クライネルト侯爵家を後にしてから数日、アリアはひたすら東を目指して歩き続けていた。
馬車に乗るだけのお金の余裕はない。節約のためにずっと歩いていった。 隣国まではきちんと街道が通っている。治安もそう悪くない。けれどアリアにとっては初めての長旅。支えてくれる従者もおらず、心細さや疲労に何度もくじけそうになった。しかし、マーサが持たせてくれた路銀と、彼女の温かい言葉を思い出すたび、アリアは自分を奮い立たせた。(ヴァルハイトへ行けば、何かが変わるかもしれない……ううん、変えるのよ。絶対に)
そしてついに、アリアは隣国ヴァルハイトの国境を越えた。
母国とは明らかに異なる、活気に満ちた空気が彼女を迎える。街道沿いの町々では、風変わりな機械や、自動で動く人形のようなものが当たり前のように人々の生活に溶け込んでおり、アリアの目は自然と輝きを増した。魔導技術がこれほどまでに日常に浸透している国を見るのは初めてだった。さらに数日後、アリアはヴァルハイトの首都、エルツハイムに到着した。
石畳の道を行き交う人々は皆、生き生きとした表情をしており、街のあちこちから聞こえてくるのは、新しい発明や魔導具に関する議論の声。馬車に混じって、蒸気機関で動く乗り物や、見たこともない仕掛けの運搬装置が動いている。その光景は、これまでのアリアの世界観を根底から覆すものだった。(すごい……なんて活気に満ちた街なの!)
マーサから預かった紹介状に記された住所を頼りに、アリアは「木漏れ日亭」という名の宿屋にたどり着いた。こぢんまりとしているが、手入れの行き届いた清潔な宿で、窓からは明るい光が差し込んでいる。
「ごめんくださいまし」
おそるおそる声をかけると、奥から恰幅の良い、人の好さそうな女主人が顔を出した。
「はいはい、どちら様ですかな? あら、可愛らしいお客さんだね」
「あの、私、アリア・フォン・クライネルトと申します。マーサという方からの紹介状を……」アリアが紹介状を差し出すと、女主人は「まあ!」と声を上げ、ぱっと顔を輝かせた。
「マーサ叔母様から! ああ、あなたがアリア様ね! よく来たねえ、遠いところ大変だったでしょう。ささ、中へお入り」
女主人はエルマと名乗り、マーサの遠縁にあたる人物だった。彼女はアリアを温かく迎え入れ、旅の疲れを気遣ってすぐに部屋へと案内してくれた。
簡素だが清潔な部屋とエルマの飾らない優しさに、アリアは久しぶりに心からの安堵を覚える。こわばっていた心が解きほぐされていくようだった。「マーサ叔母様からは、あなたが大変なご苦労をされたと聞いているよ。ここではゆっくり羽を伸ばすといい。何か困ったことがあったらいつでも私に言ってくださいね」
エルマの言葉にアリアは再び涙が込み上げてくるのを感じる。けれど今度は悲しみの涙ではなかった。
「ありがとうございます、エルマ様……」
「嫌ですねぇ、エルマと呼んでくださいな。アリア様は貴族様で、マーサ叔母様の大切な人なんだから」 「では私もアリアと呼んでください。家からは勘当された身です。今の私はただのアリアですから」数日間かけてアリアは木漏れ日亭で旅の疲れを癒した。その間にエルマから街のことを教えてもらう。
その中でとても気になる話があった。 エルツハイムでは年に一度、大規模な技術博覧会が開催され、国内外から多くの発明家や技術者が集まるのだという。「技術博覧会はそりゃあもう大きな催しでね。ヴァルハイトはもちろん、外国からも自慢の魔導具が持ち込まれるのさ。有名どころの貴族家から新進気鋭の技術者まで、一堂に会するんだ。新しい技術のスカウトも盛んで、博覧会でスポンサーを得た若い技術者が後々有名になるなんてのも、よくある話なんだよ」
話を聞けば聞くほど、アリアにとってまさに夢のような催しである。
博覧会はまもなく開始されるという。アリアは当日を心待ちにした。そして博覧会の初日。アリアは少しの緊張と大きな期待を胸に、会場へと足を運んだ。
広大な会場には所狭しと様々なブースが立ち並び、目新しい魔導具や発明品が展示されている。自動でパンを焼く機械、天候を予測する装置、声に反応して光るランプ――そのどれもが知的好奇心を刺激してきて、時間を忘れて会場を見て回った。(素晴らしいわ……こんなにも自由な発想で、魔導技術が活かされているなんて!)
