LOGIN「単刀直入に言いますよ」
セナさんはスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。表示されているのは通話アプリの発信画面。
宛先には『事務所社長』、そして『警察』の文字が見える。指先一つで、私の人生を社会的に抹殺できる準備は整っていた。「綺更津レンの誘拐、および監禁、洗脳の疑いで、通報する準備はできています」
「……っ」
息が止まる。
誘拐。監禁。客観的に見れば、そう見えなくもない。連絡を絶った国民的アイドルが、一般人の女性宅に軟禁され、謎の服を着せられているのだから。
しかもそのアイドルは、謎の服を気に入っているのだと言うのだから。
あまりにも状況が謎すぎる。
……あれ? 何だか不安になってきた。私、洗脳してないよね?
「言い訳があるなら聞きますけど? ……その前に」
セナさんは冷たい瞳で私を見下ろし、優雅に靴を脱ぎ捨てた。
「とりあえず、あがり込ませていただけますか? 立ち話もなんですしね」
拒否権など最初から存在しなかった。眼鏡の魔王とオレンジ髪の猛獣が、私の狭い城塞(1DK)への侵攻を開始する。
「うぅ……」
レンくんが獣のように唸り声を上げているが、セナさんは意に介さない。
ハルくんは「お邪魔しまーす! いい匂いする!」とピクニック気分で靴を脱いでいる。私は混乱する頭で必死に思考を回した。どうする。どうすればいい。通報されたら終わりだ。会社もクビになるし、実家の定食屋にも迷惑がかかる。
何よりもレンくんの経歴に傷がつく。それだけは避けなければならない。(お茶……とりあえず、お茶を出さなきゃ……。いや、その前に食べかけの朝ごはんを片付けなきゃ)
染み付いた「モブ根性」と「オカン気質」が、パニックの中で唯一の解答を弾き出した。
私は強張る足を引きずり、リビングへと戻る。 私の平和な日常が、音を立てて崩れ去っていくのを感じながら。◇
窒息しそうだ。普段は私
30分後。私たちはマンションから少し離れた、庶民派のスーパーに来ていた。「どう? これならオーラ消えてるだろ?」 レンくんが得意げに胸を張る。黒縁の瓶底メガネに、ボサボサの黒髪ウィッグ。さらにどこで調達したのか分からない絶妙にダサいチェックのシャツを一番上のボタンまで留めている。「……素材が良すぎて、逆に『隠しきれないイケメン』になってますけど、まあマシですね」「よし、行こう」 レンくんは嬉々としてカートを押し始めた。「これ、やってみたかったんだ。カート押して、『晩飯なににする?』って聞くやつ」 彼は完全に楽しんでいる。時間がないため、私たちは手分けして食材をカゴに放り込んでいった。大根、ごぼう、人参、豚バラ肉、豆腐、油揚げ。「すげぇ……このシール、『20%引き』って書いてある。素晴らしいシステムだ」「いいから早く」 特売シールを見て感動しているトップアイドルを急かし、私たちは買い物を終えた。 マンションの地下駐車場に戻ると、車を降りた私たちに人影が走り寄ってきた。「レンさん、紬さん! もう時間ですよ」 新人マネージャー補佐の斉藤くんだ。人懐っこい性格で、Noixメンバーから可愛がられている人だった。「分かった。ごめん紬、俺もう行かなきゃ」「はい。いってらっしゃい、レンくん」「……うん」 彼は名残惜しそうに、一度だけ私の手をきゅっと握った。「夜、楽しみにしてる」 そう言い残して、彼は「ダサいチェックシャツ」から「王子の衣装」に着替えるべく、斉藤くんと一緒にエレベーターへと消えていった。 ◇ そこからは孤独な戦いだった。広大なペントハウスに一人で取り残された私は、最新鋭すぎて使い方の分からないIHコンロやオーブンと格闘しながら、ひたすら下拵えを続けた。 トントン、トントン。誰もいないキッチンに包丁の音が響く。出汁の香りが立ち上り、炊飯土鍋から白い蒸気が漏れる。「……よし。まずは
