INICIAR SESIÓN朝日が昇り始める頃、葛城セナさんの愛車は、都内某所にある超高層タワーマンションの地下駐車場へと滑り込んだ。
専用のエレベーターに乗る。耳がキーンとなるほどの速度で上昇してたどり着いたのは、最上階のペントハウスだった。
立派な扉が開く。その先には私のボロアパートが十個は入りそうな、広大なリビングが広がっていた。床は大理石、壁一面の窓からは東京のパノラマが一望できる。「……ここ、ホテルですか?」
あまりの浮世離れした光景に、私は呆然と呟いた。
「いいえ。私の自宅兼、Noix(ノア)の緊急避難所(セーフティハウス)です」
セナさんは何食わぬ顔でジャケットを脱ぎ、ソファへと放り投げた。
「大丈夫だよ、紬ちゃん。ここならセキュリティはばっちりだから。間違ってもマスコミや野次馬は来ない」
遊馬ハルくんが、キッチンにある業務用のエスプレッソマシンでホットミルクを淹れてくれた。
温かいマグカップを受け取っても、私の手の震えは止まらなかった。「さて、作戦会議を始めましょうか」
セナさんがリモコンを操作すると、壁面の大型モニターにニュース映像とSNSのタイムラインが映し出される。
『Noix綺更津レン、同棲発覚』『相手は一般人』『事務所は沈黙』。
画面を埋め尽くす文字は、どれも炎上している。「事務所の電話回線はパンクしていますが、想定内です」
セナさんは冷静に告げた。
「我々に残された選択肢は2つです。1つは、貴女が姿を消し、レンが『ただの遊びだった』と謝罪してアイドルを続ける道」
「ふざけるな!」
即座にレンくんが食ってかかった。
「そんなことしたら、俺は一生歌えない」
「でしょうね。君のメンタルが崩壊してグループは解散、違約金で全員破産です」
セナさんは淡々と答え、眼鏡の位置を直した。
「ならば、もう一つの道しかありません。……『木を隠すなら森の中』作戦です」
「森……?」
「これを見てください」
彼がタブ
セナさんはしばらく無言で食べ続けた。私は少し離れたところで見守る。「……僕は、完璧でなければならない」 雑炊を啜りながら、セナさんがポツリと漏らした。「僕が止まれば、Noixも、事務所の社員も路頭に迷う。……だから休むのが怖いんです」「魔王」としての鎧の内側にある、思い詰めたような責任感だった。彼はこの若さで、あまりにも多くのものを背負いすぎている。 トップアイドルとしての役割だけでも大変だろうに。マネジメントも事務所の指揮もしているのだ。 私は、彼の背中にそっと手を置いた。触れるか触れないかの距離で。「機械じゃないんですから。人間は、食べて、寝ないと壊れます」「…………」「壊れたら、レンくんやハルくんが悲しみますよ」 セナさんはレンゲを止め、ふっと小さく息を吐いた。「君は生意気な管理官ですね」 ◇ 完食して数分後。満腹感と温かさに誘われ、強烈な睡魔に襲われたらしいセナさんは、ソファに沈み込むようにして寝落ちてしまった。規則正しい寝息が聞こえる。泥のように深い眠りだ。 私がタオルケットを掛けようとした時、背後から気配がした。「……紬、なにセナの寝顔見てんだよ」 不機嫌そうな声。レンくんだ。私の気配がないことに気づいて起きてきたらしい。「シッ。やっと寝れたみたいだから、静かに」「ちぇっ」 レンくんは不満そうに首を振ったが、無防備に口を開けて眠るセナさんを見て、呆れたように溜息をついた。「こいつがこんなバカみたいな顔して寝るの、久しぶりに見た」 レンくんは私からタオルケットを受け取ると、それを放り投げ、代わりにセナさんの体を軽々と持ち上げた。 セナさんは細身とはいえ上背のある成人男性だ。それをあんなに軽く抱き上げるとは。「運んでやるよ。ここで寝ると体が痛くなるからな」「レンくん、優しい」「うるさい。今回だけだ」 文句を言いながらも、レン
「それ、人参が3本分入ってます」「…………なっ」 セナさんが目を見開き、フリーズした。 バターでじっくり炒めて人参特有の青臭さを消し、ブイヨンで煮込んでからミキサーにかけ、たっぷりの牛乳と生クリームで伸ばした特製ポタージュだ。人参の甘みと旨味をしっかり引き出した自信がある。「ぶはっ! セナくんチョロい! 気付かずに完食してる!」「紬の勝ちだな」 ハルくんとレンくんが腹を抱えて笑っている。セナさんは悔しそうに口元を拭ったが、その表情はどこか満足げだった。「一本取られましたね。認めましょう、君の勝利です」 ◇ 深夜2時。喉の渇きを覚えて私が部屋を出ると、暗いリビングの方から微かな光が漏れていた。 