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73:思い出の香り

last update Tanggal publikasi: 2025-12-28 18:07:22

 午後6時、ホテル『サンクチュアリ』のメインダイニング『Nocturne(ノクターン)』。

 夜景を一望できるVIP用の個室は、重苦しい沈黙に包まれていた。

 テーブルには手つかずのオードブルが並んでいる。

 ローズベリー伯爵は、ソムリエが恭しく差し出した『シャトー・マルゴー』のグラスを指差し、吐き捨てるように言った。

「下げろ」

「は……? しかし閣下、こちらは当ホテルが誇る最高級のヴィンテージで……」

「ラベルを見ただけでわかる。それは、石油(オイル)の味がする」

 ソムリエが凍りついた。

「せ、石油……でございますか?」

「そうだ。金、権力、効率……資本主義の臭い脂の味だ。私の乾いた喉を潤すものではない」

 理不尽な難癖である。だがその言葉の裏には、悲痛な響きがあった。

 ソムリエはそれに気づかない。

 ローズ

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   324

     フロントカウンターの奥で、翔吾の思考が異常を知らせる警報音を鳴らしていた。 ヒョウ柄の服が視界の端に映る。安っぽい香水の匂いがする。 記憶の底に蓋をしていた、思い出したくない記憶がフラッシュバックした。『アンタなんか、産むんじゃなかった』 幼い頃、自分を置いて出て行った母親の言葉だ。 そうして預けられた父親の家で、翔吾はずっと肩身の狭い思いをしながら暮らしてきた。 辛い記憶の原点が迫ってくるようで、翔吾は思わず息を詰めた。 自分の浅い呼吸音だけが、耳元でやけに大きく響ようだ。 真澄はカウンターの方へずかずかと歩み寄り、翔吾の顔を見つけると下劣な笑みを浮かべた。「あら、こんな所にいたのね。立派なスーツまで着せてもらって。育ててやった母親が苦しんでるってのに、自分だけいい思いするなんて薄情な息子よねぇ」 金を無心しに来たことは明白だった。 彼女の瞳には、息子への愛情などこれっぽっちもない。あるのは、金づるを見つけた歓喜だけだ。 この女はいつもそうなのだ。 翔吾はカウンターに手をつき、肺に酸素を送り込む。(僕は……アーク・リゾーツの社員だ。私情を挟むな。システムを正常に稼働させろ) まばたきを一つする。 次に目を開けた時、翔吾の顔からは一切の感情が消え去っていた。 ネクタイの結び目をきつく締め直し、真澄の前に進み出る。「お客様、他の方のご迷惑になります。恐れ入りますが、お引き取りください」 氷のように冷たい声だった。 息子としての情も、過去のトラウマに怯える姿もない。 ただ、ホテルの秩序を守る完璧なホテルマンだけが存在していた。◇ 同じ頃、バックヤードからロビーへ駆けつけた実加は、その光景に息を呑んだ。(そんな、あいつは……!) ジャージ姿の男、健太がいる。 彼の背中を視界に捉

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   323

     一方、上層階の客室清掃フロアで。 山内実加は、パリッと糊の効いたシーツをベッドに広げていた。 ファサッ――という清潔感のある音が、室内に響いた。 マットレスの端にシーツを折り込み、シワ一つない状態に仕上げていく。 額には薄っすらと汗がにじんでいた。 清掃用のワゴンには、洗剤のボトルや大量のタオルが積まれている。「ねえ、やっぱりあの記事のこと、本当らしいわよ」 開け放たれたドアの外、廊下からヒソヒソ声が耳に入ってきた。 年配のパート従業員たちだ。「元ヤンなんでしょ? よく平気な顔して働けるわよね」「お客様の持ち物がなくなったりしたら、一番に疑われるのはあの子よ」「それに、子供を保育所に預けっぱなしって。本当に育児放棄じゃないの?」 言葉が実加の背中に次々と突き刺さる。 実加はシーツを掴む手に力を込めた。(上等だ。言いたい奴には言わせておけ) 腹の底で熱いものが煮えたぎる。 特攻服を着ていた頃なら、廊下に飛び出して胸ぐらを掴んでいた。 だが、今の自分はサンクチュアリの正社員を目指している。 何より、一つの命を預かる母親だ。 脳裏に、今朝の理玖の姿が浮かぶ。小さい手足を動かして、ハイハイで実加へ向かって来た。(あの笑顔を守るためなら、他人が何を言ったって平気だ) 実加は深く息を吸い込んだ。洗剤の匂いが胸を満たす。(今は、てめえの仕事をやり遂げることだけを考える。それ以外は全部後回しだ) そう考えて、無心で手を動かした。「よし、次だ」 独り言のように呟く。ベッドメイキングを終えるとバスルームの清掃へ向かった。◇ チェックインのピーク時間が近づくと、ロビーには徐々に客の姿が増え始めていた。 荷物を運ぶベルボーイの足音と、控えめなピアノのBGMが響いている。 洗練されたサンクチュアリの日常が戻り

