯を一杯注いで黙って飲んだ。「救助隊の仕事は辞めたの?責任感を何より誇りにしていたんじゃなかった?」私は振り返り、彼を見つめた。透は気まずそうに口元を歪め、苦笑いを浮かべた。「仕事は辞めた。もう、続ける資格なんてないと思って。婚約者すら守れなかった救助隊長に、他人を助ける資格なんてあるはずない」そう言いながら、彼は震える手で懐から、ビニール袋で何重にも包まれた小さな箱を取り出した。ずっと懐に入れていたのだろう。その箱には、まだ彼の体温が残っていた。「これ、知り合いに頼んで、海外から取り寄せてもらったんだ。傷跡を目立たなくする薬で、火傷の痕にもよく効くらしくて。その……脚の傷、まだ痛むか?」透はその箱を私の前に差し
唇の端から鮮血がじわりとにじむほどの強さで、透は自分の頬を力任せに叩いた。彼は狂ったように階段を駆け下りると、マンションのごみ置き場に並ぶごみ袋を、なりふり構わずひっくり返して漁り始めた。周りの住人たちは、異様なものを見るような目で彼を見つめている。やがて彼は、ごみ袋の中から、私が捨てた血まみれのガーゼを見つけた。さらに、くしゃくしゃに丸められた、救急科でもらった診療記録の控えも見つかった。そこには、はっきりとこう記されていた。【患者、額部・右上肢・両下肢に広範囲のガラス切創あり。デブリードマンおよび縫合術施行……】日付は、あの台風の翌日だった。ちょうどその時、芽衣から電話がかかってきた。声は相変わらず、甘えるような調子だった。「透くん、今夜、あのいつもお店に連れていってよ。まだちょっと足が痛いんだけどな……」「若松芽衣」透は冷ややかに、彼女のフルネームを呼んだ。「帆立が俺の前からいなくなった。あの日、地下駐車場で溺れ死にかけてたんだ」芽衣は言葉を失い、やや不自然な調子で言った。「え?そんな……帆立さんが、わざと透くんの気を引こうとしてるだけじゃないの?あの人だって、もういい大人なんだし……」「うるさい!」透は激しい怒声を上げた。「消えろ!お前がこの先どうなろうと、俺には一切関係ない!」「透くん、私に怒鳴るの?私のお兄ちゃんのこと、忘れたの……?」芽衣の声は、たちまち泣き声に変わった。「二度とお前の兄貴の話を出すな!」透は絶望したように叫んだ。「あの日、なんで帆立からの助けを求める電話を切ったんだよ!なんで俺に代わらなかった!?」「だって……わざとじゃないの。あの時は、ただ手が滑っただけで……」彼はもう、彼女の言い訳を聞く気もなかった。あの防水ダイバーズウォッチを腕から外すと、地面に力任せに叩きつけた。砕けたガラスの破片が指の肉に食い込み、血がじわりとにじみ出す。痛みすら感じていないかのように、彼はがっくりとうなだれ、冷たい地面に膝をついた。透は自嘲するように、乾いた笑い声を漏らした。最愛の人を自らの手で突き放したのは、ほかでもない彼自身だった。……離島での日々は瞬く間に過ぎ、あっという間に3か月が経った。私はこの土地のリズムに、少しずつ馴染ん
透の叫び声がスピーカーを通して、診療所じゅうに響き渡った。外を通りかかった島の人たちまで足を止め、何事かと中をのぞき込んでくる。自治会長は面食らったように私を見てから、受話器を差し出した。「佐野先生、あんた宛てみたいだな……婚約者だって名乗ってる。役場の出張所に50回近くも電話をかけて、ここの番号を聞き出したらしい」私は差し出された受話器を見つめたまま、その場に立っていた。胸の中に浮かんだのは、冷え切った無関心だけだった。「はい、私だけど」私は歩み寄り、冷ややかな声で言った。私の声を聞いた瞬間、電話口が奇妙な静寂に包まれた。それから、透の荒い息遣いと、泣き声交じりの怒鳴り声が響いた。「お前、本当にそんな所まで行ったのか!正気かよ!?部屋を解約して、中の物も全部なくなってて!芽衣と一緒に選んだプレゼントを持って帰ったのに、部屋の中はもぬけの殻じゃないか!俺のSNSも電話も全部ブロックして、いったい何がしたいんだよ!?」私は静かな口調で、彼の言葉を遮った。「聞くけれど、台風のあの夜、市内の地下駐車場で何人が溺れ死んだか、知ってる?」透は明らかに息をのみ、声を上ずらせた。「……なんでそんなことを聞くんだよ?あの夜は台風に伴う記録的な豪雨で、市内に深刻な浸水被害が出て……確か、ふたりが溺死したはずだ。それが、お前が急に姿を消したことと何の関係があるんだよ?」「あの夜、私もあのマンションの地下駐車場にいたの」私は一語一語、区切るように言った。その瞬間、空気が凍りついたように静まり返った。大きなスピーカーの向こうで、透が恐怖に満ちた声を上げた。「お、お前……何の冗談だよ!冗談だよな?」透の声が震え始める。「濁流が車の天井に迫った時、私、あなたに電話したのよ」私は続けた。自分でも驚くほど、感情のこもらない落ち着いた声だった。「電話に出たのは芽衣だった。あなたが彼女の部屋のベランダを直しているところだから、私は束縛がきつすぎるって言われたの。そして、そのまま電話を切られた」「そんな……そんなはずない……芽衣は、お前がただ焼きもちを焼いてるだけだって……」「非常用ハンマーを全力で3度振り下ろして、ようやく窓を割った。それから、命がけで濁流の中を泳いで、車の外へ出たの。地上へたど
