LOGINバレンタインデー当日。 市役所の戸籍窓口で働く私の前に、婚約者の藤堂英嗣(とうどう ひでつぐ)が、普段から「親友」面して彼にまとわりついていた宮内咲智子(みやうち さちこ)を連れて現れた。 彼は悪びれもせず、婚姻届を差し出して言い放つ。 「実乃里(みのり)、嫉妬すんなって。ゲームで負けただけだから。罰ゲームで1日だけ籍を入れるんだ。明日にはすぐ離婚届を出しに来るからさ」 咲智子は英嗣の白シャツを羽織り、わざとらしく唇を尖らせた。 「実乃里さん、手続きしてくれないなんて言わないよね?前から私のこと嫌ってるみたいだし……」 私は言葉を最後まで聞くこともなく、申請書へ迷わず力強く公印を振り下ろした。 「まさか。お気持ちはよく分かります。お二人は気心の知れた『マブダチ同士』で、ただゲームに負けただけですものね。 受理証明書をお渡ししますので、ロビー奥の記念撮影コーナーへどうぞ。ご結婚、おめでとうございます」 一切動じない私の態度に、英嗣は苦虫を噛み潰したような顔になり、咲智子の肩を抱いて立ち去った。 そして翌日。 再び市役所に現れた彼の首筋には、生々しいキスマークが残っていた。 私は冷ややかに微笑み、昨日施行されたばかりの最新法律――『少子化対策・円満婚姻継続支援法』を机の上にすっと滑らせた。 「申し訳ありません。昨日の午後、法改正がございまして。婚姻成立から6か月に満たないご夫婦の離婚申請には、半年間の冷却期間として、一度頭を冷やして考え直していただくことが義務付けられております。 どうしても離婚されたいのでしたら、半年後にまたお越しくださいね」
View More英嗣だった。彼はすっかり痩せ、シンプルなシャツにスラックス姿だった。その手には、3歳ほどの小さな女の子の手が握られている。大きな瞳をして、おさげ髪を2つに結んだ可愛らしい子どもだった。「この子は……」思わず驚きの声が漏れた。「俺の娘だ。千春っていうんだ」英嗣は消え入りそうな声で呟いた。「咲智子が産んだんだけどさ……産後うつが酷くて。俺にこの子を預けたまま、1人で海外へ行っちまったよ」私は屈み込み、怯える少女、藤堂千春(とうどう ちはる)に目線を合わせて微笑みかける。「こんにちは」千春は恥ずかしそうに、英嗣の足の後ろへと身を隠した。「実乃里、俺……」英嗣は何かを言いかけて口ごもった。私は静かに立ち上がって首を振った。「何も言わなくていいわ。もう全部、終わったことよ」「ニュース、見たよ。本当におめでとう」彼の言葉には、嘘偽りのない誠実さが滲んでいた。「ありがとう」腕時計に視線を落とす。「次の打ち合わせがあるから、これで失礼するわね」「実乃里!」背を向けようとした私の背中に、彼がすがりつくような声を投げかけてきた。「もし……もしもいつか、俺がもっとまともな人間になって、胸を張れるようになったら、その時はまた……」「英嗣」振り返り、静かな眼差しでその言葉を遮った。「あそこのクチナシを見て」私の視線を追い、彼もおずおずと市民会館の前庭へと目を向けた。花壇の一角では純白のクチナシが見事な花を咲かせ、暮れなずむ空気の中でひときわ白く浮かび上がっている。「去年の冬、私の部屋のベランダにあったクチナシがね、すっかり枯れ果てて死んでしまったと思ったの。葉は全部黄色くなって落ちて、枝もカラカラに乾いてた。捨ててしまおうかと思ったけれど、思いとどまってそのまま春を待ってみたの。暖かくなってから土を入れ替えて、枯れ枝を剪定して、毎日水をやってお日様に当て続けたわ」私は向き直り、彼の瞳をまっすぐに見つめた。「どうなったと思う?今年の夏、これまで咲いたどの年よりも綺麗な花を咲かせてくれたのよ」英嗣の瞳から、すっと光が失われていく。「一度壊れてしまったものは、二度と元には戻らないわ」静かに、けれど決定的な響きを込めて告げる。「けれどね、命が終わった更地の上には、ま
