LOGINそれから数分後。彼の長い睫毛が、微かに揺れた。
「……ん……」
ゆっくりと瞼が持ち上がる。そこにあるのは、テレビや雑誌で何度も見てきた、吸い込まれそうなアイスブルーの瞳ではない。焦点の合わない、虚ろなガラス玉のような目だった。
彼は数秒かけて、古い木造アパートの天井のシミと、見知らぬ女(私)を視界に入れた。
その瞬間。バネ仕掛けの人形のように、彼は飛び起きた。「ッ!?」
ズザザッ、と背中で床を滑るようにして壁際まで下がる。その動きは人間というより、野生動物のそれだ。
さすがアイドルグループ・ノアのリーダー、身体能力が高い。「誰だ」
声が低い。テレビで聞く甘いウィスパーボイスではない。喉の奥から絞り出すような、警戒心剥き出しの唸り声が響いた。
「……マスコミか? 写真撮ったのか?」
鋭い眼光に射抜かれて、私はヒッと息を呑む。
部屋を見回す彼の目は、隠しカメラを探しているようだ。私だって探したい。ドッキリの看板を持った人が出てきてくれないだろうか。『モニタリング』でしたー、と言ってくれれば、どんなに楽か。でも、狭い六畳一間には私と彼しかいない。
改めて彼の顔を見る。左目の下、涙袋のあたり小さなホクロが見える。メイクじゃ描けない絶妙な位置にあるそれを確認した瞬間、私の脳内で最終審判が下った。(本物だ……生レンくんだ……)
「と、とと、撮ってません! 滅相もない!」
挙動不審な敬語で、ブンブンと首と手を振る。
「ゴミ捨て場に落ちてたのを、拾っただけです……」
「……ゴミ捨て場?」
彼は怪訝そうに眉を寄せて、自分の泥だらけの服を見た。状況を理解したのか、舌打ちをする。その仕草さえ、映画のワンシーンのように様になっている。
睨まれているのに、恐怖よりも「生で見ても作画崩壊していない」という事実に感動してしまう自分が憎い。「病院は嫌だ。警察も呼ぶな」
彼は膝を抱え、壁に背中を押し付けたまま言った。
「……放っておけ」
拒絶の言葉。でも、私は見てしまった。膝を抱える彼の指先が、小刻みに痙攣しているのを。唇はカサカサに乾き、顔色は紙のように白い。虚勢を張っているのが、痛いほど分かる。
それに彼は、とっさに「病院」と言った。具合が悪い自覚があるのだろう。それなのに助けを拒んでいる。その姿に、既視感を覚えた。
あれは私がまだ小学生だった頃。台風の日にチャトラの捨て猫を拾ったことがあった。ガリガリに痩せて雨に濡れて震えているくせに、手を伸ばすと「シャーッ!」と毛を逆立てて威嚇してきた。(なんだ……)
ストン、と腑に落ちる音がした。目の前の「国宝級アイドル」が、あの子猫と完全に重なる。そう思ったら、不思議と恐怖心が引いていった。代わりに湧き上がってくるのは、お節介な長女気質と迷子を放っておけない庇護欲だった。
「放っておけと言われましても、うちのリビングですので」
私が努めて冷静に言うと、彼は「チッ」とまた舌打ちをして顔を逸らした。
夜の21時。それは、信徒にとって最も神聖な礼拝の時間だ。 私はお風呂を済ませて身を清めてから、部屋着の中でも一番綺麗な「正装」に着替えた。 テレビの前に座布団を敷いて正座する。その視線の先、部屋の隅にあるカラーボックスの上には、私の信仰の対象が鎮座している。 あの一角は名付けて、「レンくん神棚」。 最新のアクリルスタンドを筆頭に、厳選された缶バッジ、ファンクラブ限定のポストカード。 そして中央には、彼が愛用している香水『CielBlue(シエル・ブルー)』のボトル(未開封の観賞用)が祀られている。私はパンパン、と柏手を打ち、深く一礼した。「どうか今日も、世界が平和でありますように。レンくんの喉の調子がすこぶる良いものでありますように」 祈りを捧げ、リモコンの電源ボタンを押す。画面が明るくなり、生放送の音楽番組『ミュージック・アワー』のロゴが踊った。『今夜のトップバッターは、Noix(ノア)!』 司会者の声と共に、スタジオの照明が落ちる。鼓膜を震わせる、重厚なイントロが流れ始めた。