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     ホテル・サンクチュアリの受付ロビー。大理石のカウンターに、ルームキーが放り出された。 カシャン、と硬質な音がする。丁寧とは程遠い音だ。 黒崎翔吾はすぐに口角の角度を調整し、完璧な営業スマイルを作った。「ご滞在は、いかがでしたでしょうか」「……不愉快極まりないわ。さっさと手続きを済ませてちょうだい」 初老の女性客は翔吾の顔を見ようともしない。 手には高級ブランドのバッグが握られているが、視線は明後日の方向を向いたままだった。「かしこまりました。この度はご利用ありがとうございました」 翔吾は手元の端末を操作し、流れるような動作で明細書を印刷する。(想定内だ。ネット上のノイズが現実の顧客行動に影響を与える確率は、すでに計算済みだ) 心の中で繰り返す。 自身の思考システムに新たな要素を組み込むように、何度も言い聞かせた。 周囲には冷ややかな視線が満ちている。 あからさまに翔吾の担当を避ける素振りも少なくない。 昨日の朝から、ロビーの空気は一変していた。 週刊誌が書き立てたスキャンダルの中心にいるのは、翔吾だ。 兄である隼人の完璧な経歴に、アーク・リゾーツというブランドに、消えない汚れを付けてしまった。(せっかく隼人兄さんに認めてもらえたのに。居場所を見つけて、これからという時に。僕のせいで……) 胸の奥に、鉛のように重い罪悪感が沈んでいる。 だが、隼人と小夜子は『業務継続』という決断を下した。 ここで翔吾が感情に呑まれ、ホテルマンとしての振る舞いを崩すことは、2人の判断を裏切ることになる。 だから彼は、歯を食いしばってカウンターに立っている。 本当は逃げ出したくてたまらなかった。 自分が冷たい目で見られるだけならいい。だがそのせいで兄と小夜子に迷惑がかかるのが心苦しい。 今すぐにここを立ち去って、これ以上の醜態を晒さないようにしたい。 けれど

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   321

     部屋の中がしんと静まり返る。 小夜子の目は、少しも揺らいでいなかった。「翔吾さんも実加さんも、過去を乗り越え、せせらぎ亭の現場で苦労の末に実績を残しました。彼らは私たちの誇りある社員です。根拠のない誹謗中傷で彼らを隔離すれば、それは御子柴の思惑通りに、私たちの理念が敗北したことを意味します」 小夜子の眼差しが、デスクの奥の隼人を正面から射抜く。 隼人はゆっくりと腕を解き、小さく息を吐いた。鋭い眼光で役員たちを見回す。「小夜子総支配人の言う通りだ。翔吾と実加の業務は、このまま継続させる。我々が守るべきはネット上の無責任な世論ではなく、現場で汗を流す社員の尊厳だからな」「し、しかし社長……!」「俺自身も問題のある母を持ち、機能不全の家庭で育った。だが今では、こうしてアーク・リゾーツ社の社長を務めている。何か文句があるか?」 隼人の眼光に役員たちは押し黙った。「クレーム対応はフロントと広報でマニュアル化し、粛々と処理しろ。以上だ」 隼人の有無を言わせぬ決断に、役員たちは反論の言葉を失って従うしかなかった。◇ グラン・ヘリックス日本支社の社長室は、白とグレーだけで統一された、人間の体温を一切感じさせない無機質な空間だ。 部屋の主自らがデザインを手掛けた、完璧だけれど冷たさに満ちた部屋だった。 御子柴玲二は最高級の革張りチェアに深く腰掛けて、デスクの上の大型モニターを眺めていた。 映し出されているのは、急落を続けるアーク・リゾーツの株価チャートだ。「……素晴らしい暴落だ」 御子柴の薄い唇が、三日月の形に歪む。 手元のグラスに入った氷を揺らすと、カランと冷たい音が響いた。 SNSでの大炎上と、メディアの過熱報道。 すべてが彼の計算通り。いや、大衆の持つ下世話な好奇心と悪意は、予想以上の成果を上げている。「社長。記事の反響は絶大です。サンクチュアリのキャン

