Mag-log inタン、タン、タンッ!
名護陸上競技場のメイントラックに、激しい摩擦音が、絶え間なく響いていた。
五月の強い日差しを受け、赤いウレタンの走路に、陽炎が立っていた。三レーンの直線を走る二人の男の影が、猛烈な勢いでトラックを切り裂いていた。
右側には、蛍光オレンジ色のガイドランナーのベストを着た高瀬直人。左側には、公認の遮光アイマスクを着けた神崎蓮。
手首にかけたテザーの輪は、しっかりと固定されていた。全長は三十センチ、中央の接続部分は十センチ以上。伸縮しない紐を引っ張らないよう、二人で歩幅をそろえた。
「蓮、いいステップだ! 50メートルの加速区間に入るぞ! 腕振りのピッチを保て!」
直人の太い声が、耳にぶつかる向かい風を貫いて届いた。
直人は、100メートル10秒42を記録した、元日本代表のス
沖縄合宿を終え、西都体育大へ戻ってきた。試合を翌日に控えた六月十一日、用具室の机には、三種類の道具が、きちんと並べられていた。一つ目は、アイマスクと遮光用のアイパッチだった。顔に密着させたとき、光が漏れないかを確かめ、試合当日、招集所でもう一度検査を受ける用具だ。二つ目は、両端の輪を含めた全長が三十センチの、伸縮しないテザー。輪やストッパーが緩まないこと、中央の接続部分が十センチ以上あることを、改めて確認した。三つ目は、蓮のレース用スパイクだった。ピンの長さと摩耗を確認し、試合で使えるシューズかどうか、担当者に確かめてもらったうえで、用意してあった。蓮は指先で、ゴーグルの縁と、テザーの輪に触れた。自分では確かめられないところは、直人に尋ねた。直人は指が触れた順に、確認したことを伝えてくれた。「事前点検、異常なし。テザーの状態は問題ないし、ゴーグルも光は漏れない。明日の朝九時に、会場でもう一度、検査してもらえばいい」ガイド用ベストの面ファスナーを整えていた直人が、テーブルを軽く叩き、にっと笑った。「蓮、タブレットをつけてある。協会の登録内容、最後に確認してくれ」蓮がタブレットの画面に触れると、視覚障害者用の画面読み上げ機能、TTSの落ち着いた機械音声が、部屋の静けさを破って響いた。【日本パラ陸上競技連盟、公認選手登録情報。所属、西都体育大学陸上部。氏名、神崎蓮。クラス、T11。種目、男子100メートル。公認ガイドランナー、高瀬直人】蓮の指が、画面の上で、静かに止まった。自己ベスト10秒23。障害のない日本代表として、走っていたころの記録。そんな華やかで、傲慢さを含んだ肩書が消えたあとに、ただ、『T11選手、神崎蓮』という名前が刻まれていた。
「蓮、止まれ! 止まれ!」ピイィッ!森川コーチの鋭い笛が、トラックの静けさを、激しく切り裂いた。35メートルの加速区間。直人より手の幅の半分ほど先へ飛び出していた蓮の右足が、ウレタンの地面を踏み損ねた。強く張ったテザーの反動で、上体が急激に左へ傾いた。「くっ……!」体がよろめき、走路の内側へ転倒しかけた。隣から猛烈な速さで追いついた直人が、肩ごと身を投げ出し、蓮の腰をつかんだ。ドンッ、ザアッ!二人のスパイクが赤いウレタンを削り、長く滑った。トラック脇の芝生へ転がり落ち、土埃がもうもうと舞い上がった。「はあ、はっ……蓮、足首! 足首は大丈夫か!?」直人は息を荒らし、真っ先に蓮の右脚を、慌ただしく確かめた。蓮は芝生に大の字になり、激しく息をついた。ずれた遮光アイマスクから、まぶしい五月の日差しが、曖昧な瞳へ降り注いだ。幸い、柔らかな芝生へ転がったため、関節をひねりはしなかった。だが、右の太腿の内側、内転筋が、強くこわばっていた。「……大丈夫だ。足首は、ひねってない」「お前、いい加減にしろ! 死ぬ気かよ!」直人が怒鳴った。いつも飄々と笑う顔が、険しく歪んでいた。「スタートするとき、何て言った? 俺の呼吸を聞いて、三歩までピッチを合わせろって言っただろ! 昔、一人で走ってた癖を捨てずに、勝手に飛び出されたら、俺はどうすればいいんだよ。俺は、お前の尻を追っかける犬じゃないぞ!」言い終わると、直人は
タン、タン、タンッ!名護陸上競技場のメイントラックに、激しい摩擦音が、絶え間なく響いていた。五月の強い日差しを受け、赤いウレタンの走路に、陽炎が立っていた。三レーンの直線を走る二人の男の影が、猛烈な勢いでトラックを切り裂いていた。右側には、蛍光オレンジ色のガイドランナーのベストを着た高瀬直人。左側には、公認の遮光アイマスクを着けた神崎蓮。手首にかけたテザーの輪は、しっかりと固定されていた。全長は三十センチ、中央の接続部分は十センチ以上。伸縮しない紐を引っ張らないよう、二人で歩幅をそろえた。「蓮、いいステップだ! 50メートルの加速区間に入るぞ! 腕振りのピッチを保て!」直人の太い声が、耳にぶつかる向かい風を貫いて届いた。直人は、100メートル10秒42を記録した、元日本代表のスプリンターだった。蓮の前に出て引くことも、後れを取って足を引っ張ることもない。ただ蓮の歩幅と、筋肉の伸び縮みの周期に合わせ、鏡のように正確な動きで走っていた。タンッ!フィニッシュを通過し、二人はゆっくりと減速した。直人はストップウォッチを止め、息を弾ませた。「ふう……11秒42。昨日より0.06秒縮めた。ブロックへの反応も、0.14秒台ですっかり安定したな」だが、遮光アイマスクを上げた蓮の表情は、暗かった。汗で濡れた黒髪の下、顎がこわばっていた。荒い息に胸が大きく上下している。その目には、濃い焦りが宿っていた。「後半、80メートルのあたりで……ピッチが落ちた」「おい、蓮。ここへ来て、実
