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73:思い出の香り

last update Date de publication: 2025-12-28 18:07:22

 午後6時、ホテル『サンクチュアリ』のメインダイニング『Nocturne(ノクターン)』。

 夜景を一望できるVIP用の個室は、重苦しい沈黙に包まれていた。

 テーブルには手つかずのオードブルが並んでいる。

 ローズベリー伯爵は、ソムリエが恭しく差し出した『シャトー・マルゴー』のグラスを指差し、吐き捨てるように言った。

「下げろ」

「は……? しかし閣下、こちらは当ホテルが誇る最高級のヴィンテージで……」

「ラベルを見ただけでわかる。それは、石油(オイル)の味がする」

 ソムリエが凍りついた。

「せ、石油……でございますか?」

「そうだ。金、権力、効率……資本主義の臭い脂の味だ。私の乾いた喉を潤すものではない」

 理不尽な難癖である。だがその言葉の裏には、悲痛な響きがあった。

 ソムリエはそれに気づかない。

 ローズ

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   348

     チーフの苛立った声に、若手スタッフが肩をすくめた。 小夜子が近づくと、彼らはサッと視線を逸らして気まずそうに作業に戻っていった。(空気がひどく張り詰めている。お互いの顔色を窺って、誰も本音を言えない状態) 小夜子は靴音を殺して廊下を進んだ。 開け放たれた客室の入り口から、数人の女性スタッフがヒソヒソと話す声が漏れ聞こえてくる。「ねえ、私の個人のSNSアカウントに、DMが来たの」「えっ、私も。グラン・ヘリックスの人事担当って名乗る人からでしょ?」「そう。うちのホテルのサービスレベルを高く評価してるから、新体制になったら部門のリーダー候補として特別待遇で迎えたいって。これ、本物なのかな」「私にもヘッドハンターから来たわよ。これ、1人ひとりのアカウントを特定して送ってきてるのよね。ちょっと怖くない?」「でも、そこまで熱意をもってスカウトしてくれるなら、ちょっと心が動く……」「うーん、確かに……」 小夜子はわずかに目を細めた。 物理的なビラ撒きだけではない。スタッフがプライベートで利用しているSNSアカウントにまで、個別に接触を図ってきているのだ。 メディアを使った大々的な宣伝で集団の意識を揺さぶり、ビラで内部に疑心暗鬼を生ませる。 さらにSNSのダイレクトメッセージで個人個人を追い詰める。(なんて執拗で、悪辣(あくらつ)な手口でしょうか。みんな、追い詰められてしまうわ)「ちょっと、そこのあんたたち! 手を動かしながら喋りなよ!」 フロアの奥から、張りのある元気な声が響いた。 山内実加だ。 彼女はゴミ袋をまとめた大きなカートを押しながら、小夜子の前までやってきた。「あ、師匠、じゃなくて総支配人! お疲れ様ッス!」「お疲れ様です、実加さん。理玖くんは保育園ですか?」「はい、今朝も元気に離乳食食べてから行きましたよ。それより、総支配人、ちょっとこれ見てください」 実

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   347

    「給料が倍になるなら、うちの子の塾代を諦めなくて済むかも。家のローンだって一気に返せるわ」 パートの女性が、ビラを両手で握りしめながら呟いた。「でも、これ誰が置いたんだ?」 若手のベルボーイの言葉に、場が静まり返った。「部外者がロッカールームに入れるわけないよな。カードキーがいるんだし」「……ってことは、スタッフの誰かがグラン・ヘリックスからお金をもらって配ったってこと?」「うそ、裏切り者がいるの?」 疑心暗鬼が、目に見えないヒビのように人々の間に広がっていく。 つい昨日まで笑顔で助け合っていた同僚の顔が、急に得体の知れないスパイのように見えてくる。 誰もが周囲を警戒し、探り合うような視線を交わし始めた。「ねえ、グラン・ヘリックスの傘下に入った方が、コンプライアンスもしっかりしてるんじゃない? この前のネットの炎上騒ぎみたいに、うちらがクレーム対応の盾にされることもなくなるかもよ」 誰かが発したその一言が、決定打だった。 先日のスキャンダル騒動で、現場のスタッフたちは連日鳴りやまない電話と心無いクレームの矢面に立たされていた。 いくら小夜子や隼人が盾になろうとしても、限度がある。物理的な疲労と精神的な摩耗は確実に彼らの心を削り取っていたのだ。『このままじゃ本当に身が持たない。外資の傘下に入るのも悪くないんじゃないか』 生活の安定を求める切実な願いと、現状への疲労感が漂う。 その2つが結びつき、ロッカールームの空気を重く濁ったものに変えていった。 小夜子はドアの手前で立ち止まり、ぐっと奥歯を噛みしめた。(彼らの不安はよく分かる) 先日の騒ぎで、社員たちに負担をかけてしまった負い目がある。 小夜子と隼人は戦い抜く気持ちでいるが、社員たちはそれぞれの考えがあるだろう。 無理に踏み込んでも、彼らをさらに萎縮させるだけだ。今はただ、事態を静観するしかなかった。◇

