FAZER LOGINうねる黒い瘴気の嵐の中に足を踏み入れた瞬間、世界からあらゆる光と音が奪われた。
視界は塗りつぶされたように暗く、不快な冷気と不気味な魔力の粒子が身体にまとわりつく。普通の人間であれば、この場に踏みとどまることすらできずに、生命力を削り取られて倒れてしまうのかもしれない。
セラは、瘴気を吸い込んでしまわないよう、よくよく注意した。
自らの身体にまとわりつく黒い瘴気を静かに内側へと取り込む。ときおり、取りこぼした瘴気を息と一緒にすいこんでしまって、せき込みそうになる。
顔の前に手をかざして、そこから集中的に瘴気の魔力を取り込む。
体内に吸収された異質な魔力は、セラの内側で、一瞬だけ冷たい不快感をもたらしたあと、かっと身体を熱くさせる。不思議に、満たされるような感覚。慣れてくると、あたたかな湯につかったような心地にもなる。
いったいどのくらいの時間がたったのだろう。 いくつもの魔道具を探し出し、その内側に潜む悪意の回路を強引に解体し続けてきた。絶え間ない緊張。過剰に魔力のかたまりを取り込み続けたせいで、歩き続けるのも億劫なほど、セラは疲労していた。 喉はカラカラに乾ききっている。 手で口元を瘴気からさえぎりながら、荒い息を吐き出した。 散漫になりはじめた集中力を研ぎ澄まし、周囲の気配を探ってみる。 あんなにも暗闇のそこら中に渦巻いていた嫌な魔力の吹き出し口は、もうすべて消え去っていた。残された魔力の出所は——ただひとつだけ。 ジェイドだ。 彼はさっきから、いくらか動き回っている気配はあるものの、大きく移動する様子はなく、ほとんど同じ場所に留まっているようだった。 この瘴気の渦の中心に、彼はいる。 周囲の魔道具はすべて壊したはずなのに、あたりを覆う黒い瘴気は一向に減る気配がない。 魔道具によって刺激され、ジェイドの身体の内側で再び勢いを増した呪い。それをセラが直接引き取らない限り、魔道具を壊しただけでは、瘴気をおさえることはできないのかもしれない。 行こう。 ジェイドのもとに。 セラは乾いた喉をごくりとやって、まっすぐにジェイドがいるであろう方向へと足を進めた。 ジェイドに近づくにつれて、瘴気は恐ろしいほどに濃くなっていく。密度の高すぎる魔力の気配は、もはや霧というより粘度の高い毒のようで、セラは思わず取り込みきれずに激しくせき込んだ。胸の奥が焼きつくように痛む。それでも、歩みを止めるわけにはいかなかった。 前方の闇が、ふっと割れた。
うねる黒い瘴気の嵐の中に足を踏み入れた瞬間、世界からあらゆる光と音が奪われた。 視界は塗りつぶされたように暗く、不快な冷気と不気味な魔力の粒子が身体にまとわりつく。普通の人間であれば、この場に踏みとどまることすらできずに、生命力を削り取られて倒れてしまうのかもしれない。 セラは、瘴気を吸い込んでしまわないよう、よくよく注意した。 自らの身体にまとわりつく黒い瘴気を静かに内側へと取り込む。ときおり、取りこぼした瘴気を息と一緒にすいこんでしまって、せき込みそうになる。 顔の前に手をかざして、そこから集中的に瘴気の魔力を取り込む。 体内に吸収された異質な魔力は、セラの内側で、一瞬だけ冷たい不快感をもたらしたあと、かっと身体を熱くさせる。不思議に、満たされるような感覚。慣れてくると、あたたかな湯につかったような心地にもなる。 セラは、ゆっくりと歩きながら、周囲の瘴気を少しずつ吸い上げていった。そうすることで、わずかに自分の周囲の空間だけが、瘴気から守られ確保される。 その時だった。 地鳴りのような音。 闇の奥深くから凄まじい咆哮が響き渡った。 大きな獣が吠えている。 ジェイドだ。 それは空気を引き裂くほどに荒々しく、おそろしく怒りに満ちた憎々しげな声に聞こえた。かつて黒曜宮で聞いたどんな声よりも、人間としての感情をことごとく塗り潰されたかのような、野性的な響きがあった。「……」 セラは、ジェイドの名を呼ぼうと口をあけて、だが、すぐにとじた。胸元をぎゅっと掴む。 あの優しいジェイドが、今は完全に正気を失い、ただ目の前のすべてを壊し尽くそうとする破壊
湿った冷気を含んだ風が、容赦なく頬を撫でていく。 セラはレオンのうしろにくっつくようにして馬に跨がり、彼の広い背に庇われるようにしてジェイドのもとへ向かっていた。先導するのは、ジェイドとともに戻るはずだった補佐官だ。戻ってきた部隊は、そのまま取って返すように、ジェイドのいる場所へと馬を走らせている。 要塞を出てしばらく進むと、足元は急激にぬかるみ、馬の足取りを重くさせた。 あたりの風景は、殺風景だった。ぽつりぽつりと枯れかけた木が不気味に生えているが、どれも葉はすくなく、幹も枝も焦げたようにくろずんでいる。 荒れた地に吹き付ける風が、土を舞い上げている。 さらに奥へ進むと、ぬかるんだ岩場の陰に、小さく固まって待機している騎馬の一群が見えた。部隊から残されたものたちだった。 レオンがそこへ馬を近づけ、騎乗したまま大きな声で聞いた。「殿下は?」 問いかけられた兵は、辛そうに顔を歪め、岩場のむこうを指差した。「あの瘴気のうずの中心です。瘴気がこくなって、もはやお姿を確認することはかないません」 兵の指し示す先に、黒くうごめく塊があった。 いいや、塊ではない。 あまりに濃い瘴気が、はっきりと黒く形をつくりあげ、うねるように形をかえながら、渦をまいている。 見渡す限りの荒れた岩地の中に、ぽっかりと、禍々しく不自然な塊がある。 地表を覆い尽くしている、異様な黒い霧——まるで巨大な暗雲が地表をおおっているかのような、禍々しい光景だった。うずを巻いている。とぐろをまく蛇のように、ゆっくりとうごめいていた。 ねっとりと重い嫌な空気が、ここにもある。
