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309

last update publish date: 2026-05-19 20:18:00

 小夜子は自分のカップを口に運ぶ前に、翔吾のタブレットの画面に目を落とした。

 数ヶ月先まで、予約カレンダーは緑色の「満室」マークで埋め尽くされている。

 あの嵐の夜を乗り越え、御子柴の妨害を退けたこの宿は、もはや泥舟などではない。

 誰にも負けない人気を誇る、アーク・リゾーツの立派な看板の一つへと成長を遂げていた。

「素晴らしい成果ですね。翔吾さんの論理と、実加さんの熱。あなたたちがこの宿にもたらしたものは、計り知れません」

 小夜子の言葉に、翔吾は少し照れくさそうに視線を逸らした。

 実加は「へへっ」と鼻の下をこする。

 小夜子はカップをテーブルに置き、居住まいを正した。

 凛とした彼女の瞳が、2人の顔をまっすぐに見据える。

「せせらぎ亭の再生ミッションは、これで一区切りがつきました」

 その言葉に、スタッフルームの空気が少しだけ引き締まった。

「ここに集う従業員の皆様は、もう立派にこの宿を回していけます。私たちが手綱を握り続ける必要はあり

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   309

     小夜子は自分のカップを口に運ぶ前に、翔吾のタブレットの画面に目を落とした。 数ヶ月先まで、予約カレンダーは緑色の「満室」マークで埋め尽くされている。 あの嵐の夜を乗り越え、御子柴の妨害を退けたこの宿は、もはや泥舟などではない。 誰にも負けない人気を誇る、アーク・リゾーツの立派な看板の一つへと成長を遂げていた。「素晴らしい成果ですね。翔吾さんの論理と、実加さんの熱。あなたたちがこの宿にもたらしたものは、計り知れません」 小夜子の言葉に、翔吾は少し照れくさそうに視線を逸らした。 実加は「へへっ」と鼻の下をこする。 小夜子はカップをテーブルに置き、居住まいを正した。 凛とした彼女の瞳が、2人の顔をまっすぐに見据える。「せせらぎ亭の再生ミッションは、これで一区切りがつきました」 その言葉に、スタッフルームの空気が少しだけ引き締まった。「ここに集う従業員の皆様は、もう立派にこの宿を回していけます。私たちが手綱を握り続ける必要はありません」 小夜子はふっと表情を和らげ、明確な次なるステップを告げた。「東京の本社に戻りましょう」 翔吾の目が、わずかに見開かれる。 実加も、ハッとして身を乗り出した。「戻るって……ウチら、また東京のホテルで働けるんスか?」「ええ、もちろん。あなたたちはこの現場で、ホテルマンとして最も大切なものを学び取りました。次は、アーク・リゾーツの中核である『サンクチュアリ』で、その力を存分に発揮していただきます」 小夜子の力強い言葉が、彼らの胸の奥に火を灯した。 実加が勢いよく立ち上がり、拳を突き上げる。パイプ椅子がガタッと鳴った。「っしゃあ! チビも待ってるし、東京でも暴れてやるぜ!」「暴れないでください。……ですが僕も今の自分なら、本社の巨大なシステムの中で、より人間的な価値を生み出すアルゴリズムを構築できる確信があります」 翔吾も立ち上がり、決意に満ちた表情でタブレッ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   308

