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last update publish date: 2026-05-04 20:55:06

「これを見ろ! 明日の夕食に出す予定だった和牛も、鯛も、高級野菜も、何一つ届いてねえんだ! 業者のトラックは、空の箱だけ置いて帰っちまった!」

「……届いていない? 発注ミスですか?」

「馬鹿野郎、俺がそんなドジを踏むか! 3日前にきっちり発注した。業者の担当も『承知しました』って言ってたんだ! 伝票の控えもある!」

 板前の呼吸が荒い。額にはじっとりと嫌な汗が浮かんでいた。

(何が起きた?)

 翔吾は即座に自分のスマートフォンを取り出し、画面をタップした。馴染みの食材卸業者の番号を呼び出す。

 数回のコール音の後、電話は繋がった。

「お世話になっております。アーク・リゾーツの黒崎です。せせらぎ亭の明日の納品についてですが――」

『あ、ああ……黒崎さん。申し訳ありません!』

 電話の向こうの担当者は、ひどく歯切れの悪い声を出した。

『うちからは、もうそちらへ食材を回せなくなりました。本当

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   283

    「これを見ろ! 明日の夕食に出す予定だった和牛も、鯛も、高級野菜も、何一つ届いてねえんだ! 業者のトラックは、空の箱だけ置いて帰っちまった!」「……届いていない? 発注ミスですか?」「馬鹿野郎、俺がそんなドジを踏むか! 3日前にきっちり発注した。業者の担当も『承知しました』って言ってたんだ! 伝票の控えもある!」 板前の呼吸が荒い。額にはじっとりと嫌な汗が浮かんでいた。(何が起きた?) 翔吾は即座に自分のスマートフォンを取り出し、画面をタップした。馴染みの食材卸業者の番号を呼び出す。 数回のコール音の後、電話は繋がった。「お世話になっております。アーク・リゾーツの黒崎です。せせらぎ亭の明日の納品についてですが――」『あ、ああ……黒崎さん。申し訳ありません!』 電話の向こうの担当者は、ひどく歯切れの悪い声を出した。『うちからは、もうそちらへ食材を回せなくなりました。本当に、申し訳ない!』「回せない? どういうことですか。契約違反ですよ」『上からの絶対の指示なんです。そちらと取引をするなら、今後の大型契約はすべて白紙にするって……。うちみたいな小さな問屋じゃ、逆らえません!』 一方的にまくしたてると、担当者は逃げるように電話を切ってしまった。 ツー、ツー、という電子音が、翔吾の耳元で響く。「相手さん、何だって?」 実加が不審そうな顔をした。「上からの指示で、うちとは取引できないそうです」「はあ? 何だそりゃ? そんなの許されるのか?」「許されませんよ。明らかに契約違反です。……他の業者にも確認しましょう」 翔吾はすぐに別の水産会社、精肉店にも電話をかけた。 けれど答えはすべて同じだった。「急に取引できなくなった」「他を当たってくれ」 と、誰もが怯えたような声で謝絶してくる。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   282:兵糧攻め

