LOGIN一ヶ月後、紬希と克海の結婚式が予定どおり執り行われた。まだ夜も明けきらないうちから、澪璃が寝室に飛び込んできた。「ママ、早く起きて!克海お兄さんがもうすぐ迎えに来るよ!」紬希は寝ぼけ眼をこすりながら起き上がり、プロのヘアメイクの手にすべてを委ねた。朝の光がレースのカーテンを透かす頃、支度部屋のドアがノックされた。克海が到着したのだ。待ち構えていたローラと澪璃が、花婿を品定めするように茶目っ気たっぷりに取り囲んだ。克海は終始穏やかな笑顔で応じ、彼女たちの軽口にもひとつひとつ真剣に耳を傾けていた。やがて、新婦の部屋の扉がゆっくりと開いた瞬間、克海の目が釘付けになった。紬希がベッドの縁にすっと背を伸ばして座っていた。髪は美しく結い上げられ、なめらかな額があらわになっている。繊細なレースと刺繍があしらわれたウェディングドレスが細い腰を美しくかたどり、襟元に真珠が淡く光っている。朝の光の中でわずかに伏せた目元が、息を忘れるほどきれいだった。「ちょっと新郎さん、見惚れすぎよ!」ローラの笑い声で我に返り、克海は足早に部屋へ入った。紬希の両親はすでに他界しているため、二人は彼女がもっとも敬愛する恩師を控え室に招いていた。恩師の前に並んで深々と頭を下げ、心を込めてこれまでの感謝の言葉を伝える。ひとつひとつの所作に、深い敬意と愛情がこもっていた。式は湖に面したホテルで行われた。紬希は宴会場の重厚な扉の外に立ち、中から流れてくる音楽を聴いている。心臓が、自分の意思とは関係なく早鐘を打った。花嫁衣装を着るのは、これが初めてではない。けれどこんなにも確かな幸福を感じるのは、初めてだった。扉がゆっくりと開く。ブーケを手に、一歩、また一歩、深い愛情をたたえた瞳の男のもとへ歩いていく。その道すがら、招待客の中に、弦夜の姿がちらりと見えた。この三年で、弦夜は容赦ない手腕で黒川グループを立て直し、かつて政略結婚を強いた両親を本家へ退かせたという。ただ、それはもう紬希には一切関わりのないことだ。今、彼女の世界にいるのは、目の前で手を差し伸べて待っている、この人だけ。克海が目を赤くして紬希の手を握った。指先がかすかに震えている。式がいちばん胸を打つ場面にさしかかった時、澪璃がドレスの裾をちょこんと持ち上げ、ぱたぱたとス
三年の月日が、静かに流れた。紬希は最近、本気でダイエットに取り組んでいた。すべては克海のせいだ。あの手この手で美味しいものを食べさせてくるから、この三年ですっかりふっくらとしてしまったのだ。文句を言うたびに、あの男は悪びれもせず、楽しげに顔を寄せてくる。「今くらいがちょうどいいよ。前は細すぎて、抱くたび気を遣ってたんだよ。今くらいがちょうどいい」紬希は恥ずかしくて、抗議するように彼の広い胸を軽く叩いた。時間というのは、愛し合う者には格別やさしいらしい。三年経っても、二人の甘い空気は付き合い始めた頃から少しも変わっていなかった。だが、いよいよ結婚式を控えた段になって、紬希は重大な事実に気づいた。気に入ったウェディングドレスが、どれもきつくて入らないのだ。克海はサイズを直せばいいじゃないかと何度も言ってくれたが、紬希は絶対に元の体型を戻すと決めた。結婚する以上、いつまでも海外に住んでいるわけにはいかない。半月前、紬希と澪璃はついに央州市に戻ってきた。三年ぶりの街はすっかり変わっていた。昔よく通ったお気に入りのスープ餃子の店も、とうに店を畳んでしまっていた。それでも変わらないものもある。克海が隣にいてくれること。それだけは、あの日からずっと同じだった。二人の縁を結んだ最大の功労者であるローラは、喜んでブライズメイドを引き受けてくれた。もう一人は紬希の大学時代の親友だ。紬希はトレッキング好きのローラのために特別なルートを組んだ。地元の案内を兼ねて、自身のダイエットにもなる。一石二鳥の計画だった。この三年で、紬希はローラから多くのことを学んだ。かつては他人の顔色ばかり伺ってびくびくと生きていた紬希が、今ではすっかりアウトドアの魅力に目覚め、澪璃を連れてよく山へ出かけるまでになっていた。そんな時、克海はわざとらしくすねて見せるのだ。「君たち母娘は外で遊んでばっかりで、僕だけ仲間外れみたいだ」口ではそう文句を言いながらも、彼が裏で手配することは正反対だった。出かけるたびに目立たないよう優秀なボディガードをつけ、最新の登山道具をわざわざ自分で選んで揃えてくれるのだ。ただ一つだけ、紬希の胸の奥にひそかな懸念として燻っていたのは、克海の父・沖嗣の態度だ。けれど克海は、不安がる紬希の手をいつも力強く握
