تسجيل الدخول翔吾は即座にタブレットを取り出し、数値を弾き出そうとした。
「食材の廃棄率が異常に高いですね。この原価率と提供品質では、利益率が極端に――」
「翔吾さん。計算は後です」
小夜子の鋭い声が、翔吾の言葉をさえぎった。
小夜子はツカツカと歩み寄り、厨房の巨大な換気扇を指差した。「料理以前の問題です。油汚れで排気がまったく機能しておらず、厨房全体に酸化した油の臭いが充満している。これでは、どんな高級食材を使っても台無しです」
「……確かに。なんかずっと臭えと思ってたんだよ」
実加が鼻をつまむ。
小夜子は振り返り、実加を正面から見据えた。「実加さん。明日までにこの厨房のステンレスを、あなたの顔が映るまで磨き上げなさい。できますね?」
「お、おう! 任せとけ!」
なかなかの無茶振りである。けれど実加は腕まくりをした。
「汚れの根絶やしは、アタシの特技だからな!」
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「これを見ろ! 明日の夕食に出す予定だった和牛も、鯛も、高級野菜も、何一つ届いてねえんだ! 業者のトラックは、空の箱だけ置いて帰っちまった!」「……届いていない? 発注ミスですか?」「馬鹿野郎、俺がそんなドジを踏むか! 3日前にきっちり発注した。業者の担当も『承知しました』って言ってたんだ! 伝票の控えもある!」 板前の呼吸が荒い。額にはじっとりと嫌な汗が浮かんでいた。(何が起きた?) 翔吾は即座に自分のスマートフォンを取り出し、画面をタップした。馴染みの食材卸業者の番号を呼び出す。 数回のコール音の後、電話は繋がった。「お世話になっております。アーク・リゾーツの黒崎です。せせらぎ亭の明日の納品についてですが――」『あ、ああ……黒崎さん。申し訳ありません!』 電話の向こうの担当者は、ひどく歯切れの悪い声を出した。『うちからは、もうそちらへ食材を回せなくなりました。本当に、申し訳ない!』「回せない? どういうことですか。契約違反ですよ」『上からの絶対の指示なんです。そちらと取引をするなら、今後の大型契約はすべて白紙にするって……。うちみたいな小さな問屋じゃ、逆らえません!』 一方的にまくしたてると、担当者は逃げるように電話を切ってしまった。 ツー、ツー、という電子音が、翔吾の耳元で響く。「相手さん、何だって?」 実加が不審そうな顔をした。「上からの指示で、うちとは取引できないそうです」「はあ? 何だそりゃ? そんなの許されるのか?」「許されませんよ。明らかに契約違反です。……他の業者にも確認しましょう」 翔吾はすぐに別の水産会社、精肉店にも電話をかけた。 けれど答えはすべて同じだった。「急に取引できなくなった」「他を当たってくれ」 と、誰もが怯えたような声で謝絶してくる。
週末の活気から数日が経過した、水曜日の朝。 せせらぎ亭のロビーには、柔らかな春の陽射しが差し込んでいた。 黒崎翔吾はフロントカウンターの定位置に立ち、タブレット端末の画面をスクロールしていた。 視線の先にあるのは、今後の予約状況を示すカレンダーだ。週末だけでなく、平日のマス目にも次々と『予約完了』の文字が埋まり始めている。(SNSのバズ効果は、一過性のものでは終わらなかった。宿泊した顧客の口コミが新たな顧客を呼ぶ、理想的な好循環サイクルに入っている) 翔吾は無意識のうちに眼鏡を押し上げ、小さく息を吐き出した。 胸の奥に確かな達成感が広がっていく。自分たちの提供したサービスが、明確な数字となって表れているのだ。「フンフフーン、フフーン」 軽やかな鼻歌が聞こえてきた。 