その日は、強い風が吹いていて、妙にそわそわとする日だった。 いつものように作業部屋で包帯を巻き、負傷兵の手当てを手伝いながら、セラは何度も窓の外へ視線を向けていた。どんよりと重い雲が垂れ込めている。吹き付ける風が、がたがたと窓を激しくたたくたびに、びくりとさせられる。 陽が傾き始めた頃、要塞の城門が開く音が響いた。いつもより早い帰還だ。胸を撫でおろし、ジェイドを出迎えようと部屋を出たセラだったが、回廊を駆けてくる足音の異様な乱れに、足が止まった。 現れたのは、ジェイドの補佐官を務める男だった。全身泥と煤に汚れ、その顔色は青い。「セラ様……」 息を切らし、崩れ落ちるように膝をついた補佐官の姿に、となりにいたリタが息をのむ。セラはおそろしい気持ちを握りつぶすように手をぎゅっとやり、補佐官の言葉を待った。「殿下は……ジェイド殿下は、敵の襲撃にあい……お戻りにはなれません」 頭上から冷水を浴びせられたような衝撃が、セラを襲った。視界が一瞬歪む。 うしろに控えていたレオンが、低い声で問う。「被害状況はどうなっている? ジェイド以外の者はどうした」「他の者は……見張りのために残した一部をのぞき、全員、要塞まで撤退しています」「ジェイドに何かあったんですね」 セラがそう問うと、補佐官は青い顔のまま答える。 視察の途中、突如として伏兵が現れたという。それ自体の数は多くなく、撃退できるはずのものだった。しかし、敵がジェイド率いる部隊めがけて投げ込んできたのは、尋常ではない数の魔道具だった。
山を越え、武骨な要塞に身を寄せてからというもの、セラの新たな日常は目まぐるしい忙しさに覆われていた。 白亜宮での日々も目まぐるしく忙しかったと感じていたが、あれは、今思うと穏やかで静かな日々だった。それも、遠い昔のことのように思える。この前線の要塞では、とにかく何をするにも人手が圧倒的に不足していた。セラも、侍女のリタも、護衛のレオンも、休む間もなく朝から晩までなにかしらのために動き回っていた。「セラ様、次の包帯が洗い上がりました」「ありがとうございます、リタ。こちらに置いてください」 石造りの作業部屋で、セラたちは積み上げられた布の山に向き合っていた。血や泥を洗い落とし、煮沸消毒された大量の包帯を、端からきっちりと固く巻き直していく。地味だが現場では欠かせない作業のひとつだった。 最前線で負傷した兵士たちがここまで担ぎ込まれてくると、要塞内で迅速に応急手当が施される。傷が浅い者はそのまま戦線へ戻り、自力で歩くことも叶わないような重傷者は、さらに後方へと送り返される。 作業部屋のすぐ外を、緊迫した声とともに担架が通り過ぎていく。セラは巻き途中の包帯を強く握り締めながら、ただ無事を祈るように一時目を閉じた。 ジェイドは、毎日朝早くから要塞の外へと出ている。 最前線へ赴いて剣を振るっているわけではないと聞かされていたが、それでもセラは、彼が無事に城門をくぐって戻ってくるまで、一日中心配で胸が押し潰されそうだった。 ジェイドの側についていけたら……。 そうは思うが、迅速な騎馬による移動を中心とする部隊に、乗馬を覚えたばかりのセラが同行できるはずもなかった。要塞に残り、自分の与えられた仕事をこなしながら帰りを待つ——それが、今のセラにできる唯一のことだった。 
「セラ……、本気で言ってる?」 夜のしずけさに包まれた要塞の一室で、ジェイドは自分の耳を疑った。情けないことに、思わず声がうわずってしまう。「はい。夜本に書いてあった、手や口を使って愛を与える方法を、最後まで実践してみたいです」「……⁉」 返ってきたのは、少しの淀みもない、あまりにまっすぐな答えだった。 椅子に座る自分の前に、ひざをついて見上げてくるセラ。 ジェイドは思わず目を泳がせ、どう答えるべきか分からずに動揺した。身の危険を感じるような戦況でも、複雑な政治の駆け引きの最中でも、これほど狼狽したことは一度もない。おそらく自分の人生の中で、今この瞬間が最も緊張している。 今……セラは何と言った……? 手と口で……最後まで……? 脳裏に瞬時に浮かんだ光景に、ジェイドの頭の芯がカッと熱くなった。それと連動するように、ズボンの下で男としての本能が一気に跳ね起きる。熱く硬く膨らんでいくのを止められない。 足元から自分を見上げてくるセラの瞳は、大真面目だった。だがよく見ると、どこか楽しそうにこちらの反応を窺っているようでもある。 王都の白亜宮を出発して以来、セラとまともに触れ合う機会は全くなかった。完璧な準備を済ませて出立したとは到底言い難い。あわただしく駆り立てられるようにして、出発した。そんな状況の中、毎日夜遅くまで、部隊の調整やあらゆる報告書の確認に追われ、セラとゆっくり時間を過ごす余裕はなかった。 正直に言えば、ようやくこの要塞に辿り着き、自分の部屋でセラが甲斐甲斐しく身体を拭いてくれるときも、やわらかな