     週末の活気から数日が経過した、水曜日の朝。 せせらぎ亭のロビーには、柔らかな春の陽射しが差し込んでいた。 黒崎翔吾はフロントカウンターの定位置に立ち、タブレット端末の画面をスクロールしていた。 視線の先にあるのは、今後の予約状況を示すカレンダーだ。週末だけでなく、平日のマス目にも次々と『予約完了』の文字が埋まり始めている。(SNSのバズ効果は、一過性のものでは終わらなかった。宿泊した顧客の口コミが新たな顧客を呼ぶ、理想的な好循環サイクルに入っている) 翔吾は無意識のうちに眼鏡を押し上げ、小さく息を吐き出した。 胸の奥に確かな達成感が広がっていく。自分たちの提供したサービスが、明確な数字となって表れているのだ。「フンフフーン、フフーン」 軽やかな鼻歌が聞こえてきた。 山内実加が、上機嫌でモップをかけている。金髪のメッシュを揺らし、ステップを踏むように床を磨く姿は、見ているこちらまで明るい気分にさせる。「ずいぶんと楽しそうですね、実加さん」 翔吾が声をかけると、実加はパッと顔を上げて満面の笑みを見せた。「おう、インテリ! 当たり前だろ! 今度の休みの日にな、チビがここへ遊びに来るんだよ!」 実加はモップの柄に体重をかけて、嬉しそうに目尻を下げる。「小夜子師匠が手配してくれたんだ。シッターさんが車で連れてきてくれるって。アタシがピカピカにしたこの宿を見たら、チビのやつ、絶対喜ぶぜ!」 小さな理玖が喜ぶ姿を想像し、翔吾も思わず微笑んだ。「それは良かったですね。ですが、よだれで床を汚されないように注意してくださいよ」「なんだと! ウチのチビのよだれはマイナスイオンが出てるんだよ!」 翔吾の冗談めかした言葉に、実加が口をとがらせて言い返した。 平和なやり取りだ。数日前の、あの重く沈んだ空気が嘘のように、せせらぎ亭には穏やかな時間が流れていた。 だがその平穏は、突如として破られた。「どうなってんだ! ふざけるな!」 厨房の方角から、板前の

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   281

    (だが、目の前の母親の疲労度を瞬時に察知し、予定になかった貸切風呂のスケジュールを臨機応変に組み上げ、温度を調節することは絶対に不可能だ。そこにいる人間の『思いやり』がなければ、この結果は決して生み出せない) 翔吾の脳内に構築されていた冷たい数式が、温かなものに書き換えられていく。 御子柴が『ゴミ』と切り捨てた感情という変数が、いかに巨大な価値――顧客の生涯価値(LTV)を生み出すか。 翔吾は今、自分自身の体験として、それを完全に理解したのだ。「お疲れ様。見事な采配でしたよ、翔吾さん」 小夜子が音もなく現れた。 温かいお茶の入った湯呑みを、翔吾の前に置く。「総支配人……いえ、女将。ありがとうございます」 翔吾がお茶を一口飲むと、胃の奥まで温かさが広がった。「みんな、スタッフルームに集まっていますよ。あなたも来なさい」 小夜子に促され、翔吾が裏のスタッフルームへ向かうと、そこには実加や番頭、仲居や板前たちが車座になって座っていた。 全員の顔に心地よい疲労感と、大きな仕事をやり遂げた達成感が浮かんでいる。「おう、インテリ! 遅えぞ!」 実加が自分の隣の座布団をバンバンと叩く。 翔吾がそこに座ると、番頭がおもむろに立ち上がった。 番頭の手には、昨日御子柴が置いていった、グラン・ヘリックスの再就職契約書が束になって握られていた。分厚い紙の束だ。 部屋の空気が少しだけ引き締まる。 番頭は契約書を見つめて、ふっと息を吐いた。「あの赤ちゃん連れのお客さん……風呂上がりに、俺の顔を見て『ありがとう』って、泣きそうな顔で笑ってくれたんだ」 番頭の声は、深い感慨に満ちていた。「俺はあの笑顔が見たくて、何十年もこの宿で働いてきた。それを……すっかり忘れてた」 番頭は契約書の束を両手で掴むと、迷うことなく部屋の隅にあるゴミ箱へと投げ捨てた。 バサッ、と重い音が響く。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   280