その一言は、雷に打たれたような衝撃を紬希に与えた。体が、その場で固まる。長い沈黙のあと、唇にかすかな苦笑が浮かんだ。「ローラ、愛があれば必ず結ばれるなんて、そんな単純な話じゃないのよ」「でも、恋に『結果』なんて必要なの?」ローラが眉を上げる。「先のことなんて誰にもわからないわ。好きなら好きって言って、自分にチャンスくらいあげなさいよ」紬希の目の奥に揺れる葛藤を、ローラは見逃さなかった。「……でも私には澪璃がいる。もう、失敗はできないの」ローラは紬希をまっすぐに目を見据えた。その声に迷いはない。「ユーキ、どうしてそうなるの。恋愛はあなたたち二人の問題でしょう。澪璃ちゃんは関係ないわ。もし彼が、子どもがいることを気にしたり、過去をとやかく言うような男なら、最初から未練を持つ価値なんてない。そうでしょう?」その言葉は、頭から冷水を浴びせられたように紬希の目を覚まさせた。そうだ。自分は何を怖がっていたのだろう。ダメなら、その時は潔く手を放せばいいだけだ。目頭がじんと熱くなった。目の前の、まぶしいほどまっすぐな友人を見つめ返す。「ありがとう、ローラ」紬希の表情がふっとほどけるのを見て、ローラは悟った。彼女がようやく、心の答えを出したのだと。……深夜、帰宅した頃には、澪璃はとうにベッドで眠りについていた。紬希はスマホを握りしめ、ベッドの縁に腰掛けた。心臓がとくとくとうるさい。国内は今、朝の八時頃。起きているかどうかはわからない。でも、もう躊躇っていられなかった。ずっと胸の奥に押し込めていた想いを、今すぐ伝えたかった。発信ボタンを押す指先がかすかに震えている。コール音が二回鳴ったところで、聞き慣れた声が返ってきた。寝起きの、少しかすれた声。「もしもし、紬希?どうしたの?」その声を聞いただけで、張り詰めていた胸の奥がふわりとほどけた。深く息を吸い込む。「克海……伝えたいことがあるの。私……あなたと一緒にいたいの。克海は、どう思ってる?」口に出した瞬間、自分の言葉がまるでプロポーズのようだと気づき、かっと顔が熱くなった。電話の向こうが、一瞬だけ静まり返った。次の瞬間、抑えきれない喜びが声に滲んだ。「本当に?……もちろんだ。ずっと、君がそう言ってくれるのを待っていたんだ」
穏やかに、時が流れていく。ある日、紬希は庭で花の手入れをしていた。澪璃はもう学校に通い始め、克海は仕事で帰国している。広い家に、紬希だけがいた。もし納棺師にならなかったら、何をしていただろう。昔はそんなことを考えたこともあった。あの頃は答えが出なかった。でも今は、はっきりしている。沖嗣から渡された二百億円があれば、澪璃と二人、穏やかに暮らしていける。毎日花や草木を世話して、娘がゆっくり大きくなるのを見守る。それだけでいい。克海のことは――紬希は静かに首を振った。二人の間に、これ以上何かが生まれることはない。それは痛いほどわかっている。克海ほどの家柄を持つ人に、離婚歴があって子連れの自分が釣り合うわけがない。今の優しさも、きっと一時のもの。時間が経てば、自然と離れていくはずだ。手の中で束ねたばかりの花を見つめたまま、ぼんやりと物思いに沈んでいた。「ユーキ!」庭の外から、明るい声が飛んできた。隣人のローラだ。若くして名を成した冒険家で、情熱的で、自分の心にどこまでも正直な、紬希がいちばん憧れるタイプの女性だった。ピンクのショートヘアに、彫りの深い顔立ち。見るたびにはっとする華やかさがある。今日は黒のマウンテンパーカーにカーゴパンツ、大きな登山用ザックを背負っている。トレッキングから戻ったばかりらしい。「ただいま!留守の間、うちの猫のお世話ありがとう!今夜、ユーキと澪璃ちゃんをうちに招待させて。ご飯作るから、空いてる?」紬希は控えめにやんわり断った。「お気遣いなく。大したことしてないから」「私にとっては大助かりだったの!」ローラが真顔になる。「絶対来てね」押し切られて、紬希は笑って頷いた。「わかった。今夜、楽しみにしてるわ」午後、澪璃を迎えに行き、紬希たちは選び抜いたトレッキングポールを手土産にローラの家を訪ねた。ローラはしょっちゅう遠出をする。留守中に飼い猫の茶トラの世話が必要で、紬希がよく預かっていた。澪璃はこの猫がたまらなく好きで、来るたびに延々と遊んでいる。贈り物を見たローラが、呆れたように言った。「ユーキ、また気を遣ってお土産なんて持ってきて」「ちょっとした気持ちよ。気に入ってくれるといいんだけど」箱を開けた瞬間、ローラの目が輝いた。「最高!ちょうどこれが欲しかったの!」
