《呪われた能力持ちの令嬢が、身代わりで向かった婚約先は、優しい獣の住まう宮》全部章節:第 1 章 - 第 10 章

26 章節

【第1話】呪われた子

 世界のほとんどすべては、薄暗い地下室だった。 むき出しの石組の床に、絨毯は敷かれておらず、容赦なく足元を冷やす。自分の背よりもはるかに高い場所に、鉄格子がはめられただけの小さな窓があり、そこから入るわずかな光が、唯一頼りにできる灯りだった。地下室の扉は、外からかたく封じられ、自由にその扉をひらくことは許されていない。 石造りの壁から、湿った冷気が染み出し、セラの肌を容赦なく刺した。 セラは、両の手をこすりあわせ、小さな古いテーブルの上にのせられた、今日の食事を見つめた。与えられるのは、わずかばかりの痛んだ食事を日に一度だけだ。「まだ、食べちゃだめよ。夜まで待ちましょう。そうしないと、空腹と寒さで眠れなくなるから」 セラは、粗末なぼろ布のような衣服を、身体に引き寄せるようにして、震えながら、ひとりで話した。ここには、話し相手はいない。ずいぶん昔から、そうだから、ひとりで話すことが、セラにとって少しのなぐさめだった。 セラは、ローゼンタール伯爵家の次女として生まれた。 もう、何年、ここにいるのだろう。 長くは生かされないかもしれないと思っていた。だが、セラの手足は、しなやかに伸び、身体はひどく痩せてはいても、しっかりと女らしい形に育った。 地下室に入るきっかけとなった五歳のころの記憶を、はっきりと覚えている。 何度も、何度も、思い出したから。 あたたかな日常が失われたあの日が、またセラの心によみがえる。「化け物!」 あの日、姉のオディールは、恐怖に顔をひきつらせ、まっすぐセラを見つめて、はっきりとそう叫んだ。 オディールの指先から放たれる薔薇色の魔力は、幼いセラの目が眩むほどに美しかった。五歳のセラは、ほんの少し、その輝きに触れてみたかった。 ほんの少し、姉の指先にふれた。 瞬間。部屋を満たしていた薔薇色に輝く光の粒子が、霧が消えるようにセラの掌へと吸い込まれていった。 オディールの顔から、一瞬で血の気が引いたのを見た瞬間、セラは、これはいけないことなんだと自覚した。 姉の体から魔力の気配が完全に消失したと、なぜか分かった 悲鳴すら上がらない静寂の中で、駆けつけた母親がセラを激しく突き飛ばした。 それが、地獄の始まりだった。 王族や貴族の権力は魔力の強さに直結している。強大な魔力を持つ者には、恵まれた官職や肥沃な領地が優先
last update最後更新 : 2026-07-09
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【第2話】与えられた役目

 セラが過ごす、冷えた暗い地下室の日常において、救いは、いくつかあった。 ローゼンタール伯爵家は、セラに、伯爵家令嬢が受けるべき教育を、すべてではないにしろ、与えてくれた。セラにとって、学ぶこと、書物を読むことは、大切な癒しとなった。  教養として学ぶ書物のなかに、いくつも、古い物語があった。その中に見える景色だけが、セラにとっての世界だった。「いつか見たいわ。抜けるような青い空に、花々の香りをのせた風は、どんなふうにして走るのかしら。騎士が乙女のために走らせる立派な馬は、どんな様子かしら。きらびやかな舞踏会の音楽は、どうやって乙女の耳をよろこばせるのかしら」 地下室で、セラに与えられるものの大半は、体罰や、暴言や、冷えただけではなく痛んだ食事で、笑顔で迎えられそうなものはほとんどなかった。 でも、セラは、そんな中でも、心の中に、ひとつの灯りを持っている。 真面目に勉強し、物語に出て来る美しい人のように、穢れなき心を持っていれば、いつか、すこしの光を与えられるかもしれない。 その光のひとつが、年老いた教育係の夫人だった。 にこりともしない厳しい人だが、けっしてセラを軽んじて扱ったり、体罰を与えたりはしなかった。 セラは、地下室ですごす日々の中、夫人から様々なことを学んだ。 一般的な教養や、王国をとりまく情勢や、社交界における人間関係まで。 そして、もうひとつ。 小さな灯りとりの窓辺にやってくる小鳥たち。  セラは、わずかばかりの食事に出てくるパンを残しておいて、小鳥たちに投げて与えた。たとえ、自分が飢えたとしても、その愛らしさ、翼がもつ気まぐれな自由さは、セラにとって代えがたい癒しだった。 そうやって、セラは、長い年月を、ひとり、地下室で生きた。 十九になった年、セラは数年ぶりに地上へと引きずり出された。眩しさに目を細めながら連れて行かれたのは、父親の執務室だった。重厚な机の前で、父親がまるで他人を見るような目で、セラを見つめていた。 父親の傍らには、華やかに成長した姉のオディールと、仕立ての良いドレスを纏った母親がいる。 セラを見る彼らの瞳には、明らかな嫌悪と、汚れたものを見るような侮蔑が満ちていた。「セラ、お前に役目を与える」 父親の声は、事務的な響きを帯びていた。「第一王子、ジェイド殿下との婚約だ」 ジェイド王子。
last update最後更新 : 2026-07-09
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【第3話】獣の城

