ログイン「社長、お疲れ様です」
「奥様もごきげんよう」
女子社員たちのヒソヒソ話が、隼人の優れた聴覚に届いてしまう。
「社長、あんな怖い顔して奥さんのこと大好きなんだって」
「ギャップ萌えよね、尊い」
「メンテナンスって何かしら、キャッ」
隼人は居心地が悪そうにネクタイを緩めた。額に脂汗がにじんでいる。
「……やりづらい。全員、目が腐ってるんじゃないか」
「そうですか? 皆様、とても良い表情で働いておられますが」
実際、社内の雰囲気は劇的に改善していた。トップへの恐怖心が「愛すべき人間味」への親近感に変わったことで、風通しが良くなっていたのだ。
◇ 夜、帰りの車内。運転手が車を走らせる中、後部座席には重い沈黙が流れていた。 隼人は疲れ切っていた。恐怖の対象から愛すべきツンデレキャラへと変貌させられた精神的ダメージは、激務よりも彼を消耗させていた。「……お前のおかげで、俺の『冷徹
投資ファンドの担当者たちが驚きの表情を浮かべている。手元のノートパソコンで慌ただしくキーボードを叩き始めた。 彼らの電卓が弾き出した独自の試算結果が、翔吾の論理の正しさを証明しているのだろう。「……彼の言う通りだ。3年後のキャッシュフロー予測は、サンクチュアリの方式の方が圧倒的に手堅い」「ブランド価値の毀損リスクを考えれば、グラン・ヘリックスの案はリスクが高すぎる」 プロの投資家たちの間にも、明らかに考えの変化が起きていた。 会場の空気が、完全にアーク・リゾーツ側へと傾いたのを感じる。 後方の見学席から、小さいが力強い声が聞こえてきた。「いけ、メガネ! その調子だ! やっちまえ!」 実加だ。 彼女は立ち上がりこそしないものの、両手で小さなガッツポーズを作り、満面の笑みで翔吾を応援している。(実加さん……) 小夜子はそっと口元をほころばせた。 彼女の乱暴な口調も、今はただ頼もしい。 あの小さな応援が、サンクチュアリ全体を支えるスタッフたちの声そのものに聞こえた。 翔吾は眼鏡を指で押し上げると、最後に深く一礼した。「真の利益とは何か。皆様の賢明なご判断に委ねます。ご清聴、ありがとうございました」 翔吾が降壇すると、ホール全体から大きな拍手が巻き起こった。 御子柴の時のような、派手な演出に対する熱狂的なものではない。 深く納得して論理の正しさを称賛する、確かな手応えのある拍手だった。「すごいな、あのデータ。完全に論破したぞ」「やっぱり、ホテルは安心できる場所じゃないとな」「正直、感情論をぶつけられても聞く気はなかったんだが。見事な数字の理論じゃないか」 株主たちの表情は明るく、疑心暗鬼の霧はすっかり晴れている。「……チッ」 御子柴は役員席で顔をしかめ、忌々しげに舌打ちをした。 彼の描いた「冷徹な数字の魔法」は、翔吾の「より精密で長期的なロジック」の前に脆くも崩れ去ったのだ。 小夜子は、ネ
翔吾の声は決して荒げられることなく、淡々としている。 けれど確かな説得力を持ってホールに響いていた。 翔吾はさらにタブレットを操作し、新たなグラフをスクリーンに投射した。 青い線が右肩上がりに伸びるグラフだ。「皆様にご注目いただきたいのは、顧客生涯価値、いわゆるLTV(Life Time Value)です」 聞き慣れない専門用語に、個人株主たちが首を傾げた。 翔吾は軽く頷いて説明を付け加える。「LTVとは、1人の顧客が一生涯の間に、企業にもたらす利益の総額を指します。ホテルビジネスにおいて、このLTVを高めることこそが、最も重要かつ持続可能な利益追求の方法です」 翔吾は会場全体を見渡しながら言葉を継ぐ。「グラン・ヘリックス様のプランは、短期的なコストカットで一時的な配当を生むかもしれません。しかし、極端な効率化で顧客満足度を落とせば、リピーターは消滅します。こちらのシミュレーションをご覧ください。新規顧客の獲得コストは、既存顧客を維持するコストの5倍かかると言われています。顧客離れが起きれば3年後には広告宣伝費が膨れ上がり、キャッシュフローは確実に悪化します。目先の配当に目がくらみ、数年後のホテル倒産リスクを背負うのは、株主の皆様ご自身なのです」 画面上で、グラン・ヘリックスの利益予測グラフが3年目から急降下していく。 対照的に、サンクチュアリの現在のデータが表示された。むしろ利益率は上昇している。「我々サンクチュアリは、従業員と共に培ってきたホスピタリティにより、業界でもトップクラスのリピート率を誇ります。スタッフ一人ひとりがお客様のお顔と好みを記憶し、心を通わせるサービスを提供しているからです。これが強固なリピーター層を構築し、過剰な宣伝費をかけずとも安定した稼働率を維持する力となっています」 翔吾の言葉に合わせて、個人株主の席から同意の声が漏れる。「確かに、サンクチュアリに行くといつも名前を呼んでくれるんだよね」「あそこのオムレツの味は最高だ。スタッフの気配りも心地よいし」「毎年家族で行くのが楽しみなんだよ」
