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40:敵意の玄関

last update Date de publication: 2025-12-16 11:19:26

 黒塗りの車が、砂利を踏みしめて停車した。

 午後2時30分、老舗旅館『月影(つきかげ)』の玄関を小夜子は車の窓から見上げた。

 築百年を超えるという木造建築は、確かに歴史の重みを感じさせる。だが今の小夜子の目には、それが「重厚さ」というより「重苦しさ」として映った。どこか薄暗く空気がよどんでいる。

「降りるぞ」

 隼人が短く告げてドアを開けた。さきほどまでの車酔いの青白い顔はどこへやら、その横顔はすでに冷徹な「再生屋」のものに戻っている。

 小夜子も後に続いて車を降りた。

 玄関前には、支配人を先頭に仲居や板前たちがずらりと整列していた。

 だが。

「…………」

 誰一人として、「いらっしゃいませ」とは言わない。頭を下げることもしない。

 彼らの目は新しい社長を歓迎しているのではなく、自分たちの城を奪いに来た侵略者を睨みつけているようだった。突き刺さるような敵意の視線が隼人に、次いで小夜子に突き刺さる
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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   320

    (僕が兄さんの足を引っ張っている) 罪悪感が、冷たい水のように肺を満たしていく。 せせらぎ亭で得た充実感も、新しいシステムへの手応えも、すべてが色褪せて見えた。  息をするのが苦しい。翔吾はキーボードから手を離し、固く目を閉じた。◇ アーク・リゾーツ本社の最上階、社長室。 空気は完全に凍りついていた。  黒崎隼人は、重厚な造りの執務机の奥で、腕を組んだまま険しい表情を崩さない。  周囲を取り囲む役員たちは、手元の資料やタブレット端末を握りしめて、口々に叫んだ。  彼らの声には焦燥感がにじんでいる。「社長! 現在、SNSの公式アカウントには誹謗中傷が殺到し、炎上状態です。株価も午前の段階で大幅に下落しており、このままではブランドイメージが崩壊します!」「直ちに黒崎翔吾氏と山内実加氏を現場から外すべきです。メディアに対しても、2人の処分を明確にする釈明会見を開く必要があります」 悲痛な訴えが交差する。  役員たちが2人の排斥を訴える中、よく通る凛とした声が場を制した。「お待ちください」 声の主は、アーク・リゾーツの総支配人である小夜子だった。  洗練されたネイビーのパンツスーツに身を包み、足元には黒のピンヒール。  隙のない完璧な装いの彼女が、役員たちの前に進み出る。「この記事の出所は、グラン・ヘリックスの御子柴玲二で間違いないでしょう。彼のやり口は常に卑劣です。これは単なるスキャンダルではありません。アーク・リゾーツが掲げる『人材登用の理念』への、直接的かつ悪意ある攻撃です」 小夜子の言葉に、年配の役員が眉をひそめた。「しかし、世間はそうは受け取りません! 現に顧客は離れているんだ!」「皆様。かつて、私の過去が週刊誌に暴露された時のことを思い出してください」 小夜子の言葉に、役員たちがハッと息を呑む。 愛人の子として生まれ、本家で虐げられ、まるでモノのように隼人の元へ契約結婚の道具として

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   319

     一方、客室清掃のフロアでは。  実加が大量のタオルを積んだリネンカートを押して歩いていると、リネン室の前で固まっていた年配のパート従業員たちの声が嫌でも耳に飛び込んできた。「見た? あの記事。山内さんのこと」「ええ。やっぱり、元ヤンなんて雇うべきじゃないのよ。ホテルの品位が下がるわ」「手癖が悪いに決まってるわ。お客様の部屋で盗みでも働いたらどうするの」「それに、子供をほったらかしにしてるんでしょ? 私ならあんな働き方、絶対にしないわ」 言葉が刃となって実加の背中に次々と突き刺さる。 カートの持ち手を握る手に力がこもった。  以前の彼女なら、振り返って凄み、文句があるなら直接言えと怒鳴り散らしていただろう。 だが、今の彼女はサンクチュアリのホテルマンだ。  ここで怒りを露わにすれば、記事の内容を自ら証明することになってしまう。(耐えろ。ウチは変わったんだ。あんな記事に負けねえ) 実加は制服のスカートをきつく掴み、前だけを見て歩みを進めた。 しかし悪意は社内だけに留まらなかった。  ロビーの喧騒の中、1人の恰幅の良い中年の男性客が、チェックアウトのカウンター越しに声を荒げていた。「責任者を呼べ! あんな記事が出ているホテルに、大切な取引先を泊められるか!」 たまたま近くを通りかかった実加が、足早にカウンターへ向かう。「お客様、どうされましたでしょうか」「お前……記事に出てた女か! 元ヤンの清掃員なんて不潔極まりない! 今後の予約、全部キャンセルしてくれ!」 実加の肩がピクリと跳ねた。腹の底から、理不尽に対する熱いものが込み上げてくる。  実加は深く頭を下げた。「お客様、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」「不快どころじゃない! 従業員の教育もまともにできていない掃き溜めホテルじゃないか! 黒崎社長の顔に泥を塗るような真似をしおって!」 心無い言葉が次々と投げつけられる。喉の奥がカラカラに乾いていた。  そ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   318

