All Chapters of 合わぬ相手とは二度と会うまい: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

第1話

「由香、結婚を美雪にタダで譲れって言ってるわけじゃない。ちゃんと補償はする……」馴染んだ声が聞こえ、木村由香(きむら ゆか)は激痛の中で目を開いた。朦朧とした意識がはっきりした途端、松本光希(まつもと こうき)との結婚一ヶ月前へ戻っているのに気づいた。父・木村慎吾(きむら しんご)の真剣そのものな顔は、結婚を譲れと迫ってきた記憶と寸分違わない。「いいよ」由香はかすれ声で、意図せず父の言葉をぶった切った。慎吾の顔は嬉しさにあふれ、抑えきれていない。「由香、ようやく分かったんだな!」由香は赤い唇を少しつり上げ、嘲るような笑みをこぼした。「その代わり、200億円欲しい」「200億円?頭おかしいのか!」言い終える前に慎吾の顔はこめかみに筋が浮き上がり、怒りに震えていた。由香は耳の後ろ髪を払い、ゆっくり続ける。「それに、あなたとの親子の縁を切る」慎吾の顔色が一瞬にして変わり、彼女を指す手が止まらず震える。「このクズが!自分が何を言ってるか分かってるのか!」「分かってるに決まってる!」由香は顔を上げ、その表情には憎しみが滲んでいる。「母の妊娠中に浮気して、母子ともに死なせたあの日から、あなたに私の父である資格はない!どうせあなたの心の中で娘は美雪だけ。あの子のために松本家との結婚まで私に譲らせようとする。親子の縁なんて切れているようなものでしょう!条件は二つ。どっちも譲らないわ!」彼女は少し身を乗り出し、苛立ちを滲ませる。「返事はイエスかノーよ」慎吾は怒りで呼吸を荒げ顔を真っ赤にしている。彼は奥歯を噛みしめ、絞り出すように言った。「縁は切ってやる!後悔するなよ!200億円は時間が要る。ただし、俺にも条件がある!松本家のあの後継者は君のことを気に入ってる。美雪を無事に嫁がせるために、一ヶ月以内に国を出て行け!二度と戻ってくるな!」その言葉を聞いて、由香は動悸がした。慎吾が妹・木村美雪(きむら みゆき)のためならそこまでやることに対してか、それとも「松本家の後継者は君のことを気に入ってる」という一言に対してか、理由は自分でも分からない。小さな声で言葉をふりしぼる。「あの人が私を気にかけるわけない」「何だと?」慎吾が言い返す。由香は視線を落とし淡々と言う。「何でもない。
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第2話

ロールスロイスが道を疾走し、光希は助手席の美雪をちらっと見て、由香の耳元に身を寄せて聞いた。「由香、なんで急に彼女を乗せたんだ?」由香は、彼が美雪の名を口にするとき決まって眉間にしわを寄せ、不機嫌さを隠そうともしない。まるで本当に彼女を心底疎ましく思っているかのように。演技が上手すぎる。あまりにも巧妙で、前世の彼女は三年間も欺かれていた。街角で二歳の子どもを目にするまで、この関係がすでに髄まで腐りきっていたことに気づかなかったのだ。由香は伏し目がちに視線を落とし、淡々と言った。「あなたはいつも彼女がしつこいって嫌がってたでしょ。だったら自分で、あなたが私を嫁にとるってことを見せればいい。そうすれば諦めもつくかもしれない」光希の顔が一瞬くもる。唇がかすかに動き何かを言おうとするが、喉仏が小さく上下するだけで、結局その説明を受け入れた。店に着くと、光希は由香を連れてブライダルサロンへ。美雪も一歩遅れてぴたりとついてくる。オーダードレスはとっくに決まっている。アイボリーのレースに細かなダイヤがびっしり、灯りの下で夢みたいにきらめく。スタッフがドレスを抱えて現れた瞬間、由香が手を伸ばす前に美雪が一歩先に近づいた。レースの模様をそっとなぞり、羨望を目いっぱいに浮かべてから、ようやく振り向く。「お姉ちゃん、私も……試していい?」つくられた無垢さに、由香は心の底で冷たく笑った。結婚は譲ってやる。けれど自分のものまで、どうして差し出さなきゃいけないの。赤い唇がわずかに開き、彼女は容赦なく嘲るように吐き捨てた。「あなたの母が愛人だったことだけじゃ飽き足りないのね。あなたまでそうなりたいの?」美雪の顔色は血の気を失い、怯えたように光希を見上げ、瞳の奥は助けを必死に求めている。光希の顔もわずかに曇り、二人の間に身を差し入れるように立って、由香の腕を軽く押しながらなだめるように言った。「由香、みっともないところ見せないで、早く着てみろ、サイズが合うかどうか」そう言いながらも、その何気ない仕草で、美雪をしっかりと庇っていた。由香は彼のこわばった体を見つめながら冷ややかな笑みを浮かべると、ウェディングドレスを受け取り、くるりと身を翻して試着室に入った。着替えを終え、鏡の前に立った由香
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第3話

