「由香、結婚を美雪にタダで譲れって言ってるわけじゃない。ちゃんと補償はする……」 馴染んだ声が聞こえ、木村由香(きむら ゆか)は激痛の中で目を開いた。 朦朧とした意識がはっきりした途端、松本光希(まつもと こうき)との結婚一ヶ月前へ戻っているのに気づいた。 父・木村慎吾(きむら しんご)の真剣そのものな顔は、結婚を譲れと迫ってきた記憶と寸分違わない。 「いいよ」 由香はかすれ声で、意図せず父の言葉をぶった切った。 慎吾の表情は嬉しさであふれ、抑えきれていない。 「由香、ようやく分かったんだな!」 由香の顔は曇り、赤い唇を少しつりあげる。嘲るような笑みがこぼれた。 「その代わり、200億円欲しい」 「200億円?頭おかしいのか!」言い終える前に、慎吾の顔はこめかみに筋が浮き上がり、怒りに震えていた。 由香は耳の後ろ髪を払い、ゆっくりと続ける。 「それに、あなたとの親子の縁を切る」
view more「あなたたち……」由香は入り口に立つ二人を見て、驚きで言葉が出ない。紗英はすでに駆け寄り、由香の手をつかんで外へ引っ張る。「説明はあと!まずここを出る!」由香は引かれるまま走り、ルカスは二人の横につき、押し寄せる家政婦たちを次々はねのける。「いったい何が?紗英、どうして彼と一緒に?」由香は走りながら尋ねる。「助けてってメッセージを見てすぐ調べたら、光希があなたをこの島に連れてきたって判明した」紗英は早口で続ける。「でも私の手勢じゃ足りない。正面から連れ出す自信がなかった。その時よ、彼が来たの。あなたの知り合いだって言って、手を組もうって」彼女は由香にウインクして、半ば茶化した。「やるじゃん、どこで玉の輿拾ってきたの?彼、ヨーロッパの古い名門の後継ぎだってさ。私兵を動かせたのが決定打。彼がいなきゃ、今ここに立ってない」「えっ?」由香は固まった。ルカスをただの陶芸好きの外国人だと思っていた。そんな素性があるなんて。三人がヘリのそばに着いた瞬間、背後からせわしない足音がした。光希がボディーガードを引き連れて戻ってきたのだ。黒いコートを海風がはためかせ、険しい顔をしていた。「由香、こっちへ来い」その視線は、ルカスの背に守られる由香に釘づけだ。由香は反射的にルカスの背中に身を隠した。ルカスは無言で前へ出て、彼女を完全に庇った。「人のテリトリーへ踏み込んで奪うって、行儀悪くないか?」光希の視線がルカスに移り、敵意を隠しもしない。「由香は誰の所有物でもない」ルカスの声はぶれない。「彼女を不法に拘束してる時点でアウトだ。俺はただ彼女を連れて帰る」「彼女を置いていけ。そうすればおまえらは見逃す」光希が手を振ると、背後のボディーガードが半包囲を作る。「嫌なら、全員ここで終わりだ」由香は一瞬で胸が詰まるような緊張に襲われ、握る紗英の手に力がこもった。「紗英、私たち……」言い終える前に、空の彼方から轟音がした。三機のヘリが雲を割り、刺すようなサーチライトが光希の上に射抜く。拡声器の冷たい警告が響いた。「地上の者は直ちに武器を捨て、検査を受けろ!」ルカスは光希を見やり、口の端を冷たく上げる。「俺たちが丸腰で来たと思ったのか?」光希の顔がみるみる青
