Masuk娘の一歳の誕生日。初めての選び取りだった。 夫の佐倉湊(さくら みなと)が用意した箱から、娘は女性ものの下着を取り出した。 その場が凍りつく中、葉山奈々(はやま なな)だけが「あっ」と声を上げ、両指を小さく合わせて子猫のような表情で私に謝る。 「ごめんごめん。この前、湊とふざけて交換した時のやつ、持って帰るの忘れちゃった……紗耶さん、気にしないでね」 せっかくの誕生日祝いを台無しにしたくなくて、私は何事もなかったかのように必死にこらえた。 気を取り直して、二度目の選び取り。 今度は、娘の手が厚みのある封筒に伸びた。 親族からのお祝いだろうと思い、ろくに中身も確認せずに受け取る。 すると、奈々がぷっと吹き出した。 「紗耶さんってば、がめつすぎない?中身も見ずに受け取るなんてさ。まさか、お祝い金でも入ってると思った?」 奈々はその封筒から一枚の書類を引き抜き、私のほうへバサッと投げてよこした。 ばらばらと床に落ちた紙を見て、ようやく気づく。 娘が選び取ったのは、私と湊の離婚届だった。 私は呆然と湊を見つめた。 「あなた……私と離婚したかったの?」 湊は一瞬、言葉に詰まった。けれどすぐに奈々を庇うように前へ出る。 「紗耶、違う。ただの冗談だって。真に受けるなよ。奈々の悪ふざけだ」 その背後から、奈々がひょっこり顔を出した。 「悪ふざけ?湊、まさか今さら弱気になってるの?」 祝いの席は水を打ったように静まり返り、客たちの視線が一斉に私へ向けられた。 長い沈黙の末、私は泣きも騒ぎもしなかった。皆が固唾をのんで見守る中、ペンを取り、離婚届の署名欄に「紀野紗耶(きの さや)」と迷いなく書き込んだ。 「分かったわ。離婚する」 娘が選んだものは、笑って受け止めるつもりでいた。 それが、たとえ離婚届だったとしても。
Lihat lebih banyak湊が倒れたことで、病院で詳しい検査を受けることになった。その結果、彼はHIV陽性だと診断された。その知らせを聞いた瞬間、佐倉家も葉山家も、そして奈々と関係のあった男たちも、一様に顔を青ざめさせた。「お前だ……お前が俺にうつしたんだろ!」湊は血走った目で、同じように青ざめている奈々を睨みつけた。「違う……違う、私じゃないわ……!」奈々は震える声で否定した。けれど湊は、すべてを悟ったように深く目を閉じた。その時、ふと昔の記憶がよみがえったのだろう。奈々が海外から帰国したばかりの頃。仲間内の飲み会で、友人の一人が冗談めかして忠告してきたことがあった。「奈々のやつ、向こうで相当派手に遊んでたらしいぜ。湊、お前も変な病気とかうつされんなよ」あの時の湊は、鼻で笑って「うるせえよ」と切り捨てただけだった。けれど今はもう、笑うことなど到底できなかった。噂はあっという間に広がった。佐倉家と葉山家の醜聞は、一夜にして周囲の知るところとなった。二人が入院している病院にも、野次馬や週刊誌まがいの人間が押しかけるようになり、騒ぎを避けるため、別の病院へ移されたらしい。佐倉家も葉山家も、この一連の騒ぎですっかり疲弊していた。それからしばらくして、湊と奈々はぱたりと姿を消した。二人がどこへ行ったのか、はっきり知る者はいない。人目を避けるため、家族が海外へ送ったのだという者もいた。名前を変えて、もう二度と戻ってこないらしいと囁く者もいた。別の噂では、湊が奈々を突き飛ばし、奈々は階段から落ちて、お腹の子どももろとも助からなかったという。その後、湊も自ら命を絶ったのだと、まことしやかに語る者さえいた。噂は噂を呼び、いくつもの尾ひれがついて広がっていった。どれが真実なのか。あるいは、どれも真実ではないのか。私には分からない。そして、知りたいとも思わなかった。彼らがどんな結末を迎えようと、もう私には関係のないことだった。それからの日々は、驚くほど穏やかだった。娘は、いつの間にか一人で歩けるようになっていた。庭に舞い込んだ蝶を追いかけて、よちよちと芝生の上を歩いていく。小さな足取りはまだおぼつかないけれど、それでも一生懸命に前へ進もうとしている。その姿は、まるで小さなうさぎ