翌朝。目覚めた瞬間、私はここが死後の世界かと思った。 横たわっているのは、体が沈み込むほどフカフカのキングサイズのベッド。自動で開いたカーテンの向こうには、視線の高さに東京タワーとスカイツリーが並んで見えている。「……天国?」 いや、違う。ここは葛城セナさんの自宅、都内某所のタワマン最上階、ペントハウスだ。 私は今日から、Noixの「住み込み料理番」として、この天空の城で働くことになったのだ。 とりあえず顔を洗おうとベッドから出たが、広すぎる廊下で迷子になり、近づいただけで勝手に蓋が開くトイレに悲鳴を上げ、ようやくキッチンにたどり着いた頃にはぐったりと疲れていた。庶民殺しの罠が多すぎる。「さて……朝ごはん、作らなきゃ」 ここには私以外に3人の成人男性がいる。腹を空かせた猛獣たちだ。私は気合を入れて、業務用の巨大冷蔵庫の扉を開けた。「…………は?」 だがしかし。そこにあったのは虚無だった。いや、物は入っている。 私でも名前を知っている高級ワイン。キャビアの瓶。トリュフ入りのチーズ。そして見たこともない横文字の高級ミネラルウォーター。 以上だ。卵も、牛乳も、豚コマも、ネギ一本すらない。「なんの冗談ですか、これ」「……朝から騒々しいですね」 背後から声がして振り返ると、バスローブ姿のセナさんが優雅にコーヒー(全自動マシンのもの)を飲んでいた。「セナさん! これじゃ料理できません。キャビアで卵焼きは作れないし、ドンペリで味噌汁は作れません!」「食事は外食かデリバリーで済ませていましたからね。必要なものがあるなら、マンションのコンシェルジュにリストを渡せば調達してくれますが」「ダメです! 自分の目で見て選びたいんです! 特に生鮮食品は、鮮度が命なんですから。譲れません!」 私が食い下がると、奥の部屋からあくびを噛み殺しながらレンくんが出てきた。
「彼女は恋人ではありません。……俺の、命綱です」 沈黙が落ちた。ファンには「仕事仲間」としての信頼宣言と聞こえて、私には「愛の告白」と聞こえる、ギリギリのライン。 だが、瞳に宿る熱が嘘ではないと示している。「だから、俺から彼女を奪わないでください。……お願いします」 トップアイドルが頭を下げる。プライドを捨てたその姿に、荒れ狂っていたコメント欄の流れが変わった。『レンくんがそこまで言うなら……』『命綱なら仕方ない』『ご飯食べてくれるならいいよ』『スタッフさんありがとう』 嘘が真実になった瞬間だった。 ◇ 「……はい、カット! お疲れ様でした!」 配信終了の合図と共に、レンくんが糸が切れたように脱力した。そのまま私の元へ歩み寄り、肩に頭を乗せてくる。「言ったぞ。もう逃がさないからな」 耳元で聞こえた声は、配信の時よりもずっと甘く独占欲に満ちている。 私が思わず一歩下がりかけると、しっかりと抱きしめられてしまった。「上出来です」 セナさんがタブレットを見ながら満足げに頷いた。「世論は『Noixはプロ意識が高い』という方向に誘導できました。これで貴女は、公然と我々のそばにいられます」「はぁ……。寿命が縮みました」 私の足から力が抜ける。でもレンくんに抱きしめられているせいで、床に座り込むこともできない。 ハルくんが明るい声で言った。「あ、そうそう紬ちゃん。あのアパート、もう解約の手続きしといたから!」「……はい?」「荷物は全部こっちに運ぶ手配したよ。今日からここが、俺たちの家!」 ハルくんが悪びれもなく爆弾発言をした。セナさんも涼しい顔で頷く。「セキュリティ上、あのアパートに戻ることは許可できません。ここなら部屋は余っていますから、好きな部屋を使いなさい。あぁ、会社への退職届だけは出してきてくださいね」 断る権利など最初からない、上か
それからは怒涛の時間だった。セナさんが手配したスタイリストが到着し、私は「地味な一般人」から「デキる女性スタッフ」へと変身させられたのだ。 ヨレヨレの服は脱ぎ捨てられ、パリッとした清潔感のあるネイビーのパンツスーツに。ボサボサの髪はきっちりとまとめられ、ナチュラルだが意思の強さを感じさせるメイクが施される。 鏡の中に映るのは、私であって私ではない戦う女の姿だった。……我ながらちょっとかっこいい。「……似合ってる」 支度を終えた私を見て、レンくんが少し眩しそうに目を細めた。「でも、なんかムカつく。他の男に見せたくない」「仕事着ですよ。レンくんを守るための、鎧です」 私は拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように言った。 ◇ 午前8時。事務所の会見場ではなく、あえてこのペントハウスのリビングから、緊急生配信が行われることになった。 カメラの前にはNoixの三人が座る。私は画面には映らないが、気配を感じさせる位置に控える。『配信開始』のランプが灯る。瞬間、同時視聴者数は数百万人に跳ね上がった。「……お騒がせしております。Noixリーダーの葛城です」 冒頭、セナさんが口火を切った。謝罪ではない。彼は冷たい眼差しでカメラを見据え、堂々とした態度で語り出した。「一部報道にある女性との関係について、憶測が飛び交っていますが、事実は異なります。彼女は、我々の健康管理に不可欠な専門スタッフです」 コメント欄が荒れ狂う中、セナさんは動じない。「近年の激務により、綺更津レンの体調は限界でした。彼のパフォーマンスを維持するためには、徹底した食事管理と生活のサポートが必要です。文句があるなら、彼女以上の栄養管理ができる人間を連れてきていただきたい」 傲慢とも取れる逆マウントだ。けれど彼の自信に満ちた態度は、ファンを「え、そうなの?」と困惑させるだけの説得力があった。 レンくんの番が来た。彼は一度だけ私の方を見て、それからまっすぐにカメラを見た。「……俺は、未熟で、生活能力がな