芽衣はたちまち目元を赤く潤ませた。透が拳をテーブルに叩きつける。「何をわけの分からないこと言ってるんだよ?この部屋は3年契約で借りたんだぞ。それを今さら解約するって?」私は動じなかった。「昨日のボイスメッセージ、聞いたから。透、お互いもう大人でしょう。人を馬鹿にするのも大概にしてよ。彼女の面倒を見ることが、あなたにとって何より大切な責任だって言うなら、これ以上、お互いの時間を無駄にするのはやめましょう」透は怒りで胸を激しく上下させた。「帆立!いい加減にしろよ!うっかり落としただけだって言ってるだろ!普通、そこまで言うか?」芽衣が涙をこぼし始め、肩を震わせた。「帆立さん、ごめんなさい。全部、私が来たせいですよね。トイレを借りようなんて思わなければよかった……そこまで気にするとは思わなくて。もう帰ります。水も電気も止まった家に戻りますから。外でどうなっても、もうおふたりには迷惑をかけません……!」そう言ってエプロンを外し、立ち去ろうとする。透が彼女の腕をつかみ、私に向かって怒鳴った。「お前、本当に話が通じないな!彼女は被災者で、殉職した隊員の遺族なんだぞ!医者のくせに、なんでそんなに冷たくなれるんだよ?お前が受け入れられないって言うなら、俺たちが出ていく!お前はこの空っぽの部屋に、ひとりで寂しく引きこもってろ!」「いいよ」私は頷いた。透は一瞬動きを止めた。私を鋭く睨みつけると、芽衣の手を引き、扉を力任せに押し開けて出ていった。その後の数日、私は休みを取り、荷造りを始めた。解約の手続きも滞りなく進んだ。引っ越しの前夜、救急科の同僚、佐伯枝里子(さえき えりこ)からビデオ通話がかかってきた。画面に映っていたのは、市内最大の高級ショッピングモールだった。カメラの向こうでは、透が芽衣に付き添い、婦人服店で買い物をしていた。芽衣はブランドの紙袋をいくつも提げ、楽しそうに笑っている。透はその横で彼女のワンピース選びを手伝っており、その眼差しは、彼女を甘やかすような優しさに満ちていた。枝里子は電話の向こうで苛立ちを噛み殺しながら、吐き捨てるように言った。「何なの、あの最低男。救助中に大怪我した時、病院に3日間ずっと付き添ってたのは誰よ。貯金まで崩して、あれこれ世話を焼いてやったのは
「帆立、着替え!洗ったやつ、持ってきてくれ!」浴室から透のくぐもった声が聞こえてきた。私はグレーのルームウェア一式を取り出すと、浴室の扉の前まで歩き、わずかに開いた隙間から着替えを差し入れた。透が手を伸ばして受け取る。「サンキュ」私はすぐにはその場を離れなかった。浴室の扉の前にある棚には、透が脱いだばかりの汚れた服が置かれている。その上に、彼のスマホが転がっていた。――ヴヴッ。突然、画面が点灯した。芽衣からのボイスメッセージだった。私は何気なく再生ボタンを押した。甘えるような芽衣の声が流れ出す。「透くん、防水のダイバーズウォッチ、うちの枕元に忘れてるよ?今朝、あんなに慌てて帰ったから、置いてきちゃったのかな?今夜、また取りに来る?」シャワーの音がぴたりと止まった。浴室の扉が勢いよく開き、透が腰にバスタオルを巻いただけの姿で、湯気をまといながら飛び出してきた。彼は私の手からスマホをひったくると、後ろめたさと気まずさに顔を赤くした。何か言おうと口を開きかけたものの、苦し紛れに私へ近づいてくると、私にキスをしようとした。「いや、聞いてくれ。昨日の夜は……」私は顔をそむけ、そのキスを避けた。「昨日は疲れてたし、今日も疲れてる。触らないで」透の表情が一変した。ばつの悪さを怒りで押し隠すように顔を歪め、スマホを棚に叩きつける。「帆立、いつまでそんな態度を続けるつもりだよ。芽衣は、俺が昨日ほとんど寝てないのを心配して、朝になったら早く帰って帆立のそばにいてやれって言ってくれたんだぞ。それなのに、帰ってきてからずっと当てつけみたいなことばかりして……少しは俺の気持ちも考えてくれよ」私は振り返り、まっすぐ彼の目を見た。「じゃあ、昨日の夜はどこで寝たの?」透はいらだたしげに、濡れた髪をかき上げた。「リビングのソファに決まってるだろ!あの時計は、芽衣のベッドを動かすのを手伝った時、上着を脱いだ拍子にうっかり落としただけだ。帆立、俺はずっと芽衣のことを妹みたいに思ってるだけだ。あいつの兄貴は、俺を助けるために死んだんだぞ。俺たちの関係を、そんな下品な目で勘繰るのはやめてくれよ」私はゲストルームの扉を指さし、冷たく言った。「今夜はあっちで寝て」透は私を睨みつけ、奥歯を噛