 窓を木板で打ち付けられた馬車の中は、終始、地下室のようだった。 車輪が石を噛む不快な振動に耐えながら、セラは三日間の旅路を過ごした。 結局、セラは屋敷を出されてから、まだ大きな青空を見ていない。 第一王子の宮へと向かう旅路は、地下室での暮らしよりも、暗くて窮屈だった。三日の間に与えられたのは、僅かな水と干し肉だけ。 セラは、大きすぎる衣装の、ずり落ちて来る肩の布を何度も持ち上げた。着せられたのは、姉のオディールのお下がりの衣装だった。「地下室で着ていたものより随分あたたかいけれど、大きすぎるわね。お姉さまのほうが、背も高いもの。歩くときにひっかけないように気をつけないと」 それに……。 肩にもたくさんの傷がある。 こんなに醜い傷を、誰かに見られたくない。 気をつけないと……。 目的地である王国の最果て、黒曜宮と呼ばれる辺境の城に近づくにつれ、大気が変質していくのを、セラは肌で感じた。 肌を刺すような、重苦しい圧迫感。 魔力の気配だ。 人間のものとは思えない、狂暴で猛々しい獣のような気配だった。「これも、第一王子の受けた呪いの影響かしら……」 セラは、深く息をして、その魔力のかけらのようなものを、己の内側に取り込んだ。 満たされるような感覚。 その感覚が通り過ぎると、セラのまわりから、重苦しい圧迫感がかき消える。 馬車がとまり、乱暴に扉が開け放たれる。「降りてください」 御者の冷淡な声に、セラの身体が強張った。冷たい声を聴くと、どうしても母親や姉に与えられた苦痛を思い出してしまう。 セラは俯き、ドレスの裾を強く握り締めながら、車外へと降り立った。 あたりは、どんよりと暗い。 頭上には、分厚い雲がかかっている。 青空はなかった。 目の前にそびえ立つのは、黒い岩肌で作られた巨大な城郭だった。 出迎える使用人たちの姿は数えるほどしかなく、皆一様に顔色を失い、何かに怯えるようにしている。彼らが恐れているのは、この城の主であるジェイド王子だろうか、それとも、あたりに満ちるおそろしい魔力の気配だろうか。 年老いた使用人の男が、城の門の内側へと、セラを誘導し、城の内部へと進んでいく。人はいない。奥に進むにつれて、どんどん、おそろしい魔力の気配が強まる。 ひろい廊下の中ほどで、年老いた使用人は足を止めた。「殿下は奥の部屋にい
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【第4話】孤独の交錯