朝七時半。沖縄、名護の合宿の選手食堂。合宿に参加した各大学の陸上部と、実業団の選手たちで、食堂は朝早くからにぎわっていた。配膳台の焼きたての牛ヒレステーキと目玉焼きから、湯気が上がる。その隣には、新鮮なフルーツサラダが並んでいた。トレーを持ってテーブルの隅に座った千紗は、箸でサラダをつつきながら、何度も咳払いをこらえていた。向かいに座る、蓮のせいだった。いつもどおり黒い練習着に、濃いサングラス。きちんとした姿勢で座っている。近くのテーブルの他大学の選手が、目を合わせることすらためらい、「やっぱり西都体育大の神崎先輩は、迫力が違うな」とささやくほど、看板選手らしい冷たい威圧感は、そのままだった。けれど、テーブルの上で起きていることは、正反対だった。蓮は、自分のトレーの卵をやると言った。千紗が皿を近づけると、指先で場所を確かめ、目玉焼きを一つ、慎重に移した。ことり。「先輩……?」千紗が目を丸くすると、蓮は咳払いをし、何でもないようにささやいた。「たんぱく質、補給しろ。今日の午前は、インターバルがきついんだろ」「私、もう二個もらってますけど?」「じゃあ、腹が減ったら食べろ。無理に食べさせたいわけじゃなくて……お前の好きな半熟だったから」そっけない口調とは裏腹に、サングラスの向こうの耳は、真っ赤だった。しかも、指先で確かめながらリンゴの皮をきれいにむき、千紗の皿の端へ、そっと差し入れた。隣で見ていた直人が、ぽかんと口を開けた。スプーンに載っていたチャーハンが、ぽとりと落ちた。
軒先を伝う大粒の雫が、少しずつ細くなり、やがて、ぽつ、ぽつと途切れた。名護の夏のにわか雨は、あれほど激しかったのが嘘のように、素早く夜空の向こうへ去っていった。雨に洗われた夜の空気に、濃い土の匂いと、しょっぱい潮の香りが、ひときわはっきりと立ち上った。濡れたアスファルトには、木製の街灯の光が、長くにじんでいた。軒下に寄り添って立つ二人の息は、まだ弾んでいた。蓮の親指は、千紗の額のあたりに触れたままだった。雨粒をそっと拭っていた手が、耳元をかすめ、細い顎の線へ、ゆっくり滑り下りた。スプリンターらしい硬いまめのある、大きな手のひら。その手が肌に触れた瞬間、千紗は全身を走る甘い痺れに、深く息を吸い込んだ。「雨……すっかり、やみましたね」小さくささやいた。雨音が消えると、胸の中の騒がしい鼓動が、そのまま蓮に聞こえてしまいそうで、顔が熱くなった。蓮は手を引かず、低く落ちた声で尋ねた。「もう少しだけ……歩いてから、帰ろうか」「はい」二人は軒下を出て、しっとりと濡れた海沿いの遊歩道へ歩いた。海の上の黒い雲が切れ、銀色の月明かりが、水平線いっぱいに砕けていた。波が寄せるたび、砂州に残る雨粒が、宝石のようにきらめいた。蓮は片手で杖を突き、もう片方の手を、千紗へ差し出した。握りやすいように、少し指を開いた。千紗は、濡れた道に段差があるときだけ、短く伝えた。それ以外は、言葉もなく歩いた。道を教えるためにつないだ手ではなかったが、必要なことまで黙っているわけではなかった。
夜九時の、名護の海沿いの遊歩道は、人もまばらだった。ざあっ、ざあっ。黒い玄武岩の磯を、優しくなめては引いていく。夜の海の波音が、静けさを満たしていた。潮の匂いとともに吹く夜風が、昼の練習で熱を持った大地を、涼しく冷ましてくれた。宿舎の部屋を出る前、同室の美咲がベッドから跳ね起きた。千紗のジップアップパーカーの襟を払い、念を押した。「ねえ、千紗。神崎先輩に夜の散歩に誘われたのに、まさか、いつもの三本線のサンダルをつっかけて出るつもりじゃないよね? お願いだから、かわいい白いスニーカーにしなよ。今日の二人、絶対いい雰囲気になるって!」「美咲、ただの散歩だってば」「どこが、ただの散歩よ! 西都体育大でいちばん隙のない男が、夜の海を歩こうって言ってるんだよ? 普通の散歩なわけないでしょ。応援してるよ、うちのチャンピオン!」美咲のからかうような見送りを背に、出てきた千紗は、遊歩道の入り口の木製の街灯の下にいた。地面の貝殻を、つま先で軽く転がしていた。従兄で代理人の隼人は身柄を拘束され、黒田監督も、もう二人の練習を左右できない。すべての手続きが終わったわけではないが、今夜くらいは、あの二人からの連絡を待ち、携帯電話を握り締めている必要はなかった。ただ、互いにだけ向き合えるようになった、初めての夜だった。こつ、こつ。砂粒の混じる舗道を突く、硬い杖の音が聞こえてきた。千紗は顔を上げた。街灯の明かりの中を、蓮が歩いてきた。練習用のサングラスを外し、ゆったりした濃いグレーのスウェットに、トレーニングパンツをはいていた。乱れた黒髪のあいだからのぞく額と、深い黒褐色の瞳が、街灯の