由香は木村家へ戻らず、そのまま外に用意しておいたワンルームへ向かった。ベッドに身を投げた頃には、窓の外はもう真夜中だった。夕方から今まで、光希は一度も連絡してこない。労わりの一言も、事情の説明も、安否の確認すらない。由香は画面を延々と見つめ、目が熱くなるまで離れなかった。やがて携帯を放り投げて目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。翌朝、まだ覚めきらないうちに騒がしさで目が覚めた。出てみると、光希が人に指図して荷物を部屋に運び込ませていた。彼女を見るなり、光希は早足で近づいて手を取り、申し訳なさそうに言った。「由香、悪かった。昨日は会社で急用ができて先に出た。伝える時間がなかった。あとで地震を知った。大丈夫だったか」平然と嘘をつく男を見つめながら、由香の胸に細い針で刺すような痛みが走った。昨日、説明が必要だと分かっていながら、彼は嘘をでっちあげ、地震の現場に置き去りにしたことを無かった事にしようとする。もう別の女を愛しているのに、なぜ自分と結婚しようとするのか分からない。騙しやすいからか、それとも家では本妻、外では愛人として扱い楽しんでいるのか。由香が黙ったままなのを見て、光希はため息をつき、髪をくしゃりとなでて言った。「こういうの好きだろ。いろんなジュエリーを用意した、俺からの詫びだ。もう怒るなよ」由香は唇を噛みしめ、「いいよ」の一言も言えずにいると、着信音が鳴り響いた。光希が電話を取り、相手の言葉は聞こえないが、顔色がわずかに変わり、困ったように由香を見る。「由香、会社で急用ができた。今日は付き合えない。先に行く」返事を待つこともなく、彼は足早に出て行った。残ったのはスタッフが荷を出し入れする物音だけ。どれほど経っただろうか、携帯が鳴った。開くと、美雪のSNSの投稿だった。写真には高価なジュエリーが山のように並び、隅には節の目立つ手がさりげなく写り込んでいた。それに中指には見慣れた指輪が光っている。並ぶ宝石は、今日光希が持ってきた物とまったく同じものだ。その指輪は、由香の中指にはめられたものとセットだ。あれは光希の手だ。由香の目にじわりと痛みが広がり、心臓は握りしめられているかのように苦しく、呼吸さえままならなかった。愛は真っ二つに割れるのだと知った。光希の愛
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第4話

