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第7話

Author: まってて
凪紗の一言一言が、毒を塗った刃のように紬希の心を抉っていく。

彼女は思わず耳を塞いだ。けれどあの声は、どんな隙間からでも頭の中に入り込み、最後の理性を蝕んでいく。

「あなたたちが夫婦だから何?今、彼を手に入れているのは私よ。ああそうだ、五年かけて弦夜をよく仕込んでくれたこと、感謝しなきゃね。おかげで今の彼ったら――女の悦ばせ方を、びっくりするくらいよく分かっているのよ」

言い終えると、凪紗はブランドバッグを手に、ハイヒールの音を響かせて去っていった。

残されたのは、紬希ひとり。頭から冷水を浴びせられたような絶望の中、こらえ続けていた涙がついに決壊した。

この五年の愛は、最初から最後まで、ただの茶番だった。

弦夜への想いも、この家に寄せた最後のかすかな望みも、この瞬間すべて灰になった。

心が、死んだ。

……

紬希は歯を食いしばって退院の手続きを済ませた。

家に帰ると、澪璃はおとなしくアニメを見ていた。胸の奥の苦さを飲み込んで娘を寝かしつけ、荷造りを始める。

帰り道で、今夜の便のチケットはもう買ってあった。

これが、娘との新しい人生の始まりだ。過去との、完全な決別。

納戸には思い出が溢れていた。

弦夜がかつて雪山で描いてくれた油絵「夕映えの峰と少女」。色彩は今も鮮やかなのに、もう胸を温めてはくれない。

三晩徹夜して二人で完成させた、名画「星月夜」の巨大パズル。今となっては、皮肉でしかない。

そしてツーショット写真をびっしり貼り込んだ手帳。甘い言葉のひとつひとつが、全部嘘に変わっていた。

紬希はすべてをベランダに運び出し、火鉢に火を入れた。

手帳を、炎の中へ放り込む。

ぼっ、と火が燃え上がり、紙を舐めるように飲み込んでいく。写真の中の笑顔が歪み、黒く焦げていった。

続いて油絵。パズル……

炎に照らされた紬希の顔は蒼白で、涙だけが音もなく頬を伝った。

宝物のように大切にしてきた思い出が、火の中で灰に変わっていく。弦夜への最後の未練もろとも、すべて焼き尽くされていく。

「紬希、何してるんだ」

背後から、弦夜の慌てた声がした。

火鉢の中で燃える手帳を見た途端、弦夜は咄嗟に手を突っ込んだ。けれど掴めたのは、焦げて黒ずんだ数枚の切れ端だけだった。

「なんで燃やしたりしたんだよ。俺たちの思い出だろう!」

弦夜は痛みに歪んだ顔で紬希を見つめている。理解できない、という目だった。

紬希は静かに答えた。「カビが生えてたの」

弦夜は欠けた手帳を両手で包み込み、やりきれない顔をした。

「カビくらいで燃やすことないだろ……」

「また今度作ればいいじゃない」紬希が、素っ気なく遮った。

――また今度。その言葉が弦夜を喜ばせたらしい。彼は目がぱっと輝いた。

「ああ!落ち着いたら、もっといいやつを作ってやるからな!」

そこでようやく、横に積まれたスーツケースに気づいたようだった。

「それより、なんで病院で休んでないんだ。この荷物……どこか行くのか?」

「澪璃を連れて、少し気分転換に出かけようかなって」

言い終わるか終わらないかのところで、弦夜のスマホが鳴った。

画面を見て顔色が変わり、弦夜は慌ただしく電話を終えると、上着を引っ掴んで玄関へ向かう。

彼はドアの前で立ち止まり、振り返った。

「じゃあ、早めに帰ってこいよ。家で待ってるから」

紬希はその背中を見つめたまま、何も言わなかった。

弦夜は紬希の空っぽの目と視線が合い、胸をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。理由のわからない恐怖が込み上げる。まるで次の瞬間、彼女がふっと消えてしまうようだった。

だがすぐに、彼は自分に言い聞かせた。

紬希はあれほど自分を愛している。出て行くはずがない。

結局彼はそのままドアを閉め、一度も振り返らずに去っていった。

閉ざされたドアを見つめ、紬希はそっとつぶやいた。「弦夜。もう二度と、会わないから」

すべての支度を終え、澪璃を起こした。

二人でスーツケースを引き、嘘で塗り固められたこの家を、迷いなく出た。

空港へ向かう車の中で、紬希は弦夜の連絡先をすべてブロックし、削除した。それからSIMカードを抜き取り、ためらわず窓の外へ投げ捨てた。

これで、もうあの男とつながるものは何もなくなった。

……

空港に着くと、遠くに克海の姿が見えた。

紬希は歩み寄り、軽く頭を下げた。

「篠原社長」

克海はじっと紬希を見つめた。その目には複雑な感情が渦巻いていたが、すぐに膝を折り、澪璃の目線に合わせて優しく声をかけた。

「澪璃ちゃん、はじめまして。克海お兄さんだよ。これ、会えた記念のプレゼントなんだけど……気に入ってくれるかな」

後ろから、きれいにラッピングされた大きなぬいぐるみを取り出して差し出した。

澪璃は目を輝かせ、嬉しそうに受け取る。

「克海お兄さん、ありがとう!すっごくかわいい!」

克海はそっと澪璃の頭を撫で、立ち上がって紬希に向き直った。

「白石さん、道中お気をつけて。向こうに着いて落ち着いたら、一報ください。何かあれば、いつでも」

紬希は目を伏せ、小さく「はい」とだけ答えた。

搭乗を促すアナウンスが、ちょうどそのとき流れた。

紬希は澪璃の小さな手をしっかり握り、一度も振り返ることなく保安検査場へ歩いていった。

夜の闇の中、飛行機が央州の空を切り裂き、遠くへ飛んでいく。

窓の外に広がる雲海を眺めながら、紬希はゆっくりと息を吐いた。

その瞳の奥に、再び光が灯っている。

今度こそ、自分と澪璃は、本当に自由になった。
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