その言葉を聞いた瞬間、思わず乾いた笑いが漏れた。「父親、ね。あなたみたいな無責任な父親が、あの子に本当に必要だとでも思ってるの?」かつては、湊と結婚して子どもが生まれれば、ささやかでも温かい毎日を送れるのだと信じていた。朝、出勤前の湊が娘の頬にキスをする。夜、仕事帰りに私へ花を買ってきてくれる。週末には三人でベビーカーを押して公園へ行き、湊が娘に歩き方を教える。私は少し離れたところから、その姿を写真に撮る。そんな、どこにでもあるような幸せが、私たちにも訪れるのだと本気で信じていた。「あなた、自分がまともな父親だったって、胸を張って言える?」湊が反論しようと口を開きかける。けれど、何も言えなかった。「娘が高熱を出して入院した夜、私は救急外来で四時間、泣き叫ぶ娘を抱いてあやしていた。その時あなたは、奈々とバンジージャンプを楽しんでいたわよね。私からの着信には、一度たりとも出なかった。娘の夜泣きがひどかった時期、私は半月近くまともに眠れなかった。なのにあなたは『仕事が忙しい』って嘘をついて、奈々と旅行に行っていた。しかも、ご丁寧にその写真をSNSにまで載せてね」湊は娘を抱っこしたことなら、数えきれないほどある。けれど、それだけだった。あの子がどんな時に泣き、何をすれば安心するのか。何を口にできて、何を絶対に避けなければならないのか。いざ発作が起きた時、まず何をすべきなのか。父親であるはずの彼は、何一つ分かっていなかった。私は淡々と、事実だけを突きつけていった。自分の声が思った以上に落ち着いていて、少し驚いた。あれほど消えないと思っていた怒りも、悲しみも、恨みも。何度も傷つけられるうちに、もうほとんど残っていなかった。「この一年、私たちが一番そばにいてほしかった時、あなたはいつもいなかった。なのに奈々に何かあれば、何もかも放り出して駆けつけた。妻も娘も後回しにして、奈々だけを守ろうとしたじゃない」さっと血の気が引いていた湊の顔を見て、私は小さく笑った。「ねえ、知ってる?あなたが奈々とあの病室で抱き合っていた時、私と娘はすぐ隣の部屋にいたのよ。あの子が大きくなって、自分の父親がそんなみっともない男だったと知ったら……どう思うでしょうね。あなたに父親を名乗る資格なんてない」「
「ただいま。紗耶?」リビングは、がらんとしていた。半分だけ閉まったカーテンの隙間から、夕日が斜めに差し込んでいる。その光が、空っぽのベビーベッドと、床に散らばったままのおもちゃを虚しく照らしている。「おーい、パパ帰ってきたぞ」けれど、返ってきたのは自分の声だけだった。「どこだ……?二人ともどこにいる?」湊は振り返り、キッチンから出てきた家政婦を呆然と見た。「奥様なら、二日前にお嬢様を連れて出て行かれましたよ」家政婦は手を拭きながら、不思議そうに答える。「……何だって?」湊は一瞬、言葉を失う。「出ていった?どこへ!?どうして止めなかったんだ!」「その時、何度もお電話したんですよ。でも旦那様、お忙しいから『何かあるなら帰ってから聞く』とおっしゃって……」――電話。そうだ。二日前、家政婦から何度も着信があった。