ANMELDEN結婚四年目、唐沢天音(からさわ あまね)は、自分がいつの間にか周囲の笑いものになっていることに気づいた。 24年間、藤川瑛司(ふじかわ えいじ)だけを一途に追い続け、彼と結婚してからの4年間もずっと尽くしてきた。 面倒を見てやりたい子がいると、瑛司から相談されたときも、天音はなんの疑いもなく了承した。まさかその子が、彼の初恋の女の子だとは思いもしなかった。 いつかきっと自分の想いが届く—天音はそう信じていた。 しかし、そんな期待はあっけなく打ち砕かれた。ガラスの向こうで、いつも天音に冷たく距離を置いている瑛司が、その女の乱れた服を優しく整えている。 ガラスのこちら側で、天音は惨めに立ち尽くすことしかできなかった。 ひび割れたスマホの画面には、瑛司からのメッセージが映っている。 【会議中だ。忙しいから連絡してくるな】 その瞬間、天音はようやく思い知った。 瑛司にも優しくできる相手はいる。ただ、自分はその相手ではないのだ。 誰も、天音の方からこの結婚を終わらせる日が来るとは想像していなかった。瑛司自身でさえ、彼女はいつまでも自分のそばにいるものだと思っていた。 だからこそ、天音が迷いなく離婚届にサインした瞬間、瑛司は言葉を失った。 …… 瑛司が再び天音の姿を目にしたのは、ある研究成果の発表会だった。 その頃、天音はロボット工学の第一人者として国内で名を上げ、研究チームを代表して壇上に立っていた。彼女の傍らには、ひときわ目を引く若い男性が寄り添っていた。 人混み越しに、ふと二人の視線がぶつかった。天音も瑛司も何も言わず、ただお互いに薄く笑った。そこにどんな思いが込められているのかは、本人にしかわからない。 いつも冷静沈着な瑛司が、このときばかりは完全に取り乱していた。天音が投げ捨てた結婚指輪を、彼は地面に這いつくばって必死に探し出した。そして、震える手で彼女の指にはめ直した。 「一生俺を愛するって言っただろ。俺なしじゃ生きられないって、そう言ってたんじゃないか……」
Mehr anzeigen翌朝、天音は頭が割れるように痛み、全身が重くてたまらなかった。こめかみを押さえて、冷たい床に手をついたまま、しばらくぼんやりしていた。やがて、ここがどこなのかを思い出した。スマホのアラームが鳴り続けている。瑛司の朝食を作るために、設定していたアラームだ。天音はそれを止めると、そのままアラームの設定自体をきっぱりと削除した。ちょうどそのとき、家政婦が外から入ってきて、天音を見るなり、申し訳なさそうに頭を下げた。「奥様、申し訳ありません。昨夜は中へお連れしようと思ったのですが、旦那様が……外に置いておくよう言われたんです」家政婦は、てっきり天音が泣きそうな顔をしていると思っていた。しかし、天音はすぐに立ち上がった。声が少しかすれているだけで、その口調から感情は読み取れない。「酔っ払って家を間違えただけよ。それから、これからはもう奥様なんて呼ばなくていいから」天音はそのまま立ち去ろうとしたが、何かを思い出したように足を止めた。「あっ、瑛司に伝えておいてください。離婚協議書を用意してって」スマホを確認してみると、昨夜、美奈から何度も電話がかかってきた。天音はすぐ電話をかけた。「もしもし、美奈」「まさか、後悔したなんて言わないでよ!昨日、何度電話しても出ないし、エド教授に電話して、あなたが桐ヶ丘レジデンスに行ったって聞いたんだから」美奈は怒りを隠そうともしなかった。「まだあいつのことを引きずってるなら、私が殴ってでも吹っ切らせるからね!」天音は思わず笑った。「美奈が私を殴れるの?大丈夫、後悔なんてしてない。ただ酔っ払って……」昨夜、どうやって桐ヶ丘レジデンスまで帰ってきたのか、天音自身も覚えていない。