 セラが差し出した指先に触れて、部屋を満たしていた漆黒の魔力が、完全に消失した。 静寂。 セラは、ようやく部屋の中の様子を、認識することが出来た。 第一王子の居室として相応しく、豪華な調度品に囲まれているが、どれも、無残に破壊されていた。壁もあちこちに傷があり、所々は崩れてしまっている。 大きな暖炉はあるが、火は入れられていない。 荒れた、寒い部屋だった。 そして、目の前には、オークのような姿の男がいる。 ジェイド王子は、黒い魔力のうねりが消えると、つきものが落ちたように、呆然としながら、自身の大きな掌を見つめていた。 そして、ゆっくりと顔を上げ、眼前に佇むセラを見据えた。 ジェイド王子の赤い瞳には、先ほどまでの荒々しさは消え、深い理知の光が宿っているように見える。彼は、落ち着いた声で言った。「きみが、ローゼンタール伯爵家から送られた婚約者か。報告は受けていた」「はい。セラ・ローゼンタールでございます」「寒いのか?」「えっ」 急に、そんなことを聞かれるとは思わず、セラが戸惑っていると、ジェイド王子は、自嘲したようにうすく笑って言った。「いや、すまない。震えているようだったから、寒いのかと思ったが……、目の前に化け物がいれば、震えもするな」 化け物……。 セラは、自らがそう呼ばれてきた、苦しみを、ジェイド王子の中に見た。 セラは、まっすぐに、ジェイド王子の瞳を見つめた。 思いが届くように。「殿下の姿を恐れて震えているわけではございません。ここは、とても寒いので、震えが止まらないのです。あなたのことを、化け物だなどとは、感じてはおりません」「……待っていろ」 ジェイド王子は、部屋の奥にある、壊れかけた豪華な衣装棚から、何かをひっぱりだした。それは、美しい羽飾りのついた、暖かそうなマントだった。 彼は、そのマントを、セラの前に差し出そうとして、立ち止まり、近くにあったテーブルの上に置いた。 もしや、怖がらせないよう、距離をとってくれているのだろうか。「それを、使うといい」 ジェイド王子は、そう言って、セラから離れた場所に立った。 セラは、立派なマントを手に取って、羽織ってみた。 なんて、なめらかな手触りで、あたたかなのかしら。 殿下は、優しい方だわ。 セラは、ジェイド王子の近くまで行き、親しみをこめて言った。「
last update最後更新 : 2026-07-10
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【第5話】秘め事の始まり

 セラは、第一王子の宮である黒曜宮で、はじめて、何不自由ない生活を味わった。 第一王子の居室からは離れた場所に用意されたセラの部屋は、立派に貴族らしく豪華な調度品が揃えられ、大きなテラスもある。 食事はあたたかで新鮮だった。 侍従長から、侍女を用意すると提案されたが、セラはそれを断った。 持ってきた衣装は、どれも一人で着られるものばかりだったし、なにより、身体にある傷を見られるのがおそろしかった。 部屋にある立派な鏡にうつった、セラの背には、母親から受けた、鞭の跡が、赤黒く、いくつも交差している。腕や肩にも、姉のオディールが退屈しのぎに魔力をぶつけて生じさせた、火傷のような歪な痕跡が斑点のように残っていた。「忌まわしい力を持つ上に、こんな姿のわたしが、近づいて嬉しいものなど、いないわね……」 ジェイド王子の言葉が、何度も胸の内で、つめたく刺さる。『二度とわたしに近づくな』 もしや、セラを傷つけることがないよう配慮しての言葉かもしれない。けれど、セラにとっては、つらい拒絶だった。 優しい婚約者と仲良くなれるかもしれないと、一瞬でも思った。 彼の姿は魔獣のようでも、その態度は紳士的で美しかったから。 自分との会話で、誰かが笑ってくれたのは、セラにとって、物心ついてから、はじめての出来事だった。それは、とても素敵なことだったのに……。 セラの心と同じように、テラスから見える空は、いつまでたっても晴れなかった。 そうして、数日が過ぎた黒曜宮の夜。 平穏は、唐突に破られた。 浅い眠りに就いていたセラは、激しい悪寒とともに跳ね起きた。肌を刺すような、おそろしい魔力のうねり。あたりに、黒く禍々しい魔力の影がただよっていた。「殿下の魔力だわ……、こんなところにまで……」 外から悲鳴や、逃げ惑う足音が聞こえる。 セラは肌着の上に、殿下の部屋で与えられたマントをはおり、裸足のまま廊下へと飛び出した。 すぐ先に、侍従長がいる。 どうやら、こちらに向かっているようだった。 侍従長のゆく手をはばむように現れた、黒い魔力の影を、セラは指先ではらった。あたりの影が霧散する。「セラ様、殿下の魔力が暴走しています。お逃げ下さい」「わたしは、殿下のもとに。あなたは逃げてください」「セラ様!」 セラは暗い廊下を、狂風のようにうねる黒い魔力に抗いながら突
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【第6話】近づくふたり

