ログイン藤崎怜奈(ふじさき れな)と結婚して7年目。高瀬直樹(たかせ なおき)は、娘の高瀬芽依(たかせ めい)が無邪気に尋ねるのを耳にした。 「ママ、どうして拓海お兄ちゃんがパパじゃだめなの?」 直樹は耳を疑った。 拓海お兄ちゃん――成瀬拓海(なるせ たくみ)のことか。怜奈の初恋の相手? 聞き間違いかと声をかけようとした、そのときだった。1台の車が、娘に向かって突っ込んできた。 考えるより先に体が動いた。直樹は駆け寄り、芽依を突き飛ばした。 鈍い衝撃とともに、意識が途切れた。 目を覚ますと、病床のそばに妻と娘がいた。2人とも無事だ。それが分かり、ほっと息をついた。 自分は大丈夫だと声をかけようとした途端、事故の直前に聞いた娘の言葉がよみがえった。 なぜか、確かめずにはいられなかった。直樹は戸惑ったふりをして、2人を見上げた。 「すみません。何も思い出せないんですが……」 2人は一瞬顔を見合わせ、すぐにナースコールを押した。 検査を終えた医師は、こう説明した。 「事故で頭の中に出血が見られます。その影響で、一時的に記憶を失っているのでしょう」 医師が立ち去ってからも、直樹は困惑した表情を崩さなかった。 「どうして事故に遭ったんですか?あなたたちは……俺と、どういう関係なんですか?」 怜奈が眉を寄せ、何か言おうとした。その前に、弾んだ子どもの声が響いた。 「うちのボディーガードだよ!」
もっと見るその仕草を見て、黙っていた怜奈が、ついに口を開いた。「直樹、うそでしょう?私たちを諦めさせるために、わざとそうしているだけよね?」最初から、直樹の隣の女には気づいていた。それでも、そんなはずはないと自分に言い聞かせていた。直樹が、ほかの誰かと一緒になるはずがない。手をつなぐ姿を見ても、まだ認められなかった。6年間待ち続けた人が、別の女を選んだなど、受け入れられなかった。直樹はスマホを取り出し、入籍した日の写真を開いて、2人に見せた。「うそじゃない。千尋とは、もう結婚した」書類に並ぶ2人の名前を見て、怜奈はもう自分をごまかせなくなった。直樹には、本当に別の相手がいた。しかも、結婚までしていた。「直樹、でも……私たち、まだ離婚してないでしょう?そんな結婚、認められるはずないわ!」「研究センターに入る前に、俺に関する情報はすべて非公開にしてもらった。もちろん、婚姻関係についても手続きは済ませてある。千尋との結婚には、何の問題もない」最後の望みも消えた。怜奈はよろめいて後ずさった。顔から血の気が引き、つぶやいた。「あのときは、私も芽依も拓海にだまされていたのよ。それなのに、どうしてそこまで……」まだ、自分たちの何が悪かったのか分かっていない。直樹は冷ややかに笑った。「怜奈、俺が愛想を尽かしたのは、拓海のせいじゃない。あいつばかりかばって、俺を信じなかった君たちのせいだ。俺を本当に大切に思って、話を聞いてくれていたら、あいつのうそが入り込む余地なんかなかった。もう帰ってくれ。会いたくない」その言葉に、母娘の願いは打ち砕かれた。芽依は耐えきれず、直樹の手をつかもうとした。「パパ、置いていかないで。本当に悪かったと思ってるの」直樹は一歩下がり、その手を避けた。それ以上2人を見ず、千尋と車に乗り込んだ。背後で泣き叫ぶ声がしても、振り返らなかった。車に乗ると、千尋が身を寄せ、直樹の背中にそっと手を添えた。「今は私がいるよ。つらかったことは、もう過去にしていいんだから」直樹は千尋を強く抱き、目を閉じた。「ああ」窓から差し込む日差しが、2人を包んだ。胸の内まで、ゆっくり温まっていくようだった。……「ママ、パパに会いたい。行っちゃうの、嫌だよ……」車が遠ざかっても、芽依の
千尋は2人が誰なのか察し、心配そうに直樹を見た。思わず一歩前に出て、間に立とうとした。付き合い始めた日に、直樹は過去の結婚について、すべて話してくれた。妻と娘にどれほど傷つけられたのか、千尋も知っていた。研究センターを出て街へ戻れば、いつか会うかもしれないとは思っていた。だが、こんなに早いとは。直樹は小さく首を横に振った。自分で話すから大丈夫だと、千尋に目で伝えた。千尋はそれを信じ、口を出さず隣で見守った。6年ぶりに見る怜奈と芽依に、直樹の心は驚くほど静かだった。見知らぬ人に向けるのと変わらない目で、2人を見た。「どうしてここに?」怜奈と芽依は戸惑った。6年間、会いたくてたまらなかった相手を、ようやく見つけたのだ。それなのに、直樹はあまりにも平静だった。6年前、怜奈は秘書に直樹の行き先を調べさせた。だが返事は、足取りがまったくつかめないというものだった。まるで痕跡ごと消えてしまったようだ、と。怜奈は信じず、あらゆるつてを使ったが、結果は変わらなかった。最後には警察にも相談した。それでも、居場所は分からなかった。当時、怜奈は気が狂いそうだった。直樹は自分の夫で、芽依の父親なのに。どうして、どこにも見つからないのだろう。最後に、警察官が何気なく漏らしたひと言で、怜奈ははっとした。「この人の状況、うちの同僚が極秘の任務についてるときみたいだな」結婚した頃、直樹は瑞峰大学の博士課程で薬の研究をしていると話していた。ただ、その年に課程を修了し、結婚してからは研究職に就かなかった。家庭に入り、自分と娘を世話してくれていたから、優秀な研究者だったことを、怜奈は次第に忘れていた。思い出すと、つてを頼って瑞峰大学を訪ねた。何人にも当たり、ようやく手がかりらしい話を聞けた。「高瀬君は、あの年の学生の中でも抜きんでていました。石田先生は、ずっと医薬研究センターへ呼びたがっていましたよ。修了後も、諦めずに声をかけていたようです」怜奈は研究センターを調べようとした。だが、機密性の高いプロジェクトが進められており、参加者の情報は公開されていなかった。直樹は、そこへ行ったのだ。怜奈はほとんど確信していた。そうでなければ、ここまで完全に消息が途絶えるはずがない。プロジェクトが終わるまでは外部