「そうだ。車を買おうかな。車がないと、やっぱり不便だし」天音は運転ができないわけではない。むしろ運転の腕はかなりのものだ。かつての友人の多くも走り屋仲間として知り合った人たちだった。瑛司と結婚してからは、静かな暮らしを選ぶようになり、次第に自分で運転しなくなった。出かける時は運転手がいるし、不便も感じていなかった。だが彼と離れた今、やはり自分の車があった方がいいと彼女は思う。天音はそのままディーラーへ向かった。たいして時間もかけず、美奈と同じモデルのフェラーリを購入した。赤い車体は、いかに
どれだけ忙しくても、天音はそれらのことを決して欠かさなかった。しかし、今は手が離せず、これ以上話す気にもなれなかったため、天音はそのまま電話を切った。一方、家政婦は驚いたようにソファに座る瑛司へ視線を向けた。「旦那様、奥様は何もおっしゃらずに電話を切られました」瑛司は目を伏せたまま、何も言わなかった。家政婦は信じられない思いだった。どうやら天音は本気で家を出るつもりらしい。彼女は困りつつも、内心ほっとしていた。困るのは、これから瑛司の身の回りの世話がすべて自分に回ってくることだ。だが一方で、顔以外に何の取り柄もなく、旦那様には到底釣り合わないあの女がようやく出ていった。これで一人、世話をする相手が減った。そう思うと、彼女は思わず笑顔になった。三時間後、天音は研究チームを悩ませていた難題を解決した。室内にいる研究者たちは天音が導き出した結果を前にして、口々に感嘆の声を上げた。「すごすぎます!」「EJ、この数年いったい何をしてたんですか?あなたの名前を、今まで一度も聞いたことがありませんでした」天音はまぶたを伏せた。「専業主婦をしてました」「えっ?そんなの、もったいなさすぎます!EJの才能を埋もれさせていたなんて!」皆、信じられない様子だ。天才と呼ばれる女性が専業主婦をしていたのだから。エド教授は天音に契約書を差し出した。「EJ、私たちと一緒にやらないか。あなたはもっと大きな舞台で活躍すべき人だ」指先が契約書の端に触れた瞬間、天音は呼吸が乱れた。彼女は契約書を受け取った。たった一枚の薄い紙なのに、今はひどく重く感じられた。天音はしばらく、それを読むことさえできなかった。この世界への情熱を捨てたことは一度もない。だが、もう一度ここに戻り、仲間たちと肩を並べて努力する日が来るとは思っていなかった。世界がふいに静まり返ったかのように感じられ、胸の奥に押し込めていた期待が一気に込み上げ、喉の奥がツンと熱くなった。「心の準備がまだかな?三日ほど考える時間をあげてもいいが……」エド教授が気遣うように言った。「いいえ。もう決めました。今、サインします」天音は自分の名前を書き込んだ。最後の一画を力強く書き止め、そこに並んだ「唐沢天音」という文字を見た瞬間、夢から覚めたような、確かな実感が胸に
天音は怒るどころか、口元にかすかな笑みを浮かべた。「エド教授に言われて来たのか?」明人は横目で天音を見やり、皮肉を込めた口調で言った。「へえ、お前でもエド教授を知ってるんだな。まあ、世界的に名の知れた教授だから……」明人はそこではっとした。「お前、どうして教授に言われて来たと知ってる……」明人の瞳が微かに揺れた。「EJ……」天音は頷いた。「そう。私がEJよ。中へ入りましょう」「そんなはず……」明人は天音をしばらく見つめ、やがて冷たく鼻で笑った。「どこかで聞いた噂を真に受けて、EJのふりをしてるんじゃないだろうな……」天音は何も言わず、エド教授とのメッセージを明人に見せた。明人は完全に言葉を失い、顔が一気に赤くなった。「お前……本当に、十二歳で世界的な賞を取った……」明人が言い終わる前に、天音はもう歩き出していた。