由香の全身が凍りついた。美雪が光希の友達と親しげに笑い合う様子を見るからには今日が初めてじゃない。光希はいつの間に、美雪を仲間内に入れたんだろう。由香は何も知らなかった。あの連中がヘラヘラ「義姉さん」なんて呼んだとき、心の中では由香のことを笑ってたんだろう、枕元の男の心変わりにも気づかない間抜けだって。爪が肉に食い込むほど握りしめ、由香は個室の中を凝視した。部屋の中では、みんなが輪になって座り、「王様ゲーム」と呼ばれるゲームに興じて、回したボトルがまっすぐ美雪の前に止まった。質問が少し意地悪く、周りはすぐに酒を飲ませようとする。美雪が潤んだ目で光希を見ると、彼は考えもせずグラスを取り、ぐいっと煽ってから場を見渡し、注意する。「そのへんにしろ。美雪は体が弱い。茶化すな!」そう言うと、また笑いがあふれる。数巡して、ボトルはまた美雪の前に止まった。彼女は再び「罰ゲーム」を選ぶと、隣の人に何かをねだれという内容だった。美雪はおずおずと光希を見上げ、彼の手首の数珠を指した。「お兄ちゃん、それ、もらってもいい?」それは由香が贈ったもの、母から託された唯一の形見だった。由香の目の前で、光希は木の数珠を指先で二度撫でると、ためらいもなく外して美雪に差し出した。足元から頭のてっぺんへ、氷のような寒気が一気に駆け上がり、由香の身体は止められぬほど震え出す。彼女は覚えている。あのとき自らその数珠を彼の手首にかけながら言った言葉。「光希、これは私にとって一番大事なものなのよ」そのとき光希は笑いながら彼女の頭を撫で、こう言った。「由香がくれたものだから、ずっと身につけてるよ」前世彼がそれをつけていないのを見つけて問いかけたとき、彼はただ「壊れると困るから、しまってある」と答えた。その一言を信じて、彼女は二度と数珠の行方を追及しなかった。まさか、すでに、彼がそれを最も憎んでいた相手に渡していたなんて。もう、堪えることなどできなかった。由香は個室の扉を乱暴に開け、目を真っ赤にして光希を見た。「光希、母の形見が要らないなら返して。どうして美雪にやるの!」ざわめきは一瞬で止まり、場の誰もが突然の乱入に目を見張った。光希の瞳孔が縮み、顔に動揺が走った。彼は早足で由香の前に来て叫ん
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第5話

由香は目の前で数珠が床に落ち、糸が切れて、木の珠が四方へ転がっていくのをただ見ていた。混乱の中、誰かが踏みつけ、いくつもその場で粉々になった。砕けた欠片を茫然と見つめ、光希が倒れた美雪を抱き起こしたことさえ気づかなかった。周囲の声が急に遠くなり、耳鳴りだけが鋭く刺さる。視界は揺れ、現実感がなくなっていく。光希は美雪を庇い、顔を寄せて低い声でたずねた。「怪我はないか?」美雪が首を振ると、彼は眉間に皺を寄せて由香の方へ行き、押し殺した苛立ちをにじませた。「由香、彼女は返すって言ったんだ。どうして突き飛ばした?」その一言が、麻痺した心を針で一気に破った。由香は視線をゆっくり光希の足元へ落とす。踏み潰された木珠が一つ、彼の靴底に食い込んでいた。理性がなくなった。誰かが反応する間もなく、由香はテーブルのボトルを掴んで、美雪の頭に叩きつけた。悲鳴が響く。血が額から落ち、白いワンピースを瞬く間に染めた。美雪の目が霞み、由香はもう一本のボトルへ手を伸ばす。今度は光希が追いつき、彼女の手首を鷲づかみにして押さえつけた。顔は氷のように冷たい。「由香、正気か。人に手を上げるなんて」由香は唇の端をあげ、憎しみを込めた声で言った。「母の形見を壊された。殺したって気が済まないわ!」そこでようやく光希は床の木珠を見やり、声を荒げた。「壊れたのは自業自得だ。君が押したから砕けたんだ!俺が甘やかしてきたせいで、君はこんなにもわがまま放題になってしまったんだ!」言葉が一つ一つ、胸に深く刺さった。前は違った。美雪とぶつかるたび、光希は笑って言った。「好きにしろ。俺が全部どうにかする」なのに今になって、彼は彼女をわがままだと言う。由香は赤い目でふっと笑い声を漏らした。「わがままにしたのはあなたでしょ。どうしたの、今さら後悔?」光希の顔はこれ以上ないほど険しくなった。「こうなると分かってたら、最初からきっちり締めておくべきだった!」言い終える前に、背後から低いうめき声と共に美雪の体がふっと力を失って、そのまま気を失った。光希は慌てて抱きとめ、「後で落とし前をつける」と言い捨てると、美雪を横抱きにし、目の前の由香を肩で弾き飛ばした。由香は弾き飛ばされて床に激しく倒れ、後ろ腰を
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第6話