6年後。市内で、研究センターの新薬発表会が開かれた。直樹はプロジェクト責任者として、取材に応じていた。壇上の姿は6年前よりも細身になっていたが、その目には力があり、表情は生き生きとしていた。6年の歳月をかけ、がん細胞の増殖を効果的に抑える新薬の開発に成功した。治療の成功率を大きく高めると期待される成果だった。この6年間の苦労は、わずか30分では語り尽くせなかった。最後の言葉を終えると、会場は大きな拍手に包まれた。直樹は深く一礼し、壇上を下りた。人混みの中に、千尋の姿を探した。そのとき、肩にそっと上着が掛けられた。振り向くと、いつの間にか千尋が後ろにいた。直樹はほっとして、表情を和らげた。「驚いた。そこにいたのか」千尋は腰に腕を回し、顔を寄せた。「高瀬先生が、一生懸命誰かを捜していたから。近づいても気づいてくれないんだもの」直樹は千尋を抱き寄せ、その頭にそっと顎をのせた。声に、少し疲れがにじんだ。「少し、このままでいさせてくれ。6年かかって、やっと形になったんだな。これで、少しはゆっくりできる」千尋が、直樹の口元に軽くキスをした。「本当に、お疲れさま」怜奈との結婚が終わったとき、もう新しい恋をすることはないと思っていた。残りの人生も、自分の力も、すべて研究に捧げるつもりだった。だが、この6年の間に、千尋が少しずつ心に入り込んだ。いつ好きになったのかは、もう思い出せない。徹夜の実験のあと、温かい食事を差し入れてくれたときか。研究が行き詰まっても、焦らず話を聞いてくれたときか。大きな進展があったとき、2人で顔を見合わせ、目を輝かせた瞬間か。それとも、夜中に過去を思い出して苦しくなるたび、そばにいてくれたときだろうか。千尋と付き合うようになって、直樹は初めて知った。誰かに愛され、その人と一生をともにするというのは、こういうことなのだと。研究センターに来て5年目、交際を始めて3年目に、先生と同僚に見守られ、小さな結婚式を挙げた。そしてプロジェクトが成功し、外へ出られるようになると、真っ先に婚姻届を出した。今は、正式な夫婦だ。休憩を終え、2人は手をつないで会場を出た。お祝いに何を食べようかと話していると、背後から懐かしい声が重なった。「パパ!」「直
迎えの車は街を離れ、空港へ向かっていた。担当者の案内で、直樹は手配された便に乗り込んだ。約2時間後、研究センターのある街に着いた。飛行機を降りると、少し離れた場所に待っている人影が見えた。どこか見覚えがあった。近づくと、研究室の先輩だった森野千尋(もりの ちひろ)だと分かった。7年ぶりの再会に、直樹は何から話せばいいか迷った。千尋はその戸惑いを察したように、荷物を受け取り、自分から口を開いた。「直樹、やっと来る気になってくれたんだね」研究センターへ移動すると、千尋は歩きながら各研究室を案内してくれた。学生時代、同じ研究室で何年も過ごした仲だ。ぎこちなさはすぐに消え、自然に話せるようになった。気づけば、石田先生の部屋の前に着いていた。だが、直樹はドアをたたけなかった。7年前、自分は先生から誰よりも期待をかけられていた。いつか私を超える研究者になる。そう言ってもらったこともある。それなのに、期待を裏切った。博士課程を修了した年に怜奈と結婚し、その後は家庭を選んで、研究センターからの誘いを断った。先生に決断を伝えたときのことは、今も覚えている。考え直せとも、教えたことを無駄にするのかとも言わなかった。ただ、長く直樹を見つめ、手で退室を促した。あの目を、7年間忘れられなかった。深く失望されたと思っていた。それが、直接顔を合わせた最後だった。その後も、研究センターから何度も誘いが来た。先生が声をかけてくれていることは分かっていた。だが、芽依が日に日に成長していくのを見ると、どうしても離れられなかった。誘いは、すべて断った。今回、ようやく思い知らされた。幸せだと信じていた家庭は、自分の思い込みにすぎなかった。そのために研究を捨てたことまで、虚しく感じられた。立ち止まった直樹に、千尋が笑いかけた。「大丈夫。先生は怒ってないよ。ずっと、あなたが戻るのを待ってたんだから。きっと喜んでくれる」直樹は感謝を込めて千尋を見た。それから気を静め、ドアをノックした。「入りなさい」中へ入ると、石田先生のこめかみに白いものが増えていることに気づいた。7年という時間は、先生の姿も変えていた。「あのとき引き止めなかったのは、自分の人生を自分で決めてほしかったからだ。この7年間