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あなたと紡ぐ未来

あなたと紡ぐ未来

By:  蘇南系Kumpleto
Language: Japanese
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桜庭睦美(さくらば むつみ)が一条時彦(いちじょう ときひこ)を囲って三年目のとき――桜庭家はあっけなく破産した。父・正夫(まさお)は窮地を挽回しようと、娘に政略結婚を迫る。 その夜、睦美は荷物をまとめ、時彦と駆け落ちする覚悟を決めていた。 だが彼の勤め先だと信じていたクラブを訪ねた瞬間、目に映ったのは別人のような彼だった。 グラスを掲げ、余裕の笑みを浮かべ、客たちを手慣れた仕草であしらう男。そこにいたのは、貧しい青年の顔をする時彦ではなかった。

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Kabanata 1

第1話

桜庭睦美(さくらば むつみ)が一条時彦(いちじょう ときひこ)を囲って三年目のとき――桜庭家はあっけなく破産した。父・正夫(まさお)は窮地を挽回しようと、娘に政略結婚を迫る。

その夜、睦美は荷物をまとめ、時彦と駆け落ちする覚悟を決めていた。

だが彼の勤め先だと信じていたクラブを訪ねた瞬間、目に映ったのは別人のような彼だった。

グラスを掲げ、余裕の笑みを浮かべ、客たちを手慣れた仕草であしらう男。そこにいたのは、貧しい青年の顔をする時彦ではなかった。

「時彦さん、桜庭家はもう終わりだって。娘を売ってでも金にしようとしてるらしいぜ。助けてやんねぇの?」

「ふん、あの女は時彦さんにとってただの暇つぶしだ、何で助けなきゃいけないの?それに、時彦さんの本命はもうすぐ帰国する。あの馬鹿女ときっちり別れて、そのまま本命に乗り換えられるってわけだ」

「まあ、睦美ちゃんは顔もスタイルもいいし、タダで抱けて金までくれるんだ。そりゃ得だろうけどな。ただ、『北都市一の御曹司』と呼ばれる時彦さんがヒモ男扱いされてもじっと耐えられるなんて、大したもんだぜ」

「そうそう!それにしても笑えるよな。三年も経つのに、睦美はまだ時彦さんをクラブのバイトだと思ってる。実際はオーナーなのにな、ははは!」

笑い声が渦巻く中、時彦はゆっくりスマホを取り出し、三十分前に届いた睦美からのメッセージに目を落とした。

――【時彦、駆け落ちしよう】

彼は短く返信する。

一方その頃、睦美のスマホが鳴った。画面に表示された返事は、たった一言。

――【いいよ】

それはまるで嘲りのように見えた。

「駆け落ちだって?笑わせる。どこに逃げるつもりだ?あいつはもう家の金づるだ。一歩外に出たところで、親父に引き戻されてまた売られるだけさ」

時彦はタバコを押しつぶし、隣の女の首にかかっていた安物のネックレスを乱暴に引きちぎった。

「それも睦美にやるのか?」と誰かが笑う。

「前は通販の千円台のリング、その前はプラスチックの花。お嬢様がそんなもんで満足するなんて、物好きだな」

「でも彼女、本当に喜ぶんだよ。あの安っぽい指輪も、ずっと外さずにつけてるしさ」

――その言葉に、睦美は思わず自分の指を撫でた。そこには彼からもらった銀色のリング。贈られたとき、胸が熱くなっていた。プロポーズの予兆だと思ったからだ。

だが実際は、気まぐれで渡された安物にすぎなかったなんて……

時彦は彼女を騙し続けた。

三年間も、彼は貧しい男を演じ続け、彼女は信じ続けた。服や時計、車や家まで与え、誰かに揶揄されれば必死になって彼を庇った。その姿は、時彦の目にはどれほど滑稽に映っていたのだろう。

