Masuk台風が上陸したその夜、私、佐野帆立(さの ほたて)は地下駐車場に閉じ込められていた。 流れ込んだ濁流がフロントガラスを覆い尽くした瞬間、私は救助隊長を務める恋人の小倉透(おぐら とおる)に電話をかけ、ようやくつながった。 だが、向こうから聞こえてきたのは、彼の幼なじみ、若松芽衣(わかまつ めい)の声だった。 「帆立さんって、ほんと束縛キツいですよね。透くん、今はうちのベランダの窓を補修してくれてる最中なんですけど」 こちらに言い返す隙も与えず、通話は一方的に切られた。 やがて車内の水位は天井近くにまで迫り、私は奥歯を噛みしめて窓ガラスを叩き割ると、必死に濁流をかき分け、車の外へ泳ぎ出た。 地上へ這い上がり、バッテリー残量1%のスマホを確認する。画面には、透からの短いメッセージが届いていた。 【芽衣はタワマンの高層階にひとりで住んでいて、雷が怖いらしい。急ぎの用じゃなければ、台風が過ぎてからでいいか】 額を伝う血を拭い、私は婚約指輪をそっと外すと、迷うことなく泥水の中へ投げ捨てた。 そして、静かにひと言だけ返信した。 【いいよ】
Lihat lebih banyakどれほど時間が経っただろうか。扉の外から聞こえていた押し殺すような泣き声が、次第に小さくなっていった。透は重い足取りで、豪雨の中へ歩き去っていった。翌朝、自治会長が息子の薬を受け取りに、診療所へやってきた。帰り際、思い出したように口を開く。「佐野先生、昨日あんたを訪ねてきた若い人な。あの雨の中、朝までずっと診療所の前にいたぞ。始発の連絡船が出る頃になって、ようやく港へ向かったよ。船員の話じゃ、今度は民間の海難救助隊に入るんだってな。荒れた海にも出るらしいし、危ない仕事だぞ」私はカルテを整理しながら、短く相槌を打った。「そうですか。でも、それは彼が決めたことです。私には関係ありません」……島での暮らしは、その後も変わらず静かに続いていった。数日後のある午後、診療所の固定電話が突然鳴った。何気なく受話器を取ると、電話の向こうからヒステリックな女の声が聞こえてきた。芽衣だった。「あんたさあ、もう満足でしょ!?ねえ、答えてよ!」芽衣は電話口で、狂ったように叫び続けた。声は甲高く、耳をつんざくようだった。「透くん、どうかしちゃったの!私のこと、兄の元同僚たちに全部話したのよ!みんなから、兄の仲間の好意を利用した最低な女だって責められてる!」そう叫んだかと思うと、芽衣は急に泣き出した。「仕事も辞めることになったし、噂まで広まって、もうこの街にはいられない……それに透くん、民間の海難救助隊に入ったのよ。あんなの、死にに行くようなものじゃない!帆立さん、お願い!透くんに電話して、戻るように言ってよ!本当にお願いだから!」芽衣が泣きわめくのを聞いても、私の表情に変化がひとつもなかった。「芽衣、あなた、まだ分かってないの?」私は静かにそう言った。「何がよ!そもそも全部、あんたのせいでしょ!あの台風の日のことを、いつまでも引きずらなければ、こんなことにはならなかったのに!」私は鼻で笑った。「透があなたに優しくしてたのは、お兄さんの妹だからでも、ましてあなたのことが好きだったからでもない。あの人はただ、いつでも自分に従い、安っぽい男のプライドを満たしてくれる道具が欲しかっただけ。透にとってあなたは、一人じゃ何もできない、都合のいい女でしかなかったのよ。自分が損をするって分かった途端、あっさり
透は全身びしょ濡れのまま、まるで彫像のように、診療所の古びた木戸の前にひざまずいていた。いつものオレンジ色の救助服ではなく、使い古して色あせたジャケットを一枚羽織っているだけだった。体はすっかり痩せ細り、かつてはまっすぐだった背筋も、心なしか少し丸まっている。濡れた髪が額に張りつき、顔からはすっかり血の気が失われていた。私が近づいてくるのに気づくと、彼の体が大きく震えた。震える足で必死に立ち上がろうとしたが、長時間膝をついていたせいか足に力が入らず、泥水の中へ倒れ込みそうになる。「帆立!やっと帰ってきたのか!」彼は焦った様子で数歩近づき、震える手で、私が肩にかけた診療鞄を持とうとした。私はわずかに体をかわし、その手を避けた。冷たい視線を向けたまま、鍵を取り出して鍵穴に差し込みながら言い放つ。「私のものに触らないで」透は見捨てられた犬のような顔で、私の後ろについて中へ入ってきた。玄関先に立ったまま、きれいに磨かれた床へ足を踏み入れることすらためらい、泥だらけの靴のまま戸口で立ち尽くしている。透は落ち着かない様子で私を見つめ、どうしていいか分からないまま、かすれた声で口を開いた。「帆立、ごめん。本当にごめん。俺……この3か月間、ずっとお前を探してた。お前がいた科にも行った。でも、主任は居場所を教えてくれなかった。それで前の職場を訪ねて、お前が前に出してた医療支援の申請書を見つけて……それで、ここにいるって分かったんだ」私はビニール傘を戸口に置き、濡れた上着を脱ぐと、白湯を一杯注いで黙って飲んだ。「救助隊の仕事は辞めたの?責任感を何より誇りにしていたんじゃなかった?」私は振り返り、彼を見つめた。透は気まずそうに口元を歪め、苦笑いを浮かべた。「仕事は辞めた。もう、続ける資格なんてないと思って。婚約者すら守れなかった救助隊長に、他人を助ける資格なんてあるはずない」そう言いながら、彼は震える手で懐から、ビニール袋で何重にも包まれた小さな箱を取り出した。ずっと懐に入れていたのだろう。その箱には、まだ彼の体温が残っていた。「これ、知り合いに頼んで、海外から取り寄せてもらったんだ。傷跡を目立たなくする薬で、火傷の痕にもよく効くらしくて。その……脚の傷、まだ痛むか?」透はその箱を私の前に差し