山内実加が、上機嫌でモップをかけている。金髪のメッシュを揺らし、ステップを踏むように床を磨く姿は、見ているこちらまで明るい気分にさせる。「ずいぶんと楽しそうですね、実加さん」 翔吾が声をかけると、実加はパッと顔を上げて満面の笑みを見せた。「おう、インテリ! 当たり前だろ! 今度の休みの日にな、チビがここへ遊びに来るんだよ!」 実加はモップの柄に体重をかけて、嬉しそうに目尻を下げる。「小夜子師匠が手配してくれたんだ。シッターさんが車で連れてきてくれるって。アタシがピカピカにしたこの宿を見たら、チビのやつ、絶対喜ぶぜ!」 小さな理玖が喜ぶ姿を想像し、翔吾も思わず微笑んだ。「それは良かったですね。ですが、よだれで床を汚されないように注意してくださいよ」「なんだと! ウチのチビのよだれはマイナスイオンが出てるんだよ!」 翔吾の冗談めかした言葉に、実加が口をとがらせて言い返した。 平和なやり取りだ。数日前の、あの重く沈んだ空気が嘘のように、せせらぎ亭には穏やかな時間が流れていた。 だがその平穏は、突如として破られた。「どうなってんだ! ふざけるな!」 厨房の方角から、板前の
(だが、目の前の母親の疲労度を瞬時に察知し、予定になかった貸切風呂のスケジュールを臨機応変に組み上げ、温度を調節することは絶対に不可能だ。そこにいる人間の『思いやり』がなければ、この結果は決して生み出せない) 翔吾の脳内に構築されていた冷たい数式が、温かなものに書き換えられていく。 御子柴が『ゴミ』と切り捨てた感情という変数が、いかに巨大な価値――顧客の生涯価値(LTV)を生み出すか。 翔吾は今、自分自身の体験として、それを完全に理解したのだ。「お疲れ様。見事な采配でしたよ、翔吾さん」 小夜子が音もなく現れた。 温かいお茶の入った湯呑みを、翔吾の前に置く。「総支配人……いえ、女将。ありがとうございます」 翔吾がお茶を一口飲むと、胃の奥まで温かさが広がった。「みんな、スタッフルームに集まっていますよ。あなたも来なさい」 小夜子に促され、翔吾が裏のスタッフルームへ向かうと、そこには実加や番頭、仲居や板前たちが車座になって座っていた。 全員の顔に心地よい疲労感と、大きな仕事をやり遂げた達成感が浮かんでいる。「おう、インテリ! 遅えぞ!」 実加が自分の隣の座布団をバンバンと叩く。 翔吾がそこに座ると、番頭がおもむろに立ち上がった。 番頭の手には、昨日御子柴が置いていった、グラン・ヘリックスの再就職契約書が束になって握られていた。分厚い紙の束だ。 部屋の空気が少しだけ引き締まる。 番頭は契約書を見つめて、ふっと息を吐いた。「あの赤ちゃん連れのお客さん……風呂上がりに、俺の顔を見て『ありがとう』って、泣きそうな顔で笑ってくれたんだ」 番頭の声は、深い感慨に満ちていた。「俺はあの笑顔が見たくて、何十年もこの宿で働いてきた。それを……すっかり忘れてた」 番頭は契約書の束を両手で掴むと、迷うことなく部屋の隅にあるゴミ箱へと投げ捨てた。 バサッ、と重い音が響く。
午後6時。 夕日が山を赤く染め上げる時刻のこと。 若い夫婦は、赤ん坊を連れて露天風呂の暖簾をくぐった。 そこには、他の客の姿は誰一人としていない。 聞こえるのは心地よい湯の流れる音と、山の木々が風に揺れる音だけだ。 夕日に照らされた湯船の隣には、実加が先ほど配置し直した、おむつ替え用の防水マットとベビーベッドが用意されていた。 おかげで夫婦は、赤ん坊の世話に気を取られることなく入浴に進んだ。「うわあ……すごい。絶景だね」 父親が感嘆の声を漏らす。 母親は赤ん坊の服を脱がせて、そっと足先を湯に浸けた。 