午後の澄んだ空から、不意に天気雨が降り出した。細かな雨粒が陽の光を受けて、きらきらと光っている。「ママ!ママ!桃の赤ちゃん、雨でダメになっちゃわない?」澪璃が透明なビニール傘を差し、濡れた石畳をぱたぱた駆けて庭に飛び込んできた。桃の苗木の前にしゃがみ込み、心配そうに小さな顔を上向ける。克海がその声を聞きつけて家から出てきた。雨に打たれた苗木をひと目見て、すぐにビニールシートと竹の棒を持ち出す。「植え替えたばかりの苗は水溜まりがいちばん怖いんだ。屋根を作ってやらないと」紬希が竹の棒を渡そうとしたが、克海はさりげなく体をずらした。「ここは僕がやるから。澪璃ちゃんを抱いて雨宿りしていて。服が濡れたら風邪をひく」シートを固定する時、手の甲がふいに紬希の指先をかすめた。ビクッと、電気が走ったような感覚が走る。紬希は反射的に手を引いた。耳の先が、じわりと熱くなる。澪璃は傘の下にしゃがんだまま、雨で額に貼りついた克海の前髪を見て、けらけら笑い出した。「克海お兄さんの髪、子猫ちゃんみたい!」克海が顔の雨を手で拭う。水滴で曇った眼鏡の奥で、目が柔らかく細まった。「じゃあ雨が止んだら、澪璃ちゃんが拭いてくれる?」軒先で、紬希はその濡れた毛先と笑みを含んだ瞳を見つめていた。激しくなる雨音に呼応するように、心臓がとくとくと早鐘を打った。雨が上がると、空のはずれに薄い虹がかかった。克海がポケットからオレンジ味の飴を取り出し、紬希に差し出す。「はい。前に、子どもの頃いちばん好きだったって言ってたから」包み紙は体温でやわらかくなっていた。ずっとポケットに入れていたのだろう。紬希が受け取ると、包み紙越しに彼の温もりの名残が伝わり、胸の奥までほんのり温かくなった。澪璃がリビングのソファにうつ伏せになってアニメを観ていたが、突然台所のほうを向いて叫んだ。「ママ!克海お兄さんが、桃のクッキー焼いてくれるって!」紬希は驚いて手が滑り、飴を落としそうになる。ちょうど克海が台所から顔をのぞかせた。小さなクマ柄のエプロンを着け、裾に小麦粉がついている。少しばつが悪そうに笑った。「澪璃ちゃんは記憶力いいなあ。今日、薄力粉を買ってきたから、明日試しに焼いてみるよ」「じゃあママも食べる!」澪璃がソファからぴょんと降り、克海
絶望の泥沼に沈む者がいる一方で、澄み渡る青空の下で新たな人生を手にする者もいる。一ヶ月後。M国の片田舎にある小さな町。朝の光がプラタナスの葉を透かし、芝生にまだらな影を落としていた。紬希は庭ばさみを手に、丁寧に庭を手入れしていた。綿のシャツは汗でじんわりと湿っていたが、この久しぶりの穏やかな時間が心地よかった。澪璃の骨髄移植は無事に成功し、今は家の中でぐっすりと眠っている。その隙に、庭をもう少し明るく温もりのある場所にしたかった。雑草を抜き、庭の一角を空けて、桃の苗木を植えるつもりだ。夏になれば澪璃が木陰で涼めるし、秋には甘い実を摘んで食べられる。スコップに手を伸ばした時、門の外から穏やかな声がかかった。「白石さん」顔を上げると、克海が朝の光の中に立っていた。ヒマワリの花束と、ケーキの箱を手にしている。柔らかな陽射しが彼の輪郭を金色に縁取り、その微笑みまでもが眩しく見えた。紬希は足早に歩み寄り、門を開けた。「篠原社長」「克海でいいですよ。これ、あなたと澪璃ちゃんに」克海は庭に入りながら、手入れの行き届いた芝生にさっと目を走らせた。「澪璃ちゃん、今日は調子がいいそうですね」紬希は慌てて手を振った。「もう十分すぎるほど助けていただいているのに。移住のことも手術のことも、まだきちんとお礼すらできていないのに、これ以上よくしていただくわけには……」「僕があなたを助けたくて、勝手にそうしているだけですから」克海の目が、ほんの少し真剣な色を帯びた。紬希が受け取ろうとためらっているのを見ても無理強いはせず、かわりにふっと笑って言った。「そんなに助けられたと言ってくれるなら、ひとつだけわがままを聞いてもらえませんか。もう篠原社長はやめて、克海と呼んでください」紬希は顔を上げ、その温かい眼差しと視線がぶつかった。陽の光が彼の髪の先に降り注ぎ、笑みまでもが光を帯びて見える。こんなに眩しい人は、本来なら雲の上の世界にいるべき人だ。波瀾ばかりの人生を歩いてきた自分とは、そもそも住む世界が違う。無意識に半歩下がり、唇をかすかに震えさせながら答えた。「ありがとうございます、克……海……」その名前を口にした途端、克海の瞳にふわりと笑みが広がった。彼は花束とケーキを紬希の腕に押しつけるように渡し、自