その夜、どうやって帰宅したのか、睦美は覚えていなかった。ただ、大雨の中を歩き、家に着いた途端に高熱を出したことだけは覚えている。

うなされる夢の中に浮かぶのは、三年間の記憶の断片だった。

あの出会いの日。失恋で酔いつぶれ、バーで時彦を見つけた睦美は彼に一目惚れし、衝動のままトイレに追い込み、金を渡して一夜を共にした。

その後も睦美は彼のことを忘れられず、再会したとき、彼をバーテンダーだと勘違いし、「囲いたい」と自ら切り出した。

その日を境に、二人は付き合うようになった。

睦美は時彦に金を渡し、時彦は彼氏として睦美を愛した。二人は散歩し、映画を観て、恋人らしい日々を重ねた。

この三年間、主導権を握っていたのは自分で、本気で彼を愛することなどない――睦美はそう信じていた。だが政略結婚を迫られたとき、彼女は思わず泣き崩れてしまった。

父と激しく言い争った夜、涙に濡れた顔で時彦に尋ねた。

「もし私がお嬢様じゃなくなっても、愛してくれる?」

彼は微笑んで唇を重ね、優しく答える。

「もちろんだ」

「時彦、たとえ家が潰れても、あなたに苦労はさせない。信じて」

その言葉を胸に、彼女は持ち物を売り払い、二人で新しい街へ行く計画を描いた。

――今夜までは、自分は未来に向かって歩き出していると信じていた。だが待っていたのは、新たな人生ではなく恐ろしい罠だった。

時彦は最初から、彼女を騙していたのだ。

翌朝、熱が引いたころ、時彦が戻ってきた。

背後から抱きしめられると、漂う香りは彼女が好きな香水ではなかった。

「昨夜は夜勤でクタクタだよ。給料が出たから、君にプレゼントを買った」

差し出したのは、あの安物のネックレスだった。時彦が丁寧にネックレスを睦美につける。

「君によく似合ってるよ。気に入った?」

「……うん」

睦美は淡々と答えた。その反応に違和感を覚えたのか、時彦が首をかしげる。いつもならプレゼントに飛びついて喜び、「あなたがそばにいてくれるだけでいい」と言ったはずだ。

