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合わぬ相手とは二度と会うまい
合わぬ相手とは二度と会うまい
Author: 元初

第1話

Author: 元初
「由香、結婚を美雪にタダで譲れって言ってるわけじゃない。ちゃんと補償はする……」

馴染んだ声が聞こえ、木村由香(きむら ゆか)は激痛の中で目を開いた。

朦朧とした意識がはっきりした途端、松本光希(まつもと こうき)との結婚一ヶ月前へ戻っているのに気づいた。

父・木村慎吾(きむら しんご)の真剣そのものな顔は、結婚を譲れと迫ってきた記憶と寸分違わない。

「いいよ」

由香はかすれ声で、意図せず父の言葉をぶった切った。

慎吾の顔は嬉しさにあふれ、抑えきれていない。

「由香、ようやく分かったんだな!」

由香は赤い唇を少しつり上げ、嘲るような笑みをこぼした。

「その代わり、200億円欲しい」

「200億円?頭おかしいのか!」言い終える前に慎吾の顔はこめかみに筋が浮き上がり、怒りに震えていた。

由香は耳の後ろ髪を払い、ゆっくり続ける。

「それに、あなたとの親子の縁を切る」

慎吾の顔色が一瞬にして変わり、彼女を指す手が止まらず震える。

「このクズが!自分が何を言ってるか分かってるのか!」

「分かってるに決まってる!」

由香は顔を上げ、その表情には憎しみが滲んでいる。

「母の妊娠中に浮気して、母子ともに死なせたあの日から、あなたに私の父である資格はない!どうせあなたの心の中で娘は美雪だけ。

あの子のために松本家との結婚まで私に譲らせようとする。親子の縁なんて切れているようなものでしょう!条件は二つ。どっちも譲らないわ!」

彼女は少し身を乗り出し、苛立ちを滲ませる。

「返事はイエスかノーよ」

慎吾は怒りで呼吸を荒げ顔を真っ赤にしている。彼は奥歯を噛みしめ、絞り出すように言った。

「縁は切ってやる!後悔するなよ!200億円は時間が要る。ただし、俺にも条件がある!松本家のあの後継者は君のことを気に入ってる。美雪を無事に嫁がせるために、一ヶ月以内に国を出て行け!二度と戻ってくるな!」

その言葉を聞いて、由香は動悸がした。

慎吾が妹・木村美雪(きむら みゆき)のためならそこまでやることに対してか、それとも「松本家の後継者は君のことを気に入ってる」という一言に対してか、理由は自分でも分からない。

小さな声で言葉をふりしぼる。

「あの人が私を気にかけるわけない」

「何だと?」慎吾が言い返す。

由香は視線を落とし淡々と言う。

「何でもない。一ヶ月以内に200億円を私の口座に。手続きを全部済ませたらあなたたちの前から完全に消える」

由香はそう言ってその場を去った。玄関に差しかかったところで、光希と美雪が肩を並べて歩いてくるのが見えた。

二人は談笑していて、やけに親しい。

由香は、光希が初めて美雪を見た時の、氷のようなに冷たい視線から感じた嫌悪感を忘れられない。

美雪が自分に近寄ろうとすると、彼は片手で喉元を押さえ込み、首を絞めあげ冷たく警告した。

「近づくな!」

なのに今、彼の視線は柔らかい。

そうか、この時点でもう心は美雪に傾いていたのか。

由香の胸が裂かれるように痛み、手足が痺れた。

前世の記憶が潮のように押し寄せた。

あの頃、妊娠中の母は追い詰められて命を落とし、父は愛人と婚外子を引きとり、由香は木村家でまるで影のように生きていた。

婚約者である光希が、たった一人で木村家へ乗り込み、暗い監禁部屋に閉じ込められ傷だらけの彼女を救い出した。

その日から、光希とその背後の松本家は彼女の唯一の希望になった。

彼は強引に彼女を庇い、木村家は松本家の力を恐れながらも、この縁談の利益に目をくらませ、何度も美雪を身代わりとして嫁にやろうとした。

けれど由香が応じるはずがない。

木村家は元より松本家には及ばない。この結婚は母・木村彩花(きむら あやか)と光希の母・松本恵(まつもと めぐみ)の古い縁で得たもの。

彩花がこの世に残していったことだ。

慎吾の威圧と懐柔は、いつも跳ね返された。

美雪は諦めきれず、裸で光希の部屋に潜り込んだが、容赦なく追い出された。

結納当日には死を盾にし、彼の脚にすがって泣き喚き、最期は皆の前で海に身を投げ、遺骨も残らなかった。

それで美雪が消えれば、光希と穏やかに暮らせるはずだった。

結婚後の三年は、たしかに仲睦まじかった。

その日、街角で光希と美雪が親しく抱き合っているのを見る時までは。二人のそばには二歳の子までいた。

その時ようやく知った。

美雪は死んでおらず、彼がどこかに彼女を匿っていた。

二人には子どもまでいた。

詰め寄る暇もなく、暴走した大型トラックが彼女に突っ込んだ。

体を砕く激痛の中で、光希がこちらを見るのが見えた。

かつて優しさで満ちたその目には、ただ冷たさだけがある。

意識が遠のく最後の瞬間、心に浮かんだのはただ一つ。

もし来世があるなら、光希と美雪という「恋人同士」を必ず成就させてやる。

偽りの混ざった愛なんて、私はいらない!

「由香!」

光希の声が過去の記憶から彼女を引き戻した。

彼女を見つけた瞬間、彼の顔に眩しい笑みが咲き、瞳の光は彼女が世界そのものだと言わんばかりだった。

その目を一度は信じた。

だが後にその目が美雪を見つめ、同じ優しさで満ちていたのも知っている。

光希はいつものように手を差し出した。

「あと一ヶ月で結婚式だ。ドレスの試着に連れていく」

由香は差し出された手を見つめ、脳裏にはその節ばった手が美雪の肩に置かれていた光景がよぎる。

胸がきゅっと縮み、彼女は無表情のまま身をずらして避け、素っ気なく「うん」とだけ言って歩き出した。

光希は空を切った自分の手を見て一瞬固まったが、気に留めず機嫌が悪いだけだと解釈して足早に追った。

美雪の脇を通り過ぎると、彼女がそっと袖をつまみ、怯えた声を出した。

「お姉ちゃん、わたしも……一緒にドレス、見に行っていい?」

由香はその遠慮を感じて、ふっと笑った。

「いいよ」

「だめだ」

二つの声が同時に響いた。

光希は面食らって由香を見て、顔に困惑が広がる。

「由香、君、いちばん嫌って……彼女のこと……どうして……」

由香は心の中で冷たく笑った。

なぜかって?

もちろん、一ヶ月後にウェディングドレスを着て彼の隣に立つのは、美雪に決まっているからだ。
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