     料理を口に運んだ客たちは、たちまち笑顔になった。「大根、口でとろけたぞ……! こんな甘い野菜、初めてだ」「このカブの葉っぱのご飯も、お代わりしたいくらい美味しいわね。お腹いっぱいなのが悔しい」 高級な和牛も、高級魚の鯛もない。 けれど地元の人々が育てた生命力あふれる野菜と、板前の職人魂が込められた「里山懐石」は、客の胃袋と心を確実に満たしていた。 翔吾はホールの隅に立ち、タブレットで空いたグラスの数や食事のペースを確認しながら、実加や仲居たちへ目配せで次の配膳を指示している。 おかげで客で満杯の食堂も、大きな混乱はなく次々と料理が運ばれていった。 どこを切り取っても、活気と笑顔があふれている。 客はもちろんのこと、スタッフたちもだ。 誰もが、この宿の復活を心から喜んでいた。◇ 夜が更けて、館内が静けさを取り戻した頃。 帳場の裏にあるスタッフルームで、翔吾と実加は本日の最終データを突き合わせていた。「……本日の売上目標、120パーセント達成。クレーム数ゼロ。顧客満足度のアンケートスコアも、先週の平均値を上回っています」 翔吾がタブレットをテーブルに置き、眼鏡を中指で押し上げた。「しゃあっ! 今日も完璧だったな!」 実加はパイプ椅子に深く腰掛けて、両手を頭の後ろで組んで大きく背伸びをする。 翔吾はそんな実加を見て、少しわざとらしく眉をしかめてみせた。「あなたの無駄口の多さは相変わらず非効率ですが……まあ、お客様の滞在時間を伸ばし、追加の飲料オーダーを引き出した点は、評価してあげますよ」「なんだよ、素直に褒めりゃいいじゃんか。お前の裏回しも、今日はまあまあイケてたぜ。インテリ」「まあまあ、ではありません。完璧なシステム、アルゴリズムです」 翔吾がむっとした顔で言い返す。 相変わらず憎まれ口を叩き合っている

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   307

     翔吾の構築するシステムには、客の感情の動きや従業員の疲労度といった「人間の熱」という変数が、完璧に組み込まれている。 データと人間味の融合が、この宿の運営をかつてないほどスムーズに回していた。「お荷物、お車まで運びますよ! 忘れ物はないッスか?」 玄関口では、実加が大きなキャリーケースを両手に提げて笑っていた。 金髪のメッシュを揺らし、持ち前の体力と根性で次々と客の荷物をさばいていく。「お姉さん、力持ちねえ。昨日もたくさんお話ししてくれて楽しかったわ」「へへっ、ウチ、これくらいしか取り柄がないんで! またウチのチビの話、聞いてくださいね!」 実加がニカッと歯を見せて笑うと、年配の女性客もつられて目を細めた。 彼女の裏表のない明るさと飾らない接客は、古参の仲居たちや板前だけでなく、訪れる客の心をもがっちりと掴んでいる。 ヤンキー気質からくる面倒見の良さが、最高のホスピタリティとして機能していた。(翔吾さんの頭脳と、実加さんの行動力。2人の歯車が見事に噛み合っていますわね) 小夜子は、慌ただしく立ち働く彼らの背中を、一歩引いた場所から頼もしげに見守っていた。◇ 午後になり、新たな客たちが続々と到着した。 せせらぎ亭の連日満室の記録は、今日も更新されていた。 夕暮れ時になって、小夜子が廊下を歩いていると、露天風呂から上がってきたばかりの若い女性客たちの弾むような声が耳に届いた。「もう最高だった! お湯につかりながら見る夕日、やばくない?」「うんうん。あのお風呂の岩の配置、絶妙に景色を切り取っててエモかったー!」「ずっと見ていたいくらいだったもの」「あはは、のぼせちゃうよ!」 彼女たちの頬は上気して、湯上がりの肌が艶めいている。 温泉と絶景を心から楽しんだのが伝わってきて、小夜子の口元に自然と柔らかな笑みが浮かんだ。 あの露天風呂の岩は、実加の直感と翔吾のてこの原理、さらには地元育