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   316

     近々、正社員登用試験も控えている。 この小さな命を守るためなら、デッキブラシを握り続けることも慣れない専門用語を覚えることも、少しも苦ではない。 全てが順調。あとは実加自身の努力にかかっていた。ならばやり遂げるだけだ。(母ちゃん、今日も気合い入れてくるからな。いい子で待ってろよ) 理玖の背中をポンポンと叩き、実加は立ち上がった。◇「それでは実加さん、僕はここで」「おう。今日の仕事もお互い頑張ろうな」 出勤した実加は、翔吾と別れて従業員専用エリアのロッカールームへ入った。 壁際に並ぶスチールロッカーからは、芳香剤のフローラルな香りと、誰かが置き忘れた湿ったタオルの匂いが混ざり合って漂っている。「さて、着替えねえと」 実加が自分のロッカーを開けて、制服のブラウスに手を伸ばした時だった。 ジジッ、ジジッ。 バッグの中のスマートフォンが、短い振動を繰り返した。 実加は眉をひそめる。こんな朝早くに連絡が来る相手など、限られている。 保育所からの緊急の呼び出しでないことを祈りながら、画面をタップした。 表示されたのは、メッセージアプリの通知だった。 地元の昔の不良仲間たちで作った、今はほとんど動いていないグループチャットだ。『おい実加、これお前じゃね?www』『やばw 全国デビューおめ!』『サンクチュアリって、あの超高級ホテルの? お前、あんなとこで清掃やってんの?w』 嘲笑を含んだ短いメッセージの連投が、目に入る。 その後にニュースサイトのURLが貼り付けられていた。(なんだこれ。久々でこの言い草かよ) 実加は首を傾げながら、そのリンクをタップする。 画面が切り替わり、目に飛び込んできたのは、毒々しい赤黒いフォントで彩られた週刊誌のWeb記事だった。『アーク・リゾーツの闇! 若きエリート役員は奔放な関係の末に生まれた愛人の子』

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   315:暴露記事

     朝の澄んだ空気が、社員寮の廊下を通り抜けていく。 山内実加は、重みのあるマザーズバッグを肩にかけて、生後7ヶ月になった理玖を両腕に抱え込んで歩いていた。「ほら、理玖。今日もいい天気だぞ」 ふっくらとした頬を指先でつつくと、理玖はきゃっきゃと声を上げて笑う。 実加の髪を、小さな手で掴んできた。「こらこら、髪を掴むな、髪を。いてーだろうが」 実加は息子の小さい指を優しく開いてやった。 理玖は日々成長している。 そうと実感するのは、実加の喜びだった。「理玖くんは今日も元気ですね」 隣を歩く黒崎翔吾が言う。 彼も指を赤ん坊に伸ばすと、しっかりと捕まってしまった。「指を握る力も強くなったのでは?」「なった、なった。チビは毎日成長しているもんなー!」「あう、あうー!」 3人は笑い合う。「実加さん。そのバッグ、重いでしょう。僕が持ちますよ」「いいんだよ。清掃道具に比べりゃどうってことないし」 他愛のない会話は信頼の証だ。 しばらく歩いて、社内保育所『こぐまの森』のドアを開ける。「おはようございます、山内さん。翔吾さんも」「おはようッス。今日もよろしくお願いします」「おはようございます」 顔なじみの保育士に挨拶を交わし、色鮮やかなジョイントマットの上に理玖を降ろした。 靴箱に荷物を押し込み、振り返る。 実加の視界の先で、理玖がこちらへ向かってきていた。 小さい手足を懸命に動かし、ハイハイで進んでくる。ほんの数週間前までは、うつ伏せでもがくだけだったのに、今ではけっこうな勢いの移動速度だ。「おっ、速い速い。お前、いつの間にそんなに動けるようになったんだよ」 実加は床に膝をつき、飛び込んできた小さな体を受け止めた。 ミルクとベビーパウダーの甘い匂いがする。じんわりと温かい体温が、ブラウス越しに伝わってくる。「山内さん、理玖くん本当に活

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     ソファが体重で沈み込み、2人の距離がゼロになる。 隼人の腕が伸びて、小夜子の華奢(きゃしゃ)な肩を引き寄せた。小夜子の体がビクリと跳ねる。だが、彼女は逃げようとはしなかった。ただ、上司の命令に従う部下のように背筋を伸ばし、硬直しているだけだ。「俺が欲しかったのは、掃除機を選ぶお前の頭脳じゃない」 隼人の指先が、小夜子の結い上げた髪をほどく。黒い髪がさらりと肩に落ちた。その感触を愛でるように、彼の手は彼女の頬へと滑り落ちた。「……お前自身だ」 低い声が、耳元でささやかれる。

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-30
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   142

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    last updateDernière mise à jour : 2026-03-29
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   105

    「原因が分かれば対処は可能だ。壁紙をはがすか? それともカーペットを全面張り替えか?」 彼は頭の中で電卓を叩き始めた。全室リフォームとなれば、数千万円の追加投資が必要になる。だが背に腹は代えられない。 顧客に健康被害が出たとなれば、数千万円以上の取り返しのつかない損害になるからだ。「支配人、業者に見積もりを取れ。最短で工事を……」「いいえ、旦那様」 小夜子は涼やかな声で、夫の言葉をさえぎった。「張り替える必要はありません。数千万円をドブに捨てるようなものですわ」

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-26
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   99:幽霊の出る部屋

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    last updateDernière mise à jour : 2026-03-25
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