泣くかと思った赤ん坊は、ちょうどいいぬるめの温度に気持ちよさそうに目を細め、きゃあきゃあと笑い声を上げた。「……よかった。すごく気持ちいいね」 母親が赤ん坊を抱き抱えたまま、肩まで湯に浸かる。 赤ん坊の体にちゃぷちゃぷと湯をかけてやれば、ニコニコと笑顔になった。 山の稜線に沈む黄金色の夕日。 静かで、温かい空間。 肩身の狭い思いをして疲れ切っていた心が、お湯に溶けていくように解きほぐされていく。「いいお湯だったね」 風呂から上がり、部屋に戻った夫婦を待っていたのは、見事な里山懐石だった。 そしてテーブルの中央には、美しい漆塗りの小さな器が置かれていた。 鰹と昆布の豊かな香りが漂う、カボチャとカブの離乳食だ。「あうー!」 赤ん坊は一口食べると、目を丸くして身を乗り出し、もっともっとと口を開けた。「あはは、こんなに食べるの初めてかも」 父親が笑う。 母親は、出汁の効いた煮物を口に運びながら、箸を持つ手を止めた。 温かい食事が、胸の奥まで染み渡る。「……私、この宿に来て本当によかった」「ああ。本当に」 母親の言葉に、父親も深く頷いた。
小夜子の提案に、実加の顔がパァッと明るくなった。「マジっスか!? やったー! チビが来るなら、もっと気合い入れて掃除しねえと!」 先ほどまでの寂しさは吹き飛び、実加の瞳に活力が戻る。 ずっと押し隠していたけれど、実加は小さな息子のことを心配していた。会いたくてたまらない気持ちを、仕事をやり遂げるために抑えていたのだ。 小夜子は小さく頷くと、帳場の方へと視線を向けた。「さて、私と実加さんのサポートはここまでです。ここから先は、彼に任せましょう」◇ 帳場の奥。翔吾の頭脳はフル回転で稼働していた。 タブレットの画面には、全客室の滞在状況と、食堂の利用時間が細かなグラフとなって表示されている。(若年層のグループ客は、17時30分から19時の間に夕食をとる傾向が極めて強い。ならば、その時間帯の露天風呂の利用率は、限りなくゼロに近づく) 翔吾の指先が画面を滑る。 計算式が組み上がり、1つの完璧なタイムスケジュールが導き出された。「番頭さん!」 翔吾が鋭く声をかけると、奥で帳簿をつけていた番頭が顔を出した。「なんだい、若旦那」「18時から18時40分までの間、露天風呂を『貸切風呂』に設定します。先ほどの赤ちゃん連れのご家族をご案内してください」 番頭が目を見開いた。「貸切かい? そりゃあいいが、今からお知らせを出すのは大変だぞ」「問題ありません。ロビーのデジタル掲示板と、客室の案内用タブレットの表示を一括で書き換えます。他の客の動線は、僕がフロントでコントロールします」 翔吾はキーボードを叩きながら、さらに指示を重ねた。「それから、露天風呂の湯温です。赤ちゃんの肌には、通常の設定温度では高すぎます。源泉のバルブを絞り、一時的に38度まで下げてください」「なるほど、そいつは気が利くね。すぐに行くよ!」 番頭が足早に大浴場へと向かう。 翔吾は次に、内線の受話器を取った。厨
同時に、小夜子が夫婦と赤ん坊を部屋に案内する。 赤ん坊はまだ大声で泣き続けていたが、周囲の客も賑やかだ。さほど誰も気にしていない。 数分後、実加が客室に運び込んだのは、大量の追加タオル、おむつ専用の密閉ゴミ箱。 そして、畳の上に敷くための柔らかいジョイントマットだった。「赤ちゃん連れだと、荷物が多くて大変ッスよね。タオルとお尻拭きはいくらでも追加するんで、遠慮なく言ってください!」 実加が手際よくマットを敷きながら言うと、母親の瞳からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。「……ありがとうございます。