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56:千枚の記憶

last update Tanggal publikasi: 2025-12-22 06:37:51

 小夜子は静かに動き出した。ホテルのコンシェルジュに頼んで用意させたものが、ローテーブルの上に並べられている。黒い硯(すずり)と一本の墨、筆。そして白く柔らかな和紙だ。

 小夜子は正座をし、硯に少量の水を差した。

「……旦那様」

 そっと呼びかける。

「デジタルの文字では、あの方の心には届きません。弁護士からの通知など送れば、怒りの炎に油を注ぐだけです」

 隼人は電話を切ると、苛立たしげに振り返った。

「今どき手紙だと? 時間の無駄だ。こちらの条件をタイプして印刷すれば、1分で終わる」

「ええ。1分で終わります。……そして、1秒でゴミ箱行きでしょう」

 小夜子は墨をつかんだ。ゆっくりと、硯で墨を回し始める。

 ゴリ、ゴリ……。シュッ、シュッ……。

 静かな部屋に、単調だが重みのある音が響き始めた。

 墨が水に溶けて黒い液体へと
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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   318

     同僚が、ためらいがちに翔吾の方へ近づいてくる。 いつもは軽口を叩く男が、今日はひどく強張った顔をしていた。「……翔吾さん。これ、見ましたか」 同僚は自分のタブレット端末を、翔吾のテーブルの上にそっと置いた。 画面には、実加が見たものと同じ週刊誌のWeb記事が表示されている。『アーク・リゾーツ社社長の母・真澄さんはギャンブル依存とアルコール依存の末に多額の借金を抱え、現在は行方不明』『社長の弟・黒崎翔吾さんは、父親が独身時代に交際していた女性――黒崎真澄さん――との間に生まれた子ども。当時、彼女は別の男性とも交際しており、まさに奔放な関係の末に生まれた子である』『アーク・リゾーツ社社長の黒崎隼人氏とは、同母・異父兄弟になる。つまり隼人氏にも問題の母親の血が流れている』 黒の太字で強調された文字の羅列が、直接脳内に流れ込んでくる。 翔吾の指先から一気に熱が引いていく感覚が走った。 先ほどまで頭の中にあった完璧なスケジュールが、あっという間に消し飛んだ。「……こんなの、何かの間違いですよね?」 同僚の探るような声が、ひどく遠くに聞こえる。 自分が、兄である隼人の完璧な経歴に、アーク・リゾーツというブランドに、消えない汚点を付けてしまった。(僕のせいで。僕が兄さんを頼ったから) その思いが翔吾の心を蝕んだ。 周囲の音が急速に遠のき、自分の浅く早い呼吸音だけがやけに大きく耳に響くようだった。 翔吾はとっさにテーブルの端を強く握り、何とかその場に立ち留まった。 同僚への返事は、できなかった。◇ 記事の影響は、瞬く間にサンクチュアリの現場を侵食し始めた。 ロビーのフロントカウンターで、翔吾はキーボードを叩きながら、耳元のインカムマイクに手を当てた。「東館の清掃チーム、11時の段階でリネン交換に5分の遅れが出ています。西館からヘルプを2名

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   82:鉄壁のノロケ

     ホテル『サンクチュアリ』の最上階、VIP用スイートルーム。革張りのローテーブルの中央で、ICレコーダーの赤いランプが点滅を始めた。チカ、チカ、と規則正しく刻まれるリズムは、まるで時限爆弾のカウントダウンのようだ。「では、始めましょうか」 ジャーナリスト・高橋マキが足を組み、手元のメモ帳を開く。  向かいのソファに座る隼人は、石像のように硬直していた。顔色は蒼白で、膝の上で組んだ指は血の気が引いて白くなっている。過去のトラウマであるマスコミへの恐怖と小夜子が何を口走るか分からない不安で、呼吸さえ浅くなっているようだ。  小夜子は、あえて

    last updateTerakhir Diperbarui : 2026-03-23
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   79:ハイエナの嗅覚

     ――左手の甲が、熱い。 アーク・リゾーツ本社、最上階の社長室。小夜子はいつものように、淹れたてのブラックコーヒーを革張りのデスクに置いた。 コーヒーを淹れるのは秘書の役割だったが、いつの間にか小夜子が社長室まで出社し、給仕をすることになっていた。 湯気越しに視界に入った自分の左手を見て、心臓が嫌な音を立てる。 昨夜、洗面所で隼人に押し付けられた唇の感触。それが火傷のように皮膚に残っていた。血管の奥で、ドクンドクンと脈打つ音が聞こえるような気がする。(……メンテナンス、とおっしゃっていたけれど

    last updateTerakhir Diperbarui : 2026-03-23
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   69

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    last updateTerakhir Diperbarui : 2026-03-22
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