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第2話

Auteur: 元初
ロールスロイスが道を疾走し、光希は助手席の美雪をちらっと見て、由香の耳元に身を寄せて聞いた。

「由香、なんで急に彼女を乗せたんだ?」

由香は、彼が美雪の名を口にするとき決まって眉間にしわを寄せ、不機嫌さを隠そうともしない。

まるで本当に彼女を心底疎ましく思っているかのように。

演技が上手すぎる。

あまりにも巧妙で、前世の彼女は三年間も欺かれていた。

街角で二歳の子どもを目にするまで、この関係がすでに髄まで腐りきっていたことに気づかなかったのだ。

由香は伏し目がちに視線を落とし、淡々と言った。

「あなたはいつも彼女がしつこいって嫌がってたでしょ。だったら自分で、あなたが私を嫁にとるってことを見せればいい。そうすれば諦めもつくかもしれない」

光希の顔が一瞬くもる。

唇がかすかに動き何かを言おうとするが、喉仏が小さく上下するだけで、結局その説明を受け入れた。

店に着くと、光希は由香を連れてブライダルサロンへ。

美雪も一歩遅れてぴたりとついてくる。

オーダードレスはとっくに決まっている。

アイボリーのレースに細かなダイヤがびっしり、灯りの下で夢みたいにきらめく。

スタッフがドレスを抱えて現れた瞬間、由香が手を伸ばす前に美雪が一歩先に近づいた。

レースの模様をそっとなぞり、羨望を目いっぱいに浮かべてから、ようやく振り向く。

「お姉ちゃん、私も……試していい?」

つくられた無垢さに、由香は心の底で冷たく笑った。

結婚は譲ってやる。

けれど自分のものまで、どうして差し出さなきゃいけないの。

赤い唇がわずかに開き、彼女は容赦なく嘲るように吐き捨てた。

「あなたの母が愛人だったことだけじゃ飽き足りないのね。あなたまでそうなりたいの?」

美雪の顔色は血の気を失い、怯えたように光希を見上げ、瞳の奥は助けを必死に求めている。

光希の顔もわずかに曇り、二人の間に身を差し入れるように立って、由香の腕を軽く押しながらなだめるように言った。

「由香、みっともないところ見せないで、早く着てみろ、サイズが合うかどうか」

そう言いながらも、その何気ない仕草で、美雪をしっかりと庇っていた。

由香は彼のこわばった体を見つめながら冷ややかな笑みを浮かべると、ウェディングドレスを受け取り、くるりと身を翻して試着室に入った。

着替えを終え、鏡の前に立った由香は一瞬、意識が遠のくような感覚におそわれた。

鏡の中の自分は大きな瞳と白い歯を輝かせ、白いドレスの裾が肌の白さを一層際立たせていた。

前世、この場に立ったときは、胸いっぱいに未来への期待が広がっていたのに。

だが今、鏡に映る自分の瞳には、ただ暗い影が広がっているだけだった。

「きゃっ!」

外から突然、美雪の悲鳴が聞こえた。由香は手を伸ばし、カーテン少し開けた。

美雪が左足を右足に引っかけ、そのまま光希の胸へ倒れ込んだ。

光希は避けもせず、腕を回してしっかり腰を支え背中をぽんと軽く叩く。

まるで怯えた小動物をあやすかのようだ。

彼の心がもう自分にはないと分かっていても、目のあたりにすると心が痛む。

思い出した。

昔は美雪の指先が光希の裾に触れただけで、人前でその服を火鉢に投げ込み、「汚い」と吐き捨てた男だ。

なのに今は?

腕の中の女を優しくあやし、寄り添う姿は、試着室の本妻よりよほど恋人らしい。

由香はカーテンをつかむ手に力を込め、胸を鷲掴みにされたような鋭い痛みに息を呑んだ。

彼女が深く息を吸い、まさにカーテンを開けようとした瞬間、天地がひっくり返るような揺れが襲いかかった。

部屋の中のものが一斉にぐらぐらと揺れている。

地震だ!

由香の頭の中にその言葉が聞こえ、反射的にドレスの裾を掴んで外へ走り出そうとした。

だがウェディングドレスの裾はあまりにも大きく、気づかぬうちに裾を踏んでしまい、彼女は床に叩きつけられた。

腕の肌が擦れて血が滲み、頭上から細かい破片が身体に刺さり、痛みに顔が青ざめる。

だが、数歩先にいた光希はまるで彼女に気づかないかのように、美雪を抱き上げ、そのまま外へと駆け出した。

二人が由香の脇をすり抜け、遠ざかっていくとき、会話の断片が入った。

「お兄ちゃん、私なんか放っておいて、お姉ちゃんがまだ中に……」

「彼女は自分で出られる。君は足を怪我してるんだ、まずは君を外へ連れていく!」

その一言が刃のように心臓へ突きささり、息ができない。

どれほど経ったのか、揺れはようやく止んだ。

店内は荒れ放題で、今の由香の心と寸分違わなかった。

由香はドレスを脱ぎ、脇のハサミを取ると、ざくざく音を立てて切り裂いた。

出て行く前、呆然とした店員に冷たく言い放った。

「光希には言わないで!」

美雪が嫁ぐというなら止めはしない。

だが自分のものは、たとえ壊してでも、あの二人には絶対に渡さない。

店を出た由香は、そのまま入国管理局へ向かい、書類を提出すると同時に急ぎの手続きを願い出た。

職員は彼女の腕の擦り傷を見て、うなずきながら言った。

「一か月以内に手続きが済むはずです」

玄関口で大きく息を吸い、どんよりした空を仰いだ。

一ヶ月後、この町を完全に離れ、ようやく自分の日々が始まる。

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