「本当に?あんまり気に入ってないみたいだけど」

「プレゼントはもういい。今は、前みたいに余裕がないから」

睦美の言葉を、時彦は家の事情を心配しての発言だと受け取った。

「大丈夫だよ。君がくれたお金はちゃんと取ってあるし、クラブの収入もある。今度は俺が養う番だから」

そう言って時彦は彼女の額に軽くキスを落とす。

睦美は軽く微笑み、彼を風呂へ押しやった。

シャワーの音が聞こえ始めたころ、彼のスマホが震えた。

画面にメッセージが表示される――

【時彦、昨夜はずっと一緒にいてくれてありがとう。三年たっても、私の好きな香水を覚えていてくれたのね】

その瞬間、睦美の顔はこわばった。彼が香水を変えたのは、別の女を喜ばせるためだったのだ。

自分が高熱で苦しんでいた夜、彼は別の女の腕の中にいた。

疲れがどっと押し寄せ、心は凍りついた。三年間尽くしてでも報われない関係に、もうすがる意味はないと悟った。

睦美はベランダに出て、父に電話をかける。

「お父さん……政略結婚、受けるわ。気持ちが変わる前に、できるだけ早く進めて」

――時彦。この関係を始めたのは私だ、なら、この手で終わらせてやるよ。
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第1話
桜庭睦美(さくらば むつみ)が一条時彦(いちじょう ときひこ)を囲って三年目のとき――桜庭家はあっけなく破産した。父・正夫(まさお)は窮地を挽回しようと、娘に政略結婚を迫る。その夜、睦美は荷物をまとめ、時彦と駆け落ちする覚悟を決めていた。だが彼の勤め先だと信じていたクラブを訪ねた瞬間、目に映ったのは別人のような彼だった。グラスを掲げ、余裕の笑みを浮かべ、客たちを手慣れた仕草であしらう男。そこにいたのは、貧しい青年の顔をする時彦ではなかった。「時彦さん、桜庭家はもう終わりだって。娘を売ってでも金にしようとしてるらしいぜ。助けてやんねぇの?」「ふん、あの女は時彦さんにとってただの暇つぶしだ、何で助けなきゃいけないの?それに、時彦さんの本命はもうすぐ帰国する。あの馬鹿女ときっちり別れて、そのまま本命に乗り換えられるってわけだ」「まあ、睦美ちゃんは顔もスタイルもいいし、タダで抱けて金までくれるんだ。そりゃ得だろうけどな。ただ、『北都市一の御曹司』と呼ばれる時彦さんがヒモ男扱いされてもじっと耐えられるなんて、大したもんだぜ」「そうそう!それにしても笑えるよな。三年も経つのに、睦美はまだ時彦さんをクラブのバイトだと思ってる。実際はオーナーなのにな、ははは!」笑い声が渦巻く中、時彦はゆっくりスマホを取り出し、三十分前に届いた睦美からのメッセージに目を落とした。――【時彦、駆け落ちしよう】彼は短く返信する。一方その頃、睦美のスマホが鳴った。画面に表示された返事は、たった一言。――【いいよ】それはまるで嘲りのように見えた。「駆け落ちだって?笑わせる。どこに逃げるつもりだ?あいつはもう家の金づるだ。一歩外に出たところで、親父に引き戻されてまた売られるだけさ」時彦はタバコを押しつぶし、隣の女の首にかかっていた安物のネックレスを乱暴に引きちぎった。「それも睦美にやるのか?」と誰かが笑う。「前は通販の千円台のリング、その前はプラスチックの花。お嬢様がそんなもんで満足するなんて、物好きだな」「でも彼女、本当に喜ぶんだよ。あの安っぽい指輪も、ずっと外さずにつけてるしさ」――その言葉に、睦美は思わず自分の指を撫でた。そこには彼からもらった銀色のリング。贈られたとき、胸が熱くなっていた。プロポーズの予兆だと思ったからだ。
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第2話