朝日が昇り始める頃、葛城セナさんの愛車は、都内某所にある超高層タワーマンションの地下駐車場へと滑り込んだ。 専用のエレベーターに乗る。耳がキーンとなるほどの速度で上昇してたどり着いたのは、最上階のペントハウスだった。 立派な扉が開く。その先には私のボロアパートが十個は入りそうな、広大なリビングが広がっていた。床は大理石、壁一面の窓からは東京のパノラマが一望できる。「……ここ、ホテルですか?」 あまりの浮世離れした光景に、私は呆然と呟いた。「いいえ。私の自宅兼、Noix(ノア)の緊急避難所(セーフティハウス)です」 セナさんは何食わぬ顔でジャケットを脱ぎ、ソファへと放り投げた。「大丈夫だよ、紬ちゃん。ここならセキュリティはばっちりだから。間違ってもマスコミや野次馬は来ない」 遊馬ハルくんが、キッチンにある業務用のエスプレッソマシンでホットミルクを淹れてくれた。 温かいマグカップを受け取っても、私の手の震えは止まらなかった。「さて、作戦会議を始めましょうか」 セナさんがリモコンを操作すると、壁面の大型モニターにニュース映像とSNSのタイムラインが映し出される。『Noix綺更津レン、同棲発覚』『相手は一般人』『事務所は沈黙』。 画面を埋め尽くす文字は、どれも炎上している。「事務所の電話回線はパンクしていますが、想定内です」 セナさんは冷静に告げた。「我々に残された選択肢は2つです。1つは、貴女が姿を消し、レンが『ただの遊びだった』と謝罪してアイドルを続ける道」「ふざけるな!」 即座にレンくんが食ってかかった。「そんなことしたら、俺は一生歌えない」「でしょうね。君のメンタルが崩壊してグループは解散、違約金で全員破産です」 セナさんは淡々と答え、眼鏡の位置を直した。「ならば、もう一つの道しかありません。……『木を隠すなら森の中』作戦です」「森……?」「これを見てください」 彼がタブ
「綺更津レンさんですか!?」「その女性は!?」「一言お願いします!」「同棲は事実ですか!?」「関係はいつから!?」 いくつものマイクが突き出され、野次馬のスマホが壁のように立ちはだかる。(何よこれ。怖い!) 足がすくんで動けない。息ができない。誰かが私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた――その時。 グイッ。 強い力で引き寄せられて、私は硬い胸板の中に埋もれた。レンくんだ。彼は私の頭を抱え込み、自分の体でカメラから完全に隠した。 その拍子に、彼のフードが外れる。さらりとした銀色がかった髪があらわになり、美貌がフラッシュの光に晒された。「あ、綺更津レンだ!」「間違いない、本物だ!」「撮れ撮れ!」 シャッター音が嵐のように鳴り響く。けれどレンくんは顔を伏せなかった。 彼はカメラのレンズを氷のような瞳で射抜いた。怯えも媚びもない。ただ「俺の大事なものに触れるな」という、猛獣のような殺気と覚悟を宿した顔で彼らを睨んだのだ。 マスコミも群衆も、その強い視線に怯んだ。 その一瞬の隙に、ハルくんが「はいはい通りまーす! 一般人だよー! 押すなよ!」とへんてこな演技で道をこじ開け、私たちはセナさんの車の後部座席へと転がり込んだ。 バタン! とドアが閉まる。直後、車が急発進して群がる人々を振り切るように加速した。 アパートが遠ざかる。私の聖域だった場所が。 窓の外を流れる景色を見ながら、私は震えが止まらなかった。「……ごめん」 隣で、レンくんが私を強く抱きしめたまま、耳元で囁いた。「怖かったよな。……もう、大丈夫だ」 彼の腕の中は温かかったけれど、心臓の音は痛いほど早かった。彼だって怖かったはずだ。すべてを失うかもしれない恐怖と戦っていたはずだ。「とりあえず、僕の自宅へ避難します」 ハンドルを握るセナさんが、バックミラー越しに告げた。その表情はいつもの冷静な「魔王」のものに戻っていた