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第23話

Auteur: ポンコツ書虫
あの夜、すべては悠璃の心を揺さぶる衝撃で幕を閉じた。

彼女はようやく気づいたのだった。なぜあの日、自分が「取引」と軽く口にしただけで、浜市の相澤家の唯一の後継者――相澤啓司が、あれほどまでに無茶に付き合ってくれたのか。理由は簡単だった。二人の出会いは、決して初めてではなかったのだ。

実は、ずっと昔から、彼らの物語には小さな伏線が張り巡らされていた。

ただ、啓司が、自分をいつ、どこで知ったのか――どれだけ問い詰めても、彼は笑ってはぐらかすだけだった。

「もし、僕たちが本当に一緒になる日が来たら、そのとき全部話すよ。

でも、もしそうならなかったら、このことを悠璃の足かせにはしたくないんだ」

こうして、ふたりの結婚の話は保留となった。

そして、悠璃は、浜市を離れることを決めた。世界を旅するために。出発の日、空は見事な青空だった。

長く一緒に過ごした別荘の使用人たちも、みんな彼女との別れを惜しみ、代表を立てて空港まで見送りに来てくれた。

だが、最後まで啓司の姿は見えなかった。――しばらくは、もう二人会うこともない。それが分かっていたからこそ、彼女の胸にはどうしようもない寂しさと後悔が残った。

「奥様、このところ会社が忙しいみたいで、ご主人様はおそらく来られないと思います……」付き添いの使用人が、そっと言った。

空港のアナウンスが搭乗時刻を告げる。これ以上は待てないとわかった悠璃は、キャリーケースを引きながら、セキュリティゲートへと向かった。

そのとき、耳に馴染んだあの声が聞こえ、胸の高鳴りを抑えきれなくなる。

振り返れば、息を切らせて走ってくる啓司の姿があった。

「渋滞で遅くなったんだ、ごめんな」

「もう来ないかと思った」悠璃は唇をかすかに上げて微笑む。よかった。やっぱり、最後に会えた。

けれど次の瞬間、啓司は深呼吸して、険しい顔で言った。

「悠璃、篠宮がトラブルに巻き込まれたみたいだ」

「……え?」思わず立ち止まる。

「婚姻記録の異常に気づいたあと、彼はすぐ大燕市に戻って離婚手続きをしようとしたが、記録に使われた相手の女性は、何年も前から行方不明で、どうにもできなかった」啓司はため息をついて続けた。「それで、役所の人と揉めて、拘留されてしまったんだ」

少しの沈黙の後、悠璃は尋ねる。「これ、莉奈が教えたの?」

啓司は、わずかに口ごも
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