光希の顔色が一気に失せ、唇が震えて声が出ない。由香はその様子を見下ろし、胸の底に意地の悪い愉悦がかすかに灯り、わざとゆっくりと言葉を継いだ。「もしあなたがいなかったら、私は彼と普通に付き合って、恋して、結婚してた。もしかすると今ごろ……可愛い子どもだっていたかもね」「やめろ!」光希が突如がなり、目を真っ赤にして叫んだ。「由香、頼む、もうこれ以上言うな!」「ふっ」由香は冷たく笑った。「分かってるでしょ。あなたが私をここへさらって、無理やり嫁がせようとした瞬間から、私が抱くのは憎しみだけだって」光希はもう聞いていられず、よろめきながら立ち上がって、またも逃げるように去った。由香はその狼狽した背を見送り、瞳の温度をすっと下げた。ここから早く抜け出す手を打たなきゃ。二度と光希の思い通りにはならない。翌朝いちばん、家政婦が慌てて知らせに来た。光希は会社の急用が山積みで、どうしても飛行機で国内に戻るという。好機だ。由香は目を走らせ、いちばん近くの家政婦を呼び止めた。「その携帯で木村家の近況を調べて。光希は、私の代わりに報いを与えたって言ってた。あの親子が今どうなってるか、この目で確かめたい」家政婦は気まずそうに顔を曇らせた。「その……社長の指示で、外と繋がるものはお渡しできません」「別にあなたの携帯を取り上げるんじゃない」由香は目を細め、圧を滲ませる。「あなたが持ってなよ。私は横で見るだけ。逃げようがないでしょ?」それでも家政婦は渋った。由香はさっと口調を変え、露骨に脅した。「何?私の言うことも聞けないの?光希に知られたらどうなると思う?私が使用人すら動かせなかったなんて知ったら、あなたをどう罰するだろうね」光希の名が出た途端、家政婦はびくりと肩をすくめた。彼女は歯を食いしばり、数分だけなら大丈夫だろうと腹を括ると、携帯のロックを外して検索画面を開いた。由香は画面を見ているふりをしつつ、視界の端でテーブルのミルクのカップを捉えた。わざと手を滑らせて、ガシャン、と床へ落とし、ミルクを全身に浴びた。「ぼさっとしないで?」由香は一気に声を張り上げ、怒りを顔に出した。「早く替えのワンピース持ってきて!ついでにここも片付けて!」家政婦は彼女の突然の怒気にびくっとして、慌てて
「私はあなたなんかと結婚しない!」由香の胸には怒りが込み上げ、目の前の光景が馬鹿げて滑稽にしか見えなかった。光希は聞こえないふりで続けた。「ドレスは何着か作り直させた。まず飯を食え。食ったら試着に連れて行く」彼が手を伸ばして掴もうとした腕を、由香は勢いよく振り払った。彼女は踵を返して入口へ駆けだした。とにかく今すぐここから逃げたかった。意外にも、光希は止めなかった。大扉を押し開けて初めて、由香は彼がなぜあんなに自信満々だったのかを悟った。扉の外は馴染みの街ではなく、見渡す限りの広い邸地だった。芝生の中央に一軒家がぽつんと建ち、遠くでは家政婦らしき人影が行き来している。周囲はうっそうとした森に囲まれ、果てが見えない。「ここ、どこ?」由香はくるりと振り向き、のこのこ出てきた光希を睨みつけた。「俺のプライベートアイランドだ」光希は冷静に答えた。「由香、安心しろ。ここを見つけられる奴はいない。君はただ落ち着いて俺に嫁げばいい」「これは誘拐よ!」由香は歯を食いしばり、全身を震わせた。「だから何だ?」光希の目は赤くなり、声には歪んだ執着が滲んだ。「君と一緒にいられるなら、俺は何だってやる」「狂ってる!」由香は怒りで身体は冷え切っていくのに、できるのは拳を固く握りしめることだけだった。光希は反論せず、ただ頑なに彼女を見つめる。由香が消えていた日々に、彼はもう壊れていた。どう捕まえて閉じ込めるか、そればかりを昼夜考えるほどに。その後の数日間、光希は考えつく限りの「優しさ」を積み上げた。庭は昔由香が好きだったフリージアでいっぱい、空気には甘い香り。宝石箱が何箱も部屋に運び込まれ、ドレッサーの半分を埋め尽くす。キッチンは二十四時間待機で、空輸の食材を使って好物ばかりを用意する。十分に尽くせば、いつか心は温まる。本気でそう信じて。三日目の朝になって、家政婦が慌てて報告に来た。由香が一日一夜、何も口にしていないという。光希が飛び込んだとき、由香はベッドにぐったり横たわり、顔色は蒼白で、虚ろな目で天井を見つめていた。留置所での拷問により体を壊していたうえ、この二日間は一口も食べておらず、今の彼女は腕を上げる力さえ残っていなかった。「そんなに俺と結婚するのが嫌