「信じるかどうかなんて関係ないわ」私は淡々と告げた。「大切なのは、それがあなたの背負うべき責任だということよ」「もし……」彼の声が急激に切迫した調子を帯びる。「もし俺が全部清算して、咲智子と綺麗に別れて、養育費もきっちり払ったら……俺たち、もう一度やり直せないか?」ベランダの手すりに寄りかかり、眼下の公園で無邪気に遊ぶ子どもたちの姿を見下ろす。夕日が空を優しい茜色と薄紅に染め上げ、そよ風がクチナシの青い香りを運んできた。「英嗣。付き合い始めた頃、あなたが何て言ってくれたか覚えてる?」「……え?」「絶対に守る、悲しい思いなんて絶対にさせないって言ってくれたわよね」ふっと自嘲するように小さく笑みをこぼす。「でもね。私を一番深く傷つけて、一番惨めな思いをさせたのは、他の誰でもない、あなただったのよ」「実乃里、俺は……」「明日の離婚届は、滞りなく処理させてもらうわ。ただし、私が窓口に出ることはないから。同僚に対応してもらうよう引き継いでおくわね」「実乃里……そんなに俺の顔も見たくないのか?」「見たくないんじゃないの」嘘偽りのない本心を率直に口にする。「もう、顔を合わせる必要がないだけよ」通話を切る直前、最後にひとつだけ言葉を残した。「それから……あなたと咲智子がどう決めるにしても、生まれてくる子どものために一番良い道を選んであげてね」今度は、私の方から先に通話を切った。*翌日、私は有給休暇を取った。逃げ隠れするためではない。ただ単に、私の人生にはもっと価値のある時間の使い道があると感じたからだ。郊外の植物園へと足を伸ばし、満開を迎えた桜を見上げた。白や薄紅の花びらが春風に舞い散る光景は、息を呑むほど幻想的で美しかった。スマートフォンは消音にしてあったけれど、戸籍窓口の様子は容易に想像がついた。英嗣と咲智子は言い争い、互いを責め合い、やがて離婚届に署名して背を向け、それぞれ別々の人生を歩み出すのだろう。けれど、私の世界はもう、とうの昔に彼らとは何の関係もない。午後を回った頃、画面を覗くと伸子からメッセージが届いていた。【比嘉さん、手続き無事に終わりました。2人とも最初から最後まで一言も口を利かなくて、署名する手はずっと震えてましたよ。宮内さんは終始号
3か月後。私が提案した戸籍窓口の業務フロー改善案が都庁に正式採用され、都内各自治体へと導入される運びとなった。その功績が認められ、私は戸籍住民課の係長へと昇進を果たした。辞令を受け取った日、上司が満足げに私の肩を叩いた。「比嘉(ひが)さん、君ならやってくれると信じていたよ。若手の鑑だ」同僚たちから「おごってくださいよ」とせがまれ、私は笑ってそれに応じ、職場近くの良さそうなレストランを予約した。祝賀の席で歓談に花が咲く中、バッグの中でスマートフォンが震えた。真優からだ。「実乃里!とんでもない大ニュース!」受話器越しに、ほとんど声が裏返りそうなほどの興奮気味の声が飛び込んでくる。「咲智子が妊娠したって!」私はほんの一瞬呆然としてから、平坦な声で返した。「……英嗣の子?」「他に誰がいるのよ!もう2か月に入ってるらしいわ!」真優は早口でまくしたてる。「今、両家総出で大揉めよ!