シャワーを終えた時彦が睦美の耳元に顔を寄せ、そっと噛みついた。節ばった指先が服の裾を潜り込む。制止の言葉を口にしようとした瞬間にはもう遅く、彼女はベッドに押し倒され、唇を奪われていた。そのまま彼が動こうとしたとき――スマホの着信音が鳴り響いた。画面を一瞥した時彦の動きが止まり、すぐに通話を繋いだ。女の声が聞こえてくる。「もしもし、時彦?家に泥棒が入ったみたいだけど、ちょっと来てくれない?」時彦は優しく相手を宥めた。「わかった、怖がらなくていい。今行く」電話を切ると、彼は申し訳なさそうに睦美の唇へ軽く口づけた。「ごめん。他のバイト先から急に呼び出されてさ。代わりに入らなきゃ」「……無理して働かなくてもいいって言ってたでしょ?」睦美は淡々とした声で返す。「今は事情が違うだろ。桜庭家が大変なんだから、俺がもっと稼いで支えないと」睦美の頭を軽く撫で、慌ただしく着替えると、時彦は家を出て行った。戻ってきたのは深夜。部屋に入った瞬間、違和感を覚える。二人で揃えたカップや雑貨――恋人の証のように積み重ねてきた品々が、きれいに姿を消していたのだ。それは、デートのたびに睦美が大事に選んできたものばかりだった。「……部屋、片付けたのか?お揃いの小物は?睦美、ああいうの一番好きだろ?」彼の視線の先で、睦美はまたいくつかの小物をゴミ箱に投げ入れる。「もう気に入らなくなったの。またそのうち買えばいいでしょ」胸の奥にざわりとした不安が走り、時彦は慌てて家を出ようとする彼女の手を掴んだ。「どこに行くんだよ、こんな夜中に」「今夜は実家に帰るわ」同居を始めてから、彼女が実家に泊まることなどほとんどなかった。彼を心から愛していた頃は、彼の腕の中でしか眠れなかったのに。睦美は小さな笑みだけを残し、荷物を抱えて玄関を出ていった。車に乗り込むと、スマホが鳴る。「桜庭さん、こちらの物件を急ぎで売るとなると、かなり値が下がりますが……本当によろしいですか?」「ええ、問題ありません。できるだけ早く売れるよう手配してください」三年前、時彦に贈るために購入した別荘。書斎にも、浴室にも、ベランダにも、二人の思い出が刻まれている。家が傾いたときでさえ、どうすれば彼の未来を守れるのか、そればかり考えていた。――けれど
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第3話
睦美の喉がひりつき、思わず乾いた笑いがこぼれそうになった。――人を金で追い払うのは自分の得意分野だったはずなのに、今は追い払われる立場になるなんて。「勝手にこんな真似をして……時彦は知ってるの?」夢乃は余裕たっぷりの笑みを浮かべる。「どうでしょうね。言っとくけど、私と時彦はあなたの想像を超えるくらい深い仲だったのよ。結婚寸前までいってたくらい。昔はね、海が好きな私を、毎年違う島へ連れて行ってくれた。子どもの頃の味を懐かしがったら、小さな料理屋を買い取って、いつでも食べられるようにしてくれた。それから、彼の胸にあるバラの指輪のタトゥー――あれは私が彫ったものよ。いつか私に渡す結婚指輪の代わりに、ってね。それに彼の家柄も教えてあげようかしら?三年も一緒にいて、あなたは彼の素性すら知らない。そんな相手が、本気であなたを愛していると思うの?」全身が冷え込む。時彦の好みも、習慣も、すべて夢乃の影が色濃く残っていたのだ。「あなたは彼を独り占めしているつもりかもしれないけど――実際のところ、彼にとってあなたは私の代用品にすぎないのよ」夢乃の笑みはさらに深く、勝ち誇ったものに変わる。「何なら試してみましょうか?私が電話を一本入れるだけで、彼は迷わず私のもとに駆けつけてくるわ」その言葉に、睦美の胸には過去の記憶が次々と蘇った。だが結局、彼女の心は静かに落ち着きを取り戻していった。初めて一緒に祝った誕生日。彼が買ってきたのは不格好で安っぽいケーキだった。けれど彼女にとって、それは人生で食べた一番おいしいケーキだった。「来年も一緒に誕生日を迎えられますように」時彦の腕の中でそう願った彼女に、時彦は笑って「毎年そばにいるよ」と答えた。酔って危険な目に遭ったこともあった。そのとき、時彦が駆けつけ、乱暴されて意識を失いかけていた彼女を抱きしめ、誓ったのだ。「これからは絶対に守る。どんなときでも真っ先に駆けつけるから」――その誓いが彼にとっては何の価値もなかったとしても、睦美は本気で信じていた。彼女は手のひらを強く握りしめ、無理やり笑みを浮かべる。「……わかったわ。彼と別れる。でも、それはあなたの言葉に従うからじゃない」その返事を聞いた夢乃は、勝者のように微笑んで立ち上がり、振り返りもせず去っていった。それか