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     画面の中で芝居がかった微笑みを浮かべる御子柴の顔を、小夜子は冷ややかに見つめた。 彼のような他者を数字や道具としか見ない人間にホテルを奪われれば、従業員たちはあっという間に使い捨てられるだろう。 テレビで公言した約束など、彼にとっては束縛にならないに違いない。 ふと、現在刑務所にいる父親の顔が脳裏をよぎった。 自分が継母から理不尽な労働を強いられ、罵倒されていても、ただ見て見ぬふりをしていた男だ。 父親は保身と自分の利益しか頭になく、家族すら守ろうとしなかった日和見主義を決め込んでいた。 御子柴と父はタイプこそ違う。 だが他者の人生や尊厳を全く省みないという意味で、同じ穴のむじなだった。(あんな無責任な人間に、私たちのサンクチュアリを渡すわけにはいきません) 小夜子の胸の奥で、静かだが強い怒りの火が燃え上がる。 今の彼女は、かつて白河家で虐げられていた無力な娘ではない。 愛する夫と共に、この場所を守り抜くという確固たる意志を持った総支配人だ。「この動画が、今朝からスタッフたちのスマホに次々と流れてきているようですね。皆が動揺するのも無理はありません」 小夜子は冷静な口調で隼人に告げた。「ああ。巧妙な世論誘導だ。圧倒的な資金力を誇示して、こちらの結束を崩しにかかっている。外から揺さぶりをかけて、内部の不満をあおる気だろう」 隼人も腕を組んだまま、険しい視線をモニターに向けていた。◇ その頃、ホテルの地下にある従業員用のロッカールームは、別の騒ぎに見舞われていた。(何かしら) 小夜子が状況を確認しようと近づくと、開け放たれたドアの隙間から声が漏れてくる。 出勤してきた清掃部門やレストランのスタッフたちが、金属製のロッカーを開けるなり次々と驚きの声を上げていた。「ちょっと、これ何」 女性スタッフの1人が、ロッカーの隙間から滑り落ちた1枚の紙を拾い上げた。 上質なコート紙にフルカラ

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     初夏の澄んだ青空とは対照的に、ホテル『サンクチュアリ』の従業員専用入り口は、朝から異様な空気に包み込まれていた。 出勤してくるスタッフたちは皆、片手にスマートフォンを握りしめて、数人ずつの輪を作って小声で話し込んでいる。 彼らの視線は画面に釘付けだ。時折、不安と興奮の入り交じったため息が漏れていた。「これ、本当かな。ちょっと信じられないんだけど……」「でも、ニュースで本人が言ってるんだから、嘘じゃないんじゃない?」「だとしたら、すごいことだよ。生活が全然変わってくる」 そんなヒソヒソ声が、あちこちから聞こえてくる。 黒崎小夜子は、仕立てのよいグレーのパンツスーツの裾をさばきながら通路を歩いていた。 歩きやすいローヒールのパンプスが、磨かれた床を規則正しいリズムの靴音を立てている。「おはようございます」 小夜子が声をかけると、スタッフたちはびくっと肩を跳ね上げた。慌ててスマホを背中に隠している。「あ、おはようございます、総支配人……」 彼らはそそくさと視線をそらすと、足早にロッカールームへと消えていく。 いつもなら「今朝は冷えますね」といった他愛のない会話が弾むはずなのに、冷ややかな隙間風が吹いているようだった。(みんな、様子がおかしいわね) 小夜子は足取りを速め、社長室へと向かった。◇ 社長室のドアを開けると、隼人が深刻な顔つきで大型モニターを見つめていた。「隼人さん、おはようございます。表のスタッフたちの様子が、どうも……」「ああ、小夜子。これを見てくれ」 隼人がモニターを示す。そこには、昨晩放送された経済ニュースの録画映像が流れていた。 画面の中央には、高級なダブルのスーツを着こなした御子柴が座っている。 自信に満ちた笑みを浮かべ、インタビュアーの質問に滑らかに答えていた。