翌朝早く、由香は光希の手下に両脇を抱えられ、強引に連れ出された。必死にもがいたが、さらに強く拘束された。声を上げる前に、首筋に鋭い痛みが走り、そのまま意識を失った。次に目を覚ましたとき、視界は真っ暗だった。拳が雨のように身体に降り注ぎ、鈍い音と自分の押し殺した呻きが混じり合った。内臓がひっくり返されたかのような痛みに襲われる。由香の胸に恐怖が広がり、思わず叫んだ。「誰なの!どうして私を捕まえるの!」返ってきたのは、暴行だった。骨がずれる音が耳の奥で炸裂した瞬間、視界が真っ白になり、冷たい汗が全身を濡らした。二時間に及ぶ拷問が終わった頃、彼女は床に倒れ、指一本動かす力さえ残っていなかった。誰かが足で彼女の腰を小突き、痛みに身を縮めた次の瞬間、電話の発信音が響いた。「光希さん、仰せの通り片づけました!」由香の血が、一瞬で凍りついた。骨の隙間を突き破る痛みも、こめかみをずきずき打つ脈動も、胸の奥を貫く鋭い寒気には及ばなかった。「一日の世話に」という言葉は嘘だった。美雪の復讐を果たすこと、それこそが真実だ。愛を失った人間の心は、ここまで冷たくなれるのか。光希……あなたは、残酷すぎる。由香はとうとう耐え切れず意識が遠のく。次に目を開けた時、鼻先に強い消毒液の匂いがした。「由香、今回は自分の非を分かったか」隣から光希の声がする。由香は不自然に首を向け、口角を上げた。彼女はかすれ声で嘲笑う。「で、光希。お説教はもう気が済んだ?」光希は眉間を深く寄せ、腹を立てる。「少し君に教えただけだ。これで音を上げるか。じゃあボトルで美雪を殴った時、彼女が耐えられるか考えなかったのか」可笑しい話だ。今の仕打ちが、あの一撃より軽いとでも? いや、あれ以上だ。それでいて、まだ罰が甘いと言いたいのか。布団の下で握りしめた手は爪が肉に食い込み、痛みで頭がぼんやりする。唇は噛みすぎて白くなり、突然、争う気力が抜け落ちた。由香は顔を天井に向け、かすかな声で言った。「教えてくれてありがとう。もう分かった。出て行って、休みたいの」いつもは気の強い彼女が急に折れたのを見て、光希の目に驚きがよぎる。声も少し和らいだ。「由香、大人しくしてろ。もう駄々こねるな。数日後は君の母の
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第7話

動画の中、光希はゆったりした部屋着のまま、鍋に向かって黙々とスープを煮ていた。カメラがふわりと揺れ、甘い声が入る。「お兄ちゃん、今日はお姉ちゃんに付き添うって言ってたよね。彼女のことはどうするの?」光希は顔も上げない。「待てなきゃ勝手に帰る。心配いらない」そして付け足す。「由香は気が強い。誰にもいじめられない。俺がいようがいまいが同じだ。それより、君は体が弱いんだ、外をうろつくな」映像はそこでぶつっと切れたのに、由香の手の震えは止まらない。昼から夜まで、墓地の門でひとり何時間も立っていたのが、彼からの「待てなきゃ勝手に帰る」の一言で終わった。由香は自分がまるで救いようのない馬鹿に思えた。まだ彼にわずかな期待を抱いていたなんて。「待ってろ」と言われて、本当に愚かしくもじっと待ってしまった。なのに彼は来もしないし、「行けなくなった」の一言さえ惜しんだ。踵の痛みは骨に食い込むようだったが、一歩も止めずに母の墓前へ辿り着いた。墓碑に刻まれた彩花の優しい笑顔を見つめると、由香はもう耐えきれず、ドサリと音を立てて地面に座り込み、涙が糸の切れた珠のように止めどなく溢れた。光希との過去が映像のように脳裏を駆け抜けた。最初のときめき、やがては依存、そして前世の最期に見た、あの冷たい視線で止まった。彼女は手を伸ばし、墓碑に触れて、声を詰まらせながら言った。「お母さん……私、行くね。すごく遠い遠い場所へ、二度と戻らない。怒る……かな?」清らかな風が吹き抜け、前髪を揺らす。それはまるで母の柔らかな手が撫でているようだった。由香は鼻をすんと鳴らし、涙を飲み込んだ。母ならきっと「大丈夫」と言ってくれているに違いない。彼女は墓前に長く座り込み、空が白み始める頃になってようやく硬直した身体を引きずり下山した。墓地の入り口に差しかかったとき、不良の数人の男たちが突然行く手を塞いだ。由香は避けようとしたが、彼らはわざと前に立ちふさがった。「お嬢ちゃん、こんな人けのないところで何してる?これからどこ行くんだ?俺たちと遊んでいかないか?」先頭の男がにやつき、いやらしい視線を全身にまとわりつかせてくる。由香の呼吸は詰まり、美しい瞳が怒りでいっぱいになる。「どけ!」しかし男たちは動くどころか、一
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第8話