宮内家は『責任を取って早く式を挙げろ』って詰め寄ってて、藤堂家は『咲智子は計算高い女だ、子供をダシにして息子を縛り付ける気じゃないか』って疑っててさ……」騒がしい席を抜け出して廊下へ向かい、壁に背を預けた。「それで?」「ここからがもっと見ものなのよ!」真優は声を潜めた。「英嗣のやつ、子供を堕ろせって迫ったら、咲智子が死んでやるって喚き散らして手がつけられなくなったらしくてさ。今じゃ2人して毎日のように怒鳴り合ってて、結局耐えきれなくなった英嗣が、実家に逃げ帰ったんだって!」窓の外の夜景に目を向けると、ネオンが瞬き、無数のテールランプが途切れることなく流れていた。「実乃里?聞いてる?」「聞いてるよ」「何か言いたいことないの?」少しだけ考え、ぽつりと言葉をこぼした。「生まれてくる子供に、罪はないわ」受話器の向こうが数秒沈黙した。「あんたって……本当に人が良すぎるよ」「お人好しなんかじゃないわ」静かに訂正する。「ただの事実よ。大人同士にどんな因縁や過ちがあろうと、子供を巻き込むべきじゃないもの」通話を終えた後も、私はしばらくその場に佇んでいた。英嗣と咲智子の子供。かつて私が英嗣と共に育むはずだと信じていた未来を、今、彼は別の女と迎えようとしている。奇妙なことに、胸の痛みなど微
17時10分、英嗣からメッセージが届いた。【カフェで1時間待ったぞ】返信はしなかった。17時30分、彼からまたメッセージが入る。【実乃里、俺たち本当にこれで終わりなのか?】やはり指一本動かさなかった。18時、彼から再び電話がかかってきた。画面を見ることなくそのまま消音ボタンを押し、スマートフォンをバッグの奥底へ押し込む。真優が私を見つめ、ふいに口を開いた。「ねえ実乃里、知ってる?今のあんた、すごく魅力的だよ」私は思わず笑みをこぼした。「行こっか。晩ご飯奢るわ、私の新しい人生のスタート祝いよ」*無理やり縛り付けられてから6週目、英嗣と咲智子の間の亀裂はついに決定的なものとなった。知らせをもたらしたのは、共通の友人である茂木浩志(もぎ ひろし)だった。食事に誘ってきた浩志は、どこか複雑な面持ちを浮かべていた。「英嗣と咲智子、連日大喧嘩してるらしいぞ」浩志は皿の上のステーキをナイフで切り分けながら、私の目を見ようとせずに言った。「咲智子が英嗣の家に転がり込んだらしいな?」私は小さく頷いた。「冷却期間中は法律上、正式な夫婦なんだから。一緒に暮らすのはごく自然なことじゃない」「でもさ……」浩志は言い淀み、探るように私の顔を覗き込んできた。「実乃里、本当に気にしてないのか?」フォークを置き、まっすぐに彼を見つめ返した。「私と英嗣はもう終わったの。彼が咲智子を連れて市役所に入ってきたあの瞬間に、完全に終わったのよ。今あいつらがどうなっていようと、私には何の関係もないわ」浩志は深くため息をついた。「咲智子のやつ、英嗣の部屋にあったお前の私物を全部ゴミ袋に詰めて捨てちまったらしい。2人で選んだあの絵まで外して、自分のポートレートに変えたんだと」私は少し眉を動かした。「あの抽象画?結構高かった覚えがあるけど」「それで英嗣と大喧嘩になったんだ。『ここは俺の家だ、お前が好き勝手決めていい場所じゃない』って怒鳴り散らしたらしい。そしたら咲智子が泣き出して、『今この家の女主人なのは私でしょ、なんで元カノの物を残しておくのよ』って泥沼だよ」「それで?」「英嗣はドアを叩きつけて出て行って、バーで朝方まで飲んだくれたらしい」浩志は少し間を置き、声を潜めた。「泥酔して、ず
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