「セラ嬢……」 ほんのつかの間、人の姿を取り戻したジェイド王子だったが、今、セラの目の前で、心配そうな顔をこちらにむけているのは、魔獣オークの姿だった。 セラは、名を呼ばれて、はっとして両手をジェイド王子の腕から離した。「申し訳ありません。近づくなと言われたのに……触れてしまって。すぐに、下がります」 セラが立ち上がり足早に扉に向かうと、うしろから声をかけられる。「感謝します」 ジェイドの言葉に、セラが振り向くと、彼は、つづけて言った。「醜く恐ろしいオークに触れることは、不愉快だったろうに、あなたは助けてくれた。心から、感謝します」「醜いとも、恐ろしいとも思いません。あなたは、優しい人だと思います。誰も傷つかないよう、ここに一人で耐えていらっしゃいました。……不愉快な思いをさせたのは、わたしのほうです。呪われた力があるのに、あなたに触れてしまいました」 ジェイド王子が、訝しむように言う。「あなたは、まさか……、わたしがあなたの能力を厭って、近づくなと言ったと考えているのですか?」「……」「違います、セラ嬢、あなたを傷つけたくなくて……」 セラは、嬉しくなって、慣れない笑顔を返して言った。「嫌われたのでなければ、とても嬉しいです」 ジェイド王子も、魔獣の顔で、多分、笑顔だった。 すこし、分かりづらいけれど。 あの緊迫した夜から、あっという間に、数日が経過した。  あの日以来、セラとジェイド王子は、ふたりでひとつの秘密を共有することになった。セラの、魔力を奪う能力によって、ジェイド王子にかけられた呪いの魔力が奪われ、ジェイド王子本来の姿を一時的に取り戻す、という秘密だ。 何度か、ふたりで、試してみて、色々と分かった。 セラは、まだ荒れたままのジェイド王子の部屋で、テーブルをはさんで、オークの姿の彼と向かい合い、お茶を飲んでいた。 あたたかなお茶をひとくち飲み、セラは、さっきまでの実験結果をふまえて言った。「どうやら、ある程度近い距離にいれば、殿下からあふれでる呪いの魔力を、打ち消すことが出来そうですね」「だが、あまり長い時間そばにいては、きみがつらい思いをしないか?」 セラは、今の自分の身体にある感覚を確認しつつ答えた。「いいえ。それどころか、魔力で満たされると、力が出るような気もします」 そうして何度か話し合い、セ
last update最後更新 : 2026-07-12
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【第7話】悪意の系譜

 黒曜宮での生活は、セラに忘れていた人間らしさを取り戻させてくれた。 ジェイド王子との間に交わされる言葉は、どれも穏やかで、セラへの配慮に満ちている。 それに、黒曜宮につとめる者たちは、セラに好意的な目を向けてくれるようになった。 毎朝、直接、挨拶におとずれる侍従長は、ずいぶんと嬉しそうな顔で言う。「セラ様のおかげで、殿下はずいぶんと、快方に向かわれているように思えます」「あなたは、ジェイド殿下のことを、とっても思っているのね」「殿下が幼いころよりお仕えしております。本当に、セラ様が来てくださって……」 そう言って、涙まで流す。 ジェイド王子は、どうやら、使用人からずいぶんと好かれているようだった。おそろしい魔獣の姿となり、近寄る者をむしばむ魔力を抑えきれない状況になっても、城につとめるものたちは、立ち去らなかったらしい。 人が少ない印象を受けたが、どうやら、それは、瘴気の影響で、弱っていった者たちから、離れざるをえなかったからだという。 セラは、昼下がりの、いつもの時間に、ジェイド王子の部屋の扉をたたいた。 すぐに足音がして、ジェイド王子が自ら、扉をあける。「そろそろ、きみが来る頃だと思っていた」 セラは、ジェイド王子に笑顔を向けてから、部屋の奥のテーブルが用意されている定位置へと歩みを進めた。 開け放たれたテラスから、風が入る。 ひときわ、大きな風がふいたと思ったら、光が差し込んだ。「……あ」 セラが黒曜宮にやってきてから、ずっと、どんよりとした曇り空か雨だったが、ようやっとの晴れ間のようだ。 隣にジェイド王子がやってきて言う。「久しぶりの晴れ間だな。こんな風に、落ち着いた気持ちで、晴れ間を眺めることが出来るとは、思わなかった……」「……」 セラは、ドキドキとした気持ちで、テラスに向かって数歩踏み出した。 開け放たれた扉の向こう側に、大きく広がる空。 雲が切れて、いくつもの光が地に降り注いでいる。 そして、そこに見える青。 青空だわ……。「セラ? 泣いているのか?」「……綺麗で、感動いたしました、殿下」「セラ、言っただろう、ジェイドと呼んでくれ。きみは、わたしの、婚約者なのだから」「ジェイド様」「ジェイド」「ジェ……ジェイド……」 セラがぎこちなく、そう呼ぶと、ジェイドは満足したようだった。 ジェ
last update最後更新 : 2026-07-13
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【第8話】共犯者の誓い