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   306:せせらぎ亭の賑わい

     初夏の風が、せせらぎ亭の開け放たれた窓を吹き抜けていく。 山の緑の匂いと、帳場の奥から漂う一番出汁の豊かな香りが混ざり合い、館内には心地よい空気が満ちていた。 嵐の夜の影響は既に消えている。 黒崎隼人は小夜子とスタッフらの無事を確かめた後、東京で仕事をこなすために帰っていった。 山内実加の小さな息子、理玖もシッターに連れられて戻っている。(見違えるような活気です) 黒崎小夜子は藤色の着物の袖を整え、帳場の隅からロビーを見渡した。 視線の先には、チェックアウトを待つ宿泊客の列ができている。「いい宿だったね」「本当に。寂れた感じだと思ったら、何だか安心できる空気でさ」「また来たいよね!」 誰もが満足げな顔つきで、スマートフォンで館内の写真を撮ったり、同行者と楽しげに語り合ったりしていた。 彼らの背景にあるのは、従業員総出で手作りしたリニューアル空間だ。 黄ばんでいた壁のシミは、味わい深いレトロな和紙と真っ白な漆喰で美しく覆い隠されている。 破れていた障子は新しいものに張り替えられた。木枠の歪みは計算し尽くされたミリ単位の調整で完璧に直されていた。 軋んでいた廊下の床板は、毎日丹念に米ぬかで磨き上げられている。 今では飴色の艶を放ち、歩くたびに足の裏へ木の温もりを伝えてくれる。 最新鋭の設備ではない。 高価で豪華な内装でもない。 しかし、人の手によって丁寧に手入れされた空間は、訪れる客に実家のような安心感を与えていた。「302号室のお客様、チェックアウトの手続きを完了いたしました。次回のご予約も承りました。紅葉の季節も、当館は素晴らしい景色をご用意しております」 フロントカウンターでは、黒崎翔吾が淀みない対応を見せていた。 彼の手元には、常に最新型のタブレット端末がある。 画面には、顧客の宿泊データ、大浴場の混雑状況、厨房の配膳タイミングなどが、リアルタイムのグラフとなって表示されていた。 翔吾はそれを素早く読み取って、最

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   305

     ここで結果を出さなければ、翔吾はまた無能の烙印を押されて「家族」から追い出されてしまう。 居場所を見つけられないままに、大学を退学する羽目になる。 それはどうしても受け入れられなくて、翔吾は足掻いた。 しかし、この数週間のせせらぎ亭での日々、さらには昨夜の極限状態の中で彼を救ったのは、彼が見下していたはずの非合理的な感情であり、小夜子や実加の持つ確かな体温だった。 温かいお湯に包まれて満天の星空を見上げていると、これまで自分を守っていた冷たい論理の鎧が、すっかり溶け落ちてしまったような感覚になる。 心の奥底に初めて芽生えた穏やかな感情に背中を押されるように、翔吾は自然と口を開いていた。「せせらぎ亭に出張してからこの数週間、色々なことがありました」 翔吾の声からは、以前のような冷たさも、自分を虚勢で大きく見せようとする焦りも消え去っていた。「僕はこれまでずっと、黒崎社長のような完璧で、一切の隙のない経営者になりたいと思ってきました。データと論理だけで、すべての問題を解決できると信じていたんです」「…………」 隼人は口を挟まず、目を閉じたまま弟の言葉に耳を傾けている。「でも、違いました。せせらぎ亭の皆と働き、御子柴と対峙して、はっきりと分かったんです。数字と計算式だけでは、人は動かせない。お客様の本当の笑顔は引き出せない」 翔吾は隣に座る兄へ、まっすぐに視線を向けた。「僕は、黒崎社長のような論理的な思考を持ちつつも……小夜子さんや、ここの従業員たちが持っている『優しさ』や『熱』を併せ持つ人間になりたい。それが、僕の目指す新しい経営の形です」 隼人は無言でまぶたを開けた。 湯気の中で、兄弟の視線が交差する。 隼人は弟の視線を受け止めたまま、わずかに微笑んだ。 そしてお湯の中から大きな手を出てし、翔吾の肩をバンッと力強く叩いた。「痛っ……」「お前ならできるさ。俺だって、小夜