実家では「はしたない」と蔑まれた自分の知識や興味が、ここでは称賛され、更なる発展を求められている。その事実に、アリアの胸は高鳴った。
国が安定し、平和と繁栄が確固たるものとなったある春の日。 フリードはアリアを庭園に誘う。そこは初めて二人が言葉を交わした技術博覧会の会場跡地に作られたものだった。 中央には、アリアが改良のヒントを与えた小型魔力集積装置の記念碑が建てられている。周囲には彼女が開発に関わった様々な魔導具が展示されて、人々の生活を豊かに彩っている様子を描いていた。「アリア」 フリードは、夕陽に照らされ黄金色に輝くアリアの前に跪いた。 小さなベルベットの箱を差し出しす。中には、アリアの瞳の色にも似た深く澄んだ青い宝石が嵌められた指輪が輝いていた。「私は、君と出会えた奇跡に感謝している。君の才能、君の勇気、君の優しさ、その全てが、私とこの国を救ってくれた。これからの人生も、君と共に歩みたい。私の生涯をかけて君を守り、愛し続けることを誓う。どうか、私の妻となってほしい、アリア」 アリアの瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出た。悲しみの涙ではなく、言葉では言い尽くせないほどの幸福と感謝の涙だった。「はい……喜んで、フリード様。あなたの、あなたの妻に……してください」 震える声でそう答えると、フリードは優しくアリアを抱きしめる。その薬指に永遠の愛を誓う指輪を嵌めた。 二人の結婚式は、ヴァルハイトの歴史において最も盛大で、最も美しく、そして最も祝福に満ちたものとして、後世まで語り継がれることとなる。 国中から集まった民衆は、彼らの新たな門出を心から祝った。空にはアリアがこの日のために特別にデザインした、色とりどりの光を放つ祝福の魔導具が、まるで天の川のようにきらめいていた。 その光景は、まさに「月の聖女」の結婚式にふさわしい、幻想的で荘厳な奇跡のような光景だった。 それから数年の歳月が流れた。 ヴァルハイトは、フリード公爵とその妻アリアの賢明な治世のもと、平和と繁栄を享受し続けていた。公爵夫妻は国民から深く敬愛され、その愛の物語は
辛い対面を終えて心身ともに疲弊したアリアを、フリードは自室で優しく労った。「よく頑張ったな、アリア。辛かっただろう」「……いいえ。これで、ようやく一つの区切りがついた気がします。私はもう、過去に囚われることなく、前を向いて生きていけます」 アリアはフリードの胸に顔を埋めながら、穏やかな声で言った。その瞳に涙はあったが、悲しみだけではない。確かな決意と未来への光が宿っていた。「私は、ヴァルハイトの民のために、そして何よりも……フリード様、あなたのために、私の全てを捧げたいのです」「ああ、私も同じだ、アリア。君の全ては私が守る。そして君と共に、この国の未来を築いていきたい」 フリードはアリアを強く抱きしめる。 過去の鎖を断ち切り互いの愛を再確認した二人の絆は、もはや何ものにも揺るがされることのない強固なものとなっていた。 ヴァルハイトの空はどこまでも青く澄み渡り、アリアとフリードの未来を明るく照らし出しているかのようだった。 そして遠いアストレア王国では、彼らが蒔いた種の刈り取りが、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。 アリアが過去と決別し、ヴァルハイトでの未来をフリードと共に歩むことを誓った後も、世界の歯車は容赦なく回り続けていた。 アリアからの援助は、アストレア王国の飢えた民衆に一定の効果をもたらした。しかしそれはあくまで人道支援のレベルであり、国家としての崩壊はもはや誰にも止められなかった。 国内の混乱は内乱へと発展して貴族たちは己の保身に走り、民を見捨てた。ついに民衆の怒りは王宮に向けられる。 なだれ込んだ暴徒たちによって、エドワード王子と父である国王は玉座から引きずり下ろされた。国王は王位を剥奪され、王子とともに全ての権力と財産を失い、一市民として国外へ追放された。 その後の彼の人生は、アリアを失ったことへの永遠の後悔と、かつての栄華を夢想するだけの惨めなものだったと伝えられている。彼は二度と故