無数のレーザー光線が交錯し、その中心に彼らが浮かび上がった。「……っ」 息を呑む。センターに立つのは、綺更津レン。今日の衣装は、氷の結晶を模したような青白いスーツだった。カメラを見据えるその瞳は、絶対零度のアイスブルー。唇の端をわずかに歪め、不敵に笑う。『――愛なんて、氷のように溶けて消える』 歌い出しのワンフレーズで、スタジオの空気が凍りついたように張り詰めた。完璧なピッチ。ダンスは指先の角度まで完璧に計算され尽くしている。汗さえもダイヤモンドの粉末のようにきらめき、彼の美しさを引き立てる演出にしかなっていない。(……同じ人、なんだよね?) 脳がバグを起こして、処理を拒否する。 昨日、この安物ラグの上で膝を抱えていた男と、画面の中で数百万人の視線を釘付けにしている「王」が、同一人物だなんて。 生物としての格が違いすぎる。あれはきっと、神様がうっかりシステムエラーを起こして、私
『――愛なんて、氷のように溶けて消える』 唇から紡がれる歌声はクリスタルのように硬質で、透明だった。 聴く者の心臓を直接握りつぶすような、甘く危険なハイトーンボイス。 顎を伝う汗さえきらびやかだ。 照明を弾いてきらめくそれは、もはや演出のための宝石か聖水にしか見えなかった。 呼吸をするのと同じように色気を撒き散らし、画面の向こうの数億人を殺しにかかっている。「…………」 昨日の、涙目で雑炊をかきこんでいた「迷い猫」はどこにもいない。 膝を抱えて「帰りたくない」と甘えてきた幼児もいない。 そこにいるのは、完璧にパッケージングされた商品としての「綺更津レン」だった。(遠い) あまりにも遠すぎる。画面の中の彼と、吊革に捕まっている私。やっぱり、私たちは別の世界に住む生き物なのだ。昨夜の出来事は、次元の裂け目がうっかり開いてしまっただけのエラーに過ぎない。もう二度と起きない奇跡だろう。 私はそっとブラウザを閉じ、スマホを鞄の奥底にしまった。◇「おはよーございまーす」 始業10分前のオフィスで、いつものようにタイムカードを切り、自分のデスクに向かう。給湯室の方から、キャピキャピとした声が聞こえてきた。 昨夜私に残業を押し付けた、後輩のキラキラ女子だ。お仲間の子たちと女子トークをしている。「ねえ昨日の番組見た!? レン様マジ尊かったんだけど~!」「見た見た! あの流し目ヤバくない? 見つめられただけで倒れるかと思った」「あんな完璧な人、絶対トイレとか行かないよね。てか霞食べて生きてそう」 彼女たちの会話が、鼓膜を素通りしていく。 トイレも行くし、お腹も鳴るし、必死な顔で雑炊も食べるよ。そう言いたくなる口を、ぐっと引き結んだ。「あ、小日向さーん! おはよーございます!」 私に気づいた後輩が、手を振ってくる。「小日向さんも見ました? 昨日のレン様!」「あ、うん。見たよ。…&he
何だか泣きたくなる。国民的アイドルがなけなしの小銭を置いていくなんて。その不器用さがひどく愛おしく、同時に胸を締め付ける。 私は小銭の山から、500円玉を1枚だけつまみ上げた。ひんやりとした金属の感触がする。銀色の硬貨は朝の光を受けて、鈍く光っていた。「……安すぎますよ、命の値段」 誰に言うでもなく呟いて、私はその500円玉をギュッと握りしめた。◇ 私は痛む体をぐーんと伸ばして、シャワーを浴びることにした。 髪や肌に染み付いた『CielBlue』の残り香を、安物のボディソープで洗い流していく。これは儀式だ。夢から覚め、現実に戻るための通過儀礼。 シャワーから上がったら、鏡の前でいつものメイクをする。派手すぎず、地味すぎず。誰の印象にも残らない「総務部の小日向さん」の顔を作る。 そうして出来上がったのは、モブの顔だ。いつもながらプロのモブ顔である。「あれは夢。全部、私の都合のいい妄想」 鏡の中の自分に言い聞かせる。推しをゴミ捨て場で拾って、ご飯を食べさせて、手を握って寝た? そんな小説みたいな展開、あるわけがない。疲れていたんだ、私。 アパートを出て駅へ向かった。