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第5話

Author: ロウヤ浪漫譚
あの日、屋上で透也が一緒にヴェネツィアへ行くと言ってから、雰囲気が妙にぎこちなくなった。

そう、私は逃げ出したのだ。彼にそう言われた後に。

今思えば、私の思い過ごしだったかもしれない。透也は主治医としての医療倫理からか、あるいは彼自身も遊びに行きたかっただけかもしれないのに、どうして逃げる必要があったのか。

これで困ったことになった。逃げたせいで、今気まずい。

透也が回診に来たら説明しようと思っていたのに、ここ数日彼の姿を見ていない。

看護師の話では隣の市に出張していて、一週間後にならないと戻らないそうだ。

それならそれでいい。彼が戻ってきてから説明すれば、そんなに気まずくならないだろう。

下を向いて歩きながら説明の言葉を考えていて、前を見ていなかった。病院の曲がり角で人とぶつかった。

「美咲、気をつけて!」

最初は幻聴かと思った。蒼介の声が聞こえるなんて。

彼の声は焦って緊張していた。美咲?明らかに私に言ったのではない。

私の後ろは入院棟の給湯室で、床には水が溢れていて時々人が出入りする。

そこから出てきた人にぶつかり、足を滑らせて水溜まりの上で倒れ、手のひらが突然痛んだ。擦り剥いたようだ。

視線をぶつかった相手に向ける。

やはり幻聴ではなかった。本当に蒼介だ。

彼は女の子を丁寧に支えている。それに比べて、私は惨めだ。

なるほど、彼の新しい恋人は美咲というのか。

美咲は床に倒れた私に、慌てふためいた様子で、こちらに来て助け起こそうとする仕草を見せた。

「あ、遥さん。ごめんなさい、私、蒼介にブライダルチェックの書類を届けに急いでたんです。どこか打ちましたか?大丈夫ですか?」

口ではこう言いながら、実際に本気で助け起こそうとする行動は一切ない。

ブライダルチェック?

一体何を伝えたいんだか。

年は若いのに、奸計に優れているようだった。そして演技もアカデミー賞に値するだろう。

私は返事をせず、手をついてゆっくりと立ち上がる。

私が自力で立ち上がろうとした時、その「ぶりっ子」はタタタと隣に走ってきて、手を伸ばして支えようとする。

彼女の手が伸びてくる瞬間、私は狙いを定めて伸びてきた手を叩き落とした。

美咲の手が赤く腫れた。

私は彼女を押しのけて去ろうとしたが、それほど力を入れていないのに、彼女はわざとらしく床に倒れ込み
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