ずっと、周りに気を遣ってばかりで……。こんなに優しくしてもらったの、久しぶりです」 泣き疲れた赤ん坊が、母親の胸の中でスヤスヤと眠り始めた。 実加はしゃがみ込み、赤ん坊の柔らかい頬を指先でそっと撫でた。 小さく温かい感触が、指先から伝わってくる。「あー、可愛いな……」 実加の口から、無意識のうちに呟きが漏れた。「むにゃ……」 赤ん坊が寝言のように小さく笑う。 その無邪気な寝顔を見つめていると、実加の心にある感情が押し寄せてきた。(チビ……元気にしてるかな) 実加は目を伏せた。 このせせらぎ亭に出張してきてから、もう何日も息子の理玖に会っていない。 アーク・リゾーツ社内の保育所は、24時間営業だ。 ホテル業務は日勤と夜勤があるので、従業員たちの子を預かる保育所は、自然とそうなった。 今は保育士が増員されて、余裕のある人員で運営されている。 理玖はその保育所「こぐまの森」で、毎日元気に過ごしている。 保育士が日々の様子を写真付きで送ってくれるから、何も心配はいらないと自分に言い聞かせてきた。 けれど目の前の赤ん坊の温もりに触れた瞬間、寂しさが堰を切ったようにあふれ出してしまった。「そ
(ああ、よかった……) 小夜子は、知らず知らずのうちに止めていた息を、細く長く吐き出した。 この人は、私を殴らない。罵倒しながら過重労働を強いることもない。 そして何より、「愛せ」とか「愛想よく振る舞え」といった、心まで支配するような要求をしてこない。 ただ、「いないものとして扱われる」だけ。 それは実家で受けてきた扱いと同じ。しかも実家よりも遥かに好待遇だ。 雨風をしのげる頑丈な屋根があり、誰にも邪魔されない個室が与えられる。それは小夜子にとって夢のような条件だった。
黒崎隼人の到着まであと30分。 小夜子は本邸の裏手にある衣装部屋に立たされていた。義母が桐の長持(ながもち)から古びた布切れを引っ張り出して、小夜子に向かって放り投げた。「ほら。今日のあんたの衣装よ」 小夜子は、床に落ちそうになったそれを空中で受け止めた。 それは正規の制服ですらない、時代がかった代物。おそらく数世代前の使用人が着ていたと思われる、黒のワンピースと白いエプロンだった。生地は洗濯を繰り返して薄くなり、色はあせている。経年劣化で白い生地は薄いクリーム色に変化していた。 何ともみすぼらしい古着に、だが、小夜子
給湯室で小夜子は茶筒の蓋を開けた。 ふわり。若草のような爽やかな香りが立つ。選んだのは、とある銘柄の最高級の茶葉である。 義母たちは存在すら忘れているだろうが、小夜子が湿気と移り香を避けるため厳重に管理していた逸品だ。(オーダーは『渋い茶』だった) 小夜子は湯温計を見つめる。通常、玉露や上級煎茶は旨みを引き出すために低温で淹れるのが定石だ。 だが、今の黒崎隼人が求めているのは甘ったるい旨みではない。あの悪趣味な客間に充満する腐ったような甘さを断ち切るための、鋭い「刺激」だ。(湯温は、あえて高めの80度)
喉まで出かかった言葉を、小夜子は飲み込んだ。今、口答えをすれば、この場はさらに長引く。 あと1時間もしないうちに黒崎隼人が来てしまう。客人を迎える準備を遅らせるわけにはいかない。 小夜子は額の痛みを無視し、畳に手をついて頭を下げた。「申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」「フン。さっさと準備に戻れ」 父たちは桐箱を大事そうに抱え、客間へと消えていった。 一人残された廊下で、小夜子はようやく身を起こした。額に手をやれば、鈍い痛み。少し腫れている。(良かった、血は出ていない。こ