アリアは父と会うとを決めた。逃げていてはいつまでも過去に縛られることになる。フリードが同席して万全の警護が敷かれた中で、アリアはクライネルト侯爵と対面した。 父はアリアの姿を一目見るなり、言葉を失った。そこには、かつての地味で影の薄い娘の面影はなかった。自信を持てずにおどおどとして、人の顔色を伺ってばかりのアリアはいなかった。 上質なドレスを身に纏い、自信に満ちた穏やかな表情で佇むアリアは、まるでどこかの国の王女のような気品と輝きを放っていた。 そして何よりも彼女の隣ではヴァルハイト公国の若き支配者フリードが、絶対的な守護者のように寄り添っている。「ア、アリア……なのか……?」 クライネルト侯爵は震える声で呟いた。彼は自分がどれほど大きな過ちを犯したのかを、この瞬間に悟った。 どこかでまだ疑っていた。あの「出来損ない」の娘が聖女とまで呼ばれるほどの功績を上げるはずはないと。才能があったはずはないと。 けれどこの姿を見れば、もう疑いの余地はない。 娘の前に崩れるように膝をつき、床に額を擦り付けて泣きながら謝罪の言葉を繰り返した。「許してくれ、アリア……! この愚かな父を……! お前の才能を見抜けず、あのような酷い仕打ちを……。だが、どうか……どうか国を、そして私たち家族を救ってくれ……! お前がいなければ、アストレアはもう……!」 アリアは父の無様な姿を静かに見つめていた。かつてあれほど恐ろしかった父が、今はこんなにも小さく哀れに見える。 憐れみはある。けれどそれ以上は心が動かなかった。 家族への情は既に擦り切れていたのだと、アリアは思う。 彼女はゆっくりと口を開いた。氷のように冷たく、しかしどこまでも澄み渡っている声で。「お父様。あなた方が私にしたことを、私が忘れることは決してありません。どれほど謝罪の言葉を重ねられようと
アストレア王国からの使者の件は、アリアの心に重い影を落としていた。眠れぬ夜が幾度となく訪れて、そのたびに過去の辛い記憶が蘇っては彼女を苛んだ。 実の両親からの冷酷な仕打ち、兄や弟からの嘲笑、そしてエドワード王子からの屈辱的な婚約破棄――。それらはヴァルハイトで得た幸福と自信によって薄れていたはずだったのに、癒えかかっていた傷口を再び開かせるかのようだった。(私をあんな風に扱っておきながら、今更助けてほしいなんて……あまりにも虫が良すぎるわ) 怒りと虚しさが込み上げてくる。 だけど同時に、アリアの脳裏に浮かび上がるものがある。唯一の味方であった老メイドのマーサの優しい笑顔や、飢えや混乱の中で苦しんでいるであろう名も知らぬアストレアの民衆の姿だ。彼らには何の罪もないのに、苦しんでいる。(あの人たちは見捨てられない)「アリア、思い詰めた顔をしているな」 いつものようにアリアの様子を気遣って訪れたフリードが、彼女のこわばった表情を見て静かに言った。彼は無理に聞き出そうとはせず、ただアリアの隣に座って待っていてくれた。「フリード様……私、どうすればいいのか……分からないのです」 アリアは震える声で心境を吐露した。虐げられた過去への憎しみと、罪なき人々への憐憫。その二つの感情が、彼女の中で激しくぶつかり合っては揺れている。 フリードは、アリアの華奢な手を優しく握りしめた。「君がどんな決断を下そうとも、私はそれを尊重する。そして、君の心が安らぐ道を選べるよう、全力で支える。だが、一つだけ言わせてほしい。君はもう、誰かに虐げられる存在ではない。君自身の意思で、未来を選ぶ権利があるのだ」 その言葉は、アリアの心の霧を少しだけ晴らしてくれるようだった。フリードの揺るぎない眼差しと温もりが、彼女に勇気を与えてくれる。(そうよ……私はもう、あの頃の私じゃない) アリアは一つの決意を固めた。そして、まずマーサにだけは手紙を書くことにした。