由香は女性警官から渡された上着に身をくるみ、まだ震えが止まらないまま、警察署の椅子にひとり座っていた。少し離れた所では、チンピラが数人しゃがみ込み、警察に怒鳴られている。光希が駆け込むと、由香の様子が一目で分かった。手の傷はまだ血がにじみ、右足首は不自然に腫れ上がり、裾には泥や草がこびりついている。彼は眉をひそめ、早足で近づいてしゃがみ込んだ。「由香、どうした。またトラブル起こしたのか?」彼は警察署からの電話を受けた時、事情も聞かずに飛び出してきたのだ。由香は空虚な顔を上げた。あの時、死に物狂いで抵抗して床に落ちていた携帯をつかめて、たまたま巡回のパトカーに見つけられた。そうでなければ、今ごろどうなっていたか分からない。それなのに、光希の第一声は「またトラブル起こしたのか?」だった。由香の笑みがひきつった。笑いながら、涙が止まらない。その様子に光希の胸もきゅっと締めつけられた。何か声をかけようとしたとき、そばの警察が近づいてきて帰っていいと言われた。由香は一瞬も迷わず立ち上がり、そのまま外へ歩き出した。光希はしかたなく警察に軽く会釈し、足早にあとを追った。彼は手を伸ばして彼女の手首を掴み、そこで大きく擦りむけているのに気づいた。乾いた血が白い肌にやけに痛々しく映った。彼は「それ、どうしたんだ」と尋ねた。由香は何も言わず、ただ黙って歩みを進めた。光希はいらだった。何に怒っているのか見当がつかない。けれど、この突き放した態度に落ち着かない。「もういい、先に送っていく」彼は眉をひそめ、諦めたような声を出した。帰り道、由香は終始一言も発さなかった。光希には彼女が静かすぎるとしか思えなかった。これまでトラブルを起こすたび、騒ぎ立てては後始末を押しつけてきたのに。今日はまるで魂を抜かれたみたいだ。車内の空気はどんどん重くなり、マンションの下に着くまで、二人は一言も発さなかった。「由香」光希が呼び止めた。由香は一度だけ振り返って彼を見るや部屋に入り、ほどなくして山のような荷物を抱えて出てきた。どれもこれも、彼が贈ったものだった。彼女は彼の目の前で、それらを一気にゴミ箱へ放り込み、ライターに火をつけた。炎が包装を舐め、「パチパチ」と音を立てる。
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第9話