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   320

    (僕が兄さんの足を引っ張っている) 罪悪感が、冷たい水のように肺を満たしていく。 せせらぎ亭で得た充実感も、新しいシステムへの手応えも、すべてが色褪せて見えた。  息をするのが苦しい。翔吾はキーボードから手を離し、固く目を閉じた。◇ アーク・リゾーツ本社の最上階、社長室。 空気は完全に凍りついていた。  黒崎隼人は、重厚な造りの執務机の奥で、腕を組んだまま険しい表情を崩さない。  周囲を取り囲む役員たちは、手元の資料やタブレット端末を握りしめて、口々に叫んだ。  彼らの声には焦燥感がにじんでいる。「社長! 現在、SNSの公式アカウントには誹謗中傷が殺到し、炎上状態です。株価も午前の段階で大幅に下落しており、このままではブランドイメージが崩壊します!」「直ちに黒崎翔吾氏と山内実加氏を現場から外すべきです。メディアに対しても、2人の処分を明確にする釈明会見を開く必要があります」 悲痛な訴えが交差する。  役員たちが2人の排斥を訴える中、よく通る凛とした声が場を制した。「お待ちください」 声の主は、アーク・リゾーツの総支配人である小夜子だった。  洗練されたネイビーのパンツスーツに身を包み、足元には黒のピンヒール。  隙のない完璧な装いの彼女が、役員たちの前に進み出る。「この記事の出所は、グラン・ヘリックスの御子柴玲二で間違いないでしょう。彼のやり口は常に卑劣です。これは単なるスキャンダルではありません。アーク・リゾーツが掲げる『人材登用の理念』への、直接的かつ悪意ある攻撃です」 小夜子の言葉に、年配の役員が眉をひそめた。「しかし、世間はそうは受け取りません! 現に顧客は離れているんだ!」「皆様。かつて、私の過去が週刊誌に暴露された時のことを思い出してください」 小夜子の言葉に、役員たちがハッと息を呑む。 愛人の子として生まれ、本家で虐げられ、まるでモノのように隼人の元へ契約結婚の道具として

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   319

     一方、客室清掃のフロアでは。  実加が大量のタオルを積んだリネンカートを押して歩いていると、リネン室の前で固まっていた年配のパート従業員たちの声が嫌でも耳に飛び込んできた。「見た? あの記事。山内さんのこと」「ええ。やっぱり、元ヤンなんて雇うべきじゃないのよ。ホテルの品位が下がるわ」「手癖が悪いに決まってるわ。お客様の部屋で盗みでも働いたらどうするの」「それに、子供をほったらかしにしてるんでしょ? 私ならあんな働き方、絶対にしないわ」 言葉が刃となって実加の背中に次々と突き刺さる。 カートの持ち手を握る手に力がこもった。  以前の彼女なら、振り返って凄み、文句があるなら直接言えと怒鳴り散らしていただろう。 だが、今の彼女はサンクチュアリのホテルマンだ。  ここで怒りを露わにすれば、記事の内容を自ら証明することになってしまう。(耐えろ。ウチは変わったんだ。あんな記事に負けねえ) 実加は制服のスカートをきつく掴み、前だけを見て歩みを進めた。 しかし悪意は社内だけに留まらなかった。  ロビーの喧騒の中、1人の恰幅の良い中年の男性客が、チェックアウトのカウンター越しに声を荒げていた。「責任者を呼べ! あんな記事が出ているホテルに、大切な取引先を泊められるか!」 たまたま近くを通りかかった実加が、足早にカウンターへ向かう。「お客様、どうされましたでしょうか」「お前……記事に出てた女か! 元ヤンの清掃員なんて不潔極まりない! 今後の予約、全部キャンセルしてくれ!」 実加の肩がピクリと跳ねた。腹の底から、理不尽に対する熱いものが込み上げてくる。  実加は深く頭を下げた。「お客様、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」「不快どころじゃない! 従業員の教育もまともにできていない掃き溜めホテルじゃないか! 黒崎社長の顔に泥を塗るような真似をしおって!」 心無い言葉が次々と投げつけられる。喉の奥がカラカラに乾いていた。  そ

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    last updateTerakhir Diperbarui : 2026-03-23
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   69

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    last updateTerakhir Diperbarui : 2026-03-22
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   86

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     ホテル『サンクチュアリ』の最上階、VIP用スイートルーム。革張りのローテーブルの中央で、ICレコーダーの赤いランプが点滅を始めた。チカ、チカ、と規則正しく刻まれるリズムは、まるで時限爆弾のカウントダウンのようだ。「では、始めましょうか」 ジャーナリスト・高橋マキが足を組み、手元のメモ帳を開く。  向かいのソファに座る隼人は、石像のように硬直していた。顔色は蒼白で、膝の上で組んだ指は血の気が引いて白くなっている。過去のトラウマであるマスコミへの恐怖と小夜子が何を口走るか分からない不安で、呼吸さえ浅くなっているようだ。  小夜子は、あえて

    last updateTerakhir Diperbarui : 2026-03-23
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