 部屋に戻ったセラは、その日、一睡もできないまま夜を明かした。 胸の中で、己の実家であるローゼンタール家への疑いは、徐々に怒りへと変わり、夜が明ける頃には決意へと形を変えていた。 このままでは、きっと、だめよ。 ローゼンタール家は、おそらく、セラがすぐ魔獣と化したジェイド王子によって、切り裂かれるか、瘴気によって命を落とすか、どちらにせよ、不要なものを捨てるように黒曜宮へと追いやった。 最後に見た家族の様子を思い出す。 まさか、セラが、呪いの瘴気まで消し去るとは、考えてもいなかっただろう。姉のオディールは、はっきりと、セラの死の予兆を喜びさえしていた。 しかし、セラは生きている。 ローゼンタール家の致命的な誤算かもしれない。 セラは、自身のことを初めて一人の人間として扱い、尊厳を与えてくれた婚約者のジェイドが、ローゼンタール家の悪意によって傷つけられているかもしれないという事実を、ゆるせなかった。 すべてを伝えよう。 たとえ、その結果、ジェイドの優しい態度が失われてしまったとしても。 それでも、彼の役にたてるのなら……。 昼下がり、セラはいつものようにジェイドの部屋を訪れた。「セラ、昨日より顔色はましに見えるが……。まだ、うかない顔をしているな。何が、きみの心を曇らせているのか知りたい」 ジェイドが、心配そうにする様子を見て、セラは意を決して話した。「ジェイド、あなたの身にかけられた呪いについて、お話したいことがあります」「呪いについて?」「昨日、あなたの呪いに触れたとき、魔力の奥にある気配を感じました。その気配と同じものを、わたしは知っています」 セラの張り詰めた声音に、ジェイドが真剣な面持ちで、こちらを見つめている。「その気配は、ローゼンタール家の地下にある宝物庫からただよう魔力と、同じものです」 ジェイドの表情が、けわしくなる。 セラは、苦痛を感じながらも、はっきりと言った。「ジェイド……、あなたの身体を苛むその呪いに、わたしの実家が深く関わっている可能性があります」 静寂が部屋を支配した。 その後に訪れたのは、ジェイドの怒りに増幅されるように、彼の身体からあふれでる瘴気のような呪いの魔力のうねりだった。もしや呪いは、彼の精神状態にも、深く結びついているのかもしれない。 魔獣の赤い瞳が、怒りに染まっている。 
last update最後更新 : 2026-07-14
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【第9話】虚飾の檻と悪戯