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第4話  
薄く開いた扉の隙間から、睦美はその光景を目にして息を呑んだ。――時彦が夢乃を抱き寄せ、夢中で唇を重ねている。先ほど耳にした言葉が胸を突き刺し、体が硬直する。夢乃の言ったことはやはり嘘ではなかった。自分はただの暇つぶしで、経済面で支えてきたなどと偉そうに思っていたのは、自分の思い上がりにすぎなかったのだ。けれど真実がどうであれ、もはや関係ない。いずれ彼のもとを去るのだから。睦美はかすかに笑みを浮かべ、背を向けようとした。その瞬間、廊下にむせ返るような煙が流れ込み、警報が耳を裂く。「火事だ!」叫び声が響き、クラブは一気に阿鼻叫喚の渦へと変わった。押し寄せる人波に呑まれ、睦美は床に叩きつけられた。必死に起き上がろうとしても、背中に重みがのしかかり、再び押さえつけられる。どうにか顔を上げたとき、視界に映ったのは——夢乃を抱えて出口へ駆けていく時彦の姿だった。喉を裂くように彼の名を叫び、這うように手を伸ばす。その声が届いたのか、時彦はふと振り返った。血に染まった睦美の姿を目にした瞬間、彼の肩が震える。一歩踏み戻しかけた。だが腕の中の夢乃が小さく身じろぐと、ためらいののち、背を向けて走り去ってしまった。――見捨てられた。睦美はその場に固まる。守ると誓った男は、命の危機にある自分を、こうも簡単に裏切ったのだ。睦美は深く息を吸い込み、壁に手をついてよろめきながら立ち上がる。人の流れに押されるまま、外へと足を運んだ。クラブを出て、新鮮な空気を吸った瞬間、力が抜け、膝から崩れ落ちる。――危うく死ぬところだった。呼吸を整え、顔を上げると、近くにいた時彦と目が合った。彼の瞳には焦りと後悔が浮かんでいる。だが、夢乃のそばに止まり、一歩も近づいてはこない。夢乃に誤解されるのを恐れているのだろうか。そう思った途端、睦美の唇に皮肉な笑みが浮かび、涙がこぼれた。――あの人は、指先の小さな傷でも慌てて病院に連れて行こうとした人だった。けれど今は、彼の目に夢乃しか映っていない。帰宅後、睦美はひとりで救急箱を取り出し、傷を消毒して包帯を巻いた。全身の疲労に抗えず、ソファに身を投げ出すと、そのまま眠りに落ちる。目を覚ますと深夜だった。案の定、時彦はまだ戻っていない。問いただす気力も湧かず、夜明け前に家を出ようとし
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第5話
睦美の態度の変化を敏感に察したのだろうか、それからの数日、時彦はほとんど片時も離れず、彼女のそばにいた。あの夜の罪悪感を埋め合わせるかのように、彼は豪華客船のディナーを予約していた。船内のレストランは中世ヨーロッパ風で、窓の外には広がる大海原。花束とワインが運ばれてきたその時――なんと夢乃が現れ、驚いたように時彦の腕へ絡みついた。「まあ、偶然ね。時彦もここで食事?」睦美の表情が一瞬で凍りつく。世の中にこんな偶然があるものか。すべてが、定められたシナリオに決まっている。思えば、急にこんな場所へ連れ出した理由も察しがつく――夢乃に会える機会を作るためだ。「桜庭さん、ご一緒しても構わないかしら?」睦美に拒む余地などない。時彦はすでに夢乃が座れるよう、椅子を引いていた。注文の際、夢乃がわざとらしく笑う。「頼んだ料理、全部私の好物だわ。ねえ、桜庭さんの好みも聞いてあげたら?」時彦はそこでようやくメニューを差し出した。「睦美、食べたいものを頼むといい」彼女は小さく首を振る。「あなたに任せるわ」食事の時間はとにかく苦しかった。夢乃と時彦の会話が途切れることはなく、睦美はただ空気のように座っていた。耐えられず席を立ち、外の風に当たろうとしたら、思いがけず別のエリアに入ってしまった。通りかかった個室から、不意に腕をつかまれ中へ引き込まれる。「やっぱり見覚えがあると思ったら……桜庭さんじゃないか。せっかくだ、俺たちと一杯どう?」「昔はずいぶんお高くとまって、誘っても無視ばかり。今は落ちぶれたし、酒の相手くらいしてくれるよな?」顔ぶれを見て睦美は眉をひそめる。過去に彼女を口説き、軽くあしらわれた連中だった。「悪いけど、私、アルコールは受けつけないの」そう言って立ち去ろうとした瞬間、扉は塞がれた。背筋に冷たいものが走る。「睦美ちゃん、いい加減立場を弁えたらどう?今じゃ誰も守っちゃくれないぜ。まさか、あのヒモ男に頼るつもりか?大人しく従えばひどい目に合わずに済む。さもないと……痛くしても知らないぞ」迫ってきた男に息を呑み、睦美は反射的に男の股間を蹴り上げ、手に灰皿を掴んで構えた。「これ以上近づいたら……容赦しないわ!」「はっ、やれるもんならやってみろよ。ただが女ふぜいで何ができる!」次の瞬