唇の端から鮮血がじわりとにじむほどの強さで、透は自分の頬を力任せに叩いた。彼は狂ったように階段を駆け下りると、マンションのごみ置き場に並ぶごみ袋を、なりふり構わずひっくり返して漁り始めた。周りの住人たちは、異様なものを見るような目で彼を見つめている。やがて彼は、ごみ袋の中から、私が捨てた血まみれのガーゼを見つけた。さらに、くしゃくしゃに丸められた、救急科でもらった診療記録の控えも見つかった。そこには、はっきりとこう記されていた。【患者、額部・右上肢・両下肢に広範囲のガラス切創あり。デブリードマンおよび縫合術施行……】日付は、あの台風の翌日だった。ちょうどその時、芽衣から電話がかかってきた。声は相変わらず、甘えるような調子だった。「透くん、今夜、あのいつもお店に連れていってよ。まだちょっと足が痛いんだけどな……」「若松芽衣」透は冷ややかに、彼女のフルネームを呼んだ。「帆立が俺の前からいなくなった。あの日、地下駐車場で溺れ死にかけてたんだ」芽衣は言葉を失い、やや不自然な調子で言った。「え?そんな……帆立さんが、わざと透くんの気を引こうとしてるだけじゃないの?あの人だって、もういい大人なんだし……」「うるさい!」透は激しい怒声を上げた。「消えろ!お前がこの先どうなろうと、俺には一切関係ない!」「透くん、私に怒鳴るの?私のお兄ちゃんのこと、忘れたの……?」芽衣の声は、たちまち泣き声に変わった。「二度とお前の兄貴の話を出すな!」透は絶望したように叫んだ。「あの日、なんで帆立からの助けを求める電話を切ったんだよ!なんで俺に代わらなかった!?」「だって……わざとじゃないの。あの時は、ただ手が滑っただけで……」彼はもう、彼女の言い訳を聞く気もなかった。あの防水ダイバーズウォッチを腕から外すと、地面に力任せに叩きつけた。砕けたガラスの破片が指の肉に食い込み、血がじわりとにじみ出す。痛みすら感じていないかのように、彼はがっくりとうなだれ、冷たい地面に膝をついた。透は自嘲するように、乾いた笑い声を漏らした。最愛の人を自らの手で突き放したのは、ほかでもない彼自身だった。……離島での日々は瞬く間に過ぎ、あっという間に3か月が経った。私はこの土地のリズムに、少しずつ馴染ん
透の叫び声がスピーカーを通して、診療所じゅうに響き渡った。外を通りかかった島の人たちまで足を止め、何事かと中をのぞき込んでくる。自治会長は面食らったように私を見てから、受話器を差し出した。「佐野先生、あんた宛てみたいだな……婚約者だって名乗ってる。役場の出張所に50回近くも電話をかけて、ここの番号を聞き出したらしい」私は差し出された受話器を見つめたまま、その場に立っていた。胸の中に浮かんだのは、冷え切った無関心だけだった。「はい、私だけど」私は歩み寄り、冷ややかな声で言った。私の声を聞いた瞬間、電話口が奇妙な静寂に包まれた。それから、透の荒い息遣いと、泣き声交じりの怒鳴り声が響いた。「お前、本当にそんな所まで行ったのか!正気かよ!?部屋を解約して、中の物も全部なくなってて!芽衣と一緒に選んだプレゼントを持って帰ったのに、部屋の中はもぬけの殻じゃないか!俺のSNSも電話も全部ブロックして、いったい何がしたいんだよ!?」私は静かな口調で、彼の言葉を遮った。「聞くけれど、台風のあの夜、市内の地下駐車場で何人が溺れ死んだか、知ってる?」透は明らかに息をのみ、声を上ずらせた。「……なんでそんなことを聞くんだよ?あの夜は台風に伴う記録的な豪雨で、市内に深刻な浸水被害が出て……確か、ふたりが溺死したはずだ。それが、お前が急に姿を消したことと何の関係があるんだよ?」「あの夜、私もあのマンションの地下駐車場にいたの」私は一語一語、区切るように言った。その瞬間、空気が凍りついたように静まり返った。大きなスピーカーの向こうで、透が恐怖に満ちた声を上げた。「お、お前……何の冗談だよ!冗談だよな?」透の声が震え始める。「濁流が車の天井に迫った時、私、あなたに電話したのよ」私は続けた。自分でも驚くほど、感情のこもらない落ち着いた声だった。「電話に出たのは芽衣だった。あなたが彼女の部屋のベランダを直しているところだから、私は束縛がきつすぎるって言われたの。そして、そのまま電話を切られた」「そんな……そんなはずない……芽衣は、お前がただ焼きもちを焼いてるだけだって……」「非常用ハンマーを全力で3度振り下ろして、ようやく窓を割った。それから、命がけで濁流の中を泳いで、車の外へ出たの。地上へたど