光希は会社へ駆け込み、押し寄せる仕事に呑み込まれた。書類が机いっぱいに積み上がり、ページを一枚ずつめくり続け、目が疲れるまでやってから、ようやく顔を上げて窓の外を見た。ちょうどそのとき、ある飛行機が空を飛び、蒼い空に長い白い軌跡を曳いた。なぜだか言いようのない不安がじわりと広がる。大事なものが、取り返しのつかない事になりそうだ。眉間に皺を寄せて胸を押さえ、頭の中には抑えきれずに由香の顔が浮かぶ。ふと、彼女のもとを出るとき何か言われた気がしたのを思い出した。声が小さすぎて聞き取れなかった。光希はペンを握る指に力をこめ、どうにも何かがおかしいと感じていた。まだ怒っているのか。由香は昔から気ままで我が強く、理不尽を許せるタイプじゃない。業界で彼女に噛みつかれた相手の数は数え切れない。この一ヶ月、たしかに美雪にばかり手を割いた。放っておかれたと感じて、あれらを全部燃やしたのかもしれない。ため息をつき、デスクの呼び出しボタンを押した。すぐに秘書・平野優斗(ひらの ゆうと)がドアを開けて入り、机の前に控えた。「今季の新作の服とバッグ、アクセサリーを一式、由香のマンションに送らせろ」光希は視線を上げて続けた。「それと、式の細部はもっと念入りに詰めさせろ。目を離すな」優斗がうなずいて行こうとしたとき、光希が呼び止めた。「そうだ、探らせてる件、進展は?」「手掛かりはいくつか。ただ、真偽の確認がもう少し必要です」「分かった」光希はペンを回し、「動きがあれば最優先で俺に知らせろ」と言った。由香の母の形見を壊してしまってから、光希は何とか埋め合わせをしたいと、ずっとその機会を探していた。由香が普通の宝飾など眼中に置かないことを、光希はよく分かっていた。だからこそ部下にあちこち探らせ、思いがけない情報を手に入れる。由香の母、彩花が生前に慈善基金へ寄付したブルーサファイアのネックレスが、今は海外のコレクターの手にあるというのだ。彼は即座に優斗へ調査を命じた。どれほど金を積もうとも、必ずそのネックレスを買い戻せと。由香がそれを受け取ったとき、どんな顔を見せるか。脳裏にその笑顔が浮かび、光希の口元は思わずゆるんだ。彼は携帯を取り出し、由香へメッセージを送った。【新作の服とアクセサ
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第10話

光希は蒼蓮国に二日滞在し、オークションの入場枠を取り付け、その夜八時半きっかりに会場へ姿を見せた。黒のスーツに身を包み、背筋はまっすぐ、全身に冷ややかで気高い気配をまとっていた。名家の令嬢が次々と声をかけてきたが、光希は中指の指輪をひらりと見せて、淡々と言った。「悪い。婚約者がいる」令嬢たちはバツが悪そうに身を引いた。サファイアのネックレスが給仕に載せられて壇上へ出た瞬間、会場がどっと沸いた。天然のブルーサファイアは澄み切っていて、不純物はひとつもない。会場では入札の声が次々と上がり、値は一気に跳ね上がっていった。光希はは余裕たっぷりの面持ちで、、喧噪が落ち着き始めたところで、ゆっくりと札を掲げた。「200億円!」会場が一瞬で静まり返る。結局、彼は200億円という高値でそのネックレスを落とした。優斗はすでに今日未明の便をおさえており、二人はそのまま夜通しで帰路についた。機内で、優斗は何度か光希を見やり、言いかけては飲み込んだ。光希はその気配に気づき、目を細めた。「言いたいことがあるなら言え。歯切れの悪いのはやめろ」優斗は唇を結び、ついに口を開いた。「社長、明日は由香さんとの結婚ですよ。彼女の妹とは、少し距離を置いた方がいいんじゃないですか」光希は視線を上げ、空気が一気に冷えた。「どういう意味だ」ここまで来たので、優斗は腹をくくって言い切った。「社長、この一か月の間、由香さんと美雪さんの間で、常に後者を選んでいらっしゃることにお気づきではありませんか。社長は由香さんの婚約者です。このように揺れ動いていては、彼女にあなたのお気持ちを疑わせてしまいます。由香さんだけでなく、私たち部下でさえ拝見していて……もしかすると心変わりされて、美雪さんをお好きになったのではないかと思ってしまいます」光希の目に一瞬、驚きが走る。「俺が美雪を好きだと思ってるのか?」「私がそう思っているのではなく、多くの人がそう思っているのです!」優斗は思い切って言った。「もし本当に美雪さんのことをお好きでないのなら、どうしてそこまでよくなさるのですか。かえって由香さんの心を傷つけてしまいます」「美雪は俺の命を救ってくれたからだ」光希は眉間を押さえ、疲れの色を滲ませた。自分の振る舞いがこ
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