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     2人きりになった社長室で、隼人は小夜子の肩に手を置いた。「小夜子。怖いか?」 彼女は首を横に振る。絹糸のような黒髪がさらさらと揺れた。「いいえ。隼人さんが隣にいてくれれば、怖いことなどありません。それに私には守らなければいけない家族が、たくさんいるから」 小夜子は、夫の手の上に自分の手を重ねた。 その手は家事と仕事で少し荒れている。だが今の彼女にとって、それは誇り高い勲章のようなものだった。「御子柴さんに見せてあげましょう。私たちが築き上げた、この『聖域』の強さを」 小夜子は体の内側から、静かな力が湧き上がってくるのを感じた。 それは厳しい環境で花開いた者だけが持つ、しなやかで折れない強靭さだ。 小夜子の脳裏にふと、懐かしい人々の面影が浮かんだ。 愛人の立場で小夜子を産みながらも、娘に愛情を注いでくれた母。 白河家で唯一、小夜子を慈しんでくれた執事の藤堂。 今の小夜子がいるのは、彼らのおかげでもある。 彼らの思いに応えるためにも、こんなところで負けるわけにはいかない。(お母さん、藤堂さん。見ていて。私が授かった知識と教養、そしてこの場所で得た絆の全てを使って、私たちは勝利してみせるわ) 窓の外では夕闇が迫りつつあった。 けれどホテルのロビーには煌々と明かりが灯り、従業員たちがそれぞれの持ち場で誇りを持って立ち働いている。 その光はどんな巨大資本の影をも跳ね返すほどに、強く明るく輝いていた。 全面戦争の火蓋は、今こそ切られたのだ。「戦いましょう、隼人さん」「ああ。徹底的にな。二度と起き上がれないよう、グラン・ヘリックスと御子柴を叩きのめしてやろうじゃないか」 2人は頷き合う。 黒崎小夜子の総支配人としての、1人の女性としての最大の試練が始まろうとしていた。◇ 小夜子は社長室を出ると、ロビーへと降りる階段の途中で足を止めた。 フロアでは、実加が客

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   343

    (私たちの聖域が……みんなの居場所が、壊される……) 小夜子は強く手を握りしめた。 隼人の方を向くと、彼はモニターを見つめたまま微動だにしなかった。 その表情は嵐の前の海のように静かで、深い。「黒崎社長、対抗策はどうしますか? ホワイトナイトを探しますか? 自社株買いでしょうか?」 翔吾が言う。 ホワイトナイトとは、買収防衛策の1つだ。 新たに友好的な買収者(ホワイトナイト)を見つけて協力し、買収もしくは合併する手法である。 ホワイトナイトにとっては想定外の買収になるので、資金繰りの問題が発生する。そう簡単には見つからないのが普通だ。 翔吾の言葉に隼人は首を横に振った。「……今のキャッシュフローでは、タイタン・キャピタルの物量作戦には太刀打ちできん。正面から買い増しを挑むのは下策だ」「じゃあ、指をくわえて見ていろと言うのですか!?」「そうは言っていない」 隼人は立ち上がると、窓の外に広がる東京の街並みを見下ろした。「御子柴は1つ大きな間違いを犯している。彼は『人間』を、ただのコストとしか見ていない。だがこのホテルを支えているのは、数字では測れない『信頼』という資産だ」 隼人が小夜子に向き直った。 その瞳には、絶望の影はない。「小夜子。これはビジネスという名の戦争だ。奴らは札束で人の心を買い叩こうとしている。だが、お前が育てたスタッフたちのプライドまで買えると思ったら大間違いだ。そうだろう?」 小夜子は隼人の言葉を聞いて、深く息を吸い込んだ。 肺の奥まで新しい空気が入り込み、混乱していた思考が少しずつ整っていく。(そうね。私は元々、捨てられた娘。何も持たずに白河家を出て、そこから一歩ずつ、自分の手で居場所を作ってきた。今更、お金で脅されたところでどうということもありません) 小夜子は一歩前に踏み出した。「隼人さん。私にできることを教えてください。総支配人として、

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