そっと覗くと、ソファにセナさんが座っていた。膝の上にノートPCを広げ、鬼気迫る表情でキーボードを叩いている。 モニターのブルーライトに照らされた横顔は、昼間の覇気が嘘のように青白く、疲れ切っていた。「……セナさん? 寝ないんですか?」 声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、バタンとPCを閉じた。「紬さんか。いえ、少しトラブルがありまして。それに、寝ている時間は生産性がゼロです」 強がっているが、声がかすれている。目の下には濃いクマがあり、コーヒーカップを持つ指先が少し震えていた。カフェインの摂りすぎだ。「生産性ゼロでも、メンテナンスは必要です」 私は彼を無視してキッチンに立った。 土鍋に残っていた冷やご飯を取り出し、小鍋に移す。カツオと昆布の合わせ出汁を温め、ご飯をことこと煮込む。味付けは薄口醤油と塩のみ。最後に溶き卵を回し入れ、蓋をして蒸らすこと1分。仕上げに、体を温めるおろし生姜と、青ネギを散らした。「はい、夜食です。消化にいいので胃もたれしませんよ」 湯気を立てる卵雑炊を差し出すと、セナさんは眉をひそめた。「僕は夜21時以降、固形物を摂らない主義なんですが」 抗議しようとした瞬間、出汁の優しい香りに反応して、彼
ペントハウスでの生活が始まって数日。私はこの「城」の主である葛城セナという男の、完璧な鎧に隠された致命的な欠陥を発見してしまった。 朝食のダイニングテーブルでのことだ。セナさんは優雅な手つきで箸を置き、ナプキンで口元を拭った。「ごちそうさまでした。素晴らしい朝食でした」「……あの、セナさん」 私は彼が下げようとした皿を指差した。そこには非常な精密さで選り分けられた「あるもの」が、幾何学模様のように美しく残されていた。「お野菜、残ってますけど」 極薄に千切りにした人参とピーマンだ。彼は眉ひとつ動かさずに答えた。「僕に必要な栄養素は、既にサプリメントで補完済みです。これ以上の摂取は過剰であり、非効率です。必要ありません」「嘘だよ紬ちゃん」 横でトーストをかじっていたハルくんが、ニヤニヤしながら暴露した。「この人、味覚が子供なの。苦いのと青臭いのがダメなだけ。人参とピーマンが嫌いなんて、いかにもおこちゃまでしょ?」「……黙りなさい、ハル。ピーマンはこの世のバグです。苦味という警報を発している物体を食べる必要性を感じません」「はいはい、言い訳乙ー!」 セナさんが不機嫌そうにコーヒーを煽る。 なるほど。魔王の弱点はピーマンと人参。 私は心の中でファイティングポーズをとった。契約上の肩書きとはいえ、私は「専属栄養管理士」だ。この偏食を見過ごすわけにはいかない。 栄養という面だけならば、ピーマンと人参を食べなくても死にはしない。それこそサプリもある。 でも、この2つの野菜はとても使い勝手がいいものだ。色んな料理に使う。栄養はもちろん、見た目にもカラフルで彩りがいい。 偏食のせいで食べられないなどもったいない!「分かりました。では、セナさんが気付かないうちに、人参とピーマンを食べさせてみせます」「ほう」 セナさんが眼鏡の奥で目を細めた。「僕の舌を欺けると? ……いいでしょう。お手並み拝見といきましょうか」 かくして私の『人参とピ
「うっわ……! ここ、高級ホテルじゃなかったっけ? 旅館? 実家?」 ハルくんが感動してテーブルに駆け寄る。「……無機質なこの部屋が、一瞬で『家』になりましたか」 セナさんも呆気にとられたように呟いた。レンくんは疲れた顔を一気に緩ませて、私を見た。「ただいま、紬」「お帰りなさい、レンくん。皆さん、冷めないうちにどうぞ」 全員で席に着き、「いただきます」の声が重なる。ハルくんが豚汁を一口すすり、「んん~~っ!」と天を仰いだ。「豚汁染みる~! 生き返る~! 大根味シミシミじゃん!」「……キャビアより価値がある味がしますね。栄養バランスも完璧だ」 セナさんも箸を止まらせない。レンくんは無言で白米をかきこみ、すぐにお代わりの茶碗を差し出した。「現場の冷たい弁当とは違う。……やっと、息ができた気がする」 3人が心からの笑顔で食事をする姿を見て、私はようやく肩の荷が下りた気がした。 ここが私の新しい戦場であり、守るべき場所なのだ。 ◇ 深夜。片付けを終えて、あてがわれた豪華な客室で一息ついていると、窓ガラスがコンコンと叩かれた。驚いてカーテンを開けると、ベランダ越しにレンくんが立っていた。隣の部屋から伝ってきたらしい。 窓を開ければ、夜風が入ってくる。