翔吾が手元のタブレットを操作すると、スクリーンに全く別のデータが映し出された。「アーク・リゾーツの黒崎翔吾です。グラン・ヘリックス様の素晴らしいプレゼンテーションを拝見いたしました。しかし、そのバラ色のプランには、致命的な欠陥が潜んでいます」 会場が再びざわめいた。「欠陥だと? 完璧なシミュレーションに見えたが」「負け惜しみじゃないのか? 自社の乗っ取りは、そりゃあされたくないだろうから」 年配の株主が怪訝そうな声を上げる。 翔吾は動じない。「では、こちらをご覧ください」 彼はスクリーンに、グラン・ヘリックスが過去3年間に買収した6つのホテルの追跡調査データを表示させた。 実加たちの協力も得て集めた、生々しい証拠だ。「御子柴氏が提示した利益予測は、あくまで『サービスレベルが維持された場合』の架空の数字に過ぎません。このデータをご覧ください。グラン・ヘリックス様が買収したホテルでは、例外なく、半年以内に大規模なリストラが強行されています。なんと、従業員の約8割が解雇、または自主退職に追い込まれているのです」 スクリーンの赤い折れ線グラフが、買収後半年を境に急降下している。「AIシステムの導入による効率化と言えば聞こえは良いですが、実態は違います。残された2割のスタッフに到底達成不可能なノルマを課し、過酷な労働を強いているだけです。現場は疲弊し、当然のことながら、サービスの質は著しく低下します。これは経営の合理化などではありません。単なる労働環境の破壊です」 画面には買収されたホテルの元従業員や、宿泊客からのクレームの口コミが次々と表示されていく。『清掃が行き届いておらず、ホコリだらけだった』『スタッフの態度が冷たく、事務的すぎる』『昔の温かい雰囲気が消えた。二度と泊まりたくない』 辛辣な言葉の数々に、会場の空気が冷や水を浴びせられたように変化した。「8割のリストラ……? いくらなんでもやりすぎじゃないか」「いくら効率化といっても、現場が回らないだろ、それでは」
スクリーンのスライドが切り替わり、AI導入による業務効率化のシミュレーションが表示された。 右肩上がりの鮮やかなグラフだ。 御子柴は自信たっぷりの表情で、淀みなく説明を始めた。「我々グラン・ヘリックスは、最新のAIシステムを導入します。チェックインからルームサービス、清掃のシフト管理に至るまで、あらゆる業務をデータ化し、極限までコストをカットします。これにより、営業利益率は現在の2倍に跳ね上がります。当然、その利益は配当として皆様に還元いたします。感情論を排し合理性を追求することこそが、企業の本来のあり方。株主の皆様の資産を守る唯一の道なのです」 明確な数字と論理的なプレゼンテーションに、会場のあちこちから感嘆の声が漏れ始めた。「なるほど、AIで人件費を半減させれば、確かに利益率は上がるな」「今期の配当予測がこんなに高いとは。グラン・ヘリックスの言う通りだ」「感情論じゃ飯は食えないからね。やっぱり数字を出せる経営陣じゃないと」 中小の株主たちが囁き合う声が、小夜子の耳にも届く。 投資ファンドのスーツ姿の男たちも、ノートパソコンの画面を見つめながら深くうなずいていた。 小夜子は手元のペンを握り直した。プラスチックの冷たい感触が、指先から伝わってくる。 御子柴の言う「効率化」の裏にある冷酷な真実を、彼女は知っている。 人の温もりを排除し、スタッフをただの歯車として使い捨てる手法だ。 数字の辻褄を合わせるために、ホテルが本来持つべき「おもてなしの心」を完全に切り捨てる。(大丈夫。彼がどれほど耳触りのいい言葉を並べ立てても、私たちの手には、真実を示す武器があります) 小夜子は隣に座る翔吾、さらにその隣の隼人へと目配せをした。隼人が力強く頷き返す。「皆様、古い体制に固執するのはやめましょう。我々と共に、新しい時代の、真に利益を生むホテルを作り上げようではありませんか」 御子柴が両手を広げてアピールを終えると、会場からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。 拍手が収まるのを待ち、アーク・リゾーツ側の答弁の
