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第7話

Author: ポンコツ書虫
夜の病院は静まり返り、廊下には人影ひとつなかった。

悠璃は裸足のまま、冷たい床を一歩一歩踏みしめながら、莉奈の病室へと近づいていく。

病室のドアは半開きで、その隙間から中の会話がはっきりと聞こえてきた。

楓のお母さんは、本当にそこにいた。彼女の顔は嫌悪で歪んでいた。「妊娠した?そんな馬鹿な!楓、ママは何度も言ったわよね。悠璃との結婚なんて絶対に認めないって。結婚したいって言うから仕方なく許したけど、今度は子どもまで作るなんて!」

楓はうんざりしたように言い返す。「じゃあ、どうしたいんだ?」

楓のお母さんは深く溜息をついて答える。「どうするって、そりゃもう産ませるしかないんだろ。他に方法なんてないわよ。

だけど、私は、莉奈しか認めてないの!」彼女は冷たく鼻で笑った。「昔お見合いさせようとした時は嫌だって言ったくせに、今になって莉奈を好きになるなんて、一体何を考えているの?」

「おばさん、そんなふうに言わないで……」莉奈は俯いて唇を噛みしめる。「大丈夫、私は楓お兄ちゃんを待てます。たとえ一生待つことになっても……」

楓は黙って俯いた。

「もう離婚しちゃいなさい!」楓のお母さんは鋭く言う。「子どもが産まれたら、離婚して、莉奈と盛大な結婚式を挙げて、大燕市中が羨むような……」

だが楓は顔を上げ、きっぱりと否定した。「無理。あれは俺の子どもだ……」

楓のお母さんは冷笑した。「今回の騒ぎで、あの女が本当に子どもを産むかどうかも分からないわよ。もしかしたら、楓が帰ったら離婚届が待ってるかもね」

楓は鼻で笑った。「そんなことあるもんか!

あいつは、俺の言うことには絶対逆らわない女だ。離婚なんて言われたら、腰が抜けて泣き出すような奴だぞ。

俺の子どもを産めるのなら、むしろ喜ぶだろう」

「それはどうかしら」楓のお母さんは皮肉気に言う。「その子が生まれれば、我が家の長男。そうなったら、そのガキを盾にして好き勝手求めてくるんじゃないの?離婚どころじゃなくなるわよ?」

楓はタバコに火をつけ、煙をくゆらせて顔を隠した。

悠璃に聞こえたのは、冷たい彼の声だけだった。

「そうか?でもな、俺が指一本動かせば、あいつはどんなに強がっても、俺の前で跪いて行かないでって泣きついてくるさ」

「信じない?なら賭けてみるか」

その時、空に雷鳴が轟いた。

眩い稲光が一瞬で楓の姿を飲み込む。

「今、呼び出してやる。もしあいつが上がってきたら、そっちの負けな」

「じゃあ、もし来なかったら?」莉奈の瞳が興奮にきらめいた。まるであの日の篠宮家の別荘のように、彼女はまた熱くなって言い続けた。

「もし来なかったら、子どもを産ませた後であの女を篠宮家から追い出し、私を篠宮家の奥様として盛大に迎えてよ。それ以降、絶対に他の女を入れないで、どう?」

ぽつり、ぽつりと大雨が降り始めた。

楓の軽い「いいよ」という一言が、悠璃の世界を音もなく壊した。

その瞬間、彼女のスマホが光る。

幸い、マナーモードにしていた。

彼女は電話を取りながら、慌てて階段を降りていく。

「もしもし」楓の声が電話越しに響く。「莉奈が目を覚ました。

今回の件はどう考えてもお前が悪い。俺はお前のためにいろいろ約束しただろう?だからお前も一つだけ、俺の頼みを聞いてくれないか?」

悠璃は静かに答える。「いいよ」

楓は意外そうに少し黙った後、続けた。「上に来て、莉奈に謝れ。俺の言うこと聞け。な?」

悠璃はまた「いいよ」と答えた。

「本当か?」楓は異変に気付き、慎重に尋ねる。「大丈夫か?」

彼の心に今まで感じたことのない不安がよぎる。

「もし嫌なら……」

「嫌じゃない。待ってて。検査が終わったらすぐ行くから」

そう言って電話を切った。

悠璃はふらつきながらナースステーションに駆け込み、中絶薬をもらった。

看護師は驚いた。「赤ちゃん、もう大丈夫だったんじゃ……」

「でも、もういらないんです」悠璃は答えた。

当直医を呼んで、書類にたくさんサインして、全て終わるまで一時間かかった。薬をぬるま湯で飲み干すと、彼女は啓司にメッセージを送った。

【早めに迎えに来てくれる?】

【いいけど。いつ?】

楓からの三、四件の不在着信を見ながら、悠璃は返信した。

【今すぐ、お願い】

その後、彼女は十分だけ待った。

その間、楓からメッセージが次々と届いたが、彼は、一度たりとも下の階へ降りてくることはなかった。

十分後、何も持たず、何も求めず、悠璃は啓司のパサートに乗り込んだ。

車は、浜市の方へと走り去っていく。

彼女は一度も振り返らなかった。

別れの言葉さえ、告げなかった。
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