「すこし、人の姿をたもつ時間が長くなったような気がしますね」「そうだな。セラのおかげだ。もっと、きみに見合う姿でいられるといいのだが」「ジェイドは、どんな姿でも、素敵です」「そうやって、可愛いことばかり言うんだな、わたしの婚約者殿は」 セラは、昼下がりのジェイドの部屋で、いつものお茶の時間を楽しんでいた。 共犯者となったふたりだったが、特に何かふたりで事を起こすということはなかった。「焦って動けば失敗する。何事も、計画が必要だ」 ジェイドはそう言って、手始めに滞っている領地経営に関する業務をはじめた。そして、その裏で使用人たちを呼び戻したり、もともと率いていた騎士団の者たちに秘密裏に声をかけて招集したりし始めているようだった。 ジェイドは、そういった一切のことを、セラには言わず、することもできただろうが、すべての情報を共有してくれた。 あなたを信頼している。 まるで、そう言われているようで、セラは、嬉しかった。 ある日、めずらしく朝の早い時間に、ジェイドがセラの部屋を訪れた。 侍従長を従えている。 ふたりとも、表情がけわしい。「どうされたのですか?」「ローゼンタール家から、使者が送られてくるそうだ。今、領地の境を警備するものから、報せがあった。午後には、到着するだろう」「ローゼンタール家から……」「婚約者として送った娘が、その役目を全うしているか心配で、様子を知りたいと、ローゼンタール家からの言伝も届いている」 それを聞いた瞬間、セラの背中に冷たい不快感が走った。 婚約者として送った娘が、その役目を全うしているか……。 それは、つまり、こういうことだろうか。 呪われた魔獣に、呪われた娘はもう噛み殺されただろうか。 もしくは、瘴気によって、どこまで弱りはてているのか、はたまた、ジェイドの呪いの進行具合を測るためかもしれない。 そうか……、婚約者として捨て駒を送れば、ご機嫌伺いとして使者を立て、ジェイドの領地内に入り込み、様子を探ることもできる。 本当に、使い勝手の良い捨て駒として、ここに立たされているのかもしれないわ。 ジェイドが、冷静な声で言う。「わたしが正気を保っていることを気取られれば、彼らは警戒するだろう。きみの能力が、ここで良い方向に働いていることを知れば、きみを無理にでも連れ帰ろうとするかもしれない」 
last update最後更新 : 2026-07-15
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【第10話】融ける一線

 ローゼンタール家の使者が逃げ帰ってから数日。 黒曜宮は、また静かな時間を取り戻していた。 だが、数日がたったある日の深夜。 突如として黒曜宮は、セラがこれまで体感したことのない、膨大な禍々しい魔力に包まれた。空気は凝固したように動きをはばみ、呼吸をするだけで胸が焼けるような感覚がある。 ジェイドにかけられた呪いのうねりが、圧倒的な力であたりを支配していた。 セラは、本能的な恐怖に全身をふるわせながらも、考えるよりも先に、ベッドから這い出て廊下に走り出た。 あたりには、濃厚な漆黒の霧が立ち込めている。 それは視界を奪うだけでなく、触れるものの生命力を削ぎ落とす死の毒気のようでもあった。セラは指先で、黒い霧をはらいながら、ジェイドの部屋の扉に手をかけた。 闇だ。 部屋の内側は、闇につつまれている。「ジェイド!」 部屋の奥から聞こえてきたのは、獣の咆哮ではなかった。「セラ……、逃げろ!」 苦しげにそう言うジェイドの声が聞こえた後、部屋に響いたのは、獣の悲鳴のような声だった。生きたまま肉を裂かれでもしているような悲痛な響きが、セラの身をも切りつけるようだった。 セラは、漆黒の嵐が吹き荒れる中心へと飛び込んだ。「ジェイド!」 目隠しをされたように、何も見えない闇の中を、セラは、必死で、両手を突き出し、ジェイドの姿をさがした。 指先から、黒い魔力が、セラの内側に流れ込んでくる。今までとは、比べ物にならないほど、重く感じた。 息が荒くなる。 部屋の奥、血に染まった床の上で、巨大な獣がうずくまっていた。 肥大化した灰緑色の肉体は、過剰な魔力によって限界まで膨張し、皮膚の至る所から鮮血が噴き出している。オークの大きな指先にある凶暴そうな爪が、自身の肩を深く抉っていた。 暴走する魔力は触手のようにのたうち、ジェイドの身体も、部屋の調度品も、すべてを攻撃して砕こうとしているように見えた。 セラが近づいた気配を察したのか、ジェイドの魔獣らしく赤い瞳がセラを捉えた。「来るな……! 私から、離れろ!」 狂暴な衝動に抗い、セラを遠ざけようと叫ぶジェイドの姿。 セラは、暴風のような魔力のうねりを切り裂いて、彼の巨大な肉体へと飛び込んだ。腕で触れるだけでは足りない。呪いに塗れた巨躯を、セラは、両腕で強く抱きしめた。「——っ!」 呪いの濁流が、セ
last update最後更新 : 2026-07-16
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