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第6話
病院で傷の手当を終えた睦美は、医師に呼ばれて診察室へ入った。差し出された検査報告書に目を落とした瞬間、胸の奥を鈍器で殴られたような衝撃が走る。――どうして?望まぬ妊娠を避けるため、時彦との関係では常に注意を払っていた。夢中になった時でさえ、終わった後には必ず薬を飲んでいたのに。あまりにも悪いタイミングで、この子は訪れてしまった。「先生……手術をお願いします。できるだけ早く」手術の予定は三日後に決まった。だがその三日の間、時彦からの連絡は一度もなかった。代わりに届いたのは、夢乃からの友達追加のリクエスト。なぜか拒めず、承認してしまう。彼女のSNSは恋愛日記そのもので、帰国してからの時彦との毎日が綴られていた。彼が台所に立ち、作った料理を一口ずつ食べさせていること。入院生活が退屈しないよう、高価な贈り物を毎日届けていること。眠れぬ夜には笑い話を探し、枕元で延々と語り続けてくれること。さらに退院後にはサプライズを用意していると、丹念に看病する姿まで。睦美は無表情のまま画面を眺め、ふと過去を思い出す。時彦とまだ良い関係だった頃、彼女は接待の酒に潰れることが多かった。そんな夜は決まって時彦がクラブの前で待っていて、泥酔し吐き続ける彼女の背をさすり続け、世話をしてくれた。――あのとき、少しは自分に心を寄せてくれていると信じていた。たとえその優しさが金で繋がれていたとしても構わない、と。だが今になって痛感する。時彦を寂しさを紛らわす道具にしていた自分こそ、彼にとってはの「遊び道具」なのだと。その晩も睦美は酒に溺れ、同じ夢を何度も繰り返した。夢の中で彼に問いかける――「私と結婚してくれる?」しかし答えはいつまでも返ってこない。焦燥と苦しみのなかふと目が覚めると、目の前にあるのは複雑な色が浮かぶ時彦の瞳だった。「……悪い夢でも見たのか?こんなに泣いて」はっとして頬に触れると、指先が濡れていた。大きく息を吸い、乱れた鼓動を押さえ込む。「夢でね、あなたが私を愛してないって……結婚なんて考えたことないって言ったの」冗談めかして口にした言葉に、時彦はわずかに目を見開く。そのわずかな動揺を、目を伏せた睦美は見逃した。彼は慌てたように睦美を抱き寄せる。「俺がずっと帰らなかったから不安になっ
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第7話
時彦の表情に一瞬、罪悪感の影が差した。彼は睦美を抱き寄せ、低い声でささやく。「ごめん……忙しさにかまけて忘れてた。必ず埋め合わせするから」翌日。行き先も告げずに睦美を車へ乗せると、彼は「サプライズがある」とだけ言った。走り出して三十分後、辿り着いたのはウェディングドレスの専門店だった。時彦が指したドレスに、睦美は思わず息をのむ。「……なんでここに連れてきたの?」「君、ずっと結婚したいって言ってただろ?気に入ったドレスがあれば、先に買っておこうと思って」穏やかな声音。まるで波一つ立たない湖面のような調子。けれど、睦美の胸には苦いものが広がっていく。――買ってどうするつもり?飾り物にでも?彼の真意はわからなかったが、睦美自身も結婚式に備えてドレスを選ばなければならなかった。彼女は一着、また一着と試着を重ねていく。やがて時彦は最後のドレスを指差し、店員に告げた。「これにします。ラッピングして、この住所に送ってください」そう言って別荘の住所を書き、睦美のもとへ歩み寄る。彼女を抱き寄せ、耳元に熱を帯びた吐息を落とす。「睦美……このドレスを着た君は、本当に綺麗だ」睦美はわざと軽い調子で返す。