満員電車に揺られながら、周囲を見渡す。 疲れ切った顔のサラリーマン。参考書を広げる学生。スマホをいじるOL。この車両の誰も、私が昨夜「国宝」にご飯を作ってあげたなんて信じないだろう。私自身でさえ、もう信じられなくなってきている。 スマホを取り出し、惰性でニュースアプリを開いた。トップニュースに見慣れた名前がある。『Noix(ノア)綺更津レン、新曲MV公開! 圧倒的な美で世界を魅了』 タップすると、動画が再生される。 重厚なイントロが鼓膜を震わせる。 画面の中の世界は氷で作られた城のように青白く、冷たく輝いていた。 その中心に彼がいる。―― 綺更津レン。 カメラを見据えるその瞳は、絶対零度のアイスブルーだ。 昨夜、潤んだ瞳で私を見上げていた男と同一人物だなんて、誰が信じるだろうか。そこにあるのは「媚び」など微塵もない、見る者すべてをひれ伏させる王者の眼差しだった。 長い手足が、鞭のようにしなやかに空気を切り裂く。 指先の動きひとつ、髪の揺れ方ひとつに至るまで、すべてが緻密に計算された芸術品であるかのよう。激しいビートに乗っているのに、彼の周りだけ重力が仕事をしていないみた
チュン、チュン。爽やかな小鳥のさえずりで目が覚めた カァー、ガァー。と、言いたいところだけど、実際は近所のカラスのダミ声で目が覚めた。私の日常なんて、こんなものだ。「……んぐっ」 目を開けようとして、首にグキッと痛みが走る。バキバキと音がしそうなほど凝り固まった体を起こすと、腰からも悲鳴が上がった。 無理もない。フローリングの床に体育座りをしたまま、壁にもたれて寝ていたのだから。「……あ」 ぼやけた視界が焦点を結ぶ。 目の前の安物ラグの上には、誰もいない。 私が彼にかけてあげたタオルケットが、不器用に、でも丁寧に畳んで置かれているだけだ。「……いない」 当たり前だ。シンデレラの魔法は12時で解けるし、かぐや姫だって月へ帰る。国宝級アイドルが、築30年の木造アパートに永住するわけがない。 ふぅ、と息を吐いた。ほっとしたような。胸のど真ん中に、ぽっかりと穴が空いたような。形容しがたい喪失感が胸をかすめる。 でも、夢じゃなかった。6畳一間の空気には、確かに昨夜の香水――『CielBlue(シエル・ブルー)』の香りが残っている。甘く切なく、どこか寂しげなトップノート。それが私の生活、日常と混ざり合って、何とも言えない非日常の余韻を醸し出していた。◇ よろよろと立ち上がり、ローテーブルを見る。そこには空っぽになった土鍋と、綺麗に舐めとられたような茶碗が置かれていた。 そして、メモ帳の切れ端とおぼしき紙切れと、小銭の山があった。 紙切れを拾い上げる。乱雑に破り取られたメモ紙の裏面に、ボールペンで走り書きがされていた。『助かった。レン』「美味しかった」でも「ありがとう」でもなく、「助かった」。 その一言が、彼の切実な本音を物語っている。字は達筆だが、線が少し歪んでいた。書く時に手が震えていたのかもしれない。 私はその横の小銭たちを見た。500円玉が1枚と、100円玉が数枚。あとは10円玉や1円玉がじゃらじゃらと積まれていた。ざっと数えても、1000円に届くかどうかだ。(……これたぶん、全財産だ) 察してしまった。彼は昨日、どこぞのパーティー会場からボロボロになって逃げ出してきたのだ。バッグを持っている様子はなく、財布も持っていなかっただろう。 ポケットに入っていた小銭、それが彼の手持ちの全てだった。「無銭飲食はしない」という彼のプ