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   304

    「主人の留守中、『家』を嵐から守り抜き、中にいる『家族』たちに温かい食事を提供して命を繋ぐ。それこそが家政婦としての最重要任務ですわ。皆さんと……特に翔吾さんと実加さんと力を合わせて、完璧にこなして見せましたけれど、何かご不満でも?」 いたずらっぽく小首を傾げる最愛の妻を見て、隼人は大きく息を吐き出す。ついに目元を柔らかく崩した。「いや……。さすがは、俺の見込んだ最高の女だ」 隼人は小夜子の頬に愛おしげに手を添える。 その白い額に深く、熱を込めた口づけを落とした。「ありがとう、小夜子。俺の誇りだ。お前が家を守ってくれるからこそ、俺はどんな逆境でも戦える」「ええ。あなたのお帰りを、いつでも完璧な状態でお待ちしておりますわ」 夕闇が迫る控え室で、2人は固く手を取り合う。「でも今回は、皆さんの力があってこそ乗り越えられました。特に翔吾さんです。彼は本当に頑張りましたよ。是非、話を聞いて差し上げてください」「そうか、翔吾が……。そうだな。あいつはずっと孤独に生きてきた。せめて俺が兄として横に立たねば」 夫婦の手は自然に伸びて、互いの背中に回される。 2人は長いこと、相手の無事と体温を分かち合っていた。◇ その日の夜。 猛烈な雨と風が空気中の塵をすべて洗い流した夜空は、吸い込まれるような深い漆黒のキャンバスへと変わっていた。 見上げれば、こぼれ落ちそうなほど無数の星々が眩い光を放ち、天の川の淡い光の帯が山の稜線からくっきりと立ち上っている。 荒れ狂っていた大自然が本来の優しさを取り戻し、雄大な気配で山全体を包み込んでいた。 その満天の星空の下、せせらぎ亭の絶景露天風呂は、既に完全に再生を果たしている。 もちろん、まだ客はいない。 けれど湯船に浸かる人影があった。 黒崎隼人と翔吾の兄弟だった。 心地よい湯の音が、夜の里山に響いている

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   86

    『拝啓、黒崎社長。私は不幸な話が好きですが、それ以上に「売れる記事」が好きです。編集長に確認したところ、「今のトレンドはスキャンダルよりギャップ萌えだ」とのこと。  それにあなたのような鉄仮面にとって、悪口を書かれるよりも、「愛妻家のツンデレ」として世間に愛される方が、よほど屈辱的で精神的ダメージが大きいでしょう? せいぜい恥じ入ってちょうだい。これが私なりの復讐よ』 クシャリ、と紙が潰れる音がした。隼人がメモを握り潰していた。「あの女……!計算尽くか……!」 確かに高橋の読み通りだった。隼人にとって、これほど恥ずかしい刑罰はない

    last updateLast Updated : 2026-03-24
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   84:キャラ崩壊

     高橋は立ち上がり、鞄をひっつかんだ。「約束通り、批判記事も過去のネタもボツにするわ。……あーあ、時間の無駄だった」 彼女は隼人を睨みつけ、捨て台詞を吐いた。「覚えてなさいよ。次は必ず、その鉄仮面の下にあるボロを出させてやるから」 高橋は嵐のように去っていった。パタン、とドアが閉まる音が、静寂を取り戻したスイートルームに響く。 隼人はソファの背もたれに深く沈み込み、天井を仰いでいた。顔の赤みはまだ引いていない。「……お前な。あんな恥ずかしい話を、よくもぬけぬけと……」 彼は片手

    last updateLast Updated : 2026-03-23
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   82:鉄壁のノロケ

     ホテル『サンクチュアリ』の最上階、VIP用スイートルーム。革張りのローテーブルの中央で、ICレコーダーの赤いランプが点滅を始めた。チカ、チカ、と規則正しく刻まれるリズムは、まるで時限爆弾のカウントダウンのようだ。「では、始めましょうか」 ジャーナリスト・高橋マキが足を組み、手元のメモ帳を開く。  向かいのソファに座る隼人は、石像のように硬直していた。顔色は蒼白で、膝の上で組んだ指は血の気が引いて白くなっている。過去のトラウマであるマスコミへの恐怖と小夜子が何を口走るか分からない不安で、呼吸さえ浅くなっているようだ。  小夜子は、あえて

    last updateLast Updated : 2026-03-23
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   79:ハイエナの嗅覚

     ――左手の甲が、熱い。 アーク・リゾーツ本社、最上階の社長室。小夜子はいつものように、淹れたてのブラックコーヒーを革張りのデスクに置いた。 コーヒーを淹れるのは秘書の役割だったが、いつの間にか小夜子が社長室まで出社し、給仕をすることになっていた。 湯気越しに視界に入った自分の左手を見て、心臓が嫌な音を立てる。 昨夜、洗面所で隼人に押し付けられた唇の感触。それが火傷のように皮膚に残っていた。血管の奥で、ドクンドクンと脈打つ音が聞こえるような気がする。(……メンテナンス、とおっしゃっていたけれど

    last updateLast Updated : 2026-03-23
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