けれどあの時の湊は、病院で取り乱す奈々をなだめるのに必死だった。紗耶は家で頭を冷やし、そのうち自分から謝ってくる。そう思い込んで、ろくに確認もせず、着信を無視したのだ。まさかその頃、妻が痛む腰を庇いながら、アナフィラキシーの発作がようやく落ち着いた娘を抱え、一人で荷物をまとめていたとは思いもしなかった。まして、そのまま飛行機に乗り、実家へ帰っていたなんて。「あ、そうでした、旦那様」家政婦が思い出したように、封筒を差し出した。「奥様から、こちらをお渡しするよう言付かっております。『離婚に関するご連絡は、今後すべて弁護士を通してください』とのことでした」湊は震える手で封筒を受け取り、中の書類を引き出した。入っていたのは、記入済みの離婚届と、弁護士の連絡先だった。それを見た瞬間、湊はようやく思い知った。娘の誕生日の日、紗耶が「離婚する」と言い放ったのは、ただの当てつけではなかった。気を引くための脅しでもなかったのだ。紗耶は本気で離婚し、本気で自分の前からいなくなるつもりだった。それなのに湊は、ずっと奈々のことばかり見ていた。紗耶の苦しみも、失望も、悲しみも、何ひとつ見ようとしてこなかった。やがて日が落ち、リビングは暗く沈んでいった。いつもなら娘の泣き声や、妻の足音が響いていた家は、今は息が詰まるほど静まり返っている。湊は離婚届を握りしめた
奈々が公衆の面前でここまで辱められるのを見て、湊の庇護欲に火がついたのだろう。またしても彼は、奈々を庇うように前へ出た。「お前ら、いい加減にしろ!文句があるなら俺に言え!」だが、男たちは心底呆れたように湊を見下ろした。「お前、マジで頭湧いてんのか?そいつ、誰とでも寝るような女だぞ。そんなのを大事に庇ってるのは、お前くらいなもんだ」「なっ……」「奈々が急に帰国した本当の理由、知らないわけ?向こうで既婚者に手を出して、奥さんにバレて居場所がなくなったからだよ。俺たちだって、そいつに何度も言い寄られてるんだ。知らなかったのはお前だけだぞ。本当、救いようのない大馬鹿野郎だな」その暴露に、会場中がどよめいた。「ひっ」と甲高い悲鳴を上げた奈々は、見る見るうちに目に涙を浮かべる。「何言ってるの!?嘘よ、全部デタラメ!紗耶でしょ、紗耶があんたたちに言わせてるんでしょ!私を陥れるために、みんなでグルになって嘘をついてるのよ!」湊の袖にすがりつき、震える声で訴えかけた。「湊、信じないで……お願い、あんなの絶対に嘘だから……!」次々と突きつけられる事実を、すぐには受け止めきれないのだろう。湊は血の気の引いた顔で、呆然と立ち尽くしていた。だが、彼が何か言うより先に、会場の扉が再び開いた。制服姿の警察官が数名、足早に入ってくる。先頭の警察官は、迷うことなく奈々の前まで歩み寄った。「葉山奈々さんですね。乳児への殺人未遂の疑いがかかっています。署までご同行ください」その言葉に、奈々の両親はその場で崩れ落ちそうになった。「奈々……お前、一体何をした……?」「違う!私、そんなことしてない!」目を泳がせ、反射的に後ずさる奈々を見ても、警察官は表情一つ変えず、手元の端末を開いて見せた。「通報者から提出された映像と、病院の診断記録はすでに確認しています。記録を見る限り、あなたがあの子に危害を加えようとしたのは、今回が初めてではないようですね」その映像を見た瞬間、湊の顔からすっと血の気が引いた。「奈々……お前、俺の娘に何か飲ませたのか?毒でも盛ったのか?」奈々は必死に首を振った。「違う!毒なんかじゃない!私はただ、ヤギミルクを飲ませようとしただけよ!傷つけるつもりなんてなかったの!紗耶が大げさに騒