「案内して。でないと、警備に追い出されるから」明人は何も言い返せず、天音の後ろについていった。これまでまともに見ようともしなかった彼女を、初めてまじまじと見つめた。まさか、天音が本当にEJだとは。瑛司は知っているのか?明人は瑛司にメッセージを送ろうと、我慢できずにスマホを手に取った。だが、エド教授は、EJが自分たちの研究室に加わる可能性が高いと言った。もし本当にそうなれば、国家機密だ。誰にも話せない。明人の所属や仕事内容も、すべて機密扱いだ。瑛司が知っているのは、明人が国の仕事に関わり、普段は研究室で忙しくしているということだけだ。具体的にどんな研究をしているのかまでは瑛司にも明かしていない。明人がスマホをしまおうとした時、瑛司から返信が届いた。【研究室にいるのか?天音は何しに行ったんだ?】明人は少し意外に思った。瑛司が、いつから天音のことを気にするようになったのだろう。これまでなら、瑛司はいつも「天音のことは俺にいちいち報告しなくていい」としか言わなかった。だが、今回は本当のことを話すわけにはいかない。明人は後ろめたさを覚えながら返信した。【何でもない。もう帰った】研究室に入ると、エド教授が真っ先に出迎えた。「EJ!十二年ぶりだな。来てくれて本当にうれしいよ」この十二年間、エド教授は出来の悪い博士課程の学生たちを指導するたびに、あの十二歳の天
四年前、継母は天音を年寄りの男のもとへ無理やり嫁に出そうとしていた。彼女は日の当たらない地下室に閉じ込められ、スマホも取り上げられて、祖父母と連絡を取ることもできなかった。そんなとき、瑛司の祖父母が天音の実家を訪れ、瑛司が天音との結婚を望んでいると正式に申し入れた。継母はそれでようやく彼女を地下室から出した。外に出た天音は、真っ先に瑛司のもとへ向かった。そこで目にしたのは、血の気を失った顔でベッドに横たわる瑛司の姿だった。全身傷だらけで、まだ血がにじんでいる。高熱にうなされ、意識もなかった。天音は、瑛司が自分と結婚するために家族に逆らい、命が危ぶまれるほど追い詰められたのだと思っていた。結婚してからの四年間、瑛司がどれほど冷たくても、天音は一度も気にしなかった。ただひたすら彼を愛し続けた。瑛司が自分のために家族と衝突し、意識を失うほど追い詰められていた姿を見た時、一生彼を裏切らないと誓ったからだ。しかし、彼女は間違っていた。あの時瑛司が罰を受けたのは、彼女と結婚するためではなく、晴加と結婚するためだった。指先からすっと力が抜けた。胸が見えない手でつかまれたように苦しくなった。突然の不安に襲われ、手首まで力が抜けていく。手にした白磁の椀がぐらりと揺れ、天音は慌てて握りしめようとした。だが、指先は冷たい器の表面をかすめただけだ。椀が滑り落ちた瞬間、ガシャン、パリンパリンという甲高い音が響いた。白磁の器は床の上で粉々に砕け、スープが一面に流れ出した。天音の指先は、何かをつかもうとするような形のまま固まった。心臓が早鐘を打ち、呼吸さえ震えている。「天音ちゃん、どうしたの……」真恵子が引き止めようと彼女の腕を掴もうとしたが、天音は挨拶もせず、逃げるようにその場を離れた。背後から、真恵子が瑛司に追いかけるように告げる声が聞こえた。瑛司はいつもと変わらぬ淡々とした声で言った。「遠くへは行かないだろ」そうだ。以前の天音は、腹を立ててもせいぜい玄関まで出ていくくらいだった。その気になれば、すぐに見つけられる。それどころか、瑛司が探しに来なくても、天音はいつもおとなしく戻ってきた。相手に尽くしすぎると、それがいつか当たり前だと思われてしまう。天音は広い屋敷を飛び出した。外には、どこまでも続く大通りが広がっている。中心街