「すごく高いんでしょ?私が払うわ」「たかが一着のドレスだ。俺が払えるさ」その時、彼は彼女の指に目を留めた。そこにあるはずの、睦美が大事にしていた銀の指輪が見当たらない。胸の奥に、ざわりと不安が走る。「あの指輪は?」睦美はすっと手を引き、淡々と答えた。「なくすと嫌だから、しまってあるの」「安物だし、なくしたらまた買えばいいさ。……ごめんな睦美、もう少しだけ待ってくれ。お金が貯まったら、大きなダイヤの指輪を買って、改めてプロポーズするよ」その言葉に、睦美の胸には乾いた嘲りだけが残った。そんな嘘は、一度聞けば十分だ。時彦は彼女の指に残る指輪の跡をなぞり、唇でそっと触れる。その視線がふと彼女の肩越しをかすめた瞬間、表情が一変した。「睦美、他に好きなのがあればもう少し試着してみて。俺、何か食べ物を買ってくるよ」そう言い残し、彼は足早に店を出ていった。その様子が気になり、睦美も急いで着替えて後を追う。辿り着いた交差点に広がっていたのは、目を覆いたくなる惨状だった。激しい衝突事故。血だまりに
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第8話
手術室へ運ばれる瞬間、睦美は今まで感じたことのない解放感に包まれた。冷たい器具が体を貫いた時、感情のない涙が頬を伝う。三年間の思い出が、走馬灯のように押し寄せてくる。生理痛に苦しんでいた夜、時彦は温かい飲み物を差し出し、睦美のお腹をさすりながら「代われるものなら代わってやりたい」と優しく囁いてくれた。父と口論して頬を打たれたときには、赤く残った手形を見て怒り狂い、桜庭家に殴り込みかけた。大雨の夜には、体調の悪い彼女を抱えて病院へ駆け込み、悪夢にうなされるたび、何度も何度もあやしてくれた。「睦美、大丈夫だ。俺がそばにいるから」――あのとき、本気で時彦の愛を信じていた。彼の演技が巧みだったのか、それとも自分が鈍すぎたのか。今となってはもうわからない。あの甘い言葉の数々は、いったい誰に向けられていたのだろう。考え続けるうちに心はすり減り、睦美はそっとまぶたを閉じた。――時彦、あなたは一生知らないだろう。私たちの間に、形にもならなかった命があったことを。手術を終え、傷む体を引きずりながら廊下を歩いていると、看護師たちの噂話が耳に入った。「昨日運ばれてきた男女、男の人はすごい家柄らしいわよ。女のためにVIPフロアをまるごと押さえたんだって。しかも今朝目を覚ました途端、彼女の様子が心配で飛んで行ったらしいの。それなのに女のほうは、まだ拗ねてるんですって。あの男、自分だって大怪我なのに病室の前から離れず、ずっと優しく声をかけ続けてるらしいわ。ドラマでもあんな愛情深い男、なかなか見ないわよね」その言葉に胸がざわめき、気づけば睦美はVIPフロアへ向かっていた。そして、聞き慣れた声が病室から漏れてくる。振り返ったら、目に映ったのは時彦の胸にすがり、泣きながら彼を責め立てる夢乃の姿だった。「時彦、私があなたの反対を押し切って留学したこと、まだ怒ってるの?……この三年間、毎日後悔してた。学業なんてすぐにやめて、あなたのもとへ帰りたいってずっと思ってた。だから戻ってきてから、過去の穴を埋めていこうって決めてたのに、どうして私を騙したの?」時彦は夢乃の涙を指で拭い、痛ましげに囁いた。「騙したわけじゃない。俺の心にいるのは、最初からずっと君だけだ」「じゃあ睦美は何?彼女と一緒にドレスを選んでたでしょう。本気で結婚する
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第9話
