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第20話

Author: 音夢
拓也は上機嫌だった。そういえば――と美咲は思い出す。彼は今朝、出かける前からすでに機嫌が良かったのだ。

美咲が「詩織が乗ったプライベートジェットなんて嫌」と口にした、その瞬間から。拓也の顔に浮かんだ笑みは、あからさまに機嫌を物語っていた。

「美咲、プレゼントだ」

拓也はどこからか一枚の紙を取り出し、彼女の手に渡した。

視線を落とすと、それはプライベートジェットの購入契約書だった。そこに記された所有者の名は――美咲。

「これはお前だけの、唯一の機体だ。有言実行、だろう?」

まるで手柄を褒めてもらいたがる大型犬のように、拓也は誇らしげに笑っていた。その表情には、美咲が驚いて喜ぶか、あるいは微笑み返すことを期待している様子がありありと浮かんでいた。

だが、美咲の顔は水面のごとく静かで、感情の波一つ立たなかった。

彼女は顔を上げ、拓也の瞳を見つめる。その瞳には星の光が宿るかのようで、とても演技には見えない。

この人の演技は、あまりにも巧みだ。ときに本物の愛情さえ宿っているように見えてしまうほどに。

今も、まさにそうだ。

全部、嘘だというのに。

「嬉しくないのか?」

拓也の声音にはわずかな落胆が混じった。だがすぐに身を屈め、後ろから美咲を抱きしめ、肩に顎をのせて笑う。

「それとも、プライベートジェットなんて要らないか?なら明日はクルーザーでも買ってやろうか」

美咲の眼差しは冷ややかで、それでいてどこか寂しげだった。

「プライベートジェットでも、クルーザーでも……あなたにとっては何でもない日常なのでしょうね。他の女たちにも、そうやって口説いているの?」

拓也は口の端を吊り上げ、いたずらっぽくトランプに興じる友人たちへ視線を向けた。

「おい、俺が他の女にこんなものを買ってやったこと、ないよね?」

千尋が真っ先に立ち上がり、声を張った。

「ええ、もちろんです。拓也が他の女性にクルーザーやプライベートジェットを買ったなんて話、聞いたことありませんよ。美咲さんが初めてだと思います」

もう一人、先ほどアトリエの外で賭けの話をしていた男も立ち上がった。

「そうそう、マジでないって。拓也はひょろこを本気で大事にしてるんだ」

その一言一言が、美咲には皮肉にしか聞こえなかった。

彼らは知っているはずだ。拓也が自分を愛していないことも、あの忌まわしい
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