由香の陶土を取ろうと伸ばした手がぴたりと止まり、指先が宙で止まった。まさかこのタイミングでルカスが想いを口にするなんて思ってもみなくて、耳の先が焼けたみたいに一気に熱くなった。振り向いた拍子に、翡翠みたいな緑の目と正面からぶつかった。本気で見るとどれだけ人をさらう目か、前から知ってたのに、至近距離で受け止めると心臓が一拍飛ぶ。一秒もせずに慌てて視線を逸らし、指先で無意識に作業台の縁をいじる。「ルカス、どうして……私のこと好きなの?」彼女のまつ毛がかすかに震えて、声はとても小さい。ルカスは首をかしげる。「好きなのに理由がいる?」由香は唇を結ぶ。「でも、私……たぶん、あなたが思ってるような人じゃない」「想像で君を見たことない」ルカスは少し身を乗り出し、真剣に言った。「由香は、売れ残ったパンをこっそり角のホームレスに分けるし、客にケチつけられたら筋を通して言い返すし、陶土を捏ねるときは目がきらっと光る。太陽みたいなんだ。あったかくて、まぶしい!太陽に心が動くの、普通だろ?」由香は彼にそう言われて頬が熱くなった。生まれてこのかた、こんなに真っ直ぐ褒められたことはなかった。光希のそばでは、耳にするのはいつも「わがまま」「横柄」という言葉。ろくに知ろうともしない連中が、勝手にレッテルを打ち付けた。でも今は、彼女を太陽みたいだと言う人がいる。ただ、彼女はまだ、やり直す準備ができていない。それを見抜いたように、ルカスはふっと笑い、肩の力を抜いた口調で言った。「すぐ答えなくていいし、気負う必要もない。俺の気持ちを知ってほしかっただけだ」由香は口を開きかけ、結局は小さく「ありがとう」とだけ言った。恋愛は遊びじゃない。そんな軽々しくは決められない。「自分の気持ちを確かめる時間がいる、ルカス。今は答えられない」ルカスは目を細めた。「大丈夫。君の気持ちがいちばんだ」その日から、二人の関係はまた元どおりに戻った。さすがと言うべきか、ルカスは距離感がうまい。気持ちを打ち明けたあとも少しも圧をかけず、これまでどおり店にふらりと寄っては、陶芸の話やたわいない話をしていった。由香の日々は再び穏やかになり、戸口の風鈴は何度も鳴ったが、光希が姿を見せることはなかった。あの日の突き放しで、
光希の顔から血の気が消え、その場に力なく尻もちをつく。彼は小さく何度もつぶやいた。「由香、そんなふうに俺に死刑を言い渡すな……」入り口の風鈴がまた鳴り、ルカスが焼きたてのクッキーの袋を提げて入ってくる。「由香!」勢いよく呼びかけた視線が、真っ赤に充血した光希の目にぶつかる。ルカスは一瞬固まり、すぐ眉をひそめた。「また彼がつきまとってるのか。追い出そうか?」由香は床に崩れた光希を一度見て、入口のルカスをちらりと見て手招きする。ルカスが首をかしげながら近づいてくる。由香は椅子から立ち上がり、そのまま彼の前に進み出て、大きな声で呼ぶ。「光希!」呆けたように光希が顔を上げ、その瞳は虚ろだった。由香はルカスの腕に自分の腕をからめ、光希の視線をまっすぐ受け止めて、口を開ける。「昨日、彼との関係を聞いたよね。答えるわ。私は彼に好意がある。彼と新しい生活を始めるつもりよ。あなたのことは本当にもう愛してない。だから、もう来ないで。いい?」