睦美の答えを聞いた時、時彦はほっと息をついた。彼は手早く荷物をまとめながら言う。「新しいバイトを見つけたんだ。数日間研修に行ってくる。しばらく会えないのは寂しいけど、すぐ戻ってくるからな」「わかった」と冷めた返事を返し、睦美にはすぐ察しがついた。――夢乃のそばに戻って、彼女の世話をするに違いない。時彦が家を出ると、睦美はウォークインクローゼットへ足を運んだ。そこに並んでいるのは、この三年間、彼に贈り続けてきた服や小物ばかり。けれど、彼からもらったものはほんのわずかしかない。その夜、睦美は不動産会社と契約書にサインし、家の売却手続きをすべて任せた。この街にいる最後の夜は友人たちと過ごし、一人ひとりに別れを告げる。途中で酒に酔い、頭痛を覚えて外に出て、夜風に当たっていた。二階のテラスから一階の庭を見下ろすと、そこには華やかに飾られた会場が広がっていた。貸し切られたその空間は豪奢に彩られ、誰かがプロポーズを準備していることは一目でわかった。視界の端に、黒のオーダースーツに身を包んだ時彦の姿が映る。堂々としたその立ち姿は、もはや自分の手が届かない存在になっていた。夢乃が涙に濡れた瞳で彼を見つめ、時彦は彼女に歩み寄ると花束を手に片膝をつく。「夢乃――俺と結婚してくれるか」歓声が沸き起こり、夢乃は涙の中で頷いた。高価なダイヤの指輪が彼女の指に輝き、次の瞬間、二人は抱き合って口づけを交わす。そんな中、一千台にも及ぶドローンが空へと舞い上がり、夜空に愛の言葉を描き出した。――川口夢乃、Marry me。それは、時彦が用意した盛大なプロポーズだった。かつて睦美は、いつか彼が自分にプロポーズしてくれる日を夢見ていた。だが今、目の前で繰り広げられる現実は、その夢が永遠に叶わないことを突きつけている。「睦美、もう少し待っててくれ。ダイヤの指輪を買えるようになったら必ずプロポーズするよ」「睦美、それなりの経済力をつけたら、君と結婚する」「睦美……」――数々の甘い囁きが耳元でこだまする。あのときは本気で信じていた。時彦が彼女にプロポーズをする日が必ず来ると。実際に彼が素直に結婚を申し出ていれば、桜庭家は救われ、自分も政略結婚から逃れられたはずだ。けれど彼は冷たい眼差しで、望まない婚姻に押し流されていく自分を
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第10話
夜になっても、睦美からの連絡はなかった。何度電話をかけても、電源は切られたまま。――一日中飛行機に?いったい、どこへ行ったんだ。別荘の華やかな空気は、時彦には遠い世界のように思えた。胸の奥を見えない手に締めつけられるようで、理由の分からない焦りが心臓を打ち続けている。「時彦、どうしたの?さっきからずっと顔が暗いよ。何か悩み事?それとも……また睦美のことで困ってるんじゃない?」夢乃が探るように声をかける。「いや、なんでもない。ただ少し疲れただけだ」「……ねえ、いつまで彼女に隠すつもり?私にプロポーズまでしておいて、このままじゃいられないでしょ」その言葉に、周りの友人たちも次々と夢乃に同調した。「そうだよ、時彦。あんな女、早く切っちゃえばいいのに。どうせあいつはお前の見た目と身体に惹かれてるだけさ。本気で愛してるわけがない。少し金を持ってるからって調子に乗っちゃって、お前が一番困らないものって、まさに金だってのにさ」「ほんとほんと。私なんか、彼女が真実を知ったときの顔が今から楽しみだよ。まさか一緒に寝てる男こそが、桜庭家を一言で救える人間だなんて夢にも思ってないでしょ。時彦がその気になりさえすれば、無理な政略結婚なんてしなくたって済むのに」「そういえば、その政略結婚って結局どうなったの?最近噂も聞かないし……まさか、睦美が時彦のために死んでも嫌だって突っぱねたんじゃない?」どっと笑いが起きる。その笑い声が、時彦には耳障りで仕方がなかった。睦美なら、本当にそうするかもしれない。あの日、正夫に時彦のことを知られて怒鳴り込まれた時も、彼女は自分の前に立ちはだかり、頬に平手打ちを受けても動かなかった。――どうしてだろう。頭の中に浮かぶのは、睦美との記憶ばかりだった。夢乃さえ戻ってきてくれれば、睦美との関係なんて簡単に清算できると思っていた。睦美はただの暇つぶし、退屈を埋める相手でしかなかったはずだ。けれど心の奥底で、得体の知れない不安が膨らんでいく。大切な何かを、自分の手で手放してしまったような感覚に苛まれていた。あの誇り高い睦美が、もし真実を知ったら――どんな顔をするのだろう。想像することすら怖かった。三年の間、彼女はずっと自分を支えてくれた。持てるものすべてを差し出したくらいに。あの夜、「駆
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