その頃、アリアの故国アストレア王国はまさに阿鼻叫喚の地獄と化していた。「月の光」の恩恵に浴するヴァルハイトとは対照的に、アストレアでは飢えた民衆による暴動が王都の随所で頻発し、騎士団による鎮圧もままならない状態だった。商店は襲撃され、貴族の屋敷は焼き討ちに遭い、かつての華やかな王都の面影はどこにもなかった。 エドワード王子は連日のように続く凶報に、執務室で頭を抱えていた。彼の顔には憔悴の色が濃く、かつての傲慢な自信は見る影もない。(なぜだ! なぜこんなことに……俺が何か間違っていたというのか……?) 彼はヴァルハイトで「月の聖女」とまで呼ばれ、国を救うほどの活躍をしているアリアの噂を苦々しい思いで耳にしていた。自分が足蹴にし価値がないと断じた女が、今や隣国で英雄視されている。その事実は彼のプライドをズタズタにした。そして何よりも、自分が犯した取り返しのつかない過ちの大きさを突きつけてられていたのである。(もし……もしアリアが、今もこの国にいてくれたなら……いや、俺が彼女の才能を正しく評価し、支えていたなら、こんなことには……) 後悔の念が、黒い霧のように彼の心を蝕んでいく。 そんなエドワードの苛立ちをさらに増幅させるのが、婚約者であるメアリーの存在だった。国の危機的状況を全く理解せず、彼女は未だに自分の贅沢な生活を維持することしか頭になかった。「エドワード様、またそんな暗い顔をして。それより、わたくしの新しいドレスを見てくださる? 今度の夜会のために新調したのよ。ヴァルハイトの流行を取り入れてみたのだけれど……」「夜会だと!? この国が滅びかけているというのに、まだそんなことを考えているのか!」 ついにエドワードの怒りが爆発した。「お前のような愚かで自己中心的な女は、もはや俺の妃にはふさわしくない! 出ていけ! 二度と私の前に顔を見せるな!」 エドワードはメアリーを突き飛ばし、彼女の部屋から全ての贅沢品を運び
「アルテミス計画」におけるエネルギーコアの安定化成功は、ヴァルハイト公国に新たな時代の到来を告げる序曲となった。 フリード公爵の号令のもと、まずは首都エルツハイム近郊のいくつかの地区で試験的なエネルギー供給が開始された。まさに歴史的な瞬間である。 夜になっても街灯は以前とは比べ物にならないほど明るく輝いている。盗賊の心配も減ったと人々は喜んだ。 小規模な工場は夜間も稼働できるようになり、生産性は向上。家庭では、魔導式の調理器具や暖房器具が安価なエネルギーで使えるようになり、人々の生活は目に見えて豊かで快適なものへと変わっていった。 この奇跡のようなエネルギーはその源である「月の森」と、計画の中心人物であるアリアの功績を称え、人々から「月の光(ルナ・ルクス)」と呼ばれるようになった。 そしてアリアは、いつしか民衆から「月の聖女」「ヴァルハイトの至宝」と囁かれ、畏敬と親しみを込めて称えられる存在となっていた。 フリードは彼女の功績を最大限に評価して、公爵邸の敷地内に彼女専用の新たな研究所と快適な居住空間をしつらえた。そこはアリアが誰にも邪魔されず研究に没頭でき、同時に安心して羽を休めることができる聖域となった。「アリア様、また新たな魔導具の設計図が完成したと伺いましたわ。今度はどんな素晴らしいものが生まれるのかしら」 侍女のハンナはアリアの身の回りの世話をしながら、心からの尊敬と期待を込めて話しかける。かつてアリアを訝しんでいた宮廷の貴族たちも、今では彼女の前に出ると緊張した面持ちで敬意を表し、その助言を熱心に求めるようになっていた。 アリアはそうした周囲の変化に戸惑いつつも、謙虚な姿勢を崩さず、ただひたすらにヴァルハイトの未来のために研究を続けていた。 試験的なエネルギー供給開始から数週間が経ったある夜。成功を祝うささやかな祝宴が、フリードの私室で催された。参加者はフリードとアリア、そして側近のゲルハルトだけという内輪のものだったが、部屋には温かく満ち足りた空気が流れていた。 祝宴が和やかに終わり、ゲルハルトがそっと退