光希の息が止まった。絡んだ二人の腕に視線が張りつき、幽霊でも見たみたいに声が震えた。「嘘だろ、由香……」彼は無意識に現実を拒んだ。二つの人生を重ねた絆が、出会って一か月にも満たない外国人に負けるなんて。「俺を手放させるための芝居だ、そうだろ……」言葉の続きを喉に詰まらせたまま、彼はただ見ているしかなかった。由香がつま先で伸び、ルカスの頬にそっとキスを落としたからだ。ルカスは即座にフリーズし、頬がばっと真紅に染まった。自分を指さし、次に由香を指さして、ようやく声をしぼり出した。「き、君が……俺に……」由香はその狼狽を受け流し、光希だけを見た。「これで信じた?私の性格は知ってるでしょ。いったん決めたら、絶対に振り返らない。愛すことも、手放すこともできる。光希。あなたが美雪のために私を最初に傷つけたその瞬間から、私たちはもう終わってた」光希は、ルカスの隣に平然と立つ由香の姿と二人の腕を絡めた親密さを見て、その瞬間、彼の目の奥に血のような赤が広がった。彼はもうその場に居られず、勢いよく立ち上がって、逃げるように駆け出した。信じたくもないし、信じられもしない。本当に、彼女を完全に失ったのだ。風鈴は扉の音に続いて鳴り、店内はまた静けさを取り戻し
光希は魂が抜けたようにホテルへ戻った。一番早い便で飛び、着いて息をつく間もなく狂ったように探し回った今は力がすっかり抜けて、腕を上げるのさえしんどい。どうやって由香を取り戻せばいいのか分からない。ただ、彼女だけは失えない。ベッドに倒れ込むと、圧し掛かる疲労が一気に押し寄せ、目の前を奇妙な光がちらつく。意識が遠のき、眠りに落ちた。由香の言った「前世」の夢を見た。自分は空中に傍観者のように漂い、もう一人の自分が見知らぬ行動を取るのを見ている。前世の結婚式でも、美雪は同じように自殺を盾に迫り、当時の自分の目は今よりも冷たかった。『死にたいなら勝手に遠くで死ね』と吐き捨て、振り向いて由香の手を取った。それで幕が下りたと思っていたのに、一年後、街角で美雪に再会する。彼女ははち切れそうな腹を抱えながら真っ青な顔で行く手を塞いだ。海に飛び込んだあと漁師に救われ、記憶を失って子を産んだ。だがその夫が海で命を落とし、行き場をなくした今、ようやく彼のもとを思い出したのだと。彼はその命の恩義に報いるつもりで、郊外に部屋を借りてやった。ブラックカードを渡し、ときどき様子を見に行った。自分はずっと由香の夫だと忘れず、一線は越えなかった。夢の終わり、視線が少し先で撥ね飛ばされた女に吸い寄せられた瞬間、理性がなくなる。狂ったように駆け寄り、もう息のない由香を抱き上げ、号泣した。悲しみにのみ込まれ、光希ははっと飛び起きた。枕は涙で濡れ、喉はひりつくほど乾き、心臓は引き裂かれたみたいに痛んだ。彼は天井をぼんやり見つめていたが、突然起き上がり、そのまま由香の店へ向かった。由香は相変わらずだ。店は人が少なく、彼女は椅子で気ままに揺れている。入り口の風鈴が鳴り、顔にのせた本をどけて、ドアの方を振り向いた。「いらっしゃ……」言葉がまた喉で止まった。「なんでまた来たの?」由香の顔に露骨な嫌悪が走った。「昨日あれだけ言ったのに、まだ足りなかった?」光希は口を開きかけ、そのまま早足で由香の前にしゃがみ込み、無意識に服の裾を指でいじった。「由香……俺は、君の言った前世の夢を見た」由香は思いがけない言葉に、一瞬きょとんとした。光希の声はかすれていた。「全部見た。全部だ。君がトラックに轢かれて死ぬところまで
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