     午後6時。 夕日が山を赤く染め上げる時刻のこと。 若い夫婦は、赤ん坊を連れて露天風呂の暖簾をくぐった。 そこには、他の客の姿は誰一人としていない。 聞こえるのは心地よい湯の流れる音と、山の木々が風に揺れる音だけだ。 夕日に照らされた湯船の隣には、実加が先ほど配置し直した、おむつ替え用の防水マットとベビーベッドが用意されていた。 おかげで夫婦は、赤ん坊の世話に気を取られることなく入浴に進んだ。「うわあ……すごい。絶景だね」 父親が感嘆の声を漏らす。 母親は赤ん坊の服を脱がせて、そっと足先を湯に浸けた。 泣くかと思った赤ん坊は、ちょうどいいぬるめの温度に気持ちよさそうに目を細め、きゃあきゃあと笑い声を上げた。「……よかった。すごく気持ちいいね」 母親が赤ん坊を抱き抱えたまま、肩まで湯に浸かる。 赤ん坊の体にちゃぷちゃぷと湯をかけてやれば、ニコニコと笑顔になった。 山の稜線に沈む黄金色の夕日。 静かで、温かい空間。 肩身の狭い思いをして疲れ切っていた心が、お湯に溶けていくように解きほぐされていく。「いいお湯だったね」 風呂から上がり、部屋に戻った夫婦を待っていたのは、見事な里山懐石だった。 そしてテーブルの中央には、美しい漆塗りの小さな器が置かれていた。 鰹と昆布の豊かな香りが漂う、カボチャとカブの離乳食だ。「あうー!」 赤ん坊は一口食べると、目を丸くして身を乗り出し、もっともっとと口を開けた。「あはは、こんなに食べるの初めてかも」 父親が笑う。 母親は、出汁の効いた煮物を口に運びながら、箸を持つ手を止めた。 温かい食事が、胸の奥まで染み渡る。「……私、この宿に来て本当によかった」「ああ。本当に」 母親の言葉に、父親も深く頷いた。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   279

     小夜子の提案に、実加の顔がパァッと明るくなった。「マジっスか!? やったー! チビが来るなら、もっと気合い入れて掃除しねえと!」 先ほどまでの寂しさは吹き飛び、実加の瞳に活力が戻る。 ずっと押し隠していたけれど、実加は小さな息子のことを心配していた。会いたくてたまらない気持ちを、仕事をやり遂げるために抑えていたのだ。 小夜子は小さく頷くと、帳場の方へと視線を向けた。「さて、私と実加さんのサポートはここまでです。ここから先は、彼に任せましょう」◇ 帳場の奥。翔吾の頭脳はフル回転で稼働していた。 タブレットの画面には、全客室の滞在状況と、食堂の利用時間が細かなグラフとなって表示されている。(若年層のグループ客は、17時30分から19時の間に夕食をとる傾向が極めて強い。ならば、その時間帯の露天風呂の利用率は、限りなくゼロに近づく) 翔吾の指先が画面を滑る。 計算式が組み上がり、1つの完璧なタイムスケジュールが導き出された。「番頭さん!」 翔吾が鋭く声をかけると、奥で帳簿をつけていた番頭が顔を出した。「なんだい、若旦那」「18時から18時40分までの間、露天風呂を『貸切風呂』に設定します。先ほどの赤ちゃん連れのご家族をご案内してください」 番頭が目を見開いた。「貸切かい? そりゃあいいが、今からお知らせを出すのは大変だぞ」「問題ありません。ロビーのデジタル掲示板と、客室の案内用タブレットの表示を一括で書き換えます。他の客の動線は、僕がフロントでコントロールします」 翔吾はキーボードを叩きながら、さらに指示を重ねた。「それから、露天風呂の湯温です。赤ちゃんの肌には、通常の設定温度では高すぎます。源泉のバルブを絞り、一時的に38度まで下げてください」「なるほど、そいつは気が利くね。すぐに行くよ!」 番頭が足早に大浴場へと向かう。 翔吾は次に、内線の受話器を取った。厨