その日、都内の大型ホールは、開演前から異様な熱気に包まれていた。 空調がフル稼働しているにもかかわらず、スーツ姿の株主たちが放つ熱気が室温を押し上げている。 何百人もの視線が前方のステージに集中していた。 これからアーク・リゾーツの臨時株主総会が行われる。 事実上の委任状争奪戦の決戦の場だ。 最前列の役員席には、小夜子、隼人、翔吾が並んで座っている。 翔吾は役員ではないが、今日は重要な役割を担っているためその場所に控えていた。 小夜子はチャコールグレーのテーラードジャケットの襟元を正した。 アイボリーのシルクブラウスが首元に触れて、滑らかな生地の感触が肌に感じられる。 同色のタイトスカートに包まれた膝の上で、彼女は両手をきゅっと重ね合わせた。 後方の見学席には、実加をはじめとするサンクチュアリの従業員たちも陣取っている。 誰もが興奮と不安が入り混じったような顔をしていた。 実加のメッシュが入った髪が、落ち着かない様子で揺れているのが見えた。 と。 定刻を知らせるブザーが大きく鳴り響いた。 会場のざわめきが一瞬で止んで、静寂が落ちた。 ブザーの音が止まると、ステージの袖から、グラン・ヘリックスの日本支社長である御子柴が姿を現した。 仕立ての良いダークスーツに身を包み、自信に満ちた足取りで中央のマイクスタンドへと向かう。 大型スクリーンには、グラン・ヘリックスのロゴと洗練されたグラフが映し出された。 投資ファンドを通して、グラン・ヘリックスは既に相当数の株式を取得している。 筆頭株主としてこの場を取り仕切るつもりだった。「株主の皆様。本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。グラン・ヘリックス日本支社長の御子柴です」 御子柴のよく通る声が、スピーカーを通じてホール全体に響き渡る。「皆様は、ホテル経営において何が最も重要だとお考えでしょうか。伝統でしょうか。それとも、従業員の笑顔でしょうか。私は断言します。それは『冷徹な数字に
翔吾も続ける。「個人株主の方々は、次々と我々への委任状にサインをしてくださったんです。今日1日で、目標数を大きく上回る委任状を回収できました。個人株主の皆様は、サンクチュアリのホスピタリティを何よりも評価してくれています」 デスクの上に委任状の束が積まれていく。 小夜子と隼人が予想していたよりもずっと多い、紙の山だった。 それは単なる紙切れではない。サンクチュアリが長年培ってきた、お客様との信頼と絆の結晶だった。 1つひとつは小さな力でも、こうして束ねれば大きくなる。「実加さん、翔吾さん……本当に、ありがとうございます」 小夜子は委任状の束にそっと手を触れた。 紙の感触が、心地よい重みとなって手のひらに伝わってくる。「ウチは手紙を渡しただけですよ。お客さんたち、みんな言ってました。『また絶対泊まりに行くから、今のままのホテルを残してね』って」 実加が照れくさそうに笑う。「それに、現場のみんなも手分けしてお客様を回ってくれていますから。明日になれば、もっとたくさんの委任状が届くはずッス」「それは楽しみです」「……小夜子。ニュースを見たか」 隼人がスマートフォンを手に、小夜子の顔を見た。「ミレーヌ女史のインタビュー動画のことですね。拝見しましたわ」「ああ。あのMが、表立って俺たちの運営を支持してくれた。これに乗じて、投資ファンドの連中も態度を軟化させ始めている。風向きが変わったぞ」 隼人の声には、確かな熱がこもっていた。 小夜子は隼人を見つめ返し、力強くうなずく。 ミレーヌという強力な援護射撃があった。実加たちが足で稼いでくれた個人株主たちの支持もある。 絶望的にも見えた委任状争奪戦に、明確な勝機が見え始めたのだ。「皆様の思いが形になり始めています。これでようやく、対等な土俵で戦えます」 小夜子はネクタイを緩めた隼人と、汗を拭う翔吾、笑顔の実加を順番に見渡した。 1