「……はぁ」 私は観念して、その場にしゃがみ込む。「分かりました。追い出しませんから」「……ほんと?」「本当です。今日はもう遅いですし、電車もないですし」 言い訳を並べ立てると、彼は安堵したようにふにゃりと笑った。その笑顔は、テレビで見る営業スマイルの百億倍、無防備で破壊的だった。 そのまま、彼は電池が切れたように横倒しになった。安物のラグの上に、高級スーツのまま転がる。ものの数秒で、スースーと規則正しい寝息が聞こえ始めた。 よほど疲れていたのだろう、気絶するように深い眠りへ落ちている。 でも――私のスカートを握った左手だけは、決して離そうとしなかった。◇「……どうしよう、これ」 私は、動くに動けなくなっていた。スカートを掴まれたまま、体育座りをする。 目の前には、世界が恋する綺更津レンの寝顔。 スーツは汚れだらけ、涙の跡も目立つ。 それでも、やっぱり。悔しいくらいに美しい。 長い睫毛が頬に影を落としている。形の良い唇が、わずかに開いていた。 無防備すぎる。ここがもしセキュリティ万全の高級マンションならまだしも、鍵も心もとないボロアパートだぞ? 不審者とか来たらどうするんだ。危機感なさすぎじゃないか。 というか、不審者は実質的に私か。(推しが、私の部屋で、私のスカートを握りしめて爆睡している……) 改めて状況を整理しようとして、脳が処理落ちする。これは無理だ、現実味がなさすぎた。 でも、太ももに伝わる彼の手の体温は、確かに熱い。 明日の朝、彼が起きたらどうなるんだろう。正気に戻って、「訴えてやる」とか言われたらどうしよう。あるいは、全部忘れて帰っていくのだろうか。 不安がないと言えば嘘になる。でも、それ以上に。彼が私の作ったご飯を食べて、私のそばで安心して眠っている。その事実が、たまらなく愛おしくて、誇らしかった。「……おやすみなさい、レンくん」 小声で囁く。返事の代わりに、彼が握った手に力を込め、身じろぎをして私の膝に額を押し付けてきた。温かい。生きている重みだ。 睡魔が、私にも忍び寄ってくる。このままここで寝るわけにはいかないけれど。あと5分だけ。あと5分だけ、この奇跡のような時間に浸っていたい。 私は膝の上の「国宝」を見守りながら、壁にもたれて目を閉じた。
カチン。スプーンが空の器に当たる、乾いた音がした。「……ふぅ」 レンくんは深く長く息を吐き出した。鍋の中には2人分の雑炊が入っていたはずだ。それを米粒一つ残さずきれいに平らげている。 満腹中枢が刺激されたせいだろうか。急激な血糖値の上昇が、彼を襲ったようだ。 さっきまで張り詰めていた糸が切れたように、まぶたが重く下がってくる。トロンとした目つき。警戒心剥き出しだった野生動物が、日向ぼっこをする猫のような顔になっている。 私は先ほどと同じように、昔拾った子猫を思い出していた。 あの子も最初は警戒心をむき出しにして、ごはんをあげたらガツガツ食べて。お腹がいっぱいになったら、眠ってしまったっけ。「お茶、入れますね」 私は立ち上がろうとした。食器を片付けて、温かいほうじ茶でも入れてあげよう。そう思って、一歩踏み出した瞬間だった。 クイクイ。何かに引っ張られて足が止まる。「え?」 見下ろすと、彼の手が伸びていた。骨張った長い指が、私の履いているフレアスカートの裾を掴んでいる。 ギュッ、と。シワになるほど強く。「あの……?」「……やだ」 小さな駄々っ子のような声がした。 それは確かにテレビの向こうで聞き慣れた彼の声なのに、ひどく幼く頼りない。「レンくん? あの、そろそろ帰らないと……マネージャーさんとか、心配してますよね?」「帰る」という単語を出した途端、彼が過剰に反応した。首を、ブンブンと横に振る。子供か。いや、今の彼は完全に幼児退行している。 何故こうなったのかは分からないが、切実な事情がありそうなことだけは分かった。 スカートを掴む手にさらに力がこもる。指の関節が白くなっているのが見えた。「……帰りたくない」 潤んだ瞳が私を見上げた。国宝級イケメンの幼気な上目遣い。その破壊力たるや、核弾頭クラスだ。「まだ、ここにいたい」 ズキューン。私の脳内で、何かが撃ち抜かれる音がした。さっきまで「触るな」「放っておけ」と威嚇していた男が、今は「捨てないで」と懇願している。このギャップ。この落差。これを「萌え」と言わずして何と言う!? 私の理性に残っていた「通報」というボタンが粉砕され、代わりに「保護」という巨大なスタンプが押された。