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   278

     同時に、小夜子が夫婦と赤ん坊を部屋に案内する。 赤ん坊はまだ大声で泣き続けていたが、周囲の客も賑やかだ。さほど誰も気にしていない。 数分後、実加が客室に運び込んだのは、大量の追加タオル、おむつ専用の密閉ゴミ箱。 そして、畳の上に敷くための柔らかいジョイントマットだった。「赤ちゃん連れだと、荷物が多くて大変ッスよね。タオルとお尻拭きはいくらでも追加するんで、遠慮なく言ってください!」 実加が手際よくマットを敷きながら言うと、母親の瞳からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。「……ありがとうございます。ずっと、周りに気を遣ってばかりで……。こんなに優しくしてもらったの、久しぶりです」 泣き疲れた赤ん坊が、母親の胸の中でスヤスヤと眠り始めた。 実加はしゃがみ込み、赤ん坊の柔らかい頬を指先でそっと撫でた。 小さく温かい感触が、指先から伝わってくる。「あー、可愛いな……」 実加の口から、無意識のうちに呟きが漏れた。「むにゃ……」 赤ん坊が寝言のように小さく笑う。 その無邪気な寝顔を見つめていると、実加の心にある感情が押し寄せてきた。(チビ……元気にしてるかな) 実加は目を伏せた。 このせせらぎ亭に出張してきてから、もう何日も息子の理玖に会っていない。 アーク・リゾーツ社内の保育所は、24時間営業だ。 ホテル業務は日勤と夜勤があるので、従業員たちの子を預かる保育所は、自然とそうなった。 今は保育士が増員されて、余裕のある人員で運営されている。 理玖はその保育所「こぐまの森」で、毎日元気に過ごしている。 保育士が日々の様子を写真付きで送ってくれるから、何も心配はいらないと自分に言い聞かせてきた。 けれど目の前の赤ん坊の温もりに触れた瞬間、寂しさが堰を切ったようにあふれ出してしまった。「そ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   173

    「いい男になったじゃない、隼人ちゃん。誰のおかげでそんなに立派になれたのかしらねぇ」 彼女の瞳には、母親としての慈愛など少しもない。 あるのはギラつくような欲望と、歪んだ所有欲だけだった。 真澄は吸殻を空き缶に押し付ける。ジュッと鈍い音がした。 そうして彼女は立ち上がる。「会いに行かなくちゃね。ママの可愛い、打ち出の小槌ちゃんに。育ててあげた恩を返してもらわなきゃ」 床に積もった酒の空き缶を蹴飛ばして、真澄は部屋を出ていった。◇ 午後、ホテル『サ

    last updateLast Updated : 2026-04-01
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   172:汚れた小銭

     小夜子と隼人が心から結ばれて、愛を確認し合った翌朝。 タワーマンションの最上階の部屋には、穏やかな朝日が満ちていた。 ダイニングテーブルには、土鍋で炊いた艶やかな白米、出汁の香りが立つ味噌汁、完璧な焼き色のついた鮭と、鮮やかな黄色の出汁巻き卵が並んでいる。 見た目にも優しく良い香り。もちろん味も保証されている。「美味い」 隼人は箸を動かしながら、噛み締めるように言った。 かつては機能性ゼリーやサプリメントで済ませていた朝食が、今では1日の始まりで楽しみな時間だ。 彼の顔からは、血も涙もない氷

    last updateLast Updated : 2026-04-01
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   167

     その重さに押しつぶされそうになった時、隼人の手が伸びてきた。 彼は小夜子の唇の端についた砂糖を親指で拭い、自分の口に含んだ。「バチなど当たるか」 隼人は自分のコーヒーを小夜子に差し出した。「お前が遊べなかった10年分、これから俺が全部埋めてやる」 彼は城を指差した。「次は隣のパークに行くぞ。あそこには世界一の清掃船があるらしいからな。お前の好きな洗剤の話も、いくらでも聞いてやる」 不器用な慰めに、小夜子は目を見開いた。 洗剤の話を聞いてくれる。この世界で、そんなことを

    last updateLast Updated : 2026-04-01
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   160

    「初対面の方に、そのようなご指摘をいただく筋合いはございません。業務の一環ですので」 小夜子は半歩下がって、事務的な笑顔で壁を作った。 だが男は引かなかった。むしろ、その拒絶が面白かったらしい。「業務、か。堅苦しいねえ」 男はクスクスと笑い、名刺を差し出した。『株式会社ネクスト・フロンティア代表取締役社長 高塔蓮』。 新進気鋭のITベンチャーの社長だ。最近、メディアでよく見かける顔だった。小夜子も経済誌で見た覚えがある。「あの黒崎社長の奥様だよね? 噂は聞いているよ。没落した旧家から引き上

    last updateLast Updated : 2026-03-31
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