彼は中には入らず手招きした。「……こっち来て」 2人で広いバルコニーのソファに並んで座る。眼下には、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が広がっている。手には、私が買っておいたマグカップに入ったホットココア。見上げれば都会のスモッグで曇った、けれど確かに星の輝く空がある。「みんなの前では『スタッフ』だけど……ここでは、俺の紬でいて」 レンくんが私の肩に頭を乗せて、私の左手を自分の両手で包み込んだ。誰にも見つからない、星空の下だけの秘密のデートだった。「明日は何食べる?」「ふふ、気が早いですね。何がいいですか?」「ハンバーグ。……あ、でもオムライスもいいな
30分後。私たちはマンションから少し離れた、庶民派のスーパーに来ていた。「どう? これならオーラ消えてるだろ?」 レンくんが得意げに胸を張る。黒縁の瓶底メガネに、ボサボサの黒髪ウィッグ。さらにどこで調達したのか分からない絶妙にダサいチェックのシャツを一番上のボタンまで留めている。「……素材が良すぎて、逆に『隠しきれないイケメン』になってますけど、まあマシですね」「よし、行こう」 レンくんは嬉々としてカートを押し始めた。「これ、やってみたかったんだ。カート押して、『晩飯なににする?』って聞くやつ」 彼は完全に楽しんでいる。時間がないため、私たちは手分けして食材をカゴに放り込んでいった。大根、ごぼう、人参、豚バラ肉、豆腐、油揚げ。「すげぇ……このシール、『20%引き』って書いてある。素晴らしいシステムだ」「いいから早く」 特売シールを見て感動しているトップアイドルを急かし、私たちは買い物を終えた。 マンションの地下駐車場に戻ると、車を降りた私たちに人影が走り寄ってきた。「レンさん、紬さん! もう時間ですよ」 新人マネージャー補佐の斉藤くんだ。人懐っこい性格で、Noixメンバーから可愛がられている人だった。「分かった。ごめん紬、俺もう行かなきゃ」「はい。いってらっしゃい、レンくん」「……うん」 彼は名残惜しそうに、一度だけ私の手をきゅっと握った。「夜、楽しみにしてる」 そう言い残して、彼は「ダサいチェックシャツ」から「王子の衣装」に着替えるべく、斉藤くんと一緒にエレベーターへと消えていった。 ◇ そこからは孤独な戦いだった。広大なペントハウスに一人で取り残された私は、最新鋭すぎて使い方の分からないIHコンロやオーブンと格闘しながら、ひたすら下拵えを続けた。 トントン、トントン。誰もいないキッチンに包丁の音が響く。出汁の香りが立ち上り、炊飯土鍋から白い蒸気が漏れる。「……よし。まずは
翌朝。目覚めた瞬間、私はここが死後の世界かと思った。 横たわっているのは、体が沈み込むほどフカフカのキングサイズのベッド。自動で開いたカーテンの向こうには、視線の高さに東京タワーとスカイツリーが並んで見えている。「……天国?」 いや、違う。ここは葛城セナさんの自宅、都内某所のタワマン最上階、ペントハウスだ。 私は今日から、Noixの「住み込み料理番」として、この天空の城で働くことになったのだ。 とりあえず顔を洗おうとベッドから出たが、広すぎる廊下で迷子になり、近づいただけで勝手に蓋が開くトイレに悲鳴を上げ、ようやくキッチンにたどり着いた頃にはぐったりと疲れていた。庶民殺しの罠が多すぎる。「さて……朝ごはん、作らなきゃ」 ここには私以外に3人の成人男性がいる。腹を空かせた猛獣たちだ。私は気合を入れて、業務用の巨大冷蔵庫の扉を開けた。「…………は?」 だがしかし。そこにあったのは虚無だった。いや、物は入っている。 私でも名前を知っている高級ワイン。キャビアの瓶。トリュフ入りのチーズ。そして見たこともない横文字の高級ミネラルウォーター。 以上だ。卵も、牛乳も、豚コマも、ネギ一本すらない。「なんの冗談ですか、これ」「……朝から騒々しいですね」 背後から声がして振り返ると、バスローブ姿のセナさんが優雅にコーヒー(全自動マシンのもの)を飲んでいた。「セナさん! これじゃ料理できません。キャビアで卵焼きは作れないし、ドンペリで味噌汁は作れません!」「食事は外食かデリバリーで済ませていましたからね。必要なものがあるなら、マンションのコンシェルジュにリストを渡せば調達してくれますが」「ダメです! 自分の目で見て選びたいんです! 特に生鮮食品は、鮮度が命なんですから。譲れません!」 私が食い下がると、奥の部屋からあくびを噛み殺しながらレンくんが出てきた。